お城のデータ
所在地:米原市梓河内 (旧坂田郡山東町梓河内)map:http://yahoo.jp/B9VbTz
別 名:八講師砦
区 分:山城
遺 構:曲郭・堀切・堅堀・土塁・城址碑・説明板
築城期:平安末期
改築期:織豊期
築城者:澤田民部大輔
改築者:多賀豊後守高忠
城 主:澤田民部大輔・多賀豊後守高忠
標 高:480m 駐車位置(435m)から比高:約25m、梓河内集落(165m)より比高差300m
城 域 :約300m×50m
訪城日::2015.4.17
駐車場:説明板の前(標高435m)に10台可
お城の概要
八講師城は梓河内地区から稗谷林道を約5.5kmほども登った山間部に位置している。東西に延びる尾根上に曲輪を連ね、東に延びる支尾根上には比高差のある曲輪を階段状に配した典型的な連郭式の山城である。
頂部の曲輪は荒々しい切り出しの土塁が曲輪面積の約半分を占めている上、削平は少なく、自然の巨石が露出。
狼煙台(石碑と狼煙リレーの煙突)。南に梓河内城=猪ノ鼻城(京極氏の隠れ城)を見下ろせる
頂部の曲輪から一段下がった曲輪が主郭、およびもう一段下がった二の曲輪がきれいに削平されている。
頂部の曲輪背後の斜面には小さな堀切があるが、主曲輪、および支尾根曲輪の切岸高さは4~8mほどにもおよび、その規模の違いから、堀切を防御施設として利用していた時代と、後年に改修された時の遺構が重なり合っている。
八講師城が改修された職豊期を考える時、八講師城から東の関ヶ原方面を望むと、約3kmに長比城が一望でき、こうした位置関係からは、八講師城は元亀元年(1570)の姉川に戦いに際して長比城・刈安尾城・上平寺城などと共に浅井・朝倉軍によって改修されたか?、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際して、西軍によって改修されたか?。
国道21号線「梓河内」信号に!
国道21号から梓河内に入り、約50mの所を左折して、林道に入る。
林道に、獣害防止扉を開けて、5kmほど登る。
アスファルトから土道になって、左手の山頂が八講師城です。ここに駐車(10台可)。
歴 史
八講師城は史料にほとんどでてこない城のようですが、ある史料に京極氏の家臣の多賀豊後守高忠が拠り、平安期末に八興師砦を澤田民部大輔の居城とあるようです。<現地案内板より>
多賀豊後守高忠は応仁の乱前後に活躍した京極持清の従兄弟です。浅井氏が織田信長と争った元亀の頃に浅井氏家臣の澤田民部少輔らが横山城を守ったとあり、八講師砦は、澤田民部大輔が佐々木官僚の頃(平安期末)に、居城と改定坂田郡志に記す。
主郭の虎口(石列の上に土塁)、崩れた石
狼煙リレーの煙突
城祉碑
土塁
林道マップ伊吹山駐車位置と八興師城(遠景)
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・現地説明板
本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!