金剛寺城跡を示す説明板http://yahoo.jp/bA0nts
お城のデータ
所在地:近江八幡市金剛寺町 map:http://yahoo.jp/bA0nts
築城期:鎌倉期
築城者:六角頼綱(佐々木家第4代当主)
初城主:佐々木頼綱
現 状:金田小学校・宅地
区 分:平城(居館)
遺 構:現地説明板
目標地:金田小学校・金田コミニュティーセンター
駐車場:金田コミニュティーセンター
訪城日:2013.7.19 2014.9.3
お城の歴史
六角氏の紋
(四つ目結)
戦 い :文明元年(1469) ○京極持清(東軍) VS ●六角高頼(西軍)
明応3年(1494) ○六角氏頼 (山内就綱) VS ●六角高頼(京極道譽)
現在の金田小学校の辺り一帯が城郭跡とされているが、今は「古城」とか「大手」などの地名を残すのみで、遺構残っていないが県道沿いに、説明板がある。
2001年に金剛寺城跡一帯が再開発され、金田小学校南側は金田コミニュティーセンターとなった。
金剛寺は佐々木荘で、六角頼綱(佐々木家第4代当主)の時からこの地に別館を設けていたという。頼綱を金田殿と称した。(近江蒲生郡志)
その後、孫の氏頼が父の為に寺院を創建して金剛寺と名付けた。金剛寺城(金田館)(近江八幡市金剛寺町)
近江守護佐々木六角氏の本拠地は、小脇館・金剛寺城(金田館)・金剛寺城(安土・慈恩寺)・観音寺城と変遷しましたが、4ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5㎞あまりしか離れていません。
六角氏の祖泰綱の子である頼綱は、晩年に別館を金田の館に住まいを移したことから「金田殿」と称され、その館は「金田館」と呼ばれました。その孫の氏頼が同じ金田に創建した金剛寺は金田館に近接していたか、これを元に建立した寺院と考えられます。
応仁の乱の余波で勃発した六角氏と京極氏の争いに金剛寺も巻き込まれ、文明元年(1469)の合戦で焼失しましたが、同18年(1486)には再興金剛寺城(安土・慈恩寺)されます。
延徳3年(1491)には第二次六角征伐で将軍足利義材の陣所をおくため、近隣諸郡から人夫を徴発して金剛寺城へと造り替えられました。
金剛寺町には現在の金田小学校の西北西約150mに「古城」という小字と「寺ノ内」「大手」といった地名が残されており、ここが金剛寺城跡と考えられています。この周辺では室町時代の堀などが検出されていますが、全体像は明らかではありません。
近江八幡市金剛寺町は「こんごうじ」と読むのに対して、安土町金剛寺は「こんごうでら」と呼ばれます。この畑地の周囲には「北堀」「東堀」「南堀」と呼ばれる水田がめぐり、発掘調査でも15世紀末から16世紀代の堀・石積み・ピット群が見つかっており、全体像は判明しないものの城館跡に間違いありません。これが再興金剛寺だとすると、将軍が着陣したのはこちらということになります。
金田小学校
『日本城郭体系 11』に、
所在地は「近江八幡市金剛寺町」、別称は「金田館」、創建者は「佐々木頼綱」、形式は「平城」です。
城の歴史は「近江守護職の佐々木氏は、(中略)佐々木頼綱の時に、湖岸により近い近江八幡市金田に居館を移した。その後、この居館に接して佐々木氏頼が父ぼために金剛寺を創建したため、寺名が地名になり、居館もいつしか金剛寺城とよばれるようになったようである。
金剛寺城をめぐる最初の戦いは、文明元年(一四六九)の京極氏との抗争で、この時、金剛寺が焼失している。
金剛寺城が六角氏の拠点であったことは、長享元年(一四八七)、足利義尚による六角高頼征討の際、幕府の先鋒が八幡城と金剛寺城を攻めようとしたことや、明応元年(一四九二)の再度の征討の時は、義材が、この金剛寺城を陣所にしていることなどによって知られる。
その後、金剛寺城は、観音寺築城と共に廃棄されたようである。現在、金剛寺城の遺構は明らかでなく、付近に、古城(ふるしろ)とか大手などの地名が残されているのみである。」とあります。
宅地造成の発掘調査地
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参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系、近江蒲生郡誌、近江八幡の城
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!