城郭探訪

yamaziro

草津宿本陣    近江国(草津)

2014年09月19日 | 陣屋

草津宿本陣<昭和24年7月31日 国史跡に指定>

お城のデータ 

所在地:草津市草津1丁目2   maphttp://yahoo.jp/JFZdrG

現 状:草津宿本陣

区 分:本陣

築城期:江戸期

築城者:徳川幕府

遺 構:草津宿本陣 

目標地:草津宿本陣

駐車場:草津宿本陣駐車場

訪城日:2014.9.18

 

草津市は、日本で唯一江戸時代の主要な5街道(日光・奥州・甲州・中山道・東海道)の内の東海道と中山道の分岐合流点にある重要な宿場であり、大勢の人々や物が行き交う賑わいを見せていました。

 この草津宿本陣は田中七左衛門の本陣で寛永12年(1635年)から明治3年(1870年)までの間幕府の公用の役人、大名、宮家、門跡、公卿、高僧などの休泊施設でした

 宿帳には元禄12年(1699年)7月4日に浅野内匠頭が7月14日には吉良上野介が宿泊、慶応元年(1865年)には新選組の土方歳三など総勢32名が、文久元年(1861年)には14代将軍徳川家茂に嫁ぐことになった皇女和宮さまが、江戸へ向かう途次、御昼休をとられたほか、ドイツの博学者シーボルトが宿泊した記録が残っています。


JR草津駅東口より徒歩約10分

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


高嶺山城 近江国(甲賀・高嶺)

2014年09月18日 | 戦国山城

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲賀町高嶺小字杉ノ後 (甲賀郡甲賀町高嶺小字杉ノ後)   maphttp://yahoo.jp/IBHxBd

区 分:平山城

築城期:室町期・豊織期

築城者:高嶺氏(鷹峰氏)

遺 構:曲輪 ・土塁・空堀

標 高:250m  比高差:20m 

目標地:福明寺・高嶺公民館

駐車場:福明寺下空地駐車場

訪城日:2014.9.17

お城の概要

高嶺山城は、集落南方にある丘陵の中で最も高い権六山(標高268m)に築かれている。集落からは離れており、東西の谷を隔て南に位置する伊賀見城や高嶺南城とともに、国境の防備を意図して築城されたと考えられている。

  山頂部を削り込み方形に造成された主郭は30m×25mで、削り残した南西面を除く三方は土塁に加工されてている。南東面土塁の南端部は、南に突出し巾が広くなっており、櫓台または見張り台のように思われる。また、主郭から四方に派生する五本の尾根には、堀切が設けられている。南東の隅から南東と南西に伸びる尾根は二重の堀切になっている。

なお、虎口や城道の痕跡は確認できない。

歴 史 

・・・・高嶺山城・・・・
甲賀郡志の高峰城趾の項に、「大字高嶺の東方字権六山に在り。甲賀武士高峰蔵人子孫世々の居城とされ、天正年間(1573~92)に同氏の衰亡とともに廃城となりし。」と記されている。この「高峰城」が「高嶺山城」のことである。

全体として高嶺地区の城郭遺構は手入れがなされないが、此処は主曲郭や土塁は明確である。

福明寺

南端のふれあい公園から、登城した。

主郭へは、獣害柵をゴルフ場へ

しばし、ゴルフを観戦、主郭へ西緩い斜面を直登した

主郭は30m×25mで、削り残した南西面を除く三方は土塁に加工されてている。

急勾配を野獣柵に直下した

城址は、ゴルフ場整備に重機で開削が激しいが幸い【主郭や土塁は残存している】

西尾根の堀切

下屋敷?家臣屋敷?下屋敷?家臣屋敷?

駐車した福明寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 

 


探訪【近江水の宝】天井川の里をゆく—大沙川隧道と横田渡—

2014年09月15日 | 探訪「近江水の宝」



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◆日時:平成26年9月13日(土)
 A班13:30〜16:10頃
 B班14:00〜16:40頃

◆集合:JR三雲駅
 A班13:30 B班14:00

◆距離:約8km(ほぼ平坦なコース・一部坂あり)

◆持物:健康保険証(コピー推奨)、水筒、ウォーキングできる服装等(暑さ対策を万全にお願いします)

◆行程:三雲駅 → 横田渡常夜灯(水口側)→ 横田渡常夜灯(三雲側)→ 天保義民碑 → 大沙川隧道・弘法杉 → 夏見立場跡・一里塚跡 → 由良谷川隧道 → 甲西駅

◆定員:80名
(A1班20名・A2班20名、B1班20名・B2班20名)

◆費用:50円(ガイド料)

 天保検地

 ご褒美!

ガイドさん。ありがとうございました! 

本日の歩行数 18,928歩

歩行距離    14.1km

実歩行時間  2:59:45

消費カロリー 577.3kcal

脂肪燃焼量  82.4g

  本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


高木陣屋  近江国(甲西)

2014年09月15日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:湖南市(旧甲賀郡甲西町)平松    map:http://yahoo.jp/sgduar

現 状: 宅地

遺 構::曲輪跡・J

区 分:陣屋

築城期:江戸 期

築城者:

城 主 

目標地:平松公民館

駐車場:平松公民館無料駐車場

訪城日:2014.9.13

高木陣屋(個人宅) 裏門

お城の概要

旧東海道に面した、高木陣屋跡、今は個人宅だが周囲と違い関門に石垣塀(近年の造作)、また裏門にも石門が。

旧東海道

天然記念物美松(うつくしまつ)自生地・・・平松公民館敷地内平松公民館

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、

         本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


宮嶋城  近江国(甲西)

2014年09月14日 | 平城

お城のデータ

所在地:湖南市平松小字里屋敷    (旧甲賀郡甲西町平松小字里屋敷)    map:http://yahoo.jp/LXqvH6

現 状: 宅地

遺 構::曲輪跡・移築門http://yahoo.jp/pMxOxJ

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:宮嶋掃部介

城 主 宮嶋掃部介

目標地:平松公民館

駐車場:平松公民館無料駐車場

訪城日:2014.9.13

旧宮嶋家の移築門(国道1号線沿い「料亭スエヒロ」に)が完存しているhttp://yahoo.jp/pMxOxJ

お城の概要

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「甲賀郡甲西町平松」、創建者は「宮嶋氏」、区分は「平城」。

城の歴史は「宮嶋城は、甲西町大字平松小字里屋敷にあり、現在、遺構らしきものはない。

しかし、旧宮家嶋の門が完存(移築)している。

歴 史

宮嶋氏は、大伴姓で、九代大伴善平は平松太郎と号し、甲賀太郎と称した。大原氏、上野氏など三河から甲賀に移住した富永一党はこの大伴姓宮嶋氏をたより、甲賀へ移った。

宮嶋氏は、頼男、善頼、善平、武清と代々続き、寛正-応仁年間(一四六〇-六九)、中務尉、兵庫允は、大慈院領の下司となる。

甲賀武士らとともに行動し、甲賀五十三家に数えられ、甲賀二十一家にも数えられたこともある。

『佐々木南北諸士帳』に、宮島 住 箕作随兵 宮島掃部介 の名が見える。

伊賀上野城主藤堂高虎も宮嶋氏の出身である。

また、明治維新では甲賀勤皇隊の隊長となり征討大将軍小松宮嘉彰親王から、参軍を許され、百余名をつれ、東総督有栖川宮親王に属し、奥羽に進軍した。甲賀隊は、当時新式といわれたフランス陸軍式の調練を受けた洋装の軍隊であった。」とあります。

なお、甲賀郡甲西町平松は現在湖南市平松になっています。

比定地周辺

参考資料:日本城郭体系11、佐々木南北諸士帳、滋賀県中世城郭分布調査

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


平松城  近江国(甲西)

2014年09月12日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:湖南市(旧甲賀郡甲西町)平松 map:http://yahoo.jp/rrRgtl

現 状 :寺院・神社・森林・竹林

区 分:平城

遺 構:堀・土塁・曲郭

築城期:室町期

築城者:

城 主:田那部式部丞嶋久右衛門尉

目標地:平松保育園・美松ゴルフセンター

駐車場:南照寺・松尾神社参拝者用駐車場

訪城日:2014.9.13

 

・針氏城 発掘時の資料(甲賀53家の分布)概要 

・「石部町史」所収図版を転載させていただきました。

 

 

土塁

歴 史

『嶋記録』に平松城(甲西町) 

田那部式部丞嶋久右衛門尉進退の事  「杉立云、日根備中知行南郡也、下一道ノキハヒラ松ト云在所ニ居城アリ」と記す。

参拝者駐車場

目標地:保育園

目標地「美松ゴルフー」  旧東海道説明板「平松城」は記してません平松城・・遠望(草津線甲西駅西口・・・正面の山林)

■参考略系図
・『系図簒要』『古代氏族系譜集成』『系図綜覧』などの伴氏系図から作成したが、それぞれ異同が多く、また甲賀郡の各地に割拠し一族の系図も出自や代数など、甚だ疑問が多い。あくまで参考系図として作成、掲載した。ちなみに「長享の乱」に活躍したという大原源三、多喜勘八は系図中に黄色で印した人物にあたるとされ、世代が相当違っていることが分かり、系図の持つ危うさをよくあらわしたものといえよう。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参考資料:旧、甲賀郡甲西町。 城郭分布調査1、地図番号37『日本城郭大系』11。 

    今日も訪問して、ありがとうございます!!感謝!!


岩倉館 近江国(秦荘)

2014年09月11日 | 平城

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町岩倉    (旧愛知郡秦荘町岩倉)    map:http://yahoo.jp/-te1Wb

現 状: 山林

遺 構::曲輪・土塁・堀切

区 分:平山城

築城期:室町期

築城者:

城 主 

目標地:岩倉橋

駐車場:岩倉川橋付近に岩倉無料駐車場

訪城日:2014.9.8・2014.9.10

城郭分布調査1、平地。宅地+水田。 とあり、比定地?

 

お城の概要

岩倉館は、岩倉川東岸の狭い山麓部に営まれた岩倉集落の北方。

集落間際山裾の扇状谷部を流れる河川の北岸に4つの連立した削平地が見られる。

削平地北側は斜面を利用して切岸状の壁とし、南側は河川を天然の堀としている。山麓から2つ目の曲輪には土塁がめぐり、東側の曲輪間には溝レベルの堀切が掘られていた。

淡海の城に、遺構概要 城郭分布調査1、城館。平地。宅地+水田。 とあり、比定地?

駐車可スペース 岩倉川を渡り2本目の路地を左折北上~約70m先右手獣除けフェンスの扉を開け林道へ~クランク状に進むと左手に

墓地があり、

道なりに左折する所で右手南東に向かって山中へ入り砂防ダム北岸

歴  史

詳細不明

淡海の城に、遺構概要 城郭分布調査1、城館。平地。宅地+水田。 とあり

2014.9.10

 ここに、駐車

竹原口

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、

 

        本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!  


一円館 近江国(多賀)

2014年09月09日 | 居館

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町一円    map:http://yahoo.jp/wmqG_9

現 状:山林・橿原神社

遺 構:曲輪・土塁

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:

城 主 

目標地:橿原神社

駐車場:一円公民館駐車場

訪城日:2014.9.8

居館と推定される「橿原神社」には、平安庭園が残存する。

多賀町埋蔵物センターのHPでは、一円館は城館・中世・山頂・森林としている。

 

お城の概要

一円館は、一円集落北側背後の山稜部一帯にあったとされる。

県の分布図では集落最北に鎮座する橿原神社付近から北方のダム湖までの山林が城域になっている。
山林であるため「館」ではなく「丘陵城」でもよい立地だが、館という表現なので山麓の集落内に居館を構え、詰城が山中に築かれていたのかも。

山麓の橿原神社の南側は削平地が残存するが後世のものかも。また城域の山麓付近と山頂付近探索した。

一円公民館駐車場~徒歩で「野鳥の森(ビジターセンターは近年閉館)・芹川ダムへ向かいビジターセンター北東の山に入山が?

山麓の橿原神社の南側は削平地が残存する

頂部の削平地

歴 史

『近江の顔 近江の城と古戦場』に収録されているが、詳細不明

淡海の城では、一円廃寺院跡カ?。伝承地で、現況は山林山腹。 

 

多賀氏について

 

多賀氏は、古代より多賀地方および近接の甲良地方に土着の豪族であり、多賀社を氏神にしていたと考えられる。しかし、家系図の上では公家の中原氏と結び付けられ、天武天皇皇子・舎人親王の末裔である中原真人長谷に始まる江州中原氏が、多賀社の神官を務め、多賀氏を名乗ったのが始まりであるとされている(旧説では、江州中原氏は崇峻天皇皇子・定世親王の後裔と見なされていたが、今では仮冒[他人の名を語る偽称]と判じられている)。

 

いずれにしても、多賀氏は鎌倉初期から中期にかけて多賀と甲良に勢力を張る氏族であり、室町時代には犬上郡および坂田郡にて同族間で争いながらも隆盛であった。戦国期には、甲良の下之郷城に居城した多賀高忠を始めとする幾人かの著名な武将の名が見え、織田政権下・豊臣政権下でも為政者に直仕する、堀氏と縁戚関係になるなどして有利に活動していたが、関ヶ原の戦いの際、敗軍となる石田三成方についたことが禍し、戦後、所領を没収されて没落した。

 

集落内に赤ノ井が流れる。

野鳥の森閉鎖で通行止めに。

淨厳寺跡に親鸞上人像

一円公民館きぬがさ地蔵尊 Z形の路地江戸期の屋敷が残存する

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


我孫子北城 近江国(秦荘)

2014年09月09日 | 平城

県道13号岩倉川西岸道

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町東出    (旧愛知郡秦荘町東出)    map:http://yahoo.jp/invVF1

現 状: 宅地・田畑

遺 構::曲輪・土塁・堀(岩倉川)

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:村越越中守

城 主:安孫子日向守勝久・村越越中守 

目標地:リカーマウンテン(酒店)・東出信号

駐車場:県道13線 岩倉川橋付近に空地駐車

訪城日:2014.9.8

お城の概要

東出城は、岩倉川左岸(西岸)の狭い宅地・田畑部に竹藪が残存した。

岩倉川左岸(西側)沿いに、遺構の土塁が竹藪の中に残存の確認できる。

安孫子北城は安孫子氏、南に安孫子南城、さらに南に狩野(かの)城が位置し、互いに防御性は低いが、佐々木六角の随兵であった。

お城の歴史

「江州佐々木南北諸士帳」に東出村 住 佐々木随兵 村越越中守 の名が見える。

また、「大洞弁財天当国古城主名札」に東出城主として名字不知 とあり、詳細不明。 

岩倉川

西からの遠望

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!  


磯部館 近江国(愛知川)

2014年09月08日 | 居館

磯部館跡

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町石橋 (旧愛知郡愛知川町石橋)    map:http://yahoo.jp/ju-3DA

現 状:田地

遺 構:

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:磯部 時基

城 主:磯部 時基

目標地:石部神社

駐車場:路上駐車場

石橋「石部神社の東側」

圃場整備後の比定地

お城の概要

石部神社の背後(東)、近江鉄道との間の畑地が磯部館跡とされるが、遺構らしきものは残されていない。

中仙道の鳥居

歴  史

磯部   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

磯部氏(いそべし)。佐々木盛綱を祖とする佐々木党であり、加地氏の庶流。建仁元年(1201年)五月十四日の「吾妻鏡」の条にみえる。
 
 加地信実の六男・左衛門尉時基は、もともとは加地氏を名乗っていたが、近江国甲賀郡石部(現・滋賀県湖南市)を賜り、石部と名乗らず磯部を名乗った。現在はいしべと発音するがいそべとも発音したためである。

磯部 時基(いそべ ときもと、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の佐々木氏一族の武将。加地信実の六男。佐々木 時基とも記される。左衛門尉。通称は六郎左衛門。子に基氏がいる。

 系図    加地信実
      ┃
      時基(六郎左衛門尉)
      ┣━━━┳━━━┳━━━┓
      基氏  二郎  四郎  五郎
      ┃
      二郎

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系、近江の城郭、ウィキペディア(Wikipedia)』

        本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!  


二つの金剛寺館と観音寺城跡  「金田歴史講演会」

2014年09月07日 | 講座

近江八幡市金田学区まちづくり協議会は三十日午後一時から金田コミュニティセンターで「ふるさと金田歴史講演会」

「金剛寺」と「金剛寺城」をテーマに中世から戦国時代のふるさとの歴史を学ぶ。(初期 佐々木六角の拠点)
 講演内容は次の通り。

▽「二つの金剛寺館跡と観音寺城跡」講師・近藤滋氏(元安土城郭調査研究所長)

 

近江守護佐々木六角氏の本拠地は、

小脇館(東近江市小脇町脇)

小脇館(東近江市小脇町脇)・

金剛寺城(金田館)

 金剛寺城・金田館(近江八幡市金田・本郷)

金剛寺(慈恩寺館)(安土町慈恩寺)・

金剛寺城(慈恩寺館)

観音寺城御屋形(安土町石寺)

観音寺城と変遷しましたが、3ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5㎞程しか離れていません。

 六角氏の祖泰綱の子である頼綱は、晩年に別館を金田の館に住まいを移したことから「金田殿」と称され、その館は「金田館」と呼ばれました。その孫の氏頼が同じ金田に創建した金剛寺は金田館に近接していたか、これを元に建立した寺院と考えられます。

応仁の乱の余波で勃発した六角氏と京極氏の争いに金剛寺も巻き込まれ、文明元年(1469)の合戦で焼失しましたが、同18年(1486)には再興されます。

延徳3年(1491)には第二次六角征伐で将軍足利義材の陣所をおくため、近隣諸郡から人夫を徴発して金剛寺城へと造り替えられました。

 金剛寺町には現在の金田小学校の西北西約150mに「古城」という小字と「寺ノ内」「大手」といった地名が残されており、ここが金剛寺城跡と考えられています。この周辺では室町時代の堀などが検出されていますが、全体像は明らかではありません。

一方『近江蒲生郡志』では文明18年に再興された金剛寺の位置を、安土町慈恩寺の浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺」と呼ばれる畑地と推定しています。

近江八幡市金剛寺町は「こんごうじ」と読むのに対して、こちらは「こんごうでら」と呼ばれます。この畑地の周囲には「北堀」「東堀」「南堀」と呼ばれる水田がめぐり、発掘調査でも15世紀末から16世紀代の堀・石積み・ピット群が見つかっており、全体像は判明しないものの城館跡に間違いありません。これが再興金剛寺だとすると、将軍が着陣したのはこちらということになります。

 金剛寺城跡には地名のみ、安土の金剛寺遺跡には一段高い畑地が残っているほかは寺・城の名残りは残されていません。

しかし、観音寺城以前の六角氏守護所を明らかにするうえで鍵となる遺跡です。今年一月には近江八幡市により金剛寺城遺跡の一部が発掘調査され、建物跡と磚(せん)が出土して注目を集めました。

 近江八幡市の金剛寺城遺跡はJR近江八幡駅から徒歩約20分、安土の金剛寺遺跡はJR安土駅から徒歩約10分です。   (伊庭)

金剛寺(安土町慈恩寺)と観音寺城(遠景)

参考資料:淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!! 


講座 鎌刃城まつり 

2014年09月07日 | 講座

 

 蓮花寺ご住職

滋賀県内穴蔵状遺構

関津城(大津)・安土城・小川城(信楽)・関津城・・・バイパス工事に伴う発掘調査

・現城主(地主)泉氏より、【中世の城郭(鎌刃城)から里山の歴史】

  

講座2:【竹中半兵衛と鎌刃城主・堀秀村】 講師:太田浩司(長浜城歴史博物館長)

   

聴講者:約150名


玄蕃尾城(内中尾山城) 近江国(余呉)

2014年09月07日 | 陣城

東近江・北近江 玄蕃尾城 合同見学会 
日 時 201497日(日)9:0017:00 
内 容「講義と現地解説」長谷川博美氏(NHK名古屋文化センター歴史講師)

登城前に「玄蕃尾城」講義(このは写真は米ちゃんのを拝借)

 

お城のデータ

所在地:余呉町大字柳ケ瀬小字北尾624
別 名 :内中尾城
築城期:織豊期 賤ヶ岳戦い天正11年(1583)
築城者:柴田勝家

現 状:山林
区 分:陣城
遺 構:土塁、堀、土橋、馬出虎口、八曲郭、竪堀、空堀、櫓台
城 域:
標 高:459m     比高 

目標地:玄蕃尾城下の駐車場・刀根坂峠

 国道365号(北国街道)線を柳ケ瀬から敦賀方へ走り、トンネルを抜けたところをスグに右折して林道を約2km。

駐車場:刀根地区の林道に7~8台駐車可

訪城日:2014.9.7

お城の概要

滋賀県と福井県の県境内中尾山の山頂に築かれた玄蕃尾城は、天正11年(1583)に柴田勝家と羽柴秀吉が、信長亡き後の織田軍団の指導権を争って戦った賤ヶ岳の戦いの際に柴田勝家が本陣を構えた所です。曲輪は全部で8つあり、山頂に主曲輪を構え、各曲輪をなだらかな斜面に配しています。
曲輪周囲には空堀を巡らし、曲輪と曲輪の間は土橋で連絡されて、曲輪から空堀。

 主曲輪(約40m×40m)の南北に設けられた虎口には、枡形虎口、あるいは馬出しなどを配して、織豊系城郭技術がこの時期にほぼ完成されていたことを窺い知ることが出来ます。
遺構もほぼ完全な形で残っており、滋賀県あるいは福井県に数ある城郭の中でも屈指のものだと思います。
また、主曲輪の東側には櫓台(10m×10m)が設けられており天守のようなものが築かれていたと考えられています。

 この玄蕃尾城の築城時期は天正10年~11年と特定することが出来、天正期における織豊系城郭の築城技術を考察する上でも非常に意義深い城といえます

県境にある内中尾山(標高460m)山頂にあり、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際、『柴田勝家軍の本陣』として築城される。屈指の築城技術を誇る。

 城は最高所の主郭を中心に、専守防衛に主眼を置きつつ出撃拠点としても巧みに計算された縄張りを見ることができ、諸郭間の機能分化と配置、馬出の完成度、空堀。土塁の発展、天守台が具備され、現存する県内の山城の中で最も発達した構造を示すものと言われている。

玄蕃尾城縄張り図

歴 史

 天正10年(1582)6月27日におこなわれた清洲会議では、秀吉は信長の嫡孫である三法師丸(秀信)を信長の跡目にたて、柴田勝家は信長の三男神戸信孝(織田信孝)を推すが、信長の弔い合戦で明智光秀を討った功績による発言力は強く、丹羽長秀、池田恒興等を取り込んだ秀吉の意見が通り、信長の跡目は嫡孫三法師丸と決定。二男信雄は尾張、三男信孝は美濃を領することになる。

 柴田勝家は、美濃を領した三男・神戸信孝と、信長家臣団の中にあって秀吉の台頭を心よく思わなかった伊勢の滝川一益(信長死後、武蔵神流川の戦いで敗れ、関東管領職を失い伊勢長島に帰国していた)と盟約を結び秀吉と対立する。

 天正11年1月、滝川一益の配下である伊勢亀山城の城主関盛信が、蒲生氏郷の仲介で秀吉に降伏するが、その城主不在の留守に家臣の岩間三太夫が兵を挙げ、滝川一益に救援を求める。
 秀吉はこれを好機として、軍勢を率い(この時の兵力を太閤記では7万とし、賤ヶ岳合戦記では4万余騎としている)、安楽越え(土山町山女原~亀山市安坂山町)、大君ヶ畑越え(国道306号線鞍掛峠)、関ヶ原から土岐多羅越え(養老郡上石津町)の三方から北伊勢の滝川一益を攻める。
亀山城,峯城を落とされた滝川一益は6千の寡兵ながら居城を桑名城から長島に移し、徹底抗戦の構えを見せる。

 越前北之庄城の勝家のもとに長浜城の落城、神戸信孝の降伏などの情報は入ってくるものの、豪雪のため軍を動かすことは出来ず、天正11年2月28日(太陽暦では3月21日)、雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として出陣させ、3月3日には佐久間盛政,前田利家を、3月9日には勝家自ら諸将率い、除雪をしながら、北之庄城を発進。
 信長生前の頃に、越前-安土間を短時間で行動できるようにと、勝家自らが整備しておいた北国街道も江越国境が豪雪のために通れず、迂回して敦賀から木の芽峠を越えて近江に入り、刀根街道と北国街道を押さえる位置にある玄蕃尾城(内中尾山)に入城した。

 一方、勝家が北之庄を出発したとの知らせをうけた秀吉は、北勢の滝川攻めに一部の兵を残し、主力を率い、3月16日には長浜城に入り、翌日には木之本の浄信寺に本陣を置き、田上山に羽柴秀長、賤ヶ岳に桑山重晴、大岩山に中川清秀、神明山に山路正国、堂木山に木下利久、東野山には堀秀政等を配して対陣する。

 こうして、江北・余呉湖周辺で、2月初旬から4月下旬までの2ヶ月間に及ぶ対陣の末、4月20日に佐久間盛政が秀吉軍の中川清秀の守備する大岩山砦を急襲、この知らせを聞いた秀吉が意表を突く早さで大垣から引き返し、大岩山砦の佐久間盛政に反撃を開始。
 秀吉軍の反撃の前に佐久間軍が敗れると、柴田軍主力部隊からは戦線を離脱する将兵が続出し、勝家軍は敗走。
 越前北之庄城に帰り着いた勝家は籠城を決意するが、秀吉軍の攻城の前に勝家はお市の方とともに自刃。4月24日の北之庄城落城によって賤ヶ岳の戦いは幕がおりた。
 玄蕃尾城はその後利用されることなく廃城となった。

ここから、長谷川博美氏が新たに確認された城域

玄蕃尾城域に、戻ります

土塁上の柵(参加者整列)合成写真

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、余呉と賤ヶ岳合戦、近江の城、淡海の城、他

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見学 12:301600 帰途1600
北近江 宮本氏  (米原文化協会 城歩会) 主催  米原文化協会 教養部 城歩会

国指定史跡「玄蕃尾城(内中尾山城)」

玄蕃尾城(げんばおじょう)跡は賤ヶ岳合戦の際に柴田勝家の本陣となった城です。玄蕃尾城主郭跡

 賤ヶ岳合戦といえば七本槍(しちほんやり)が著名ですが、実は合戦史上最大の築城戦であったことはあまり知られていません。

 織田信長亡き後に羽柴秀吉と柴田勝家は後継者争いをはじめます。

 天正11年(1583)2月には柴田軍の先鋒として前田利家、利長父子が江北に出陣します。柴田軍の布陣に対して羽柴軍も東野山~堂木山間を最前線として布陣します。この両軍の布陣にともない築かれたのが「陣城」と呼ばれる臨時築城の城です。以後4月28日の合戦までの約2ヶ月にわたり両軍はこの陣城に籠って睨みあいます。

 こうした陣城が余呉、木之本に約20ヶ所も構えられました。

 ところで長浜城歴史博物館や大阪城天守閣に所蔵される「賤ヶ岳合戦図屏風」には秀吉軍の本陣となった田上山砦や、東野山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦などが城郭として描かれており、江戸時代の人々は賤ヶ岳合戦で城が構えられていたことはよく知られていたようです。

 この陣城群中、最も大規模で発達した城郭構造を示すのが玄蕃尾城です。土塁(どるい)を巡らせた方形の主には天守台に相当する櫓台(ろだい)が北東隅に構えられています。そこには礎石が認められることより実際に櫓(やぐら)が建てられていたことはまちがいありません。この主郭の南、東、北の3方向には虎口(こぐち)と呼ばれる城門が構えられており、特に南と北の虎口の前面には直進を妨げる出桝形(でますがた)と呼ばれる方形の小曲輪(こくるわ)が突出して配置されています(写真下)。また主郭や出桝形の周囲には深くて幅の広い横堀が巡らされています。

 こうした構造は16世紀後半の発達した城郭構造を示す貴重な陣城遺構として平成11年に国史跡に指定されました。次回はこの陣城を築いた賤ヶ岳合戦の経過を紹介しましょう。(滋賀県立大学准教授 中井均)

※築城戦=城を築いて向かい合いながら戦うこと。(『広報ながはま』平成23年5月1日号より)


金剛寺城(金田館) 近江国(近江八幡)

2014年09月06日 | 居城

金剛寺城跡を示す説明板http://yahoo.jp/bA0nts

 お城のデータ

所在地:近江八幡市金剛寺町   map:http://yahoo.jp/bA0nts

築城期:鎌倉期

築城者:六角頼綱(佐々木家第4代当主)

初城主:佐々木頼綱 

現 状:金田小学校・宅地

区 分:平城(居館) 

遺 構:現地説明板

目標地:金田小学校・金田コミニュティーセンター

駐車場:金田コミニュティーセンター

訪城日:2013.7.19 2014.9.3

お城の歴史

六角氏の紋
四つ目結
(四つ目結)

戦 い :文明元年(1469)   ○京極持清(東軍)     VS  ●六角高頼(西軍)
     明応3年(1494)   ○六角氏頼 (山内就綱) VS  ●六角高頼(京極道譽)

 現在の金田小学校の辺り一帯が城郭跡とされているが、今は「古城」とか「大手」などの地名を残すのみで、遺構残っていないが県道沿いに、説明板がある。

 2001年に金剛寺城跡一帯が再開発され、金田小学校南側は金田コミニュティーセンターとなった。

 金剛寺は佐々木荘で、六角頼綱(佐々木家第4代当主)の時からこの地に別館を設けていたという。頼綱を金田殿と称した。(近江蒲生郡志)

その後、孫の氏頼が父の為に寺院を創建して金剛寺と名付けた。金剛寺城(金田館)(近江八幡市金剛寺町)

 近江守護佐々木六角氏の本拠地は、小脇館・金剛寺城(金田館)・金剛寺城(安土・慈恩寺)・観音寺城と変遷しましたが、4ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5㎞あまりしか離れていません。

 六角氏の祖泰綱の子である頼綱は、晩年に別館を金田の館に住まいを移したことから「金田殿」と称され、その館は「金田館」と呼ばれました。その孫の氏頼が同じ金田に創建した金剛寺は金田館に近接していたか、これを元に建立した寺院と考えられます。

応仁の乱の余波で勃発した六角氏と京極氏の争いに金剛寺も巻き込まれ、文明元年(1469)の合戦で焼失しましたが、同18年(1486)には再興金剛寺城(安土・慈恩寺)されます。

延徳3年(1491)には第二次六角征伐で将軍足利義材の陣所をおくため、近隣諸郡から人夫を徴発して金剛寺城へと造り替えられました。

 金剛寺町には現在の金田小学校の西北西約150mに「古城」という小字と「寺ノ内」「大手」といった地名が残されており、ここが金剛寺城跡と考えられています。この周辺では室町時代の堀などが検出されていますが、全体像は明らかではありません。

近江八幡市金剛寺町は「こんごうじ」と読むのに対して、安土町金剛寺は「こんごうでら」と呼ばれます。この畑地の周囲には「北堀」「東堀」「南堀」と呼ばれる水田がめぐり、発掘調査でも15世紀末から16世紀代の堀・石積み・ピット群が見つかっており、全体像は判明しないものの城館跡に間違いありません。これが再興金剛寺だとすると、将軍が着陣したのはこちらということになります。

金田小学校 

『日本城郭体系 11』に、

所在地は「近江八幡市金剛寺町」、別称は「金田館」、創建者は「佐々木頼綱」、形式は「平城」です。

城の歴史は「近江守護職の佐々木氏は、(中略)佐々木頼綱の時に、湖岸により近い近江八幡市金田に居館を移した。その後、この居館に接して佐々木氏頼が父ぼために金剛寺を創建したため、寺名が地名になり、居館もいつしか金剛寺城とよばれるようになったようである。

金剛寺城をめぐる最初の戦いは、文明元年(一四六九)の京極氏との抗争で、この時、金剛寺が焼失している。

金剛寺城が六角氏の拠点であったことは、長享元年(一四八七)、足利義尚による六角高頼征討の際、幕府の先鋒が八幡城と金剛寺城を攻めようとしたことや、明応元年(一四九二)の再度の征討の時は、義材が、この金剛寺城を陣所にしていることなどによって知られる。

その後、金剛寺城は、観音寺築城と共に廃棄されたようである。現在、金剛寺城の遺構は明らかでなく、付近に、古城(ふるしろ)とか大手などの地名が残されているのみである。」とあります。

宅地造成の発掘調査地

 

近江八幡の城マップ
近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系、近江蒲生郡誌、近江八幡の城

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金剛寺(こんごうでら)城 近江国(安土)

2014年09月06日 | 居城

安土町慈恩寺の金剛寺城と観音寺城(遠景)

 お城のデータ

 所在地:近江八幡市安土町慈恩寺(旧蒲生群安土町慈恩寺)  map:http://yahoo.jp/Cv9k0J

       現 浄厳院浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺橋」周辺

築城期:鎌倉期

築城者:佐々木氏頼

城 主:佐々木氏頼

現 状:寺院・田畑

区 分:平城(居館)

遺 構:土塁 浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺橋」

目標地:浄厳院

駐車場:浄厳院

訪城日:2014.4.19、2.13.9.3

  

お城の概要

 近江守護佐々木六角氏の本拠地は、小脇館・金剛寺城(金田館)・再興金剛寺・観音寺城と変遷しましたが、4ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5㎞あまりしか離れていません。

金剛寺城跡には地名のみ、安土の金剛寺遺跡には一段高い畑地が残っているほかは寺・城の名残りは残されていません。しかし、観音寺城以前の六角氏守護所を明らかにするうえで鍵となる遺跡です。 

近江八幡市金剛寺町は「こんごうじ」と読むのに対して、安土の金剛寺は「こんごうでら」と呼ばれます。

この畑地の周囲には「北堀」「東堀」「南堀」と呼ばれる水田がめぐり、発掘調査でも15世紀末から16世紀代の堀・石積み・ピット群が見つかっており、全体像は判明しないものの城館跡に間違いありません。これが再興金剛寺だとすると、将軍が着陣したのはこちらということになります。

再興金剛寺

歴 史

近江の歴史には必ず名前の出てくる佐々木氏は、宇多天皇の皇子・敦実親王が佐々木荘を本拠として佐々木氏を名乗ったことから始まります。

源頼朝が挙兵した際に鎌倉幕府の創設に貢献し、近江国を領しました。その後、大原、高島、六角、京極、などに分家しましたが、近江国を二分する形で領有した六角氏と京極氏は、互いに戦いを繰り広げることになります

  近江守護佐々木六角氏の本拠地は、小脇館・金剛寺城(金田館)・再興金剛寺城(安土・慈恩寺)・観音寺城と変遷しましたが、4ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5㎞あまりしか離れていません。安土・慈恩寺(現浄厳院)を氏頼が母のため建立。

  寺院跡の畑地不自然な微高地は土塁跡か

一方『近江蒲生郡志』では文明18年に再興された金剛寺の位置を、安土町慈恩寺の浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺」と呼ばれる畑地と推定しています

佐々木氏の末裔は六角氏と京極氏に分かれたが、金剛寺城は六角氏の持ち城となり、文明元年(1469)には京極氏との合戦により金剛寺城(金田館)が焼失し、長享元年(1487)には足利義尚が六角氏討伐の軍を起こし、幕府軍の先鋒が金剛寺城に攻め込もうとするなど度々戦乱に巻き込まれている。後に10代将軍となる足利義稙も金剛寺城を陣所とするなど、南近江の中世においては重要な城であったようだ。

『日本城郭体系 11』に

所在地は「近江八幡市金剛寺町」、別称は「金田館」、創建者は「佐々木頼綱」、形式は「平城」です。

城の歴史は「近江守護職の佐々木氏は、(中略)佐々木頼綱の時に、湖岸により近い近江八幡市金田に居館を移した。その後、この居館に接して佐々木氏頼が金剛寺を父のために創建したため、寺名が地名になり、居館もいつしか金剛寺城とよばれるようになったようである。金剛寺城をめぐる最初の戦いは、文明元年(一四六九)の京極氏との抗争で、この時、金剛寺が焼失している。

金剛寺城が六角氏の拠点であったことは、長享元年(一四八七)、足利義尚による六角高頼征討の際、幕府の先鋒が八幡城と金剛寺城を攻めようとしたことや、明応元年(一四九二)の再度の征討の時は、義材が、この金剛寺城を陣所にしていることなどによって知られる。その後、金剛寺城は、観音寺築城と共に廃棄されたようである。

現在、金剛寺城の遺構は明らかでなく、付近に、古城(ふるしろ)とか大手などの地名が残されているのみである。とあります。

 

浄厳院の南西の土塁

 

 

近江八幡の城マップ
近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系、近江蒲生郡誌、近江八幡の城

         本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!