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城郭探訪

yamaziro

鞍掛神社遺構(衣川城の一部か?) 近江国(大津)

2015年04月30日 | 丘陵城
衣川城の近くに、鞍掛神社に城郭遺構『衣川城の一部か?』

お城のデータ

所在地:大津市衣川町2丁目  map:http://yahoo.jp/R3Wbhv

区 分:丘陵城

築城期:鎌倉期・文暦元年(1234

築城者:山内義重

城 主:山内駿河守宗綱

遺 構:説明板

訪城日:2015.4.30

駐車場:路上駐車

歴 史  

築城年代は鎌倉期に、山内義重によって築かれたと云われる。 文暦元年(1234年)正月の『粟津の合戦』で功を挙げた義重が衣川を領して築城したのが始まりと云われる。

十一代の山内駿河守宗綱は戦国期・永正5年(1508年)~永正8年(1511年)にかけて浅井公政・京極高清とともに朝倉貞景・村上山城守・細川高国・河野通直・大内義興らと戦い勝利をおさめたが、大永6年(1526年)に細川高国の奇襲によって衣川城は落城、重清らは辛うじて城を脱し伊予国宇摩郡近井郷鏑先村に逃れて土着したという。

 日本城郭大系では山内駿河守宗綱の居城で、朝倉勢と戦ったと紹介されいる。比叡山も近い場所で、織田信長の時代に多少は関係したのか。

 
 大津市衣川2丁目の衣川住宅地北側にある鞍掛神社の祭神は天智天皇の第1皇子である大友皇子。のち明治になって弘文天皇と追称された壬申の乱悲劇の人である。
 
 壬申の乱の時、皇子は瀬田橋の戦いで敗れると、「山前」で自殺をするのではなく、社伝によると実は衣川のこの地にいた本田家の屋敷まで中村姓の侍臣とともに馬を馳せて落ちのびて来た。そこには三尾城落城の知らせが待っており、皇子は馬鞍を下ろして庭前の柳の老樹の枝に掛け、その場で自刃したという。
 付き添ってきた侍臣たちは、この地で帰農し、子孫が代々にわたって皇子の神霊を祭ってきた。神社が建てられたのは堅田の浮御堂より前の元慶6年(882)で、惟喬親王の子兼覧王が大友皇子を哀れみて立派な本殿を建立し、保元元年(1156)に源義朝が同社殿で武運長久を祈願。のちに義朝の子、頼朝が文治元年(1185)、社殿を改修したと伝えられている。

 この鞍掛神社の例祭は毎年、7月23日だったが、勤め人が多くなったため、近年は祝日「海の日」(今年は7月20日)に営まれている。
 
氏子は中村姓の「八人の侍」だけ。祭りには衣川の自治会も参加しているものの、神社の維持は1300年の昔から中村一族で守り継がれてきた。
 その侍臣魂に驚かされた。明治維新まで腰に刀をさして例祭に参列していたという侍臣の子孫ら。中村貫二氏ほか、平三郎、英男、吉三、清、昭作、うた、五栄各氏8軒の中村家は裃姿に正して近江神宮神職の祝詞を受け、永遠の弘文天皇への忠誠を誓うのだった。
 
神社土塁と天神川の間に、曲郭区割りが残る ・・・中村姓の「八人の侍」曲郭跡か?

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝


衣川城 近江国(堅田)

2015年04月30日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:大津市衣川町2丁目30

 map:http://yahoo.jp/R3Wbhvこの地図のURL

区 分:丘陵城

築城期:鎌倉期・文暦元年(1234

築城者:山内義重

城 主:山内駿河守宗綱

落 城:戦国期・大永6年(1526年)

遺 構:城址碑・説明板

訪城日:2015.4.30

駐車場:路上駐車

お城の概要

 衣川城は琵琶湖に注ぐ天神川の南側にある丘陵に築かれていた。 現在は衣川台の団地の北東部にある「北公園」に石碑と案内板が建っている。

公園は斜面状の中央部に1m程の段差がある、曲郭をそのまま利用したもの。下の曲郭に土塁状の高まりがある。また、琵琶湖側に住宅があり見晴しはきかないが、下の道路に出ると三上山まで見え、往時は西近江路を監視できる丘陵城である。

 衣川地域には城の口や開城道などの地名が残り、昭和43年滋賀県教育委員会の調査によって城跡の一部(溝跡、建物跡など)が確認され、壺等多数の遺物が出土した(『現地説明板)

歴 史  

築城年代は鎌倉期に、山内義重によって築かれたと云われる。 文暦元年(1234年)正月の『粟津の合戦』で功を挙げた義重が衣川を領して築城したのが始まりと云われる。

十一代の山内駿河守宗綱は戦国期・永正5年(1508年)~永正8年(1511年)にかけて浅井公政・京極高清とともに朝倉貞景・村上山城守・細川高国・河野通直・大内義興らと戦い勝利をおさめたが、大永6年(1526年)に細川高国の奇襲によって衣川城は落城、重清らは辛うじて城を脱し伊予国宇摩郡近井郷鏑先村に逃れて土着したという。

 日本城郭大系では山内駿河守宗綱の居城で、朝倉勢と戦ったと紹介されいる。比叡山も近い場所で、織田信長の時代に多少は関係したのか。

無心庵
 
近くに、鞍掛神社
 大津市衣川2丁目の衣川住宅地北側にある鞍掛神社の祭神は天智天皇の第1皇子である大友皇子。のち明治になって弘文天皇と追称された壬申の乱悲劇の人である。
 
 壬申の乱の時、皇子は瀬田橋の戦いで敗れると、「山前」で自殺をするのではなく、社伝によると実は衣川のこの地にいた本田家の屋敷まで中村姓の侍臣とともに馬を馳せて落ちのびて来た。そこには三尾城落城の知らせが待っており、皇子は馬鞍を下ろして庭前の柳の老樹の枝に掛け、その場で自刃したという。
 付き添ってきた侍臣たちは、この地で帰農し、子孫が代々にわたって皇子の神霊を祭ってきた。神社が建てられたのは堅田の浮御堂より前の元慶6年(882)で、惟喬親王の子兼覧王が大友皇子を哀れみて立派な本殿を建立し、保元元年(1156)に源義朝が同社殿で武運長久を祈願。のちに義朝の子、頼朝が文治元年(1185)、社殿を改修したと伝えられている。

 この鞍掛神社の例祭は毎年、7月23日だったが、勤め人が多くなったため、近年は祝日「海の日」(今年は7月20日)に営まれている。
 
氏子は中村姓の「八人の侍」だけ。祭りには衣川の自治会も参加しているものの、神社の維持は1300年の昔から中村一族で守り継がれてきた。
 その侍臣魂に驚かされた。明治維新まで腰に刀をさして例祭に参列していたという侍臣の子孫ら。中村貫二氏ほか、平三郎、英男、吉三、清、昭作、うた、五栄各氏8軒の中村家は裃姿に正して近江神宮神職の祝詞を受け、永遠の弘文天皇への忠誠を誓うのだった。
 
神社土塁と天神川の間に、曲郭区割りが残る ・・・中村姓の「八人の侍」曲郭跡か?

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!


山中城 近江国(大津)

2015年04月30日 | 戦国山城



お城のデータ

所在地:大津市山中町       map:http://yahoo.jp/bDtWGC

区 分:山城

現 状:山林

築城期:織豊期

築城者:磯谷氏

遺 構:郭・土塁・竪堀

標 高:377m 比高:87m(元・山中保育所290m) 

目標地:元・山中保育所

駐車場:元・山中保育所

訪城日::2015.4.30

 京側山中バス停

集落内へ

極楽寺

お城の概要

 登り道は保育園のグランドから尾根状を直登し、保育園は背後のピークにまず登り、尾根上を東南に進んで、最後は急坂を30mほどよじ登ったところの山頂が城跡でした。

 山中町には、節(武士)ヶ谷、陣ヶ谷、陣見山、奥ノ城、口ノ城と云った地名があったようで、奥ノ城は山中越沿いの比叡平の京都側(山中町)辺りとされ、まさに山中城跡はそこに位置している。

 城跡の遺構は、不明瞭で薄いものが僅かに残る程度で、縄張りも不明瞭で詰め城・砦。

山頂部は十分な削平でなく不明瞭。その山頂部から南に緩やかに下る尾根筋に二ヶ所の三日月状土塁が築かれた郭を形成している。喰い違い状の虎口を伴っている。東に伸びる支尾根には浅く薄い堀切が入っている。下段の郭から南西へ鞍部を経て小ピーク、その南側に土橋を伴う堀切が微かに残る。

頂部から南尾根へ自然の地形をそのままに、平坦とは言えない郭(街道からは、見えない武者溜りか)。やや下がった郭は土塁が三日月状の城郭遺構の痕跡。

帰りは城道を、プールまで下りてきました。

元・保育園グランドこの階段かえあ元・山中保育園・自治会館。この保育園のグランドに入る、グランド沿いに山へ小道があり、左手に登ります。支尾根に挟まれた平坦地に出ます。上下二段になっていて、中央にスロープ状の道もあり、また、滋賀県の史跡標柱が建ってます。

山中城の居館?寺跡・神社跡?

右手から尾根へ登る。城道か?尾根を登って行きます。街道側に身隠し土塁・銃座(射て座)の空堀が頂部下まで続く、山中に虎口のような箇所があり、ここから右手方向の尾根へ登って行きます。

城道の武者止め!

急坂を登りつめると頂部城跡。

頂部の郭と土塁

山頂から南尾根へ平坦とは言えない郭があります。やや下がった郭は土塁が三日月状になんとか確認できる、城郭遺構 

歴 史

 山中城は、京都と大津を結ぶ重要なルートの一つである山中越の中間に位置する志賀郡山中村を領した磯谷氏の居城。

 磯谷氏のなかで久次新右衛門尉と彦四郎父子に関する記録が比較的よく残っているようである。久次の二人の娘は、織田信長の目附に就く道家尾張守と、禁裏御倉職を務める立入城主(近江国・守山)立入宗継へ嫁している。久次は、その関係から身分は幕臣ながら禁中・公家との繁がりも強かったようで、永禄7年(1564)10月尾張清州へ、さらに同10年(1567)11月岐阜城へ、正親町天皇の勅使として宗継とともに下向し、信長と対面する重責をはたしている。

 元亀元年(1570)9月23日信長は、久次に湖西を南下し比叡山に陣を張る浅井・朝倉軍の進路を阻むため、山中越の京都・山中間の封鎖を命じている。また、同2年11月15日久次の息子千代寿が元服して彦四郎と称するが、鳥帽子親は明智光秀の与力山岡景佐(瀬田城主山岡景隆の弟)で命名者は光秀とされ、当初、久次は信長に従っていたことが窺える。

しかし、元亀4年(1574)2月信長との不和が決定的となった将軍足利義昭の檄により、石山・堅田両城で反信長の挙兵がなされた。信長から離反した久次は、堅田城に立て籠もったが、同月29日光秀らに攻められて敗退。同年7月義昭が再び挙兵し、久次も京都の一乗寺に籠り信長軍と交戦するが再び敗れ、紀伊山中へ逃亡中吉野で土民に殺され、首級は信長のもとに持参された。

 久次の息子彦四郎は、信長没後の天正11年(1583)6月羽柴秀吉から山中の旧領を返され、7月には山中越普請の奉行に任じられている。

 帰りは城道を、プールまで下りてきました。

プール

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!


源満仲(みつなか)館  近江国(大津)

2015年04月30日 | 居館

お城のデータ

所在地:大津市仰木町4-2-50 map:http://yahoo.jp/IFjb-2

区 分:居館

居 館:紫雲山来迎院満慶寺(現・真迎寺)

築城期:平安期

築城者:源満仲

遺 構:「多田満仲公頌徳碑」。遺構はない。

目標地:仰木太鼓館(滋賀県大津市仰木4丁目2−50)

城 主:源満仲(多田満仲)

訪城日:2015.4.30

駐車場:仰木太鼓会館

仰木太鼓会館

 

お城の概要

源満仲館は仰木小学校の西側にある「御所の山」と呼ばれる丘陵にき築かれていた。

現在は公園となって「多田満仲公頌徳碑」などが建てられているだけで遺構などはない。

歴 史

平安時代中期に活躍した源満仲(多田満仲)の館と伝えられる。

満仲は天禄2年(971年)に摂津国多田から仰木に来住し、十年余りを過ごしたという。

満仲は比叡山横川の恵心僧都に帰依して満慶と号し、居館を紫雲山来迎院満慶寺と称して善政を敷いたという。

居館:紫雲山来迎院満慶寺

(滋賀県大津市仰木2丁目7-10)http://yahoo.jp/hnkvc0

 日本浄土教の始祖である恵心僧都によって開基されました。本尊は恵心僧都の御作と伝えられている阿弥陀如来です。

 北東にある「御所の山」は、多田源氏の源満仲が天禄2年(971)に摂津多田から来往して10余年間に亘り、居館を構えた跡とされ、満仲の遺跡を示す石碑が今も残されています。満仲は恵心僧都と信仰が深く、僧都を戒師として出家し、法名を満慶と号し、居館を紫雲山来迎院満慶寺と称したと伝えられています。
 寺域内には、満仲の念持仏とされる薬師如来をお祀りしている薬師堂や「横川のお大師さん」に対して「辻のお大師さん」とか「仰木のお大師さん」と呼ばれている元三大師堂があります。
 又、飛地境内には、国の重要文化財に指定されている延命地蔵をお祀りしている地蔵堂があり、毎年、自治会の協力のもと、地蔵盆法要が奉修されています。

元三大師堂バス停前

満仲の生涯

当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王と清和天皇の皇孫源蕃基がそれぞれ主犯と共犯であったという。

左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる。同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出たが、満仲のみ病による辞退を許された。

安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。

藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという。また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない。

二度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成した。

また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」とは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。

翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間となる。長徳3年(997年)8月27日に卒去。遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!