城郭探訪

yamaziro

殿山城 近江国(甲賀)

2015年04月11日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(甲賀郡)甲賀町和田小字門田   map:http://yahoo.jp/yIqRQE 

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・

区 分:丘陵城

標 高:230m 比高差:20m

築城期:平安期

築城者:和田満政

目標地:和田老人いこい家・グランド

城 主: 和田氏

駐車場:和田老人いこい家・グランドの駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2015.4.11

お城の概要

 殿山城は、和田谷の北端西側、北西に延びる尾根先端部が城域となっている。

伊賀の豪族居館によく見られる様式と同様の単曲郭縄張りで、尾根を堀切り遮断。切込土塁でハの字状に囲んだ単郭の城だ。 

背後の土塁は5mを図り、見張り台の役割を担っている。尾根からの横堀切から10mを測る。

 和田川を挟んで真西にある公方屋敷支城と共に、谷の進入路を守る最初の城だ。、甲賀町南部の中央付近に位置する和田谷の北入口の東側丘陵上に築かれている。現在、忠魂碑が建てられ展望台となっている通称「殿山」の山頂から北西に伸びる尾根の先端部を城域としている。

 遺構は、東側の尾根続きを高低差の大きい鋭い堀切で遮断し、尾根先端方向にハの字状に土塁を残し、その内側を30m四方の郭に削り出した小規模な城郭である。この城は杣川の谷筋を見通すことができる立地と小さな規模から監視所的な城郭であったと考えられている。
小規模な城ではあるが、背後の堀切はそれに似つかわしくないほど見事な遺構である

 

お城の歴史

 

築城年代は定かではないが平安時代に和田満政によって築かれたと云われる。

 

寿永3年・元暦元年(1184年)伊勢平氏平田四郎が兵を挙げて近江国へ侵入すると、 近江源氏の佐々木秀義がこれを迎え撃つために列血野に陣を布き、 平田四郎は殿山に陣を布き油日川を挟んで合戦となった。

 

・・・・・信長公記・・・・

 

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

 

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尾根を遮断、深い堀切(横堀)

 土塁 城道土塁頂部西側は土塁ない油日方面  堀切の南側・・・城道か?階段から、竪掘りが一状

尾根上部にも浅い横堀が

 

 

 現在頂部には階段で、「忠の碑」や「展望台」が建てられ桜やて公園化さている。 山頂部展望台一帯も城域、

 

更に、林道を進むと公方屋敷の背後のへ

公方屋敷へ 

殿山城遠景・・・南から

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、現地説明板、Wikipedia

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和田支城 Ⅲ 近江国(甲賀)

2015年04月11日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地;甲賀市甲賀町和田小字駒田 (旧甲賀群甲賀町和田小字駒田)                                                                    map:http://yahoo.jp/S-URnUこの地図のURL

現 状::山林

遺 構:単曲輪・土塁・虎口・案内板

区 分:丘陵城

標 高:230m 比高差:20m

築城期:室町期

築城者:和田惟政

目標地:善福寺 

城 主: 和田氏

駐車場:説明板前の空地に駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2015.4.11

お城の概要

和田谷は伊賀国柘植へと通じる街道をにらむように、公方屋敷支城・殿山城が配置され、最も南に和田城が築かれている。

和田支城Ⅲは東西45m×南北50mの曲郭を持ち周囲は(東側を除期)土塁で囲い、2カ所開口部下は腰郭状の小曲郭があり虎口受けに相当。南辺が虎口であったか?

 土塁の外側の尾根続きは人口的な堀切はなく、自然地形のままであるが、本来堀切を設けるべ位置は丘陵鞍部となって、これが堀切の役割果たす。

 規模は大きくなく、縄張り単純で、土塁頂部からは和田谷の東方を見渡す「見張り台」の役割の城郭か。

歴 史

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

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和田氏

近江国甲賀郡和田村の有力豪族であった。はじめは六角氏および室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える。

永禄8年(1565年)、義輝が家臣の松永久秀らによって暗殺されると、軟禁されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)を仁木義政とともに一乗院より救い出して一時は自身の屋敷にも匿い、のちに放浪する義昭に付き従っている。越前国の朝倉義景、尾張国の織田信長の援助を得て還俗した義昭が15代将軍に就任すると、信長によって摂津国芥川山城、のちに高槻城を与えられ、足利義昭からは池田勝正、伊丹親興とともに摂津国の守護の1人として任命され「摂津三守護」と称された(『足利季世記』)。

以後、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。特に永禄12年(1569年)10月には、信長に援軍を要請した播磨国の赤松氏の援軍として、備前国の浦上氏攻めに参加している。

その後、惟政は所用で美濃国にいる信長のもとへ向かう途中、信長から蟄居を命じられた報を受け取る。ルイス・フロイスによれば他に「引見の不許可」「惟政が近江に持っていた城の破壊」「収入のうち2万クルザードの没収」という厳しい処分だった。フロイスはこれを朝山日乗が信長に讒言したためと記しているが、同時期に信長と足利義昭の関係が悪化している事が大きな原因と推測されている(惟政は幕臣)。惟政はこれに剃髪して抗議した。

元亀元年(1570年)、惟政は京で越前攻めに向かおうとしている信長に謁見すると、信長はその地位を回復した。フロイスによれば3万クルザードの俸禄を加増されるなど、非常に厚遇されたという。6月28日の姉川の戦いには織田氏方として参加したようである[2]

11月、多方面に敵を抱える形となった信長は将軍・義昭の権威を利用して六角氏と和睦をしているが、この際に、三雲成持・三雲定持宛てに惟政が宛てた書状(福田寺文書)があり、かつて六角氏の影響下で同じ甲賀の土豪であった三雲氏との繋がりから、この六角氏との和睦にも一役買っていたものらしい。

元亀2年(1571年)、松永ら三好三人衆と手を結んだ池田知正を討つため、伊丹氏や茨木氏と共に摂津国白井河原の戦い(茨木川畔)で池田氏家臣の荒木村重に敗れ戦死。多くの貫通銃創・刀傷を受けた上、首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死んだという、壮絶な最期であった。

惟政の没後まもなく、子の惟長は高山友照、右近父子により追放され、まもなく死亡し、和田氏は没落することになる。

 和田城の城主は和田伊賀守惟政と推定される。和田惟政は近江守護佐々木六角の軍奉行を務め、足利義昭を領内に亡命させ、細川藤孝らと共に将軍擁立に尽力した。

 惟政は雄琴城(大津市)、芥川城(大阪府高槻市)となり、キリスト教伝来で有名なフランシスコザビエルを保護し、彼を信長に謁見させた武将として知られている。

和田城を本城として和田支城I・和田支城II・和田支城III・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を配置している。

 

主郭へ

虎口東は土塁なく、切岸状虎口への城道

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、現地説明板、Wikipedia

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近江国 「江戸時代の藩)

2015年04月11日 | 番外編

 近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。

 7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される。

これらは、当時の琵琶湖の呼称をそのまま国名にしたもので、遠い浜名湖を指す遠淡海(遠江国)に対して「近つ」という。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。

江戸時代の藩

近江国の藩の一覧
藩名居城藩主
彦根藩 佐和山城
(1600年~1606年)
彦根城
(1606年~1871年)
井伊家(1600年~1871年、18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石)
膳所藩 膳所城

戸田家(1601年~1616年、3万石)
本多家(1616年~1621年、3万石)
菅沼家(1621年~1634年、3万1千石)
石川家(1634年~1651年、7万石→5万3千石)
本多家(1651年~1671年、7万石)

水口藩 水口城

加藤家(1682年~1695年、2万石)
鳥居家(1695年~1712年、2万石)
加藤家(1712年~1871年、2万5千石)

大溝藩 大溝陣屋

分部家(1619年~1871年、2万石)

仁正寺藩 仁正寺陣屋

市橋家(1620年~1871年、2万石→1万8,000石→1万7,000石)

山上藩 山上陣屋

安藤家(1604年~1695年、1万石)
稲垣家(1698年~1871年、1万3千石)

近江宮川藩 宮川陣屋

堀田家(1698年~1871年、1万石→1万3千石)

三上藩 三上陣屋

遠藤家(1698年~1870年、1万石→1万2千石)

堅田藩 堅田陣屋

堀田家(1698年~1826年、1万石→1万3千石)
下野佐野藩に転封、堅田藩は廃藩

朽木藩 朽木陣屋

朽木稙綱(1636年~1648年、1万石)
朽木家は下野鹿沼藩に転封、朽木藩は廃藩

大森藩 大森陣屋

最上義俊(1622年~1632年、1万石)
嗣子・義智が幼年のため5千石の交代寄合とされ、大森藩は廃藩

近江高島藩  

佐久間安政(1600年~1616年、1万5千石→2万石)
信濃飯山藩に加増転封、近江高島は飯山藩領の飛び地となったが、後に佐久間氏は無嗣改易となり近江高島は天領となった

近江小室藩 小室陣屋

小堀家(1619年~1788年、1万2460石→1万1460石→1万630石)
不正のため改易・廃藩

参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

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和田支城 Ⅱ 近江国(甲賀)

2015年04月11日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町和田小字駒谷 map:http://yahoo.jp/_ejVCs                                                                

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・案内板

区 分:丘陵城

標 高:230m 比高差:30m

築城期:室町時代

築城者:和田惟政

目標地:善福寺 

城 主: 和田氏

駐車場:説明板前の空地に駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2015.4.9

お城の概要

 足利義昭が滞在したとされる公方屋敷から、700~800mほど南へ行くと、和田城を三角形の頂点にして、和田支城Ⅰ・和田城Ⅱ・和田城Ⅲと配置され、それぞれの距離間隔はおおよそ300m程度。

和田支城Ⅱは民家の敷地を通らずに登城できる。

 この城は甲賀特有の単郭で30m四方の主曲輪の外に空堀。
主曲輪西と北側には土塁の高さ5mを図る。
西側尾根と北側尾根には堀切を入れ、更に30~40m北にも2本の堀切を配し、北と西に対する防御意識が高く、東側の和田川を挟んで位置している和田城・和田支城Ⅰと共に中核の防御している。

主郭の南面・東面には土塁は無く、虎口は東側に位置し和田川を前堀の縄張り。

 甲賀地方における城は単郭方形で、山の一部を掘り下げ、あるいは周囲に土塁を巡らしている。
それら施設が城の防御目的というには貧弱なものが多いが、この和田支城Ⅱは尾根から攻め上がる敵を大きな堀切を何本も入れることで、本格的な城である。

虎口主郭の東下の林道の虎口への取り付き

歴 史

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

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 和田城の城主は和田伊賀守惟政と推定される。和田惟政は近江守護佐々木六角の軍奉行を務め、足利義昭を領内に亡命させ、細川藤孝らと共に将軍擁立に尽力した。

 惟政は雄琴城(大津市)、芥川城(大阪府高槻市)となり、キリスト教伝来で有名なフランシスコザビエルを保護し、彼を信長に謁見させた武将として知られている。

和田城を本城として和田支城I・和田支城II・和田支城III・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を配置している。

北側の堀切北側の堀切

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、現地説明板

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