城郭探訪

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獅子ヶ谷城(毛枚(もびら)城)  近江国(甲賀)

2014年09月19日 | 丘陵城

 お城のデータ 

所在地:甲賀市甲賀町毛牧字師々ヶ谷  (旧甲賀郡甲賀町毛牧字師々ヶ谷)   map:http://yahoo.jp/WbQnpd

別 名:毛枚城(甲賀郡志1120頁)

区 分:丘陵城

築城期:室町期

築城者:毛牧太郎

城 主:毛枚太郎

遺 構:曲輪 ・土塁・井戸・櫓台

標 高:220m  比高差:40m 

主 郭:40m四方

目標地:毛枚(もびら)大福寺・毛枚バス停

駐車場:大福寺参拝者用駐車場

訪城日:2014.9.17

お城の西側から、「櫻神社跡」に進む道があります。

お城の概要

城は毛枚川の東側の北へ延びた丘陵に築かれている。 周囲に高土塁が巡らされた単郭の城である。

毛枚川の東側に位置する北へ延びる丘陵の、頂上部分に築かれている。南から北へ切込土塁で囲み曲輪を形成。東側から北側には帯曲輪を配している。

丘陵の先端側の小屋の付近から斜面を登れます。大土塁の上にでます。

 城跡は木々が多く藪状態ですが南の大土塁、東、北、西を巡る分厚い土塁、北西と南東に虎口形状はなかなか見ごたえあります。

また、南東の虎口をでると付属の郭の様な平坦地があります。井戸も残っているようです。

丘城。土塁・堀・井戸の遺構が残る。

主郭は40m四方で土塁で囲む、主郭内の南側が一段高くなっている。北西橋に井戸が残る。が未整備のため確認は困難である。

曲郭Ⅰ(主郭)を囲む土塁でaが最も高く櫓台となっている。東西13m南北6mの規模、曲郭Ⅰから約8mを図る。

曲郭Ⅰの北端にあるbも櫓台で、曲郭Ⅰから約4mを図り、bの西に窪みがあり、郭Ⅱに連絡する。曲郭Ⅱは東西17m・南北25mもの曲郭である。

曲郭Ⅲ・Ⅳは開削畑に、c・dも堀切も後世埋められはようである。

歴 史

室町時代に、「日本城郭体系」には城主は毛牧太郎とある。毛枚氏によって築かれたと伝わっているが、詳細不明。

 毛枚氏と山岡氏

 毛枚景広は貞景から数えて5代目に当たる。山岡系図には、「太郎 左衛門尉  近江国甲賀郡毛枚邑に住す。よりて毛枚(もびら)をもって称号とす。のち景政にいたるまでおなじ。」としている。また、それより以前に編纂された寛永諸家譜には、「その(貞景)末孫毛枚太郎景広、大原の庄毛枚村の山間に舘をかまふ。これによりて人みな山岡の名をよぶ。子孫のいみなにみな景の字をもちひて首にをく。景行天皇の末流をしらしめんがためなり。」 今に残る山岡城跡を訪ねた。県道から程近い所ではあるが急峻な細い坂道を上りきったところに岡本氏邸があり、その裏に城跡が認められた。天然の要害を利用して防備の備えを図っている。眼下に毛枚が一望できる高台である。

貞景――景重――景光――信遍(のぶゆき)――景広――景範

 景広の子供に景範、貞広、景忠がいて、山岡氏に続く家系は、山岡系図では景範であるが、貞広としている系図もある。また、景忠は、「甲賀郡上野邑に住するにより、毛枚を改めて上野を称す。子孫繁茂して二十余家となる。」と記されている。南北朝期活躍する上野氏は、毛枚氏の分かれである。

 毛枚氏から山岡氏への系図は、

景範(毛枚氏)――広政――景政――景通(大鳥居氏)――景久――景以(かげもち)――資広(山岡氏を称す。景広ともいう。)――景長

  山岡氏の始祖景広については、諸家譜に「近江国田上の城に住し、永享年中同国栗太郡勢多邑を討取、初めて勢多の山田岡に城を築きてこれに移る。この時一字を略して山岡の二字を用いて称号とす。後勢田城を嫡男景長に譲り、石山の古城を営みてこれに住し、剃髪して光浄院と号す。嘉吉2年(1442)死す。」

山岡景以の墓碑

 右の墓は毛枚にあり、「山岡主計頭景以之墓」と読める。景以は二人いて、一人は上の系図に見える大鳥居氏の時代の人であり、もう一人は景隆の末子である景以である。この墓碑は後者である。彼は叔父道阿弥(景友)の跡をついで3000石を宛行われた。また、毛枚が山岡氏のルーツであることは、山岡景隆の最期が毛枚の地であったことでも頷ける。
 現在、山岡会があり、臨湖庵は瀬田川沿いの勢田城跡にあったが、今は石碑と説明板残っている(マンション前に)。子孫の方々は時に毛枚の城跡にも来られるとか・る。

お城の西側から、「櫻神社跡」に進む道があります。

獅子ヶ谷城(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


毛枚(もびら)北城 近江国(甲賀)

2014年09月19日 | 丘陵城
近年(昭和50年代)まで居住者がいたお城
 井戸:深さ3m以上

(馬蹄形の堀切が背後を固めているお城。)

 お城のデータ 

所在地:甲賀市甲賀町毛牧字深谷  (旧甲賀郡甲賀町毛枚小字深谷)   maphttp://yahoo.jp/Iu0a3O

区 分:丘陵城

築城期:室町期・豊織期

築城者:

遺 構:曲輪 ・土塁・大堀切・井戸・櫓台

標 高:210m  比高差:10m 

城 域:東西30m×南北40m

目標地:毛枚(もびら)大福寺・毛枚バス停

駐車場:大福寺参拝者用駐車場

訪城日:2014.9.17

お城の概要

毛牧北城は、甲賀町毛牧にある大福寺の背後にある。主郭である曲輪Ⅰに西側を除く三方を土塁が囲んでいる(土塁b)
 
土塁は南側のaが最も高く3m、頂部10m四方もある櫓台となる。
 
櫓台aの南側には、堀切cがある。底部の幅は約6m櫓台までの深さは約10mにも及ぶ。

また、堀切cは土塁bを囲むように湾曲している主郭Ⅰは、聴き取り調査数十年前まで居住者が存在していた。

井戸は3m超の深さ、曲郭の削平地まで水が張っていた。居住者が使用されていたら、城郭遺構は不明である。

毛牧北城は、毛牧地区の集落北にある大福寺北側背後に築かれている。 寺の庫裏へと通じる北側から登城路がある。虎口は近代開削されたようだ、本来の城通は西側に虎口が曲郭二であったが、山麓道路拡幅で削減されたようだ。

 毛牧北城は、丘陵先端部を馬蹄形の堀切で城域を確保し、南の堀切に面した大土塁から曲輪の周囲に土塁を廻らした縄張りで、北を流れる杣川方面の展望は極めて良く、毛牧地区の西側にある山岡城の出城であったのではないか?。
 
 
歴 史

毛牧北城は、築城年代や築城者など詳細なことは不明。

大福寺の裏の城道(近年の削道)主郭虎口(近年の開削)

北の土塁

東の土塁左下は大堀切櫓台a部の平削地10m四方もある頂部の平削地、櫓台?狼煙台?

 

登城路・・城道

本来の城道・・・曲郭Ⅱと上に曲郭Ⅰの北土塁。

毛枚北城(遠望)

道路の反対側に「文化財を大切にしよう」滋賀県教育委員会と場違い!

大福寺(遠望)・・・気になる東側(右上)の平削地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、

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山岡城 近江国(甲賀)

2014年09月19日 | 丘陵城

 お城のデータ 

所在地:滋賀県甲賀市甲賀町毛枚小字谷出   maphttp://yahoo.jp/DGoBB2

区 分:丘陵城

築城期:室町期・豊織期

築城者:山岡景隆・景友

遺構:曲輪 ・土塁・空堀

標 高:220m   比高差:20m 

目標地:毛枚(もひら)大福寺・毛枚バス停

駐車場:大福寺参拝者用駐車場

訪城日:2014.9.17

甲賀市史甲賀の城より

 目印の常夜燈3基

お城の概要

毛枚集落に3城あり、毛枚川の北側大福寺の背後に毛枚北城がある。その南300mに獅子ヶ谷城。毛枚川を挟んで北西に山岡城が残存するは、規模は一番大きく、三城は接近性から見ても関わりは深かったのでは? 

 城は毛枚川の西岸にある丘陵に築かれている。南側は民家が立ち並んでおり、どの程度の規模であったかはわからないが、北側から西側に土塁が残り、北西側に土塁の切れ目があり虎口のようである。

毛枚川に面した道路(ちょうど大福寺の南側)に三基の常夜灯があり、その少し南側に西側へ登る石段がある。この石段を登りつめた先にある民家の北側が城址。

城へ坂道を北側から

V字に斜面を墓地の裏から城に入りました

 歴史  

山岡城は、山岡影隆・景友が城主と伝わる。 

山岡氏は「新訂寛政重修諸家譜」によれば、鎌倉期の貞景の代に三河国より甲賀郡大原村に移って大原氏を称した。子孫の景廣は甲賀郡毛枚村に住し、毛枚氏を称した。さらに景通の代に大鳥居氏、資広の大に栗田郡瀬田城に移って山岡氏を称し、以後栗田郡を拠点とした。室町期の事である。

築城年代は定かではないが室町時代から安土桃山時代にかけて山岡景隆・景友によって築かれたと云われる。

景隆は瀬田城主ではじめ佐々木六角氏に仕え、後に織田信長に仕えた。

本能寺の変の後に明智光秀に誘われたが、これを拒み瀬田橋を焼き落として安土城に攻め寄せるのを防いだ。

弟景友は佐久間盛信に仕えて、後に道阿弥と称して徳川家康の近習となった。

 

 毛枚氏と山岡氏 

 毛枚景広は貞景から数えて5代目に当たる。山岡系図には、「太郎 左衛門尉  近江国甲賀郡毛枚邑に住す。よりて毛枚(もびら)をもって称号とす。のち景政にいたるまでおなじ。」としている。また、それより以前に編纂された寛永諸家譜には、「その(貞景)末孫毛枚太郎景広、大原の庄毛枚村の山間に舘をかまふ。これによりて人みな山岡の名をよぶ。子孫のいみなにみな景の字をもちひて首にをく。景行天皇の末流をしらしめんがためなり。」 今に残る山岡城跡を訪ねた。県道から程近い所ではあるが急峻な細い坂道を上りきったところに岡本氏邸があり、その裏に城跡が認められた。天然の要害を利用して防備の備えを図っている。眼下に毛枚が一望できる高台である。

貞景――景重――景光――信遍(のぶゆき)――景広――景範

  景広の子供に景範、貞広、景忠がいて、山岡氏に続く家系は、山岡系図では景範であるが、貞広としている系図もある。また、景忠は、「甲賀郡上野邑に住するにより、毛枚を改めて上野を称す。子孫繁茂して二十余家となる。」と記されている。南北朝期活躍する上野氏は、毛枚氏の分かれである。

  毛枚氏から山岡氏への系図は、

 景範(毛枚氏)――広政――景政――景通(大鳥居氏)――景久――景以(かげもち)――資広(山岡氏を称す。景広ともいう。)――景長

   山岡氏の始祖景広については、諸家譜に「近江国田上の城に住し、永享年中同国栗太郡勢多邑を討取、初めて勢多の山田岡に城を築きてこれに移る。この時一字を略して山岡の二字を用いて称号とす。後勢田城を嫡男景長に譲り、石山の古城を営みてこれに住し、剃髪して光浄院と号す。嘉吉2年(1442)死す。」

 山岡景以の墓碑

  右の墓は毛枚にあり、「山岡主計頭景以之墓」と読める。景以は二人いて、一人は上の系図に見える大鳥居氏の時代の人であり、もう一人は景隆の末子である景以である。この墓碑は後者である。彼は叔父道阿弥(景友)の跡をついで3000石を宛行われた。また、毛枚が山岡氏のルーツであることは、山岡景隆の最期が毛枚の地であったことでも頷ける。
 現在、山岡会があり、臨湖庵は瀬田川沿いの勢田城跡にあったが、今は石碑と説明板残っている(マンション前に)。子孫の方々は時に毛枚の城跡にも来られるとか・る。

  

曲郭二は、整備され公園化されているが、土塁・虎口残存。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、

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草津宿本陣    近江国(草津)

2014年09月19日 | 陣屋

草津宿本陣<昭和24年7月31日 国史跡に指定>

お城のデータ 

所在地:草津市草津1丁目2   maphttp://yahoo.jp/JFZdrG

現 状:草津宿本陣

区 分:本陣

築城期:江戸期

築城者:徳川幕府

遺 構:草津宿本陣 

目標地:草津宿本陣

駐車場:草津宿本陣駐車場

訪城日:2014.9.18

 

草津市は、日本で唯一江戸時代の主要な5街道(日光・奥州・甲州・中山道・東海道)の内の東海道と中山道の分岐合流点にある重要な宿場であり、大勢の人々や物が行き交う賑わいを見せていました。

 この草津宿本陣は田中七左衛門の本陣で寛永12年(1635年)から明治3年(1870年)までの間幕府の公用の役人、大名、宮家、門跡、公卿、高僧などの休泊施設でした

 宿帳には元禄12年(1699年)7月4日に浅野内匠頭が7月14日には吉良上野介が宿泊、慶応元年(1865年)には新選組の土方歳三など総勢32名が、文久元年(1861年)には14代将軍徳川家茂に嫁ぐことになった皇女和宮さまが、江戸へ向かう途次、御昼休をとられたほか、ドイツの博学者シーボルトが宿泊した記録が残っています。


JR草津駅東口より徒歩約10分

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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