城郭探訪

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和田支城 Ⅲ 近江国(甲賀)

2015年04月11日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地;甲賀市甲賀町和田小字駒田 (旧甲賀群甲賀町和田小字駒田)                                                                    map:http://yahoo.jp/S-URnUこの地図のURL

現 状::山林

遺 構:単曲輪・土塁・虎口・案内板

区 分:丘陵城

標 高:230m 比高差:20m

築城期:室町期

築城者:和田惟政

目標地:善福寺 

城 主: 和田氏

駐車場:説明板前の空地に駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2015.4.11

お城の概要

和田谷は伊賀国柘植へと通じる街道をにらむように、公方屋敷支城・殿山城が配置され、最も南に和田城が築かれている。

和田支城Ⅲは東西45m×南北50mの曲郭を持ち周囲は(東側を除期)土塁で囲い、2カ所開口部下は腰郭状の小曲郭があり虎口受けに相当。南辺が虎口であったか?

 土塁の外側の尾根続きは人口的な堀切はなく、自然地形のままであるが、本来堀切を設けるべ位置は丘陵鞍部となって、これが堀切の役割果たす。

 規模は大きくなく、縄張り単純で、土塁頂部からは和田谷の東方を見渡す「見張り台」の役割の城郭か。

歴 史

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

和田氏

近江国甲賀郡和田村の有力豪族であった。はじめは六角氏および室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える。

永禄8年(1565年)、義輝が家臣の松永久秀らによって暗殺されると、軟禁されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)を仁木義政とともに一乗院より救い出して一時は自身の屋敷にも匿い、のちに放浪する義昭に付き従っている。越前国の朝倉義景、尾張国の織田信長の援助を得て還俗した義昭が15代将軍に就任すると、信長によって摂津国芥川山城、のちに高槻城を与えられ、足利義昭からは池田勝正、伊丹親興とともに摂津国の守護の1人として任命され「摂津三守護」と称された(『足利季世記』)。

以後、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。特に永禄12年(1569年)10月には、信長に援軍を要請した播磨国の赤松氏の援軍として、備前国の浦上氏攻めに参加している。

その後、惟政は所用で美濃国にいる信長のもとへ向かう途中、信長から蟄居を命じられた報を受け取る。ルイス・フロイスによれば他に「引見の不許可」「惟政が近江に持っていた城の破壊」「収入のうち2万クルザードの没収」という厳しい処分だった。フロイスはこれを朝山日乗が信長に讒言したためと記しているが、同時期に信長と足利義昭の関係が悪化している事が大きな原因と推測されている(惟政は幕臣)。惟政はこれに剃髪して抗議した。

元亀元年(1570年)、惟政は京で越前攻めに向かおうとしている信長に謁見すると、信長はその地位を回復した。フロイスによれば3万クルザードの俸禄を加増されるなど、非常に厚遇されたという。6月28日の姉川の戦いには織田氏方として参加したようである[2]

11月、多方面に敵を抱える形となった信長は将軍・義昭の権威を利用して六角氏と和睦をしているが、この際に、三雲成持・三雲定持宛てに惟政が宛てた書状(福田寺文書)があり、かつて六角氏の影響下で同じ甲賀の土豪であった三雲氏との繋がりから、この六角氏との和睦にも一役買っていたものらしい。

元亀2年(1571年)、松永ら三好三人衆と手を結んだ池田知正を討つため、伊丹氏や茨木氏と共に摂津国白井河原の戦い(茨木川畔)で池田氏家臣の荒木村重に敗れ戦死。多くの貫通銃創・刀傷を受けた上、首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死んだという、壮絶な最期であった。

惟政の没後まもなく、子の惟長は高山友照、右近父子により追放され、まもなく死亡し、和田氏は没落することになる。

 和田城の城主は和田伊賀守惟政と推定される。和田惟政は近江守護佐々木六角の軍奉行を務め、足利義昭を領内に亡命させ、細川藤孝らと共に将軍擁立に尽力した。

 惟政は雄琴城(大津市)、芥川城(大阪府高槻市)となり、キリスト教伝来で有名なフランシスコザビエルを保護し、彼を信長に謁見させた武将として知られている。

和田城を本城として和田支城I・和田支城II・和田支城III・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を配置している。

 

主郭へ

虎口東は土塁なく、切岸状虎口への城道

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、現地説明板、Wikipedia

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近江国 「江戸時代の藩)

2015年04月11日 | 番外編

 近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。

 7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される。

これらは、当時の琵琶湖の呼称をそのまま国名にしたもので、遠い浜名湖を指す遠淡海(遠江国)に対して「近つ」という。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。

江戸時代の藩

近江国の藩の一覧
藩名居城藩主
彦根藩 佐和山城
(1600年~1606年)
彦根城
(1606年~1871年)
井伊家(1600年~1871年、18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石)
膳所藩 膳所城

戸田家(1601年~1616年、3万石)
本多家(1616年~1621年、3万石)
菅沼家(1621年~1634年、3万1千石)
石川家(1634年~1651年、7万石→5万3千石)
本多家(1651年~1671年、7万石)

水口藩 水口城

加藤家(1682年~1695年、2万石)
鳥居家(1695年~1712年、2万石)
加藤家(1712年~1871年、2万5千石)

大溝藩 大溝陣屋

分部家(1619年~1871年、2万石)

仁正寺藩 仁正寺陣屋

市橋家(1620年~1871年、2万石→1万8,000石→1万7,000石)

山上藩 山上陣屋

安藤家(1604年~1695年、1万石)
稲垣家(1698年~1871年、1万3千石)

近江宮川藩 宮川陣屋

堀田家(1698年~1871年、1万石→1万3千石)

三上藩 三上陣屋

遠藤家(1698年~1870年、1万石→1万2千石)

堅田藩 堅田陣屋

堀田家(1698年~1826年、1万石→1万3千石)
下野佐野藩に転封、堅田藩は廃藩

朽木藩 朽木陣屋

朽木稙綱(1636年~1648年、1万石)
朽木家は下野鹿沼藩に転封、朽木藩は廃藩

大森藩 大森陣屋

最上義俊(1622年~1632年、1万石)
嗣子・義智が幼年のため5千石の交代寄合とされ、大森藩は廃藩

近江高島藩  

佐久間安政(1600年~1616年、1万5千石→2万石)
信濃飯山藩に加増転封、近江高島は飯山藩領の飛び地となったが、後に佐久間氏は無嗣改易となり近江高島は天領となった

近江小室藩 小室陣屋

小堀家(1619年~1788年、1万2460石→1万1460石→1万630石)
不正のため改易・廃藩

参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

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和田支城 Ⅱ 近江国(甲賀)

2015年04月11日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町和田小字駒谷 map:http://yahoo.jp/_ejVCs                                                                

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・案内板

区 分:丘陵城

標 高:230m 比高差:30m

築城期:室町時代

築城者:和田惟政

目標地:善福寺 

城 主: 和田氏

駐車場:説明板前の空地に駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2015.4.9

お城の概要

 足利義昭が滞在したとされる公方屋敷から、700~800mほど南へ行くと、和田城を三角形の頂点にして、和田支城Ⅰ・和田城Ⅱ・和田城Ⅲと配置され、それぞれの距離間隔はおおよそ300m程度。

和田支城Ⅱは民家の敷地を通らずに登城できる。

 この城は甲賀特有の単郭で30m四方の主曲輪の外に空堀。
主曲輪西と北側には土塁の高さ5mを図る。
西側尾根と北側尾根には堀切を入れ、更に30~40m北にも2本の堀切を配し、北と西に対する防御意識が高く、東側の和田川を挟んで位置している和田城・和田支城Ⅰと共に中核の防御している。

主郭の南面・東面には土塁は無く、虎口は東側に位置し和田川を前堀の縄張り。

 甲賀地方における城は単郭方形で、山の一部を掘り下げ、あるいは周囲に土塁を巡らしている。
それら施設が城の防御目的というには貧弱なものが多いが、この和田支城Ⅱは尾根から攻め上がる敵を大きな堀切を何本も入れることで、本格的な城である。

虎口主郭の東下の林道の虎口への取り付き

歴 史

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 和田城の城主は和田伊賀守惟政と推定される。和田惟政は近江守護佐々木六角の軍奉行を務め、足利義昭を領内に亡命させ、細川藤孝らと共に将軍擁立に尽力した。

 惟政は雄琴城(大津市)、芥川城(大阪府高槻市)となり、キリスト教伝来で有名なフランシスコザビエルを保護し、彼を信長に謁見させた武将として知られている。

和田城を本城として和田支城I・和田支城II・和田支城III・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を配置している。

北側の堀切北側の堀切

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、現地説明板

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和田支城Ⅰ 近江国(甲賀)

2015年04月10日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町和田小字寺子谷   map:http://yahoo.jp/5qUnHv                                                         

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・案内板

区 分:丘陵城

標 高:230m 比高差:30m

築城期:室町時代

築城者:和田惟政

目標地:善福寺 

城 主: 和田氏

駐車場:説明板前の空地に駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2015.4.9

お城の概要

  和田支城Ⅰは和田城から和田川を挟んで西側の丘に築かれている。谷側に突出した先端部に立地、西から派生する鞍部に堀切を設け、東側を城域としている。

堀切の直上に方形の主郭を構え、南以外に土塁を築き、周囲を急峻な切岸として防御機能を高めている。主郭から一段下がった副郭や帯曲郭・腰曲郭も構え、和田谷の城郭群の中で最も大きく和田城と共に中心的な役割を持っていた。

  主郭は西端にあり、西側と北側に土塁が残り、東側の土塁はやや削られてお稲荷さんを奉っている。主郭部の北東隅部は一段高く帯曲郭となっている。

主郭から西へおりると副曲郭の削平地があり、北東隅部に土塁が残り、その下にもう一段削平地がある。

城の南側に民家が数件あり、その間の道を西へ進むと民家の間の細い路地からお稲荷さんへの参道が延びている。

参道(主郭へ)

歴 史

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

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 築城年代は定かではないが和田氏によって築かれたと云われる。 和田氏は源満政を祖とするとされるが、一説には佐々木六角氏の一族ともされ、後の15代将軍足利義昭を領内に匿った時の当主和田惟政は十八代という。

和田城を本城として和田支城I・和田支城II・和田支城III・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を配置している。

足利義昭を匿った和田惟政は、その功によって芥川城主となり、その後高槻城主となった。惟政死後、子の和田惟長は没落して和田領も取り上げられたが、後に徳川家康に仕え旗本として旧領を回復し治めたという。

 

主郭 東西25m×南北35m

主郭の土塁土塁土塁上から主郭へ

副曲郭  東西50m×南北35m

副曲郭の西の土塁主郭と副曲郭の堀切土塁腰曲郭帯郭 腰曲郭東側の堀切

東側の堀切 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、現地説明板

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瀧川城(五反田城) 近江国(甲賀)

2015年04月10日 | 丘陵城

  虎口の説明板

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町櫟野字五反田 (甲賀郡甲賀町櫟野字五反田) map:http://yahoo.jp/gMI0KE

別 名:五反田城

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・溜池・案内板

区 分:丘陵城

築城期:室町時代

築城者:滝川美作守貞勝

目標地:櫟野(らくや)寺

駐車場:櫟野(らくや)寺駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2014.7.21・2015.4.9

 駐車位置

お城の概要

瀧川城は、甲賀町櫟野のうち、下組集落の南西丘陵先端に所在する。櫟野川寸前まで張り出した丘陵先端部は2つに派生していて、東側が川城、西側に川西城が並んで櫟野川沿岸平野部を見下ろしている。

川城の登城口は東北に張り出した小尾根の下にあり、小尾根の付け根屈曲して主曲郭の虎口は、現在案内板が建つ北東隅に開口している。

  主曲郭は東西46m、南北30m。南に堀残しの土塁、北には盛り上げの土塁に挟まれ東西は土塁は無い。北側土塁は山ノ神を祀るため破壊された中央以外は完存する。外壁は、自然の地形の垂直の切岸。南側土塁の最高所の懐に食い込むように方形の溜池が掘られている。滝川西城にも同塁の掘り込みある。

土塁の背後は大きく堀切られ堀底は広く、その西に帯曲郭Ⅱとなりその北は鋭く落ち込んで、帯曲郭Ⅲとなる。

縄張の基本は、甲賀地方で一般的な単郭方形で、西方に向かい合う滝川西城との一体運用のためであろう腰曲輪Ⅲを配備する。

山続きの南側を堀切で断ち、本来は四方土塁囲みが基本だが?。

 単純な縄張ではあるが、丘一面に築かれているため、切岸・土塁は垂直に近い鋭さを誇り、高度な技術が。

瀧川城と瀧川西城は甲賀市櫟野(らくの)下集落の南西、櫟野川を隔て南の丘陵に東西に並ぶ。

北側土塁は山ノ神を祀るため破壊された中央以外は完存する。

西下のⅢの曲郭(ネットの下へ)

池の前の土塁西側土塁の上が、帯曲郭Ⅱが巡る。

西側土塁の上が、帯曲郭Ⅱが巡る。   

歴 史 

大原荘の東部、櫟野一帯に蟠踞(ばんきょ)した滝川一族の本拠、『近江與地志略』に「瀧川氏居城の跡なりといふ」と見える。

東側の瀧川城が滝川氏の本城と伝わる。

市指定史跡。

一族から出て織田氏の重臣として活躍した滝川一益(かずます)のゆかりの城としても知られる。

織田信長の四天王と称され、特に伊勢平定や関東進出に絶大な貢献をした滝川一益を輩出した滝川氏の本城と伝えられる。

瀧川城は檪野川南岸の丘陵に所在し、滝川一益が一時居城したとも、生誕地であるとも伝えられる。

1570年織田氏の六角氏追討戦で一益の同胞の甲賀武士は瀧川城に籠城し、六角氏に味方した為、瀧川一益が甲賀武士を攻める大将として選ばれ、親族同胞と戦い瀧川城を落城させ甲賀武士団を壊滅させた。

瀧川城は、戦国の世の習いを語り継ぐ悲話の城である。

櫟野寺の前の櫟野川を渡る~約50m先左折南下~橋を渡るとすぐ右手西方の山林に白い案内板が見える。ここが虎口。

滝川氏

 

丸に竪木瓜 (紀氏流/伴氏流?)

 滝川氏は、織田信長に仕えて柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉と並んで四天王の一人に数えられた滝川一益で世にあらわれた。

一益の出た滝川氏は、一説には紀長谷雄の後裔とする紀氏族、伴姓で甲賀武士伴党の一族の末裔とする説が流布している。

 滝川氏系図には諸本ありそれぞれ異同が激しく、一益の父にしても一勝とするもの、資清とするものなどがある。 ただ、系図類を仔細に見ると貞勝・範勝などの人名、池田氏との親戚関係など共通する部分があり、 出自はともかくとして元になる系図あるいは言い伝えがあったようだ。滝川一益の出自は不詳というしかないが、 伴氏の分かれで近江甲賀郡の出身というのが蓋然性が高いように思われる。家紋の巴紋も、甲賀伴氏の流れを感じさせるものだ。

一益の出自を探る

 『古代氏族系譜集成』に収録された近江伴氏系図によれば、伴氏は『伴大納言絵巻』で知られる伴大納言善男の後裔で、 三河伴氏の一族設楽六郎大夫資乗が甲賀郡大原郷へきて大原氏の祖となった。大原氏からは滝氏、櫟野氏、毛枚氏が分かれ、 櫟野氏の後裔に一益の祖父滝川美作守貞勝が出た。貞勝は櫟野に城を築き、その子滝川三郎一勝は新たに滝城に移り 滝川氏を名乗った。その一勝が父の跡を継いで滝城主となったが、永禄三年(1558)、一族の争いから城を追われて甲賀を出奔したという。甲賀を出た一益は、たまたま従兄弟の池田恒興が尾張の織田信長に仕えていたことから、恒興の世話で織田家に仕えるようになった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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長比城(野瀬山城) 近江国(山東)

2015年04月05日 | 戦国山城

  

お城のデータ

所在地:米原市長久寺(旧坂田郡山東町柏原・長久寺、岐阜県関ヶ原町) map:http://yahoo.jp/RJXJ4N

別 名:野瀬山城

築城期:織豊期

築城者:浅井福寿庵惟安、朝倉氏

城 守:守将の堀秀村・家老の樋口直房

廃 城:元亀元年(1571) 

区 分:山城

遺 構:土塁・虎口・櫓台・空堀・竪堀・虎口・城碑

城 域:160m×155m

標 高:390.9m    比高差:200m

駐車場:林道奥の神明神社前空地5~7台

訪城日:2015.4.2

秋庭神社へ秋庭神社

鎌刃城方面

尾根道から、急坂を頂部へ。

城道を整備していた人に出逢う。城道もはっきりせず、急坂を頂部へ。

出丸西曲郭(見張り曲郭)標高300m=山上曲郭への繋ぎ曲郭か?

出丸から東へ走り尾根~城道を副曲郭へ

 

主曲輪の食違い虎口

主郭へ

主郭虎口に(狼煙リレーのドラム管)三角点(標高309.9m

主郭内 

武者走り

長比城の石碑

お城の概要

 長比城は、江濃国境(近江と美濃の国境)近くの中山道(現国道8号線)沿いにある標高(約390m)の山の山頂付近に築かれた山城である。

長久寺の神明神社鳥居をくぐり、神明神社と秋葉神社方面への分かれ道を秋葉神社側にに登る。神明神社方面から登ると、道なき急斜面を登ることになる。

 秋葉神社の北からは、5m程で左へ尾根道をのなるが、神社の横を30~40分ほども登ると虎口を設けた曲輪に出る。
曲輪は東西30m、南北20mほどで周囲を高さ1.5m~2mほどの分厚い土塁を廻らせ、東側に虎口を配し、食違い虎口としているのが印象的だ。

 食違い虎口を抜け、更に登ると山頂の主曲輪に出る。周囲は土塁で固められているが、南側、および北側の土塁は低くあまり明瞭ではない。
主曲輪の南側は山の斜度がきついために防御する必要性がなかったのか。北側の食違い虎口を抜けると北に延びる尾根へと続く。主曲輪の食違い虎口

歴 史

 長比城は須川山砦,大峰砦,干畳敷遺構(別名を田中の城)等と共に中山道沿いにあって、浅井氏の江濃国境(近江と美濃の国境)の防塞ラインの重要拠点として補強改築砦城である。

 元亀元年(1570)4月、織田信長は越前・朝倉氏攻めの軍を起こすと、近江路を経て若狭・国吉城に逗留した後、越前に攻め込んだ。

 織田軍は4月25日には疋壇城手筒山城(天筒山城)を落とし、手筒山城とは峰続きの金ヶ崎城を攻める織田信長に「浅井長政離反」の報せがもたらされた。

 信長は朽木谷の朽木元綱の協力を得て、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。これが世にいわれる「金ヶ崎の退き口」である。

しかし、守将の堀秀村・樋口直房が信長の調略に乗り、戦うことなく呆気なく開城してしまった。

 美濃へ帰国して軍を立て直す信長に対し、浅井長政は江濃国境を固めるために中山道を押さえる長比城、および北国脇往還道を押さえる刈安尾城と上平寺城を改修した。

この時のことが、信長公記に

・・・たけくらべ・かりやす取出の事・・・・

さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ侯。信長公御調略を以つて、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。

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 「たけくらべ」は長比城のことであり、「かりやす」とは刈安尾城、および上平寺城のことである。また、堀とは門根城城主で浅井氏の重臣・堀次郎のこと、また樋口とは堀氏の家老・樋口三郎兵衛直房のことである。

 嶋記録には姉川の戦いの中で、「さるほどに元亀元年春の頃、織田信長、浅井下野守久政、同備前守長政がことにおよびしかば、小谷(小谷城)より箕口おさえとして、野瀬、堀次郎、同家の子樋口三郎兵衛之丞を入れおきけるが、その頃堀若年なりしが、三郎兵衛の所存にて、たちまち心変わりし野瀬の要害へ信長勢を引き入れ、おのが居城鎌の刃(鎌刃城)へ引きしりぞきしかば、刈安をはじめ近辺の城々ことごとく、あけしりぞけり、されば、今井小坊師丸母は堀次郎が伯母なり云々」とある。

 なお、嶋記録に記述されている「箕口」とは美濃口、つまり関ヶ原に通じる今須口のことである。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 

        本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


石割り作業・・・伝統技法

2015年04月05日 | 番外編
 
 


石割り作業
   2009年6月13日 石割り実演見学会より

伝統技法 現代技法
矢穴掘り     所要時間 約1時間

しめ矢を入れる為、石頭とノミで穴を掘ります。矢と同じ幅で、さらに、決められた深さで掘らなければ矢が締まらず石は割れてくれません。

矢穴掘り     所要時間 約10分

セリ矢と呼ばれる道具を入れる穴を、ハンマードリルで約12cm間隔の深さ12cm程で穴を開けます。どの穴も、平行にまっすぐ開けていきます。

矢締め       所要時間 約5分

矢の圧力を利用して15kgの矢ジメで叩いて、締めていきます。石の厚い部分を多めに叩き、薄い部分は割れ目を導く程度に叩きます。

矢締め       所要時間 約5分

この作業は今でも矢の圧力で石を割っていきます。今も昔も力加減で大きく割れ方が左右されます。


    TOTAL所要時間  約 1 時間               TOTAL所要時間  約15分


 ■ 石割り道具の紹介



  ① ノミの種類 ② 矢の種類 ③ ハンマーの種類
    口切り
  中突き
  底突き(仕上げ)
  飛矢
  シメ矢
  セリ矢
  矢ジメ
  石頭(せっとう)
  玄斧(げんのう)

 金沢石材工業組合HP   http://www.ishikumi.com/about.html


須川山城 近江国(山東)

2015年04月04日 | 戦国山城

虎口石垣虎口

お城のデータ

所在地:米原市須川(旧坂田郡山東町須川) map:http://yahoo.jp/GBvu71

区 分:山城

現 状:森林

築城期:織豊期(元亀元年(1570)頃)

築城者:遠藤喜右衛門直経

城 主:遠藤喜右衛門直経

廃 城:元亀元年(1570年)

標高:237m 比高差:100m

遺 構:土塁、空堀、竪堀、堀切、土橋

訪城日:2015.4.2

頂部の石列頂部の土塁

頂部の南側は、江戸期に「旧伊邪冊神社」跡地に落とし積み石垣や石段、燈籠等が残る。

 

お城の概要

 須川集落の北東背後の尾根。標高237mの頂部を中心に100m四方の間に遺構が残る。頂部南側に石垣を残す東西20m、南北14mの郭と東側に一段下がった東西25m、南北30mの東端に弓形の低土塁を有する郭を中心として、西側から北側の斜面に5~6段の帯郭(幅3~7m)が廻っている。

 頂部の南側は、江戸期に伊邪冊神社の境内となり、跡地に落とし積み石垣や石段、燈籠等が残っている。

城の遺構

南西に竪堀状の石積み等が残る。
東側は、谷が北から南に食い込んで急崖(自然の切岸)。、南東部分を堀切で狭め土橋を越えると低土塁の付属した長さ20mの通路となり、背後の尾根に登る山道に繋がる。当城の搦め手と考えられ防御を固めている。

 主郭遺構は不明瞭で石灰岩の露岩も多く削平も甘いように思えるが、東側の一段下がった郭は、土塁、虎口部の石列、堀切、竪堀、長土橋の遺構が観察でき。

 

写真は、頂部の曲郭群~虎口への城道を下りながら・・・・!

土橋土塁街道(西)側に低土塁が20m~30m続く。東側尾根上削平地5m×30m

尾根上の土塁

堀切 堀切 

山上曲郭への城道

檀上曲郭に直径4尺凹地の井戸?

山麓石積城域・・・山麓登城口

採石場林道脇の祠(向かい側が登城口)砂防ダム車駐車位置

歴 史

 江州佐々木南北諸士帳に、坂田郡須川住 浅井随兵 遠藤主膳・遠藤加右衛門とある

 遠藤氏は、鎌倉武士の出身といわれ鎌倉時代に近江に所領を得て、代々須川一帯を治め須川城を居としていたことから、須川山城は詰城。

元亀元年(1570年)には、織田信長の江北侵攻に備えて、浅井氏が江濃国境に設けた南北の防御ラインである長比城(野瀬山城)、須川山砦、千畳敷遺構(田中の城)・大峰砦・上平寺城・刈安尾城の間に位置することから、須川山城もその一翼を担った可能性がある。
6月19日に長比城や上平寺城の守将であった堀秀村とその家老・樋口直房が戦わずして開城した。当城も織田方の掌握下に入ったと思われている。

須川山城(遠景)

須川山城~須川山砦(遠景)県道551号沿いの石碑(遠藤直経のゆかりの地)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia

       今日も訪問ありがとうございました。


須川城 近江国(山東)

2015年04月03日 | 平城

 城跡碑

須川城 

観音堂の南側に土塁

遠藤直経の墓 城主だった遠藤氏のお墓もあり、

お城のデータ

所在地:米原市須川(旧山東町須川) map:http://yahoo.jp/HwOuT9

区 分:平城

遺 構:土塁、城跡碑、遠藤氏の宝塔墓・説明板

現 状:観音堂

築城期:織豊期(元亀元年(1570)頃)

築城者:遠藤主膳・

城 主:遠藤主膳・遠藤喜右衛門直経

目標地:須川集会所・観音堂

駐車場:公民館横に路上駐車

訪城日:2015.4.2

須川集会所 県道551号沿いの石碑(遠藤直経のゆかりの地)

お城の概要

浅井長政の重臣遠藤直経の居城。

須川集会所の横に「観音堂」があり、ここが城跡。

観音堂に向かって左手に説明板があり、池の前に石碑があ。

城主だった遠藤氏のお墓もあり、池は堀跡。

小谷城下の遠藤屋敷址(小谷城・清水谷)

  早くから織田信長の底知れぬ才能を見抜き、永禄11年(1568年)、まだ浅井家と織田家が同盟関係にあった時、近江佐和山城を訪れた信長の接待役を命じられていた直経は信長暗殺計画を長政に進言した。しかし、長政は信義に反するとしてそれを受け入れず直経も主君の命に背くわけにはいかず、結局暗殺計画は未遂に終わる。

遠藤直経の戦場墓碑:元亀元年、遠藤直経は姉川の合戦で岩手城主竹中重治の弟重矩に討たれた。

 歴 史

 江州佐々木南北諸士帳に、坂田郡須川住 浅井随兵 遠藤主膳・遠藤加右衛門とある。

 遠藤氏は、近江小谷城主浅井氏の重臣で須川一帯を領し、小谷にも居館を構えていた。 戦国時代の元亀元年、城主遠藤直経は姉川の合戦で岩手城主竹中重治の弟重矩に討たれた。信長の心胆を寒からしめた豪勇・遠藤喜右衛門直経の居城。

観音堂を含め小字村の内、現集落の大部分を包括する地域であったとされるが、現在は堀池と若干の古い石垣を残す。

 遠藤氏は、鎌倉武士の出身といわれ、鎌倉時代に近江に所領を得て下向したとされている。代々須川山一帯を治め、須川城を居城とした。同じ浅井家家臣の赤尾氏などと同様、浅井氏が京極氏の被官であった頃以来の譜代の家臣である。 小谷城下の清水谷に居館を持つ事を許されており、直経自身は子に居城を任せて館に在番していた。直経は浅井長政の傅役的存在で、長政が幼い頃から相談役を務めてきた。そのため長政からの信頼が厚く、長政が六角氏攻めを決意するに当たり相談をしたのが遠藤直経と浅井玄蕃だった。

朝倉氏と織田氏との関係が悪化すると朝倉との旧縁を重んじるべきか、織田との婚姻関係を重んじるべきかの決断を迫られていた際、直経は織田側につくべきであると強硬に主張した。これには朝倉家当主の朝倉義景の優柔不断な対応に直経が愛想を尽かしていたことに加え、浅井側の重臣として信長と接するうちに信長の内政外交の手腕を高く評価するようになったという事情があった。

また、御鍬山から東一帯の尾根上および南須川山山頂には、遠藤氏構築と思われる須川砦跡が遺されている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia

       今日も訪問、ありがとうございました。


葛川息障明王院 近江国 大津(葛川坊村町)

2015年04月01日 | 探訪「大地の遺産」

住所/〒520-0475 大津市葛川坊村町155       TEL/077-599-2372

 アクセス

★電車/JR湖西線「堅田」駅より、江若バス「坊村」バス停下車 徒歩約4分

 ★車/湖西道路「真野」ICより約30分

駐車場/約40台(無料) 拝観料/無料 拝観時間/9:00~16:30

寺号碑 三宝橋 霊場木札

天台宗。山号は安曇山(あどさん)。本尊は千手観世音菩薩。

近畿三十六不動尊霊場第27番札所、びわ湖百八霊場第18番札所。

859年、円仁和尚の師弟である相応(そうおう)和尚が、厳しい修行の末に生身の不動明王を感得し、その木像を安置したのが始まり。

 

 三宝橋

弁天堂鳥居・本堂・護摩堂

本堂 本堂内部

回峰行(かいほうぎょう)とは独特の行で、100日間、1日30km、夜中に山中などを走るというもので、この厳しい行の道場にふさわしく、寺院は老杉が生い茂る深山におおわれている。

開基(創立者)は相応和尚(そうおうかしょう)である。地名を冠して葛川明王院(かつらがわみょうおういん)と称されることが多く、息障明王院(そくしょうみょうおういん)、葛川息障明王院、葛川寺などとも称される(宗教法人としての名称は「明王院」)。

大津市北郊の深い山中に位置する天台修験の道場である。開基の相応は回峰行(比叡山の山上山下の霊地を巡礼し、数十キロの道のりをひたすら歩く修行)の創始者とされている。

政所表門

相応による草創

『葛川縁起』(鎌倉時代前期成立)や相応の伝記『天台南山無動寺建立和尚伝』(10世紀頃成立)等によれば、明王院は、貞観元年(859年)に相応和尚(831 - 918、建立大師)が開いた修行道場という。相応は天台座主を務めた円仁(慈覚大師)の弟子で、はじめ比叡山東塔の南に位置する無動寺谷に住したが、修行に適した静寂の地を求めて当地に移ったという。

『葛川縁起』の伝える開基伝承は伝説色が濃いものの、大略次の話を伝える。

 相応は葛川の地主神である思古淵神(志古淵神)から修行の場として当地を与えられ、地主神の眷属である浄喜・浄満(常喜・常満とも)という2人の童子の導きで比良山中の三の滝に至り、7日間飲食を断つ厳しい修行を行った。満願の日、相応は三の滝で不動明王を感得(仏などの超人間的なものの存在を感じ取ること)する。放心した相応が三の滝の滝壺に飛び込むと、不動明王と見えたのは桂の古木だった。この霊木から千手観音像を刻み、安置したのが明王院の始まりとする。

なお、上記の浄喜・浄満の末裔とされる葛野(くずの)常喜家・葛野常満家は現在も信徒総代として門前の集落に存在している。

現在、本尊の千手観音像と脇侍の毘沙門天像、不動明王像は相応の時代まではさかのぼらず、平安時代・院政期(12世紀)の作とされる。現存する本堂は江戸時代の建築だが、保存修理工事の結果、平安末期に建立された前身堂の部材が一部転用されていることが判明した。

境内発掘調査の結果等から、平安末期には現状に近い寺観が整っていたと推定される。

『梁塵秘抄』には葛川への参詣道について歌った今様が収められており、平安末期には山林修行地としての葛川が著名だったことがわかる。

年代の確かなものとしては、九条兼実の日記『玉葉』治承5年(1181年)6月18日条に、「今日より法眼が葛川に参籠した」とする記述が初出とされている。

坊村村社

 参考資料:ウィキペディア 明王院 (大津市)


細川城 近江国(大津 志賀)

2015年04月01日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:大津市葛川細川町   map:http://yahoo.jp/1l3q-x

築城期:

築城者:村民

城 主:村民

区 分:丘城

遺 構:石積み・曲輪

目標地:国道365細川バス停・龍松寺

駐車場:国道365号細川休憩所

訪城日:2015.3.31

 

お城の概要

 

 細川城は、朽木谷にあって朽木氏の居城・朽木城や岩神館の西に位置しており、京と小浜を最短で結ぶ朽木街道(別名鯖街道、現国道367号線)を見下ろす丘陵地に築城されている。

 現在では細川城のあった丘陵地一帯を “城之岡” とよばれている。城之岡には龍松寺の背後から山林に入り約5分ほどで着く。

 

 山林の中に石積みされた階段状の削平地(曲輪)があるが、この石垣が細川城当時のもの。

 

川の向かいにも、石積みされた階段状の削平地(曲輪)があるが?

 

 細川城の城域は城之岡一帯(古老の女性に聞き込み、城之岡は聞いたことはあるが、詳しくわからないと)。

 

お城の歴史

 

山門領と朽木氏の領地争いに関連する村の城ではないかと考えられているが、詳細は不明。


城之岡の字名の残る一帯

桝型虎口か?軒瓦(近世?)

川向かいの段状石積

駐車位置

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、大津の城郭・淡海の城   

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!