朝寝-昼酒-夜遊

日々感じたことを思いのままに書き散らすのみ。
※毎週土曜更新を目標にしています。

「不屈の棋士」書感

2017年01月07日 18時58分38秒 | 社会
「不屈の棋士」(大川慎太郎)読了。

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人工知能(AI)が話題になっているが、
将棋の世界も例外ではない、というか、
個人的には、けっこう先進的なのでは、という印象を持っている。

以前の将棋ソフトはさして強くなかったが、
「プロ棋士に勝利する」を目標に様々な工夫が
ハード面・ソフト面で重ねられてきた。
例えば「オープンソース」化することにより、
多くの技術者がそれぞれの技術やアイデアを積み重ねていくことで、
加速度的に進歩してきた。
その辺りが故米長永世棋聖、
或いは5対5でプロ棋士と将棋ソフトが団体戦を戦った
「電王戦」を通して明らかになった。
「電王戦」は昨年からは、
「プロ棋士」の代表たる「叡王」と将棋ソフトの代表が2番勝負を争う
新たな形になっている。

将棋ソフトに勝利できないとなると、
「強い」プロ棋士の存在意義はどこにあるのか。
人間である以上ミスをする。
ミスをしないコンピュータに人間が勝利するのは至難である。
コンピュータがハード面・ソフト面で今後も進歩し続けていくのに対し、
人間はそこまでのスピードで進歩できるものではない。
また、将棋の魅力を「勝負」に限定しない考え方、
斬新な戦法や棋士の生き様にあると考えれば、
将棋ソフトは「別物」であり、特に考慮に入れる必要はない、
という考え方も出来るだろう。

本書は、将棋記者である筆者が
多くの棋士にインタビューしたもの。
そのメンバーも
羽生三冠(当時名人)や渡辺竜王といった超トップ棋士、
千田六段(当時五段)のような「コンピュータ将棋」に詳しい棋士、
コンピュータに敗れた棋士、或いは将棋ソフトに背を向ける棋士など、
様々な考え方のトップ棋士であり、
インタビュー内容としてもけっこう踏み込んだものになっている。

それは将棋ソフト、コンピュータとどのように付き合っていくか、
将棋ソフトが「強い」と言われる中で人間がどのように伍していくか、
コンピュータによって「プロ棋士」という存在が不要になるのではないか、
といった部分に対する本音がけっこう語られている。
或いは、「よく分からない」ということで
コンピュータとの付き合い方に戸惑う本音が浮き彫りになっている。

このあたりはプロ棋士に限らず、全ての職業人に共通の要素ではないだろうか。
コンピュータは人間に比べてミスをしない。
(当然だが)人間的ではない。しかし強い。
コンピュータの仕事(将棋であれば勝負の過程である「棋譜」)に
温もりを感じることは出来ないかも知れない。
しかしそもそも温もりは必要なのだろうか。
いや、必要不可欠な分野はあるだろう。
そこは「人間」しか担えない部分ではないか。

本書を読む中で思い付いたのが
「指導対局」という仕事は人間であるプロ棋士しか出来ないが、
それは将棋以外にもヒントになるのでは、ということ。
「指導対局」というのはプロ棋士がアマと将棋を指して
色々教えてくれるもので、「勝負」よりは「教育」「普及」を目的にしている。
アマのレベルを見極める、
そしてアマが良い手を指し続けていれば勝たせてあげ、
悪手を指してもまた良い手を指すと逆転できる程度の差を維持する、
そして最後に「感想戦」を通して
「この手は良かった」「この手はこうした方が良かった」といったことを
教えて「教育」する。
また、同じアマと再度対局した際には、
前回より強くなっていればそれに応じてプロ棋士も力を入れたりする。

この過程は、「正解」「ベスト」を見せ続ければ良い、というものではない。
「相手に合わせて」対応を変え、距離を見極め、微妙なバランスを取り続ける。
差を付け過ぎるのではなく、
或いは、相手がミスをすればそれに合わせて「ミス」をしてあげる。
一見「ベスト」でないが、最も目的に適っているのは何か、と判断する。

このようなバランスを含めた判断は、
少なくとも今のところでは、コンピュータには難しいのではないか。
そして今後さらに進歩していくコンピュータと人間が
どのように「共存」或いは「棲み分け」していくかを考える上で、
「正解がベストではない」「効率が良ければ良い、というものではない」世界、
(当然だが)アナログの世界が人間が生産していくエリアになっていくのではないか。

そうなると「短時間」に「正解」を追い求める教育や受験は、
意味がなくなってくるだろう。
コンピュータが進歩する中で、
コンピュータと同じ土俵で競争する人間を養成するような教育はナンセンス。

そのような様々なことを考えるネタになった。
私が将棋を好きだからかも知れないが、
なかなか良い本だと思う。
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ゆく2012年、くる2013年

2012年12月31日 21時36分10秒 | 社会
2012年も間もなく終わり、
2013年に入る。

今年は年末に総選挙があり、
予想通り民主党が大敗し、政権交代の審判を受けた。
民主党内部の問題、官僚の問題、
日本人のレベルの問題とそのレベルに相応しいマスコミの問題など、
様々な問題が露呈した3年間だったかな、と思う。
今後も「二大政党制」の国として運営していくのであれば、
今回の政権交代の成果と失敗の事象・原因は整理しておかなければならないだろう。
そうしなければ、小選挙区制で少数意見は切り捨てられ、
しかも政権交代は起こらない、という
「悪いところ取り」の政体になってしまいかねない。

今回の総選挙で自公政権に戻ったが、
投票した6割の有権者の内、4割程度が「比較的マシ」と判断した結果に過ぎない。
まあ、「最善は存在しないが、比較的良い政党を選択する」という、
ある種民主主義の成熟を示したものなのかも知れない。
とすると、選挙結果はその政党の政策を全肯定するものではない。
投票した者であっても、引き続き与党の政策に対して注文を付け、
軽くデモなどの直接的行動に参加していく必要が出てくるだろう。

現時点では衆参で「ねじれ」の状態。
ただ次夏の参議院選挙でねじれが解消する可能性が高いように思う。
6年前は民主党が勝利した(結果的にそれを受けて安倍が退陣した)が、
民主党がそこまでの勝利を得ることは難しいだろう。
また、第三極もある程度議席を獲得するだろうが、
それ以上は難しいのでは、と思う。
そうなると、低姿勢の政権運営が続けて参議院選挙で勝利し、
それから次の参議院選挙・或いは総選挙まで(今回の選挙が違憲無効にならなければ)
3年くらい審判を得ずに政権運営できるから、
衣を脱いで鎧を露出していくだろう、と想像できる。

2013年の年明け後参議院選挙まで、
そして参議院選挙後、
異なるもの、弱いものを切り捨てていく動きに対して抗議し続けなければ、と
個人的には感じる。
多数派が少数派を切り捨て、
残った多数派の内からさらに一部が多数派を形成して少数派を切り捨て、
と繰り返される内に尖鋭化し、
奈落の底に落ち込んでいきかねない。

最初の切り捨てを肯定すれば、次の切り捨ては比較的容易になる。
千丈の堤も蟻の一穴。

そんなことを思う年の瀬。
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「反貧困」書感

2012年06月07日 17時35分11秒 | 社会
湯浅誠「反貧困-「すべり台社会」からの脱出」読了。
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時あたかも、「生活保護」について喧伝されている昨今。
ただ騒いでいる側も、結局「貧困」なるものをきちんと見ずに取り上げている、印象があり、
そのあたりがこの本を読んで、改めて整理できたように感じる。

本の構成は
「貧困問題の現場から」と「「反貧困」の現場から」に大分される。

以下、読みながらtweetした内容を単純に羅列してみる。

〈まえがき〉
・「弱者など存在しない」言説の大部分は、自分で勝手に目を瞑って見えないことから「存在しない」と言っているんだろうな。
・「強い社会」という表現はあまり好きではないなあ。「強い」という言葉そのものが感覚的に好みではないのかな。

〈第Ⅰ部 貧困問題の現場から〉
[第一章 ある夫婦の暮らし]
・派遣・請負業の中間マージンの上限設定、か。今回の派遣業法改正で派遣料公表が義務付けられるんじゃなかったっけ?これ、あまり取り上げられていないが、けっこう大きな話なのでは?何か上手く誤魔化せる手を打っているのかな。
・夜通し街を歩いて、昼間公園で仮眠を取る、というのが初めての「野宿」。
・人々が貧困化する構造的な要因。

[第二章 すべり台社会・日本]
・非正規労働者の方が雇用調整を受ける可能性が高いのに、失業給付を受けられない、という事実。契約期間の縛りはほぼなくなったとは言え、週20時間や6ヶ月の継続雇用、はハードルとして高いやも。例えば特定受給資格に該当する場合は1ヶ月でも失業給付を受けられる、という手はあるかも知れない。
・生活保護の「捕捉率」、当てにならないとは言え今では発表されているんだな。しかし、「掬えていない人を掬うために、生活保護の減額が必要」という言説が論外なこと、言うにや及ばず。予算から「最低限文化的な生活」を定義する、なんてロジックはムチャクチャでしょう。
・「濫給」と「漏給」、どちらをより重大な問題と捉えるか。より目に付く「濫給」が叩かれており、黙ったまま死んでいく「漏給」は黙殺される、或いは見過ごされている状況と感じるが、それは正しいのか。
・日本は税と社会保障移転による相対的貧困率削減効果が非常に小さい。今まで格差が小さかったのは元々の格差が小さかったからであり、政策のおかげではない。
・三重のセイフティネットと思いきや、最初の破れに足を取られたらそのまま奈落の底にまで転落する構造。
・「刑務所が第四のセーフティネットになっている」。65歳以上の高齢受刑者の約7割が、出所後に罪を犯して再入所、って、かなりの数字。しかし、年金もなく、生活保護も受けられないのであり、前科の有無が何にも影響しないのであれば、確かに「刑務所」は一つの手だわな。
・「公的なセーフティネット」が政府以外であっても良い、と思いつつ、NGOや民間に押し付けて済ませるようになるのも拙いか、とも思いつつ。
・生活保護法19条1項「…次に掲げる者に対して、この法律の定めるところにより、保護を決定し、かつ、実施しなければならない。」2号「居住地がないか、又は明らかでない要保護者であつて、その管理に属する福祉事務所の所管区域内に現在地を有するもの」ので、住所不定だから、と拒否するのはNG。

[第三章 貧困は自己責任なのか]
・教育課程、企業福祉、家族福祉、公的福祉からの排除、さらに「自己責任論」を被ることで発生する「自分自身からの排除」。意図的に排除させ、それを国家や政府への「帰依」に結び付けるのが権威主義的な手法か、と勘繰ったりして。
・「自由な選択が可能な状態にする」というあたりが、リバタリアニズムと社会保障の整合性の取り方か。無論前提条件がゼロにはなり得ないから、「文化的な最低限度の生活」のレベル、という辺りであり、それが例えば「週40時間仕事をして賃金を受ければ、生活できる」などかな。
・貧困とは選択肢が奪われていき、自由な選択ができなくなる状態、と後の方に書いてあった。前提の「自由な選択ができないか」に気付くかどうか、で非難するかしないかが変わるのか。
・「貧困に陥らないための十分な所得とは、個人の身体的な特徴や社会環境によって異なる」。完全に個別対応できる訳ではないし、するべきでもなかろうが、視野に入れておく必要はあるか。
・「溜め」。「すべり台社会」の途中で止まる手がかりのようなものか。これに助けられている、という意識すると、他人を「自己責任」として斬るのが天に唾するもの、と感じるか。自分自身に「自己責任」を求める精神姿勢が悪いとは思わんが。
・経済的に上位にある者の目には、貧しい人々の姿はほとんど映らない仕組みになっている。濫給は無論是正されるべきだが、それを強調することが本来受給すべきだった人から生活保護を取り上げ、当然漏給は是正されないことにつながる恐れを常に見ておかなければ。
・「予算が限られている」から、不正受給を減らせばその分もっと必要な人に生活保護が行き渡る、と思われているのか?それよりも、不正受給を減らすための手続により、本来受給すべき人が受給できなくなる恐れの方が強い。北九州のように、また犠牲者が出ないと風潮は反転しないのか?
・それでも申請できず、亡くなっていく方はいる。申請が多いから、と言って「生きていけない」額にカットしたり、ハードルを上げたりするのは論外。
・そもそも海外の「生活保護」の申請・承認の仕組みはどうなっているのだろう。前提も制度も違うからそのまま適用する訳にはいくまいが、参考にはなるだろう。
・今度は北九州のように漏給で餓死者が出ても、「要らん奴に生活保護支給していたから、要る人に回らなかったんだ!」という方向に怒声が飛びそうで空恐ろしい。
・為政者、権力者、民主主義政体下での多数派は、目を閉じ耳を塞ぎ、都合の悪いものを「ないこと」にすることで、兵糧攻めにし餓死させて、実際に「なきもの」にすることができる。それだけの力を持っていることを自覚せねば。
・頑張るためには条件「溜め」が要る。誰もが同じように頑張れる訳ではない。
・貧困はあってはならないものだから、目をつぶって見たがらない。目をつぶって何もせず、皆餓死してくれたら貧困はなくなる、とでも思っているのか?

〈第Ⅱ部 「反貧困」の現場から〉
[第四章 「すべり台社会」に歯止めを]
・社会の一員としての立場から社会的に必要と感じられることを自主的に行う「市民」。
・住所不定状態にある人たちに対するアパート入居時の連帯保証人提供で、金銭的トラブルになるのは約5%前後。
・「貧困」と「貧乏」の違い。人間関係による「溜め」がないことによる貧困。「貧しかったが、親や周囲の人に助けられて勉強を続けることができた」と言うのは「貧乏」であり、「貧困」は全く質の違うもの、と認識する必要があるだろう。
・社会との結び付きがない時、自分が日本人であることを「繋がり」と感じ、排外的なナショナリズムに走る。権威主義的な人間が「自己責任」と叫んで貧困対策をとろうとしないのも、排外主義の支持者を増やすための手立てだったりして。
・生活保護申請に、第三者が同行することに意義がある、か。

[第五章 つながり始めた「反貧困」]
・競争が働かないところでは、中間マージン比率を公開したところで仕方ないのかなあ。自主規制だったら良い、とも言えないように感じるし。
・最低賃金が想定しているのは「お小遣い」。その収入で一家を支える水準ではない。
・生活保護基準が「最低生活費」を現実には定めている。これを切り下げることによる地方税・保険料などへの影響。
・「下向きの平準化」に留まらず、「貧困化スパイラル」が起こる。生活保護を叩く(裕福な人が喋っている)マスコミに乗っかり、同様に非難する人々は、それが自分の足元を掘り崩す自殺行為だ、と気づかねばならんのだが。
・「地域間格差の是正」を名目とした実質的な切り下げ。相変わらず強行されそうな雰囲気だなあ。

[終章 強い社会をめざして-反貧困のネットワークを-]
・手近に悪者を仕立て上げ、末端で割りを食った者同士が対立し、結果的にはどちらの利益にもならない「底辺への競争」。この本が書かれた4年前からも、何も学んじゃいない。
・若者を戦争に駆り出すために、まともに食べていけない、未来を描けない、という閉塞した状況に追い込み、他の選択肢を奪ってしまうことにより、「志願して」入隊してくる。中国を市場とする経団連などの動きからは、まだ衣の下から鎧は見えないが。


同じ感想を繰り返し持っているようでもあるが。

昨今の「生活保護」叩きは、
「濫給」を強調してハードルを上げることにより、
「漏給」を隠蔽したり、生活保護水準を切り下げたりする動きに見える。

対抗勢力の力を削ぐ一つの方法は、「内輪揉め」させることだろう。
見えづらい「貧困」を再発見して抉り出して見せ、
最低生活費と最低賃金がリンクしていることに目を凝らさなければ、
自らの手足を自ら食べることになりかねない。

そのあたりを考える上で、ベースになる本だと思う。
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リバタリアニズム入門

2012年05月31日 10時10分55秒 | 社会
「自由はどこまで可能か」(森村進)読了。



「リバタリアニズム入門」という副題がついている。

最初に「リバタリアニズム」を
「個人的自由」「経済的自由」をそれぞれどのように尊重するか、という
座標軸に位置付ける。
その中で「リベラル」「保守派」「権威主義」との相違を示している。
これはざっくりした位置付けだと思うが、全体像を把握する上では有効。
本来「リベラル」というのが「リバタリアニズム」とイコールなのだろうが、
「リベラル」という言葉に手垢が付いている、という問題意識があるのだろう。

また、現在の様々な主張(橋下、慎太郎、TPOへの賛否、等)が
現状をどのように捉え、どのような社会を目指そうとしているのか、を理解する上で、
2種類の自由を尊重する/しないの組み合わせは
一つの視点になるだろう、と感じた。

その後、各章で「どのような権利を認めるか」及び
国家・制度・社会といった面での多くのリバタリアンの考え方、
一部は筆者の意見を紹介していく。

筆者の紹介する「リバタリアニズム」の自由や個人の選択重視・
国家機能を極小化する主張は、極論と言えば極論かも知れないが、
全体としては、あまり違和感を持たなかった。
特に「日の丸・君が代」を強制して「国民」意識を持たせつつ、
「自己責任」を強調して国による保障を切り捨てていく流れに比べれば、
遥かに首尾一貫していると思う。
# 「リバタリアニズム」の中でも、
 国家の代わりに家庭や社会が強制力を発揮し、
 個人の抑圧を肯定する主張もあるのだろうが。

ただ、現実に可能か、それは良い状況か、というと疑問はある。
煎じ詰めれば、それは個人が本当に「正しい」選択をできるのか、
という感覚かも知れない。
リバタリアニズムの発想では「正しい」選択、なんてものはなく、
各個人が刹那刹那で良いと考える選択が正しい選択である、ということかも知れないが、
将来の自己の権利や自由を侵害するような選択を
ある時点でしてしまう、というのは普通にある話。
それを「自己責任」と言ってしまうのは可能だと思うが、
果たして人間はそれに耐えられるほど強い存在なのかな、と感じる。
また、様々な資源(情報・金・時間など)が限られた中で
「自由に選択したから」とその結果責任を本人に負わせるのが、
果たして妥当であり、納得を得られるものなのかどうか。

もう一つは、複数の制度が存在する状況で、
「リバタリアニズム」は競争優位な思想かどうか、ということ。
因襲に捉われ、発展の足枷がある際にそれを外す時、
いきなり「自由」というのは弱い道具ではないだろうか。
また、既に発展している地域から、「自由」によって解放された地域に
安い製品が流入し、その地域の経済を破壊し、
「契約自由」の名において不利な契約を結ばされる事態が発生し得るだろう。
それは結局、ある押し込められた範囲の中での自由であり、
押し込める側の利得のために「自由」が利用されている、ということではないか?

様々な疑問はあるのだが、
少なくとも現在の日本で、様々な制度や価値観を見直す上で、
そしてこの主張がまず弱者を「自己責任」の名において抹殺するために
利用する人々の道具に堕さないように監視しておけば、
有効な「アンチテーゼ」ではなかろうか、と感じる。
# 筆者が「生存権実現の責務を国家に負わせる」のは、
 若干、「リバタリアン」の主張としては違和感がある。
 何が生存権か、の決定を国家が担うことに対する危惧。

この本は、約10年前に書かれた本ではあるが、
巻末の参考文献も充実しており、
「リバタリアニズム」の全体像や価値観を把握する上で良い手引書かな、と思う。
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「内部告発と公益通報」書感

2012年03月15日 17時13分56秒 | 社会
「内部告発と公益通報」(櫻井稔)読了。
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「公益通報者保護法」なる法律が2006年に施行されているのだが、
その内容について全く知らなかったので読んでみた。

「内部告発」を巡る論点が簡潔に分かりやすく整理されている。
また、それを踏まえての法の目的、内容についてもよくまとまっており、
説明の順序が良く、論理展開も明快で分かりやすい。
就業規則違反との衝突が問題になる「内部告発」について
どのような場合に懲戒解雇・不利益取扱が無効とされるか指摘されており、
人事の実務としても役立つと感じた。

筆者は元々労働基準監督官であり、
その後人事コンサルタントをやっている、とのこと。

説明の順序として、まず「内部告発」と「密告」、
「公益通報」の相違を描く。
その後具体的な内部告発事件を紹介し、
内部告発を巡る論点を横断的に整理する。
それを背景として、「公益通報者保護法」の内容を説明し、
その法に対する批判を紹介、筆者の意見を書く。
最後の章では少し趣きを変え、
「現実に守ることができない」日本の法律の現状を描き、
それがコンプライアンスを守る妨げとなるのでは、と問題提起して
採るべき対策を提案する。

全体を通してポイントとなるのは、
「公益通報者保護法」は、
今まで「内部告発」とされてきたケースについて
典型的なものを「公益通報」として明確に成文法化したものであり、
反対解釈としてここに記載されていない類型の「内部告発」を
抑制する目的ではない、ということと、
この法の趣旨が内部に組織体を設け、
システム・風土を改善して内部での解決を目指しなさいよ、と
言っていることだと思う。

最後の章はタイトルの「内部告発と公益通報」とは異なる内容ではあるが、
書かれていることそのものは妥当と思う。
ただ、「法があるべき姿を描いたもの」であり、
ある種「現実には実現しないもの」という思考習慣を変えるのは
かなり困難だろう、とも感じた。

最後の章については分量・内容とも若干不足感があるにしても、
「内部告発」を巡る全体的な枠組の理解は
この本で必要十分かと思う。
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行く年、2011年(社会)

2011年12月31日 11時50分28秒 | 社会
「今日こそは大晦日」(「掛け取り」より)。

一番大きかったのは何といっても「東日本大震災」だろう。
震災による甚大な被害、
そしてそれを覆い隠してしまった原発事故と放射能「汚染」、風評被害。
原発事故がなければ、
東北・関東の地震・津波そのものによる被害に対する手ももっと打たれ、
もっと早く復旧・復興への道筋が付けられたろうに。
その意味でも原発事故・東電、
内部統制の不備を認めてきた政府・マスコミの責任は重い。
そしてその電力を享受し、
政府やマスコミの原発推進を黙認し、現地の声を無視してきた
私たちの責任も。

政治では、民主党の迷走っぷりが取り上げられたが、
個人的には外部環境が変わる中で自民党でも対応できたとは思えん。
そのあたり、二大政党制でどちらに投票しても変わらんだろう、と思う人が、
「無投票」という選択をしたり、
「橋下新党」に期待を抱いたりする。
「正+反→合」で積み上げていくのではなく、
全部壊し、そこから作っていく姿勢を「改革」と思って魅かれる。
「リセット世代」云々言われているが、
別に若い世代だけではない。
ただ、求める変化スピードに現実の変化が付いていかないから、
不足感を持って危険な方向に魅かれてしまうのだろう。
「変われば良い」と思うのは未熟であり、非常に危険であるのだが、
「どのように一歩一歩変えていくか」処方箋・シナリオを誰も書かない、
あるいは書かれたシナリオを読ませてくれる人が少ないので、
「結局変える気はないのではないか?」と不信感を持ち、
「変える」と叫ぶ煽動家に付いていってしまう。

2012年が、どのような年になるのか。
消費税増税を巡って民主党は「一部離党」のみならず
「分裂」含みで年を越す。
では自民党は「消費税増税反対」で結束するのか、「増税賛成」で結束するのか。
あるいは自民党も分裂して
「消費税増税賛成党」と「消費税増税反対党」がそれぞれ結成されるのか。
このあたり、大きく変化していく年になりそうな気はする。
逆に、ここで変化せずにダラダラ続くと、
今度はポピュリスティックな政党支持の噴出に向かって、
マグマが加速度的に溜まっていくことになるだろう。
いずれにせよ、状況は要注視、だろうな。
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共犯関係

2011年04月16日 18時38分04秒 | 社会
新聞でピーター・バラカンが触れていたこともあり、
The Timersの「Love Me Tender」を聞いてみた。



広告料をもらっている電力会社の走狗にとっては、
以前も今も放送しづらい歌だな。

ただ、歌詞を額面どおり受け取って済ませる訳にもいかない。

事故前も事故後も、情報を伝えられていなかった。
騙されていた。
東電は隠蔽体質だ。
東電が悪い、政府が悪い、
俺たちは被害者だ。
加害者を非難するぞ。

そう声高に叫び続ければ、癒されるだろう。
しかし、本当にそれで済ませることは正しいのか?
俺たちに罪はないのか?

原発が危険なことくらい、
少し考えて、調べたら分かること。
それを見ず、考えず、調べてこなかった。
見たくないものを見ず、見て考えることを忌避する姿勢が、
原発が危険だと語る声を抑え、黙らせてきたのではないのか?
それが今では「隠蔽」と呼ばれる、
都合の悪い情報が晒されない「楽な」状態につながったのではないか?

目を瞑って見えないのは当然だ。

慎太郎は己の「我欲」を棚に上げて語る、指弾すべき老醜。
だが、都会の「我欲」が原発立地の頬を札びらで張り、
微妙なバランスで発電された電気をジャブジャブ使って、
その姿勢を省みないことは反省する必要があるだろう。
(原発立地が、張られた札びらで今まで潤ってきた事実も無視するものではないが)

この構造の中で作られた原発を黙認し、電力を享受してきた以上、
東電、政府が加害者だ、
自分たちは関係ない、という言説は無責任。
共犯者である、と認識する必要があると感じる。

【おまけ】

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語りえぬものなれど

2011年03月12日 15時52分34秒 | 社会
私は愚かだから、
他人の不幸を見なければ自分の幸福を認知できない。
他人の飢えを見なければ自分の満腹を有難く思えない。
他人の死を見なければ自分の生を意識できない。

都会にごくありふれた電気、ガス、水。
それとて自然の余禄。
自然がそれを奪い返すにつき、
抗うことなどできやしない。
自然に生かされている、生かしてもらっている。
殺されるのも仕方がない。
自然を相手に戦って、勝てるはずがない。
「お天気は何億年も前から、ずっとお天気をやっている」(by 枝雀)。

生かしてもらっているだけで幸福。
今出来るのは、私のこの幸福を少しでも分かち合うことのみ。

亡くなった方の冥福を祈り、合掌。
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全部、阿呆

2011年03月09日 07時26分18秒 | 社会
asahi_com(朝日新聞社):試験場に漢字の答え 椅子「投」げるな 広島の高校入試 - 社会

>県教委は、8校の受験生1255人について、この問題を正解にすることにした。

何か、体から力が抜けるようなバカバカしい話。
その後、何とも言えない情けなさを感じてしまった。

まず、椅子に「投げるな」って書いてあることが情けない。
当たり前やん、で効かないのか。
「投げるな」と書いていないから投げた、
問題が起こったのは「投げるな」と書いていないせいだ、
責任者出て来い!
とでも言われるのが恐いのか?

次に、問題の内容について。
最初ニュースの概要を見たとき、
高校入試で「投」の書き取りを出題することに唖然とした。
ただ問題としては、「投」の字を書けるか、ではなく、
文章の中で「投」を使えば良いと理解しているかを
試験する問題なのだろう、と思い直した。
だとすると、別に「投」が見えたところで問題はないと思う。
そのあたりを考慮せず、「投」が見えた、不公平になるかも知れない、
だから公平になるように全員に点を与える、という発想は、
公平なようではあるが、単に不真面目なのではないか?

個人的には、字が分からなかった受験生が、
そこで椅子の後ろに書かれた「投」に気付いて答えられたのだとしたら、
そんな余裕のある受験生は能力があり、合格させても良いのでは、と感じる。

そして、この話を受けて、来年どうするんだ?と心配になる。
椅子のラベルを一つ一つ剥がすのか?
窓の外に見える看板で字が分かるかも知れないから、
店にお願いして看板を外してもらうのか?
服のワンポイントで綴りが分かるかも知れないから、
そんなシャツを着ることは禁止するのか?
バカバカしいし、そのコストは誰が見るんだ?
自分には(一見)コストがかからないから、
言いたい放題言っているように見える。

何だろう、抗議した人間、抗議する人間、
その抗議を受けて対応する人間など全てが、
目的やその仕事の意義を念頭におかず、
目の前のことしか考えず、行動の影響を想像していない、
または自分に影響ないから無視する、てな思考(というか感情)で
事態を進めているような気がする。

阿呆だ。

# まあ、この記事を元にいろいろ書いている私もバカなんだろうけどね。
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「行動経済学」書感

2010年11月03日 07時37分12秒 | 社会
「行動経済学」(友野典男)読了。
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現在のメインの経済学は、論理的に説明できる部分に範囲を限定し、
数式でガチガチに理論武装し、科学でございと言っているように感じる。

「経済人」の措定も、その一環だろう。
現実には存在しないが、そのような人物像を設定した上で、
論理的に「このようになるはずだ」と結論を導き出す。
このような営みは、複雑な社会関係を抽象化し、
仮説やモデルを作る上では有意義だと思うのだが、
若干独り歩きしている感じもする。
あくまでも前提を設けた仮説であるはずが、
現実がその通りにいかないことを見て
「現実がおかしい」と言ったり、
あるいは「予想が当たらない、経済学は役に立たない」と一足飛びに言われたりする。

「行動経済学」は、このような現在の経済学に対するアンチテーゼなのだと思う。
「人間は経済人ではない」や「選好が固定的でない」点など、
自然と言えば自然だが、
現在の経済学が理論としての純度を高めるために捨象してきた点を拾っているようだ。

若干、「言ったもの勝ち」感はある。
調査結果から「こう考えられる」と説を挙げているようなのだが、
他の結論にも到達できるだろうし、
その説が誤っているか、検証できないケースも多いように見える。
反証可能性がない、だから科学ではない、と言うこともできそう。
もっとも、「科学」に拘って現実から遊離し
理論ゲームに堕している現在の経済学に対するアンチテーゼなのだから、
気にしなくても良い部分かも知れない。

この本は、論点が列挙されており、良いカタログだと思う。
「進化」に対する考え方など、
内容については首を傾げる点が何点かあるのだが、
「行動経済学」が既存の経済学のどのポイントにツッコミを入れているかは把握できる。
各論点の詳細は、ここで紹介されている本を読んだ方が良いだろう。
まあ、新書としての役割は果たしてしていると思う。
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