内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

キング・クリムゾン「エピタフ」― 現代世界の弔鐘

2023-03-14 23:59:59 | 私の好きな曲

 プログレッシブ・ロックの金字塔としてよく挙げられるのがキング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの宮殿』だ。曲を聞く前からジャケットのイラストだけで強烈な印象を受ける。この印象はやっぱりLPサイズでないと受けにくいのではないだろうか。アルバムの最初に収められた「二十一世紀の精神異常者」(これが日本版発売当時の曲名だったが、後日、差別的表現を避けるという理由で「二十一世紀のスキッツォイド・マン」に変更されたというが、まったく文脈を無視して、言葉だけ入れ替えても差別がなくなったわけではないのだから、こういう変更はほぼ無意味だと思うし、曲名のインパクトもかくして失われてしまったと思う)は、好きな曲というよりも最初に聴いたときの衝撃を忘れられない曲と言ったほうがよい。今あらためて聴くと、今日の世界(とくにどこかの国の大統領のこと)を予言しているようで、このアルバムが1969年にリリースされたということに驚嘆せざるを得ない。二曲目の「風に語りて」は打って変わって静かで美しいメロディーの曲で、「二十一世紀の精神異常者」とのコントラストが鮮やかだ。A面の三曲目が「エピタフ」(原詩と歌詞はこちらを御覧ください)。高校生のころは、この曲を浸しているペシミズムに痺れていただけだが、今聴くと、現在の世界の弔鐘のように聞こえる。B面の二曲「ムーン・チャイルド」「クリムゾン・キングの宮殿」もそれぞれに素晴らしいのだが、このアルバムに収められた五曲のなかで歌詞とメロディーが一番心に染みるという点で「エピタフ」は私にとって格別な一曲である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今も輝きを失わないプログレッシブ・ロックの名曲 ― イエス「ラウンドアバウト」

2023-03-13 15:11:46 | 私の好きな曲

 高校生の頃、プログレッシブ・ロックをよく聴いた。特にイエスが好きだった。最初に聴いたのは友人から借りた二枚組のライブ・アルバム『イエス・ソングス』。衝撃的だった。こんな高度な演奏をライブでやってのけてしまうのかと驚嘆した。自分でもこのアルバムを後日購入して、それこそレコードが擦り切れるほど繰り返し聴いた。
 それから遡るようにしてスタジオ録音のアルバム『こわれもの』(Fragile)を聴いた。最初の曲が「ラウンドアバウト」(“Roundabout”)。ライブよりもこのスタジオ録音の方が気に入った。八分半ほどの長い曲なのに、最初の一音から最後の一音までまったく弛緩することなく、ストイックなまでに乾いた音作りによる快い緊張感に貫かれている。とにかく、恰好良い曲だ。特にブルーフォードのドラムが好きだった。
 このアルバムをリリースした当時がこのグループの黄金時代とされている。キーボードのリック・ウェイクマンにはちょっと留保つきだけれど 、他のメンバー、ジョン・アンダーソン(ボーカル)、クリス・スクワイア(ベース)、スィーブ・ハウ(ギター)、ビル・ブルーフォード(ドラム。当時は、ブラッフォードと表記されていた)は、確かにもうこれがイエスそのものであるさえと言いたい。
 この曲が発表されたのが1971年。もう半世紀以上も前なのだ。今聴いてもまったく古びていない。こちらで原詞と日本語訳付きで聴くことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


クララ・シューマン『三つのロマンス』作品22とイギリス人ピアニスト、イサタ・カネー=メイソン

2023-03-11 13:04:42 | 私の好きな曲

 机に向かって仕事をしているとき(あるいはそのふりをしているとき)、ストリーミングでクラッシク音楽を流しっぱなしするという「悪しき」習慣は数年来のことだが、アップルミュージックでテーマ別に編集されたセレクションや私の過去の聴取歴から私が気に入りそうな曲ばかりをAIが選んでまとめたラジオ・ステーションを聞くことが多い。こうした聞き方だと、こちらの好みに合わない曲はあらかじめ排除されているから、大体において気持ちよく聞いていられる(すっかり、AIに支配されてしまっているとも言えるけど)。
 それに、新しい曲、新しい演奏家にも出会うことができる。昨日も出会ってしまった。作曲家としてのクララ・シューマン(1819-1896)とイギリス人ピアニスト、イサタ・カネー=メイソン(1997-)である。
 クララについては、ロベール・シューマンの奥さんで当代一流のピアニスト、ブラームスが全幅の信頼を置いていた(密かな恋心を抱いてもいた)女性というくらいの知識しかなく、作曲者としてのクララについては何も知らず、おそらく一曲も聴いたことがなかった。少なくとも、彼女の作曲した曲と知りつつ聴いたことはなかった。
 イサタ・カネー=メイソンについては何も知らなかった(彼女についてはこちらのサイトを参照されたし)。弟のシェクはチェリストとして世界的に有名だ。実によく歌うチェロだ。姉弟のデュオの演奏も聴いてみた。こちらも素晴らしい。
 しっとりと光るように美しく、少しだけメランコリックなピアノの音にはたと仕事の手が止まった。クララ・シューマンの『三つのロマンス』作品11だった。クララのピアノ作品を集めたその名も『ロマンス』というアルバムからの選曲だった(クララが夫ロベルトの歌曲からピアノ曲に編曲した「献呈」(歌曲集『ミルテの花』Op.25より)と「月夜」(歌曲集『リーダークライス』Op.39より)、も収録されている)。イサタはクララ・シューマンに限りない敬愛の念を抱いているという。
 早速アルバムの全曲を聴いてみた。どれもとても良い演奏だ。作品11も良かったけれど、それ以上に気に入ったのが、同じく『三つのロマンス』と題されたピアノとヴァイオリンのための三つのロマンス。ヴァイオリンとピアノの相互に信頼し合った掛け合いがなんとも心地よく、聴くものを幸福な気分にしてくれる。
 かくしてまた一つ「私の好きな曲」が増えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


色彩豊かで典雅な音の絵巻物 ―アレクサンドル・タローによるラモーとクープラン

2023-02-22 10:36:33 | 私の好きな曲

 いくら好きな曲でも、その曲の好きではない演奏(あるいは解釈)はある。その曲が好きであればあるほど、お気に入りの演奏への愛着も深く、それに反した演奏には拒絶反応を示してしまう。そこまで行かずとも、気に入らない演奏をわざわざ聴いてみようとは思わない。そんなCDはお蔵入りするか、売り飛ばすことになる。
 これは上手い下手とは違う問題だ。技術的に完璧でもつまらない演奏もある。逆に、技術的には難があっても、心に響く演奏もある。遠い昔のことだが、教会でいつも奏楽を担当している現役音大生がバリバリ弾いていたショパンのワルツが不愉快になるほどつまらなく、その後に牧師さんの十歳になる娘さんが弾いたたどたどしいモーツアルトのピアノ・ソナタがとても心に染みた。それは弾けるのが楽しくて仕方がないという愉悦感が自ずと表現されていたからだ。
 相手の趣味がよくわっていないと、CDを贈り物にするのはむずかしい。いくら自分が気に入っていても、相手が同じように気に入ってくれるとはかぎらない。もらった方も困る。CDを誕生日プレゼントにもらって困惑したことがある。曲そのものは名曲中の名曲、私も大好きな曲だ。相手もそれを知っている。しかし、演奏がまったく気に入らない。始末が悪いことに、「きっとあなたの気に入るはずだから」と添え書きまで付いている。礼状は書くが、CDは棚で「永眠」することになる。
 曲は好きではないのだが、その曲の演奏は好きだということはあまりないだろう。多くの場合、好きな演奏とは好きな曲の演奏ということだろう。もっとも、曲は特に好きではないが、演奏には聴かせるものがあると認める場合はあるだろう。そのような場合を除けば、私の好きな曲を語るとは、私の好きな演奏を語ることでもある。だからこのブログでは「私の好きな曲」というカテゴリーの中に「私の好きな演奏」も自ずと含まれることになる。
 それまではあまり関心もなく、「聴かず嫌い」とまでは言わないにしても、わざわざ聴こうという気にならなかった作曲家のCDを贈られて、気に入ってしまったという場合はある。昨年そういうことがあった。アレクサンドル・タロー演奏『ラモー : 新クラヴサン曲集』(2001年録音)である。
 ラモーの名前は知っていても、それとして意識して聴いたことはかつてなかった。アレクサンドル・タローのCDは、バッハ、スカルラッティ、ベートーヴェン、ショパンなど、数枚持っているが、作曲者や作品によって、私の好き嫌いがはっきりわかれるピアニストだ。このラモーの演奏はとても魅力的だ。おかげでラモーを「発見する」喜びを得られた。
 ネットでタローの他のCDの情報を見てみると、クープラン作品集 Tic toc choc(2006年録音)はさらに世評が高い。さっそく聴いてみた。素晴らしいを超えている。凄い。「大発見」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ピエール・フルニエ&フリードリッヒ・グルダ演奏『ベートーヴェン・チェロ・ソナタ全集・変奏曲集』― 音楽を聴く喜びで心が満たされる

2023-02-21 06:44:36 | 私の好きな曲

 昨日の記事で話題にしたようなわけで音楽鑑賞をより良い音質環境で再開することができたので、「私の好きな曲」(このカテゴリーの記事の中には、むしろ「私の好きな演奏」と題した方が適切な記事も含まれます)について、この機会に聴き直した曲を中心に記事にしておきたいと思う。
 交響曲が嫌いなわけではなく、大好きな曲は少なくないけれども、あまり大きな音量で聴くわけにもいかず、そうするとやはり十分に細部まで味わって鑑賞するには至らず、聴く頻度はそれほど高くない。声楽曲は歌手の声質についての好き嫌いがかなり激しく、いつ聴いてもいいなあと思えるほどのお気に入りは数少ない。よく聴くのは、器楽曲と室内楽曲と小規模な管弦楽曲。器楽曲ではピアノ曲のCDが圧倒的に多い。ついでチェロ。今回購入したマランツの装置とJBLのスピーカーはチェロとの相性が特にいいようだ。
 ベートーヴェンのチェロ・ソナタはどれも好きだけれど、特に有名な三番(作品69)の演奏では、フルニエ&グルダの演奏が一番好きだ。2014年10月19日の記事ですでに話題にしたことだが、そのときは別の話題(いやいややっている採点作業のこと)が中心だったので「雑感」として投稿した。「私の好きな曲」のカテゴリーの記事として、この曲に関する部分だけここに再掲する。

今聴いているのはベートーヴェンのチェロ・ソナタ全五曲(CD二枚組であるから相当な演奏時間であることは言うまでもない)。演奏はピエール・フルニエとフリードリッヒ・グルダ。こういうときには軽快でエレガントで愉悦感のある演奏がいい。ロストロポーヴィチとリヒテルの演奏だと、これはもう大相撲千秋楽横綱同士の優勝がかかった結びの一番のような演奏(特に第三番)で、息抜きとして気軽には聴けない。桟敷席に腰を据えて、固唾を飲んで勝敗の行方を見守るような気持ちで聴かないといけない(そんなこと誰からも頼まれていないが、そんな気持ちになるのである)。同じフルニエだったら、ケンプとの演奏もあって、こっちも巨匠同士ではあるが、演奏者自身が音楽の愉しみを味わいながらの演奏で、決して腹に持たれることのない良い演奏だ。でも、渓流を跳ね泳ぎまわる若鮎のようなグルダのピアノ伴奏が今日の気分には合っている。フルニエはいつだってエレガントな貴公子。

 1959年の録音だが、なんといつまでも新鮮でしなやかで輝かしい演奏なことだろうか。同曲の好演・秀演はあまたあれど、円熟した巨匠と若き天才の一期一会がもたらしたこの名演奏を凌駕する演奏は私にはありそうもない。それでなんの不満もない。今回もまた、この唯一無二の演奏は私の心を音楽を聴く喜びで満たしてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


モーツアルト『ヴァイオリン・ソナタ集』― ヒラリー・ハーン&ナタリー・シューの仲の良い演奏

2023-02-20 23:59:59 | 私の好きな曲

 このブロクのカテゴリーの中の投稿件数のトップ3は「哲学」「雑感」「読游摘録」で、これだけで全体の八割超を占める。他方、久しくご無沙汰してしまっているカテゴリーもいくつかあるが、「私の好きな曲」もその一つだ。
 ストリーミングで音楽を聞き流すようになったのは Bose SoundTouch 30 を購入して以来のことで、もう六年ほどになるだろうか。机に向かったままスマートフォンで操作でき、CDのような入れ替えの必要もなく、自分で選曲しないからけっこう頻繁に新しい曲に出逢えて、それがお気に入りになったことも少なからずあり、すっかりこの聞き方が習慣になってしまった。
 その反面、今日はどの曲を聴こうかなと数百枚のCDが並ぶ棚を眺め、さんざん迷った挙げ句に一枚のCDを選び、ステレオ装置に正対端座して音楽を聴くことそのことに集中することがなくなってしまった。
 ボーズのサウンドタッチを購入する以前は、二〇〇六年に購入したケンウッドのミニコンポでずっと聴いていた。ストラスブールに越して来る前、パリに八年間住んでいたときは、テレビもなく、この安価な装置でひたすら音楽鑑賞していた。サン・ミッシェル大通りのジーベル・ジョゼフのCDショップには足繁く通ったものだった。
 そのコンポのCDプレーヤーが壊れた。変調は何年か前からあったのだが、とうとうまったくCDを読み込まなくなってしまった。分解して内部のホコリを除去し、読み取りレンズを磨いてみたのだが、やはりだめで、もし使い続けたければ修理に出すしかない。しかし、もともと安価な装置であるから、それに高い修理代をかけるのも躊躇われる。
 新しい装置を買うことにした。コンパクトで高性能な装置を一ヶ月ほど探し、マランツのM-CR612に決めた。それが先週金曜日に届いた。さっそくJBL ES20BK 3way に接続して聴いてみた。驚くほど音質が良くなった。スピーカーのサイズからして重低音の膨らみと奥行きを期待するのは無理だが、高中音域はきれいに出ている。もう少し音質を改善できるかと、スピーカーケーブルをちょっと太めなものに交換した。重低音に少し厚みが出た。室内楽曲、器楽曲、声楽曲についてはこれで不満はない。
 聴くのが楽しくなった。かつてお気に入りだったCDをとっかえひっかえ聴いてみる。以前の装置との音質の差を視覚的な比喩を使って言えば、以前喜んで見ていた名画は実はホコリを被っていて、そのホコリを払うと鮮明な色使いが細部までよく見えるようになったくらいの違いとなるだろうか。
 というわけで、ここ数日、かつてのお気に入りを新鮮な気持ちで聴き直している。今日のタイトルに掲げたハーンとシューの演奏は、この二人きっと仲良しなんだろうなあと思わせる気持ちのよい好演。澄んだ青空が広がり、春遠からずと感じさせる陽光が室内に差し込む午後、軽やかできらきらとした音の彩りを楽しむことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ピアノの円やかで澄んだ音の響きに癒やされています ― キース・ジャレットによるヘンデルのクラヴィーア組曲集

2020-12-29 19:24:02 | 私の好きな曲

 家で仕事や勉強をしているとき、あるいは好きな本を読んでいるときは、大抵音楽をストリーミングで流しっぱなしにしています。主にiTunes を利用していますが、Apple Music : Musique classique の中のさまざまなテーマごとに編集されたアンソロジーを特によく聴いています。様々な楽器によるとてもヴァライティに富んだ曲が集められていて、しかも定期的に更新されるので、飽きが来ません。ときどき Amazon. Music も利用しますが、どうも編集の仕方が気に入らないことが多くて、自ずと iTunes 利用の頻度が高まります。
 今年も随分たくさんの曲を聴きました。クラシックですから、すでに知っている曲も多いのですが、様々な演奏を愉しんでいます。二週間ほど前のことでしょうか、Matins Classiques というアンソロジーを流していて、ある曲が始まると、はたと仕事の手が止まりました。それはヘンデルのクラヴィーア組曲集(かつてはリヒテルとガヴリーロフが交互に演奏したライブ盤を愛聴していました)の中の一曲でよく知っている曲、組曲第2巻・第7番変ロ長調 HWV.440 の第一曲アルマンドだったのですが、そのあまりに心地の良いピアノの音の響きに聴き入ってしまったのです。それはキース・ジャレットが1993年9月にニューヨーク州立大学パーチェス校で録音した演奏でした。すぐにアンソロジーから当該のアルバムのページへと移動し、アルバムの全体、七つの組曲(HWV 452, 447, 440, 433, 427, 429, 426)を聴きました。以来、毎日必ず一回は全曲聴いています。録音の優秀さも特筆に値します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「浜辺の歌」― 生まれたときから故郷を喪失している者の涙の理由

2020-08-31 00:48:45 | 私の好きな曲

 日頃からテレワーク中、ストリーミングで音楽を流しっぱなしにしていることが多いのですが、さあこの曲を聴こうと思って聴くときと違って、こちらがまったく予期していないような曲や歌声が流れてくることがしばしばあり、その初めて聞く曲、あるいは、よく知っている曲でも今まで聴いたことのない歌声や演奏に不意打ちをくらって、自分でもどうしたことかと驚くほどに、涙が止まらなくなることがあります。
 どうして、ある曲・歌詞・歌声を聴くと、こんなにも心が震えてしまうのでしょうか。なんのことはない、年を取って涙腺が緩くなってしまっただけのことなのかもしれません。あるいは、ここ数ヶ月のコロナ禍でメンタルの疲弊が知らぬ間に蓄積していて、ちょっとしたことで感情的になりやすくなっているということなのかもしれません。
 涙の理由について、あえて平静を装って理屈を捏ねるとすれば(別に無理しなくていいじゃん)、決定的な故郷喪失感ということになるのかなと思います。どれだけ自分が「わが美しき故郷」から遠く離れて生きており、もう二度とそこへ帰れないということがひしひしと感じられ、感情を制御できなくなってしまうということなのでしょうか。
 もっとも、東京に生まれ育った私には、こここそが自分の故郷だという場所が実は存在せず、私の〈故郷〉は理想化されたユートピアにすぎません。子供の時から、夏休みに「田舎」に帰れる友だちがうらやましくてしかたありませんでした。
 昨日、夏の終りにしては冷た過ぎる雨が朝から降り続ける日曜日の午後、畠山美由紀が歌う「浜辺の歌」に心を突かれてしまいました。
 帰りたいけれどもう二度と帰ることができない「故郷」を想起させる曲は、どの言語であれ、どうしても心を震わせるものがあるのでしょうね。


仕事の手をはたと止めて聴き入ってしまった曲 ― シューベルト弦楽三重奏曲第二番 D. 581

2020-06-17 03:16:29 | 私の好きな曲

 楽しみのための読書・映画鑑賞・音楽鑑賞について、なんて自分は保守的なのだろうとしばしば思う。どんな感じかもわからない新しい作品を試してみようという気にはなかなかなれない。試してみてがっかりするのが嫌だから、世評の高い作品の中でも自分の嗜好に合いそうなものしか読もうとも観ようとも聴こうともしない。それだけで十分過ぎるくらいの作品があるのだから、一向に退屈しない。だから、わざわざ失望覚悟で新しい作品にチャレンジする気にはなれない。そんな時間、そもそもないし、って思ってしまう。
 クラシック音楽は中学生のころから半世紀近く聴いている。高校時代には、クラシック好きの友人もいたりして、それなりに幅広く聴いたつもりであった。十数年前だったか、自分はどんな音楽を好むのだろうか、「客観的に」に確かめてみようと思い、日毎に聴く曲をエクセルの一覧表に記入していき、何回同じ曲を聴いたか、一年余調べてみたことがあった。その結果として、自分でも呆れたのは、頻度の高いのはいわゆる名曲中の名曲に集中しており、それらの曲を列挙すれば、クラシック名曲〇〇選の類となんら変わるところがない。
 そんな度し難い保守性を少し変えてくれたのが、アップルやアマゾンなどの音楽配信である(別にリベートをもらっているわけではありませんよ)。職業柄というか、もともと自宅で仕事している時間が長かったが、コロナウイルス禍による外出制限令下、ますます自宅で過ごす時間が多くなった。その時間、ストリーミングで音楽を流し続けることが数ヶ月続いた。
 その間、音楽作品には大変失礼な話なのだが、仕事中はまさに聞き流している。もともとそのために作られた音楽ならともかく(あるでしょ、「仕事の効率を上げる」とか、「集中力を高める」とか)、真剣に聞かれることを作曲者が望んでいた曲を、その曲とは何の関係もない仕事のバックグラウンド・ミュージックにしてしまうのは誠に申し訳ないと思う。
 他方、「あっ、この曲いいな」と、仕事の手がはたと止まってしまうことがある。今日、そんなことがあった。誰のどの曲だろうと確かめたら、シューベルト弦楽三重奏第二番(D.581)であった。なんとも愛らしい曲で、こういう親密な空気を醸し出してくれる室内楽っていいよなあ、って、しばし聴き入ってしまった今日の午前のひとときでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メンデルスゾーン弦楽四重奏曲第一番・第二番 ― 清澄な旋律が流麗に奏でられる「育ちの良い」音楽

2020-05-06 12:27:51 | 私の好きな曲

 五月三日日曜日まで締切りが迫っている仕事の処理にずっと追われていました。それらが一応片付いたので、私自身ちょっと息抜きがしたくて、月曜から「私の好きな曲」についてお話ししています。ちょっと「しりとり」みたいなのですが、今日は昨日の記事で話題にしたミネッティ弦楽四重奏団の別の演奏を取り上げます。
 この四重奏団のメンバー全員が大変な実力の持ち主であることは、私などがおこがましく喋々するまでもないことです。HMVのこちらの紹介記事を御覧ください。別のサイトの情報ですが、第二ヴァイオリンのアンナ・クノップさんのお母様は日本人だそうです。
 なぜこの人たちの演奏が私はこんなにも好きなのだろうかと自問してみました。素人の私に何か気の利いたことが言えるわけでもないのですが、この人たちの演奏を聴いていると、まず何よりも「育ちの良さ」を感じるのです。奇を衒うところがいっさいなく、実に豊かな音楽性が自ずと流露する演奏とでも言えばいいでしょうか。だからハイドンとの相性がとてもいいのでしょう。
 育ちの良さと言えば、作曲家の中ではメンデルスゾーンの名がすぐに浮かんできます。その弦楽四重奏曲第一番・第二番をミネッティ弦楽四重奏団は2012年にリリースしています。こちらも相性がピッタリというのでしょうか、その清新流麗な輝くばかりの演奏を聴いていると幸福な気持ちになります。