南町の独り言

様々な旅人たちが、日ごと行きかふ南町。
月日は百代の過客、今日もまた旅人が…。

普天間問題の根本①

2010-04-20 19:28:41 | 政治

鳩山政権の命運を握るやも知れない普天間問題。
その問題の本質は、米軍基地を日本のどこに置くのかなどという生易しい話ではないはずです。
きっとどこかで、そんな国民的議論が起こるのをじっと待っている何かがあるはずです。

戦後の日米関係の起点はどこにあるのだろうか、そんな疑問から児島襄(のぼる)の「講和条約」 全3巻と格闘しています。
この本は壮大なスケールで書かれた歴史ドキュメントであり、絶版となっているので図書館で借りて読むしかないと思います。
ようやく第1巻(昭和20年9月1日~昭和23年12月31日)を読み終えたところです。

まずは昭和20年9月1日、横浜沖の戦艦「ミズーリ」でおこなわれた降伏調印式から語られていきます。
日本が受諾した「ポツダム宣言」には次のような降伏条件が列挙されていました。
①日本軍の完全武装解除
②日本国民を世界征服にかりたてた勢力の永久除去
③戦争犯罪人の処罰
④日本国民の民主主義的傾向の復活強化
⑤言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重

ドイツは最後まで戦い、首都は攻略され、元首のヒトラーは自決して、降伏時には政府は存在しませんでした。
日本は原爆を落とされて本土決戦の前に降伏したので、元首も政府も存続していました。
ですから「ポツダム宣言」の1週間後に発表された占領軍(米軍)総司令部の日本管理方針は次のような内容でした。
「天皇および日本政府は、マッカーサー元帥の指令を、強制されることなく実施するためのあらゆる機会を提供される」
その意味するものは、国家元首・天皇と政府を認め、それを通じた間接統治型の占領方式を明らかにするということです。

(つづく)


ワンコインシート?

2010-04-19 17:46:31 | 経済

毎月20日は「ワンコインメニュー」サービスデーで、500円で昼食が食べられます。
静岡駅ビル内の食堂街の話です。
まあ500円なりのメニューですから、それなりのもので笑って食べました。

先日、「東京-大阪」間高速バスのワンコインサービスの話を聞き、思わず耳を疑いました。
早速ネットで調べて見ますと、確かにあります。
客集めの宣伝ではありますが、「東京-大阪」間500円というのは、あまりに行き過ぎであり、労働に対する冒涜でもあります。
「ワンコインランチ」と違ってとても笑える筋の話ではありません。
安売り競争に拍車をかける動きは一向に止みそうもなく、品質や安全に必ず悪影響がでてきます。

最近の天候不順で野菜物が高騰しています。
昨日は貧弱な“きゅうり”が1本65円の値をつけていました。
鮭の切り身も1切れ65円でなにやら鮭が可哀想でした。
食べ物もそうですが加工物にもサービスにも、適正な価格があるはずです。
デフレ克服は金融政策というよりも、経営者のモラルにかかっているのではないでしょうか。


富士・富士宮地協メーデー

2010-04-18 16:03:59 | ユニオン

ようやく春の陽気が戻ってきました。
そんなうららかな朝、雪冠をかぶった霊峰富士を真正面に見ながら東名高速を走ります。
今日は、例年より1週間ほど早い地協メーデーの幕開けです。

富士市中央公園が「富士・富士宮地協メーデー」の会場ですが、大駐車場もありロケーションは最高。
しかし人気のある会場ですから、今年は今日しか予約が取れずに開催日が早くなったとのことです。
確かに“May Day”ですから本来は“5月1日”を意味するものですが、私は挨拶の中でこの点についてこう話しました。
『もう1週間早ければ桜満開のお花見も洒落込めたかもしれません、残念ですね。
私は1年に一度、こうしてみなさんが一同に会することに意味があると思います。
集まることでいざという時の行動の予行訓練にもなるし、毎年毎年の私たちの覚悟や思いを共有する大切な機会にもなります。』

私自身の思いのたけも十分に話させていただきましたし、会場では4組の大道芸人たちの大活躍で大いににぎわっていました。
企画・運営にあたっていただいた役員のみなさんに敬意を表します。
ご苦労様でした、ありがとうございました。


ジキルとハイド

2010-04-17 19:27:21 | Weblog

医学博士のジキル氏の家に時々現われる残酷無比なハイド氏。
もうみなさんご存知の二重人格者の物語です。
この二重人格とは自分の中にもう一人の自分がいるということです。
ジキルとハイドの物語は極端ですが、大なり小なり私たちの中にも二重人格はあるものです。

この私たちの中にいる2人が仲良く肩を組んでいるときは、実にさわやかで何事もスムーズにいきます。
しかしもう一人の自分と折り合いが悪くなるとイライラしたり不安になったりして落ち着きません。
この心理的機微を、ある心理学者は“四人掛けの座席”に例えています。

向き合って座るときは対話の必要があるときで、心が通じ合うと横に並んで同じ方向を向きます。
楽しいときや趣味に熱中しているときは、物言わぬ“無我の境地”に入りますが、まさしく2人が横に並んだ状態です。
楽しいことがストレスの解消になるのは、うっ憤が晴れるからではなく、自己葛藤が回避されているからです。

断絶してしまうと斜め向かいに座ってソッポを向いてしまいます。
厄介ですが、もう一人の自分がいなければ我が意識も生まれず、うまく自分をコントロールすることができなくなります。
対話することでインスピレーションが湧き、創造力も生まれます。
もう一人の自分との上手な付き合い方を私たちは学ばねばなりませんね。


“瞬間”を生きるという感覚

2010-04-16 09:19:39 | Weblog

この半月ほど不思議な感覚を味わいました。
私はこれまで「夢は持つもの、理想は掲げるもの、そして目標は明確に打ち立てるもの」であるとし、それを言葉に表してきました。
できないと思うことも、思い悩むことも、希望も喜びも、すべては言葉の世界の中にあると考えてもきました。
言葉を慎重に用いていけば「なりたい自分」になれるとも信じてきました。
しかし言葉を超えるものがあることにようやく気づきました。

人は考えても仕方がないことを考えて、「どうしてよいかわからない」と悩みます。
いま思ったことでも、それに気づいた瞬間には、その思いは過去になっています。
「〇〇のために未来のことを考えている」としても、そのことを考えること自体すでに過去のものとなり、考えが考えを、悩みが悩みを、という堂々巡りのロジックに入り込んでいきます。
ですから考えるということで現在や未来に立ち向かうことはできない、と、こうなるわけです。
(考えてもわからないことはしょうがない)そこに気づかないと、悩める人は不眠症に陥ります。

結局、未来に立ち向かえるのは“直感”だけです。
私たちには“瞬間”という時間しか与えられていません。
以前紹介した「それでも人生にイエスと言う」で私たちに教えようとしていることは、まさしく“瞬間”“瞬間”を生きるということの大切さです。

そしてより良く生きるためには、その“瞬間”をより良く生きるための“直感”を研ぎ澄ますことが、ほんとうに大切だとアラカンにしてようやく気づきました。
なんだか小難しい話になってしまいましたが、現在の率直な気持です。

今日は久しぶりの宿泊出張です。
今夜は美味い酒を飲むために、早めの記事投稿でした。
いい1日でありますように・・・。


厳しい覚悟をもって

2010-04-15 17:15:35 | 政治

「藤本ゆうじ」参議院議員の推薦扱いについて本日、執行委員&地協代表者会議で議論しました。
民主党静岡県連も連合静岡も反対していた静岡選挙区2名擁立に対して、党本部は4月2日に2名擁立を強行しました。
3月31日の執行委員会では、仮に民主党が2名擁立した場合には、不毛な闘いに加わらないようすでに決定している藤本推薦の取消も含めて検討することとしていました。
2名擁立が決定されたことを受けて民主党静岡県連は4月7日の常任幹事会で、「県連は一枚岩となって藤本支援体制を組むこと」を確認。
同日日付で、連合静岡に対して、あらためて藤本支援を継続して欲しい旨の要請が文書でなされました。

これらを受けて、連合静岡では4月9日、緊急政治センターを開催。
幹事のみなさんの意見は藤本推薦の継続が大勢をしめました。
主な意見は次のようなものでした。
①「藤本ゆうじ」参議院議員には何の落ち度もない。
②民主党県連が一丸となって活動することが確認できた。
③すでに比例候補とセットで組織内に「藤本ゆうじ」を展開している。
④選挙区で2名を推薦できる状況にはない。
⑤連合静岡として厳しい選挙戦に臨む「覚悟」が求められている。

本日開催された拡大会議では政治センターの意見を踏まえて提案、出席者全員に意見を求めました。
その結果、全員一致で「藤本ゆうじ」の推薦継続を本日決定すべきとの結論が出されました。

これでいよいよ「覚悟」を決めたうえで第2ステージに突入します。
最後に出席者のみなさんに今参院選への私自身の思い入れを述べました。

『国民は健全で、前向きで、開かれた議論のできる政党政治を求めています。
その姿が昨年8月30日の民主党にはありました。
今回の参院選で求めるものは、私たちが支援する民主党が再生し昨年夏の輝きを取り戻すことです。
私たちの取り組み結果は選挙区では「藤本ゆうじ」の票になって現われ、産別組織の10名の比例候補者の票になって現われます。
きちんとした票がでなければ、第2ステージも私たちの負けになりますから、どうぞよろしくお願いします』


気になる空気

2010-04-14 19:56:57 | 政治

11日告示で18日投票の藤枝市議選は本番真っ最中です。
今年の選挙は定数を2名減らした22の議席を、新人5人含めた26人で争っています。
加えて連合推薦候補者は従来の2名から3名に増やして闘っています。
まさに激戦の藤枝市はマッカッカに燃えていると想像しながら、3人の選挙事務所に激励にいきました。
確かに事務所内は緊迫感があふれていましたが、車内から感ずる市内の空気や、繁華街で車を降り一回りして感ずる雰囲気は選挙などどこ吹く風という感じです。

なにか恐ろしいことが有権者の心の中に起こっているような気がしました。
あの熱狂的な小泉旋風で自民党が圧勝しそして裏切られ、昨夏の怒涛のような総選挙で政権交代が実現しそして裏切られ、人心は政治から遠く離れてしまいました。
おそらく投票率は予想以上に低くなるやもしれません。
そして注意すべきは、その無関心さがとんでもないファシズムを産み落とすという危険性です。

そうならないようにするためには各界各層のリーダーシップが欠かせません。
確かな選択眼をもって誤りのない政治家個人を推薦し、少なくとも組合員と家族だけは必ず投票にいってもらえるよう汗をかきましょう。


労働相談で得るもの

2010-04-13 13:08:05 | ユニオン

このところほぼ毎日といってよいほど事務所へ相談者が訪れてきます。
電話による相談も相変わらずですが、やはり面談しないと適確なアドバイスはできません。
相談者の中には行政センターから紹介されてくる方もおります。
連合静岡メイトも無事立ち上がり、事務局スタッフはてんてこ舞いの状況です。

私たちのこの相談業務はある種のボランティアです。
専門的知識を持たないとこのボランティアはできませんから、日々の学習を怠るわけにはいきません。
ここでは産別から派遣された人と、連合静岡直雇用のスタッフでチームをつくっています。
他県の地方連合では、産別派遣スタッフには労働相談を受けさせないところもあるようですが、連合静岡では一定期間の研修期間を過ぎれば積極的に電話対応をしていただきます。

相談業務はある種のボランティアであると述べましたが、ボランティアとは誰のためでもなく“自分自身”のためにやるものです。
相談に見える方は、雇用や労働条件などに関して悩みをもつ人たちです。
もちろん“受け手”である私たち自らが進んでその重荷を背負う心意気が求められます。
その心意気なくして嫌々相談を受ける人間はここでは不要ですし、そんなスタッフは誰一人としておりません。
加えて“受け手”である私(スタッフ)自身は、私自身のことを知らねばなりません。
法律や各種知識もそうですが、相談者との接し方や、分かり易い話し方などなど、1本の労働相談電話を通して、私たちは自分自身の至らなさを知ることになります。
10本とれば10本分の、100本とれば100本分の至らなさに気づきます。

今日もベテランスタッフが丁寧に応対していました。
誰のためでもない自分のために努めているスタッフには慢心というものがまったく見られません。
まさしく労働相談を通して磨き上げられていくその姿に私はいつも心を打たれます。


「看経の眼」

2010-04-12 17:38:56 | Weblog

「看経(かんきん)の眼」とは禅の言葉です。
“看経”とは、表面上では「声を出さずにお経を読むこと」と教えられますが、本当の意味は少々違います。

みなさんも社会科の先生から「地図は見るものではなく、読むものだ」と教えられませんでしたか。
地図を読むことができなければ、自分の位置を確認したり、目的地までたどり着くことができません。
どんな素晴らしいお経でも、その奥底に潜む真実を読み取る眼(看経の眼)がなければ、単なる作り話しです。
そんな“看経の眼”をどうしたら手に入れることができるのでしょうか。

昨日は、グランシップで勤労者美術展の閉会式が行なわれました。
主催者から招かれておりましたので、1時間ほど前に会場へ行き、展示作品のひとつひとつを楽しませていただきました。
私は芸術的センスはまったくないのですが、心が疲れると時々美術館へ行きます。
その作品の前に立って眺めていると、どうかした瞬間に作者の心に触れるような錯覚を感じます。
写真も同様で心にピンときた作品を前にすると、作者がそのシャッターを切ったであろう場所に時空を超えて飛び込めたような感覚を味わえます。
そんな非日常的な感覚に私の心が癒されているのかもしれません。

“看経の眼”とはひょっとしたら“何も考えない”ことかもしれません。
何かを考えると、その何かに捕らわれてしまいます。
ただただながめるだけで感じとる“何か”を、じっと待つことで十分なのかもしれません。
素直な心であればそれでいい、感ずる心があればそれでいい、そうだとしたら幸いです。


乗り越える意味

2010-04-11 19:07:41 | Weblog

私たちは誰しもが健康でありたい、豊かでありたい、賢くありたいと思います。
規則正しい生活をして、身体によいものをバランスよく食べ、たっぷり運動して、前向きに物ごとを考え、ストレスをためこまず・・・実に心身ともに健康そうなライフスタイルです。

しかし最近の私は、不規則な生活をし、貯金を減らし、人に言わせれば馬鹿なことばかりしているようです。
どうも寝不足で、ストレスをためこみすぎて酒を呷り、実に不健康なライフスタイルでもあります。

一方では“逆境”に打ち勝つことの大切さも教えられ、馬鹿なことをする私にも多くの激励が寄せられます。
「状況が困難になれば、その困難に打ち克つ者も出てくる」
「人生は、その人の勇気に比例して縮んだり広がったりする」

「奇跡の人」ヘレン・ケラーは、生後19ヶ月までは聡明で活発な子どもでした。
ところが原因不明の高熱に襲われて、視覚と聴覚を失い、絶望の淵に落とされてしまいます。
闇と静寂の世界の中で、ヘレンは手がつけられないほど暴れまわり、いらだちを激しい癇癪で表現しました。
7歳のとき両親がヘレンのために家庭教師を雇います。
この女性家庭教師アン・サリバンも、暴力に満ちた不幸な子ども時代を乗り越えてきた人間です。
サリバンは自分の子ども時代のことを振り返りながら、ヘレンに対して両親以上の思いやりと愛情をもってのぞみました。

それから50年以上にわたって、サリバンはヘレンに人生を捧げます。
ヘレンはサリバンの愛情に応えて猛勉強し女子大を3位の成績で卒業、そして卒業後は女性と労働者の権利を主張し、虐げられた人や目の不自由な人たちを擁護する運動に従事します。

誰しもが生きていくうえで、壁に突き当たったり、逆境に遭遇することはあります。
そんな時そこから逃避することもできますが、そこから生まれるものはどれほどのものでしょうか。
どんな逆境もヘレン・ケラーのそれに比べれば屁のようなものですね。
屁もひれない人に較べればどんなにマシか、そう考えれば私も救われます。

さあ、明日もいい日でありますように。