お城のデータ
map: 賀市甲賀町毛牧字師々ヶ谷 (旧甲賀郡甲賀町毛牧字師々ヶ谷) http://yahoo.jp/WbQnpd
別 名:毛枚城(甲賀郡志1120頁)
区 分:丘陵城
築城期:室町期
築城者:毛牧太郎
城 主:毛枚太郎
遺 構:曲輪 ・土塁・井戸・櫓台
標 高:220m 比高差:40m
目標地:毛枚(もびら)大福寺・毛枚バス停
駐車場:大福寺参拝者用駐車場
訪城日:2014.9.17
お城の西側から、「櫻神社跡」に進む道があります。
お城の概要
城は毛枚川の東側の北へ延びた丘陵に築かれている。 周囲に高土塁が巡らされた単郭の城である。
毛枚川の東側に位置する北へ延びる丘陵の、頂上部分に築かれている。南から北へ切込土塁で囲み曲輪を形成。東側から北側には帯曲輪を配している。
丘陵の先端側の小屋の付近から斜面を登れます。大土塁の上にでます。
城跡は木々が多く藪状態ですが南の大土塁、東、北、西を巡る分厚い土塁、北西と南東に虎口形状はなかなか見ごたえあります。
また、南東の虎口をでると付属の郭の様な平坦地があります。井戸も残っているようです。
丘城。土塁・堀・井戸の遺構が残る。
主郭は40m四方で土塁で囲む、主郭内の南側が一段高くなっている。北西橋に井戸が残る。が未整備のため確認は困難である。
曲郭Ⅰ(主郭)を囲む土塁でaが最も高く櫓台となっている。東西13m南北6mの規模、曲郭Ⅰから約8mを図る。
曲郭Ⅰの北端にあるbも櫓台で、曲郭Ⅰから約4mを図り、bの西に窪みがあり、郭Ⅱに連絡する。曲郭Ⅱは東西17m・南北25mもの曲郭である。
曲郭Ⅲ・Ⅳは開削畑に、c・dも堀切も後世埋められはようである。
歴 史
室町時代に、「日本城郭体系」には城主は毛牧太郎とある。毛枚氏によって築かれたと伝わっているが、詳細不明。
毛枚氏と山岡氏
毛枚景広は貞景から数えて5代目に当たる。山岡系図には、「太郎 左衛門尉 近江国甲賀郡毛枚邑に住す。よりて毛枚(もびら)をもって称号とす。のち景政にいたるまでおなじ。」としている。また、それより以前に編纂された寛永諸家譜には、「その(貞景)末孫毛枚太郎景広、大原の庄毛枚村の山間に舘をかまふ。これによりて人みな山岡の名をよぶ。子孫のいみなにみな景の字をもちひて首にをく。景行天皇の末流をしらしめんがためなり。」 今に残る山岡城跡を訪ねた。県道から程近い所ではあるが急峻な細い坂道を上りきったところに岡本氏邸があり、その裏に城跡が認められた。天然の要害を利用して防備の備えを図っている。眼下に毛枚が一望できる高台である。
貞景――景重――景光――信遍(のぶゆき)――景広――景範
景広の子供に景範、貞広、景忠がいて、山岡氏に続く家系は、山岡系図では景範であるが、貞広としている系図もある。また、景忠は、「甲賀郡上野邑に住するにより、毛枚を改めて上野を称す。子孫繁茂して二十余家となる。」と記されている。南北朝期活躍する上野氏は、毛枚氏の分かれである。
毛枚氏から山岡氏への系図は、
景範(毛枚氏)――広政――景政――景通(大鳥居氏)――景久――景以(かげもち)――資広(山岡氏を称す。景広ともいう。)――景長
山岡氏の始祖景広については、諸家譜に「近江国田上の城に住し、永享年中同国栗太郡勢多邑を討取、初めて勢多の山田岡に城を築きてこれに移る。この時一字を略して山岡の二字を用いて称号とす。後勢田城を嫡男景長に譲り、石山の古城を営みてこれに住し、剃髪して光浄院と号す。嘉吉2年(1442)死す。」
山岡景以の墓碑
右の墓は毛枚にあり、「山岡主計頭景以之墓」と読める。景以は二人いて、一人は上の系図に見える大鳥居氏の時代の人であり、もう一人は景隆の末子である景以である。この墓碑は後者である。彼は叔父道阿弥(景友)の跡をついで3000石を宛行われた。また、毛枚が山岡氏のルーツであることは、山岡景隆の最期が毛枚の地であったことでも頷ける。
現在、山岡会があり、臨湖庵は瀬田川沿いの勢田城跡にあったが、今は石碑と説明板残っている(マンション前に)。子孫の方々は時に毛枚の城跡にも来られるとか・る。
お城の西側から、「櫻神社跡」に進む道があります。
獅子ヶ谷城(遠景)
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、
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