お城のデータ
所在地:米原市長久寺(旧坂田郡山東町柏原・長久寺、岐阜県関ヶ原町) map:http://yahoo.jp/RJXJ4N
別 名:野瀬山城
築城期:織豊期
築城者:浅井福寿庵惟安、朝倉氏
城 守:守将の堀秀村・家老の樋口直房
廃 城:元亀元年(1571)
区 分:山城
遺 構:土塁・虎口・櫓台・空堀・竪堀・虎口・城碑
城 域:160m×155m
標 高:390.9m 比高差:200m
駐車場:林道奥の神明神社前空地5~7台
訪城日:2015.4.2
秋庭神社へ秋庭神社
鎌刃城方面
尾根道から、急坂を頂部へ。
城道を整備していた人に出逢う。城道もはっきりせず、急坂を頂部へ。
出丸西曲郭(見張り曲郭)標高300m=山上曲郭への繋ぎ曲郭か?
出丸から東へ走り尾根~城道を副曲郭へ
主曲輪の食違い虎口
主郭へ
主郭虎口に(狼煙リレーのドラム管)三角点(標高309.9m
主郭内
武者走り
長比城の石碑
お城の概要
長比城は、江濃国境(近江と美濃の国境)近くの中山道(現国道8号線)沿いにある標高(約390m)の山の山頂付近に築かれた山城である。
長久寺の神明神社鳥居をくぐり、神明神社と秋葉神社方面への分かれ道を秋葉神社側にに登る。神明神社方面から登ると、道なき急斜面を登ることになる。
秋葉神社の北からは、5m程で左へ尾根道をのなるが、神社の横を30~40分ほども登ると虎口を設けた曲輪に出る。
曲輪は東西30m、南北20mほどで周囲を高さ1.5m~2mほどの分厚い土塁を廻らせ、東側に虎口を配し、食違い虎口としているのが印象的だ。
食違い虎口を抜け、更に登ると山頂の主曲輪に出る。周囲は土塁で固められているが、南側、および北側の土塁は低くあまり明瞭ではない。
主曲輪の南側は山の斜度がきついために防御する必要性がなかったのか。北側の食違い虎口を抜けると北に延びる尾根へと続く。主曲輪の食違い虎口
歴 史
長比城は須川山砦,大峰砦,干畳敷遺構(別名を田中の城)等と共に中山道沿いにあって、浅井氏の江濃国境(近江と美濃の国境)の防塞ラインの重要拠点として補強改築砦城である。
元亀元年(1570)4月、織田信長は越前・朝倉氏攻めの軍を起こすと、近江路を経て若狭・国吉城に逗留した後、越前に攻め込んだ。
織田軍は4月25日には疋壇城、手筒山城(天筒山城)を落とし、手筒山城とは峰続きの金ヶ崎城を攻める織田信長に「浅井長政離反」の報せがもたらされた。
信長は朽木谷の朽木元綱の協力を得て、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。これが世にいわれる「金ヶ崎の退き口」である。
しかし、守将の堀秀村・樋口直房が信長の調略に乗り、戦うことなく呆気なく開城してしまった。
美濃へ帰国して軍を立て直す信長に対し、浅井長政は江濃国境を固めるために中山道を押さえる長比城、および北国脇往還道を押さえる刈安尾城と上平寺城を改修した。
この時のことが、信長公記に
・・・たけくらべ・かりやす取出の事・・・・
さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ侯。信長公御調略を以つて、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
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「たけくらべ」は長比城のことであり、「かりやす」とは刈安尾城、および上平寺城のことである。また、堀とは門根城城主で浅井氏の重臣・堀次郎のこと、また樋口とは堀氏の家老・樋口三郎兵衛直房のことである。
嶋記録には姉川の戦いの中で、「さるほどに元亀元年春の頃、織田信長、浅井下野守久政、同備前守長政がことにおよびしかば、小谷(小谷城)より箕口おさえとして、野瀬、堀次郎、同家の子樋口三郎兵衛之丞を入れおきけるが、その頃堀若年なりしが、三郎兵衛の所存にて、たちまち心変わりし野瀬の要害へ信長勢を引き入れ、おのが居城鎌の刃(鎌刃城)へ引きしりぞきしかば、刈安をはじめ近辺の城々ことごとく、あけしりぞけり、されば、今井小坊師丸母は堀次郎が伯母なり云々」とある。
なお、嶋記録に記述されている「箕口」とは美濃口、つまり関ヶ原に通じる今須口のことである。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系
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