安土町慈恩寺の金剛寺城と観音寺城(遠景)
お城のデータ
所在地:近江八幡市安土町慈恩寺(旧蒲生群安土町慈恩寺) map:http://yahoo.jp/Cv9k0J
現 浄厳院浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺橋」周辺
築城期:鎌倉期
築城者:佐々木氏頼
城 主:佐々木氏頼
現 状:寺院・田畑
区 分:平城(居館)
遺 構:土塁 浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺橋」
目標地:浄厳院
駐車場:浄厳院
訪城日:2014.4.19、2.13.9.3
お城の概要
近江守護佐々木六角氏の本拠地は、小脇館・金剛寺城(金田館)・再興金剛寺・観音寺城と変遷しましたが、4ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5㎞あまりしか離れていません。
金剛寺城跡には地名のみ、安土の金剛寺遺跡には一段高い畑地が残っているほかは寺・城の名残りは残されていません。しかし、観音寺城以前の六角氏守護所を明らかにするうえで鍵となる遺跡です。
近江八幡市金剛寺町は「こんごうじ」と読むのに対して、安土の金剛寺は「こんごうでら」と呼ばれます。
この畑地の周囲には「北堀」「東堀」「南堀」と呼ばれる水田がめぐり、発掘調査でも15世紀末から16世紀代の堀・石積み・ピット群が見つかっており、全体像は判明しないものの城館跡に間違いありません。これが再興金剛寺だとすると、将軍が着陣したのはこちらということになります。
再興金剛寺
歴 史
近江の歴史には必ず名前の出てくる佐々木氏は、宇多天皇の皇子・敦実親王が佐々木荘を本拠として佐々木氏を名乗ったことから始まります。
源頼朝が挙兵した際に鎌倉幕府の創設に貢献し、近江国を領しました。その後、大原、高島、六角、京極、などに分家しましたが、近江国を二分する形で領有した六角氏と京極氏は、互いに戦いを繰り広げることになります。
近江守護佐々木六角氏の本拠地は、小脇館・金剛寺城(金田館)・再興金剛寺城(安土・慈恩寺)・観音寺城と変遷しましたが、4ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5㎞あまりしか離れていません。安土・慈恩寺(現浄厳院)を氏頼が母のため建立。
寺院跡の畑地不自然な微高地は土塁跡か
一方『近江蒲生郡志』では文明18年に再興された金剛寺の位置を、安土町慈恩寺の浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺」と呼ばれる畑地と推定しています。
佐々木氏の末裔は六角氏と京極氏に分かれたが、金剛寺城は六角氏の持ち城となり、文明元年(1469)には京極氏との合戦により金剛寺城(金田館)が焼失し、長享元年(1487)には足利義尚が六角氏討伐の軍を起こし、幕府軍の先鋒が金剛寺城に攻め込もうとするなど度々戦乱に巻き込まれている。後に10代将軍となる足利義稙も金剛寺城を陣所とするなど、南近江の中世においては重要な城であったようだ。
『日本城郭体系 11』に
所在地は「近江八幡市金剛寺町」、別称は「金田館」、創建者は「佐々木頼綱」、形式は「平城」です。
城の歴史は「近江守護職の佐々木氏は、(中略)佐々木頼綱の時に、湖岸により近い近江八幡市金田に居館を移した。その後、この居館に接して佐々木氏頼が金剛寺を父のために創建したため、寺名が地名になり、居館もいつしか金剛寺城とよばれるようになったようである。金剛寺城をめぐる最初の戦いは、文明元年(一四六九)の京極氏との抗争で、この時、金剛寺が焼失している。
金剛寺城が六角氏の拠点であったことは、長享元年(一四八七)、足利義尚による六角高頼征討の際、幕府の先鋒が八幡城と金剛寺城を攻めようとしたことや、明応元年(一四九二)の再度の征討の時は、義材が、この金剛寺城を陣所にしていることなどによって知られる。その後、金剛寺城は、観音寺築城と共に廃棄されたようである。
現在、金剛寺城の遺構は明らかでなく、付近に、古城(ふるしろ)とか大手などの地名が残されているのみである。とあります。
浄厳院の南西の土塁
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参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系、近江蒲生郡誌、近江八幡の城
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