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日々感じたことを思いのままに書き散らすのみ。
※毎週土曜更新を目標にしています。

2022年正月にあたって。

2022年01月02日 12時16分04秒 | 社会
のどかなる空の色かな年たちてゆるぶは人のこころのみかは(一葉)

2022年になった。
2021年も結局「新型コロナ」で明け、暮れた。
東京五輪もパラリンピックも、首相が菅から岸田になったことも、
総選挙で維新が躍進してしまったことも、
コロナ程のインパクトはなかったのかも知れない。

100年前、1922年にあったことを見てみた(Wikipedia)。
個人的に興味を持ったのは以下のようなもの。
・江崎グリコ設立
・全国水平社創立
・未成年者飲酒禁止法公布
・ヨシフ・スターリンがロシア共産党書記長に選出
・日本共産党結成
・ベニート・ムッソリーニが首相に就任
・大隈重信死去
・アルトゥール・ニキシュ死去
・山縣有朋死去
・ヘルマン・ロールシャッハ死去
・森鷗外死去
・ノーベル物理学賞にニールス・ボーア
・フグ田サザエ誕生

明治維新の元老の死(大隈、山縣)と世界的には独裁体制の萌芽(スターリン、ムッソリーニ)、
国内的には水平社や共産党の成立、といったところが興味深い。
これが100年前。

それからの100年。
「独裁か、民主主義か」の争いは「民主主義」の勝利に終わっているが、
この「民主主義」が多数決主義に堕している、と感じる。
橋下などはそれを否定しない。

根本的に言えば、「正義とは何か」という話。
単純多数決主義者は「正義なんて存在しない、多数者が正しい」と冷笑するのだろう。
しかし元々、民主主義や多数決というのは
「絶対的な正義は存在しないかも知れないが、それを追求すべきであり、
単一の王や少数の貴族でなく、多数の市民が考えた方がより正義に近付くだろう」という
仮定で正当化される考え方であり、
正義を希求しない民主主義は、結局アウシュビッツを否定するロジックを持たない
危険思想ではないのか。
そして、「知識を吸収する」「考える」を経ない市民が議決権だけ有している状態は、
民主主義の前提が掘り崩された、危険な状態ではないのか。

多数決によっても覆し得ない「個人の尊厳」がある。
その個人の尊厳を守るのが「自由主義」であり、
民主主義社会と云えども「個人の尊厳」を侵害するにあたっては
単なる多数決では侵害し得ない、
といった社会の基本理念が揺らいでいる、或いはそもそも明確にされていない、と感じる。
# これは、個人の自由や尊厳よりも「国家」「集団」に重きを置く
 「自由民主党」が長年の政権与党であり、
 結局は世間の風潮を作っている存在であるから、かも知れない。

それが今から100年前の出来事をピックアップしてみて感じたことであり、
今後の私自身のあり方や仕事のベースになってくるのだろう。
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