城郭探訪

yamaziro

中野城(日野城) 近江国(日野)

2013年07月15日 | 平城

日野町を舞台にした探訪「蒲生氏郷の足跡を訪ねて~中野城と城下町~」 

蒲生氏郷は近江日野出身の武将。近江守護六角氏の家臣であったが、父・賢秀が織田信長に従い、以降織田家の家臣として信長の天下統一に参加していく。

探訪では、氏郷の居城中野城の城下町として発展した日野町を散策しながら、今も残るゆかりの地を巡る。

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町西大路 map:http://yahoo.jp/pwCfLV

別 称:日野城

区 分:平城

現 状:山林

築城期:室町期 大永年間(1521~1528)

築城者:蒲生貞秀

遺 構:廓・石塁・空堀・門跡

城 域:650m×860m

目標地:中野城

駐車場:中野城の駐車場

訪城日:2013.7.15

お城の概要

 中野城は蒲生氏郷の生まれた城として知られている。
城址は昭和40年日野川ダムの建設時に多くの土塁が壊され、本丸の北側半分を除いて大半が水没し、現在では稲荷山と石垣及び空堀の一部が残されている。

 中野城の北には、隣接して西大路藩市橋家1万7千石の西大路陣屋(仁正寺陣屋)がある。

  

お城の歴史

文亀3年(1502)10月、伊庭出羽守貞隆が守護佐々木六角高頼に背いたので、高頼は兵を出して伊庭氏を討ったが、却って敗れ、高頼は音羽城に逃れた。
 伊庭出羽守貞隆は援軍細川政元の家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲したが、落とすことができず敗走した。
この籠城戦での糧水が乏しいのを体験した蒲生貞秀は、翌年中野に城を築き、ここ中野城を居城とし、音羽城を属城とした。
 貞秀は老後家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去した。その子秀紀はまだ幼かったために秀行の弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。
 貞秀の死後、高郷は所領配分の少ないのを不服として大永2年(1522)六角定頼の援けを得て秀紀の音羽城を攻めた。籠城8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。この時に音羽城は破却され、秀紀は鎌掛城を高郷は中野城を居城とした。
秀紀も母、妻も城内の井戸に身を投じ、蒲生家嫡流は滅ぶ。この後、高郷の子、定秀が蒲生家の家督を継いだ。
 定秀の子賢秀は信長に仕え、本能寺の変の際には安土城二の丸で留守を預かっていた賢秀は、秀郷と図って信長の妻女を急ぎ中野城に移し、戦備を整えて光秀の招聘には応じなかった。

 その後、秀郷(後の氏郷)は秀吉に従い多くの戦功をたてたことから、天正12年(1584)には伊勢松坂12万石の領主となり松ヶ島城へ移り、その後松坂城から会津黒川城42万石(後の若松城)に移封された。
 
 日野城には、蒲生氏あとに田中吉政や長束正家が城代として入ったが、慶長8年(1603)には廃城となった。

 

      

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア(Wikipedia)、現地説明板

 本日の訪問ありがとうございす!!

日野城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
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日野城
別名 中野城、(仁正寺陣屋)
城郭構造 平山城
築城主 蒲生定秀
廃城年 1600年
指定文化財 なし

日野城(ひのじょう)は、滋賀県蒲生郡日野町にあった日本

江戸時代は、日野城跡の一部に仁正寺藩市橋氏仁正寺陣屋を構えた。

歴史的には日野城というが、日野町には中世蒲生氏が築いた音羽城と区別する必要もあり、日野の地域名をとって中野城とも呼ばれる。

概要

蒲生定秀が天文2年(1533年)から3年ほどかけて日野の地に本格的に築城した。

蒲生氏は蒲生賢秀の代に織田信長の臣下となり、天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった時には、賢秀とその子蒲生氏郷は織田信長の妻妾一族をこの城に迎え入れた。

天正12年(1584年)氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い以降廃城となった。

元和6年(1620年)市橋長政が中野城跡の一部に陣屋を構え仁正寺藩の陣屋として明治維新まで続いた。

遺構は、日野川ダムの建設時に大部分が破壊されたが、涼橋神社と稲荷神社の周辺に一部石垣や堀が残っている。遺構の残る主郭部の近くには、「蒲生氏郷公産湯の井戸」がある。また、仁正寺陣屋の建造物は、明治時代に西大路小学校校舎として使用された後、大正7年(1918年)に京都・相国寺の塔頭・林光院に移築され、方丈・庫裏として現存している。


多賀観光ガイド研修会2013.7.11

2013年07月15日 | 探訪「大地の遺産」
非公式  多賀観光ガイド研修会
講師:長谷川博美氏
 
 
研修・見学城郭  敏満寺城
 
 
 
 

近 江 敏 満 寺 跡

近江敏満寺跡(近江胡宮明神)

参考文献:「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006:(当ページの大部は左記参考文献による。)

近江敏満寺塔婆の概要

古代・中世には敏満寺三重塔(五重塔)、南谷西福院多宝塔西谷西迎院多宝塔の3塔があったことが文献で確認できる。

敏満寺の創建

聖徳太子、あるいは慈証上人、あるいは敏満童子などと云われるが、東大寺水沼荘と関係する敏満童子説が有力と云う。
しかし、確たる資料が無く不明とするしかない。
 ※敏満童子:三修上人の弟子、三修上人は9~10世紀初頭に、伊吹山寺を開基する。

中世の敏満寺

●「平等院坊下史」
敏満寺の確実な文献上の初見は天治2年(1125)「平等院坊下史」(「長史坊政所下文案」)と云う。

・「坊政所下文案」(『敏満寺目録』所収)
             大治二年(1125)三月
 坊政所下  平等院領
    敏満寺 限東山道、限南薦辻越、限西鳥居下相木大道、限北寺登路
 右件四至内在家敷地山林荒野等、依為 霊験之聖跡、 国衛之時不勤 公役 厳免己畢、成 平等院領 之後、
 任 旧例 同雖被 奉免 未賜 政所御下文 仍住僧 等任 申請 所 仰定 如件 座宜承知、依伴行之、故 下、
   大治二年三月 日公文大法師在判
                別当法眼和尚位在判
                   法橋上人 在判
                   大法師   在判

上記の「坊政所下文案」に敏満寺の四至が示されている。
「敏満寺小字図」で云えば、東は青龍山東麓、南は南谷・原田、西は大門池・現在の敏満寺集落、北は西谷・多賀道の広大な範囲であったと知れる。また当時は宇治平等院支配であったと推定される。
 敏満寺小字図:これは近世の小字図であるが、この小字から凡その古代末・中世の敏満寺の寺域を 知ることが出来る。
        この図のほぼ中央を南北に走る道路は名神高速道で、南は原田から北は西谷・高宮池(この池は近世のものと思われる)に至る
        高速道の左右(東西)敏満寺堂宇が立ち並んでいたものと推定される。
 胡宮神社境内絵図:近世のもの と云うも、現在行方不明と云う。
        但し、画像は不鮮明、図書の掲載の絵では全く解読不能。

●東大寺・俊乗坊重源
 ※東大寺再興大勧進重源とかなりの関係があったと推定される。
治承2年(1178)・治承3年及び寿永2年(1183)兵火で敏満寺焼亡。
文治3年(1187)本堂再建落慶、重源は再興本堂に藤原伊経の手書き額を掲げるなど、長期に関係があったとされる。
その関係の一つの例証として重源による「舎利」の寄進がある。
 建久元年舎利寄進状:重文・胡宮神社蔵

・「重源仏舎利寄進状」
         建久九年(1198)十二月十九日
 奉送    敏満寺
  東寺御舎利一粒 弘法大師請来
   金銅一尺三寸五輪塔内方二寸水精玉中奉納 以両面赤地錦裏之
  金銅蓮台之左羅一口
  同加比一支
  織物打敷一帖
 右以件仏舎利相具以前舎利可被安置当寺候、是真実之仏舎利也、不可有疑殆、若加偽言者必可堕妄語罪候、
 早重賢察可被致恭敬供養候之由可令伝申衆徒御中給候、恐惶頓首敬白、
   建久九年十二月十九日大和尚(花押)
 謹上 木幡執行御房

 金銅一尺三寸五輪塔:重文・胡宮神社蔵
  ※上記「金銅一尺三寸五輪塔」は京都国立博物館に寄託、多賀町立博物館に複製品があると云う。

●白河院舎利
 ※上記俊乗坊重源寄進の舎利とは別の舎利も伝わる。
「仏舎利相承図」(胡宮神社文書)が残る。
 仏舎利相承図
 仏舎利相承図テクスト
以上によれば白河院舎利は愛妾祇園女御、その妹の子平清盛(清盛は白河院の落胤とする)に伝えられ、その内の一粒は文永元年(1264)敏満寺に施入されたとされる。

●「敏満寺堂塔鎮守目録」(「敏満寺縁起」<元徳3年(1132)と云われる。>所収)
 ※中世には以下のように多くの堂塔鎮守があったと伝える。
敏満寺本堂は7間で、三重塔一基を具える。また塔婆として南谷西福寺多宝塔西谷西迎院多宝塔があったと知れる。
また鎮守 木宮両社(拝殿九間)もあったと知れる。

 
敏満寺堂塔鎮守目録:胡宮神社蔵:上図拡大図

                     
                                                           年月日未詳
注進 当寺堂塔鎮守目録所

 本堂 七問 本尊大日並観自在号     三重塔婆一基 本尊五皆如来
 如法堂 一宇三間               観音堂 本尊十一面
 常行三昧堂 三間四面 本尊阿弥陀    法華三昧堂 本尊丈六阿弥陀
 五大尊堂 不断護摩             千三昧堂 一間四面本尊阿弥陀
 食堂 本尊文珠                楽屋 七間
 一切経蔵 一宇三間             宝蔵 一宇三間
 楼門 一宇                   大湯屋 七間
 鐘楼 一基
 木宮両社 拝殿九間             新熊野十二所 拝殿五間          白山権現
 天満天神 北野                八大龍■
   南谷
 西福院 七間 本尊阿弥陀三尊并不動沙門  同多宝塔婆 一基 本尊五智如来
 観世音堂 七問 本尊十一面           同勧請(鎮)守十二所権現
 極楽寺 三間                    地蔵堂 一問四面
 権現堂 一間四面 同廊愛染堂         往生寺 本尊阿弥陀三尊
 上林寺 本尊文珠                 来迎寺 本尊阿弥陀
 光照寺 本尊阿弥陀                釈迦堂
   西谷
 西迎院 三間四面本噂何弥陀三尊      同地蔵堂 本尊千体地蔵
 同多宝塔 本尊尺迦多宝            仏上寺 本尊阿弥陀三尊
 谷堂 三間本 尊弥陀              地蔵堂 三問
 延命寺 五間 本尊阿弥陀           浄上寺 三間四面 本尊弥陀
 同大日堂                      同薬師堂
 同鐘楼                       同光寺 五間 本尊阿弥陀
 同方丈如法堂                   光明寺 一間四面 本尊不動弥陀
   尾上谷
 丈六堂 本尊丈六阿弥陀            同如法堂 三間
 西明寺 千体地蔵                西円寺三間四面 本尊千手
 観音堂 本尊十一面               同如法堂
 地蔵堂 本尊千体地蔵             権現堂
 大円寺 本尊地蔵                円性寺 本尊阿弥陀
   敏満寺目安写
 右大吉祥院僧正 良尊御代

●多賀社参詣曼荼羅
現在3種類の参詣曼荼羅が知られる。
その内の最も古いものと推定される「参詣曼荼羅1」

多賀参詣曼荼羅1敏満寺:左図拡大図
    :多賀参詣曼荼羅1敏満寺部分図(下図の破線部)

多賀参詣曼荼羅1:全図
    :絵図の破線部が敏満寺境内

「参詣曼荼羅2」

多賀参詣曼荼羅2敏満寺:左図拡大図

多賀参詣曼荼羅2:全図(色彩図):図の下部の伽藍が敏満寺境内

上掲:多賀社参詣曼荼羅2・・・モノクロ図(全図)、多賀社参詣曼荼羅2・・・色彩図(右部分図)

 ※参詣曼荼羅:多賀参詣曼荼羅は多賀明神及び中世敏満寺を描いた貴重な絵図で、
   敏満寺には三重塔(参詣曼荼羅1)もしくは五重塔(参詣曼荼羅2)があったと推定される。

中世末期の敏満寺

●「福寿院由来記」
  ・・・天正元年(1573)頃の敏満寺を記し、近世初頭の敏満寺の様子をうかがうことが出来る。
   ・・・寛政9年(1797)当時の住職祐仙が複写した文書と云う。
  戦国末の兵火以前の敏満寺については以下のように記録される。


一当山第一座之良吏を福寿院と号す、此と云ハ、
 一山の之(ママ)頭、孰(イズレ)れの坊か越之哉(コエンヤ)、此外当山を四流に分地ス、原田 南谷 西谷 北谷と云、
  原田の執行を
 宝寿寺 本尊釈迦如来 当山兵火の後、地福院住職移之、以降院号ニ改ム、後ニハ宝寿院といふ
  南谷の執行を
 世尊寺 本尊釈迦如来 慶長年中迄堂宇有之 俗に釈迦堂と云
  西谷の執行を
 西照寺 本尊中品中生の阿弥陀如来 江北淺井家之祈願所なり
  北谷の執行を
 無量寺 本尊阿弥陀仏 元和年中迄堂宇有之 俗ニ溝坊といふ
  右四ケ寺は四谷の執行と云、
  次二四政所と云院宇有之、
 地福院 本尊地蔵菩薩 ○原田組、居寺ハ本堂の西二有之、
 金剛院 本尊金剛賢菩薩 ○文亀之炎上以降無再造営、原田宝寿院此役を勤る
 延寿院 本尊普賢菩薩 ○西谷之内、俗ニ円中坊と云是也、元和年中迄院宇有之
 地蔵院 本啓地蔵菩薩 ○北谷組之内寺辻北側ニあり、元和年中迄院宇有之、唯今当院ノ本尊これなり
  右之四院政所役といふ、請 之命ヲ行之、
一八百八坊之内院号四拾四院、坊号壱百六拾四坊、合弐百八坊、俗上方万と云、加行密教伝法ス、
 右四拾四院之内、衆徒方之頭ニケ院、西光院 地蔵院之西 西福院 上同、

※敏満寺首座は福寿院であり、この山(寺院)は原田 南谷 西谷 北谷の四谷で構成され、各々執行があり、四政所を初め合計208坊から成ると云う。 いずれにしろ、大伽藍があったと思われる。

  その後、敏満寺の兵火による荒廃を記し、その直後の再興の状況を記す。
 

一当山堂宇坊舎、文亀三紀癸亥年三月十日之夜焼失す、其後佐々木六角屋形高頼朝臣再造之、寄附之領知ハ如元也、
一元亀三壬申年、信長公為兵火当山堂塔坊舎不残焼失す、自是寄附之領知を失ふ、此時原田塔頭ハ火難を遁ル、
 仍而本尊大日を奉始、原田宝寿院エ奉移、福寿院法印徳仙茂宝寿院へ再住す、
一天正元癸酉年三月、福寿院徳仙代院宇再造之、本尊大目如来茂福寿院江奉移、法印徳仙寺役等無怠慢勤行之云々、
 此時再造する坊舎ハ
福寿院 を始メ            世尊寺 南谷、俗ニ釈迦堂と云
延寿院 西谷                正覚院 西谷組之内、寺辻南側
遣迎院 西谷組之内仁王門ノ西ノ方  地蔵完 北谷組之内、寺辻北側
光明寺 本尊甘露王如来、滅罪所   西光院 地福院之西
西福院                    来覚完 麻生(傍注「アソウ」)玄人屋敷之北也、西谷組之内
束一坊 高宮三河守祈願所       慈光坊 磯野丹波守祈願所也
勝蔵坊                    中之坊 久徳左近太夫祈願所
仙蔵坊 北谷字風呂谷、○元和年中之住持祐仙(傍注「只今之小兵衛家之事也」)代二十ニ所権現官仕之当番也、
     仍而其以来祐仙家ニ代々此社地を所持ス、後二寛永十一年、大目殿天下之御造営二なる時ニ、
     彼社地を福寿院汪祐仙より寄附すと云々、
来鳳坊                    浄敦坊
浄泉坊                    明智坊
月定坊 風呂ノ谷之下、横道より与辻北側、高野瀬殿祈願所、北坂之音福ゆずりを受ル
蓮台坊 南谷                西蓮坊 北谷之内
浄観坊 南谷                高井坊 北谷ノ内
医王院 西谷ノ内字水船         教寿坊 平ノ衆徒守
本行房 西谷                常実房
福行房                    徳満房
浄法房                    音教房
福乗房                    祐徳房
乗円房                    乗満房
福純房                    来信男
徳円房                    休宗房 西谷
教園房
右之坊宇、兵火の後自分二再造之也、雖然寄附之所領を失ひし故、僧料無之、多くハ他山へ出立す、
或ハ耕作を事とし、還俗の身に下るも有、原田方は此度之火難を遁るといへ共、領知なき故法令不正、
我々になり、他山へ出立す、又ハ還俗す、相残テ先格寺法を正しく相守ものハ、福寿院・宝寿院ニケ院のミ也

※文亀3年(1503)焼亡・六角高頼が再興、元亀3年(1572)信長により焼亡、直後の天正元年(1573)長史福寿院初め多くの坊舎が (多少信憑性に欠けるきらいもあるが)再造されるも、当時は経済的基盤を欠き、終には福寿院・宝寿院ニケ院となる。
なお敏満寺衆徒方般若院・成就院は敏満寺を離れ、多賀社の被官を頼み「札売勧進の坊主」となると云う。

  「新谷氏伝譜系図」では永禄5年(1562)の淺井長政による兵火があったとする。
 

「新谷氏伝譜系図」
勝経 新谷伊豆守 敏満寺公文所
  神官職 家老 岡左衛門尉重元・北村三郎兵衛尉政常
永禄五年九月四日、久徳左近大輔実時叛江北京極殿御方、為江南観音寺城主六角左京太夫義実(賢カ)之味方、
依之、不移時中浅井備前守長政引卒八千余騎軍勢、押寄久徳城、数日攻戦、終突一城落去矣、仍敏満寺衆徒并神官等久徳之一味也、故浅井忽押寄敏満寺、于時衆徒等於惣大門前防禦之、及敗軍、浅井勝乗、直於院内坊合軍火、此刻味方学頭豊一坊・池之坊、
同学侶光満坊以下百弐拾之坊舎悉炎上、新谷伊豆守・同下司左衛門太夫・前公文出羽守、凡其勢八百余人皆戦死、
同九月五日、多賀大社諸伽藍倶炎上、神官坊舎悉破却、
此日新谷伊豆守負重疵、人山中自殺畢、
 法名 王台院殿公文照清禅定門
 妻 久徳左近大輔実時女 享禄元年正月十七日卒
                  智道禅定尼

勝虎 新谷越前守 
   神官 敏満寺公文所
敏満寺破却之刻、寺産宝物旧禄等散在云云、其身負重手、引退大君ケ畑村、保養疵全癒云云、浅井殿加憐愍、被召出、
如旧例神官職被申渡畢、永禄六年社頭遷宮、自浅井殿敏満寺門前・藤瀬・萱原三箇村寺領拝領、
永禄十一年九月廿日、平相公平信長公敏満寺四至封疆地除被仰渡、
天正元年九月四日、於佐和山城奉拝謁 信長公、則為社領賜旧領三箇邑、
同十七年佐和山城主堀左衛門督秀政殿之与力侍被申渡、此刻屋敷地免除、
  天正十九年正月十五日卒、法名岳照院宗観大禅定門
  妻 今村帯刀正息 法名 妙度禅定尼
  文様二年八月九日卒
(系線は省略)

※新谷氏は代々中世末期の「神官」「敏満寺公文所」であるとする。
永禄5年(1662)久徳左近大輔実時は六角氏に味方したため、淺井長政は久徳城に押し寄せ、落城させる。久徳に一味した敏満寺衆徒・神官も攻撃を受け、120の坊舎は悉く炎上、学頭以下800人が戦死、後日には多賀社も炎上、新谷勝経は自殺、子息勝虎も負傷する。
永禄6年3ヶ村の寺領受領、永禄11年信長、3ヶ村の寺領を安堵、


  「川瀬右近覚書」では元亀年中(1570-)織田信長により焼払われたとする。
     (これは多賀社にあった旧記を延享3年大神主川瀬右京が書写し、さらにこれを文化5年福寿院が写したもの)
 

(前略)
 一元亀年中織田信長公ヨリ使者長谷川大竹被参此地、社坊二万三千石御朱印有之段、
  此度織田氏公ヨリ御朱印書相改役参り申候間、別当三ケ寺江右之由被相達申候事
 一三ケ寺ヨリ坊中寄セ相談被致、坊中承知不致。織田氏江訴シヨウ申上ル事
 一織田氏大竹ヲ呼、今日胡宮三ケ寺ヨリ返事有之由可申人ル事
 一長谷川中々此度主君之蒙り(脱字アルカ)慰ニハ不被参トテ、森蘭丸江此由被申候事
 一松本伊勢丸又々使者二被参、先達長谷川使者二参リ候段承知無之故、此度織田信長公ヨリ主明(命)二付参リ申軟。
  双方坊中為方ニ相成様可被指上事弥承知不致事故、此段織田氏へ中上ルトノ事
 一社坊ニ持セ置候ハ何之ヱキ(益)有ン。此方へ取上ルト被申候事
  後ニ社坊焼被払候事
  坊中立退可申事
(後略)

※織田信長は敏満寺寺領23000石を改める動きに出るも、別当3ヶ寺(福寿院・宝寿院・神護寺)はこれを拒否する。再び信長の寺領改めの要求があったが 敏満寺は再度拒否、そこで信長は寺領を取り上げ、社坊を焼き払う処置に至る。

近世以降の敏満寺

永禄5年の戦火で本尊大日如来は西麓の宝寿院に遷座、慶長年中には礎石が彦根城普請のため運び去られると云う。
寛永年中徳川家光は胡宮明神の造営を行い、大日堂が再建・本尊は帰座する。
また元敏満寺の塔頭であり既に多賀大明神の社僧となっている般若院・成就院は、多賀明神年中行司には、両院が多賀明神に出張して執行する形態であったと云う。
近世には敏満寺長史福寿院が再興され、胡宮明神を付属させ、明治維新まで存続する。(福寿院は社務所として現存する。)
現在、大日堂および観音堂、胡宮明神、福寿院(現社務所)が現存し、境内には、天台の大寺であった時代の敏満寺金堂礎石・仁王門跡などを残す。
観音堂:寛永15年(1638)造営、元禄12年(1699)修復、寛政9年(1797)頃<福寿院別当声海代>現位置に移転 。
大日堂:寛永年間、徳川家光の大造営により再建。

 2001/10/07撮影:
 近江敏満寺金堂跡:境内には礎石と金堂跡碑が残存する。
 近江敏満寺仁王門跡:以前から礎石5個が露出していたが、発掘調査の結果12個の礎石を持つことが判明、
            瓦の出土が無く、檜皮葺等と想定される。遺跡上部の構造物は名神高速道高架橋。

敏満寺跡はその中心に名神高速道路が建設され、多くが破壊されたと云う。
青龍山の頂上付近には、「岩磐」があり、その麓には13世紀~16世紀の「石仏谷遺跡」がある。
また中世末期には、敏満寺も武装し、それを物語る敏満寺城の遺構が発掘される。
 敏満寺城遺構図

2008/09/24撮影:
 近江敏満寺金堂跡附近:特に地上には遺構は確認できませんが、附近を含めかなり広い平坦地を残す。
 近江敏満寺参道:この参道の建設時期は不明ながら、参道は仁王門から金堂附近に達する。
 近江敏満寺仁王門礎石
 近江敏満寺観音堂     近江敏満寺大日堂:いずれも江戸初期の造営と云うも、仮堂的な建築で敏満寺の寺勢の衰えを感じさせる。
 近江敏満寺胡宮明神:拝殿及び本殿
 福寿院
  福寿院山門     福寿院坊舎1    福寿院坊舎2    福寿院庭園1    福寿院庭園2


 
 
 
楢崎(ならさき)城 犬上郡多賀町楢崎
 
 :佐和山城から移築門
 
 
これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
 
 
歴史
樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にもその名が記されている。
永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
高源寺の総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門を移したものと云われ、また、宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
平成8年度には、多賀町教育委員会により発掘調査が行われ、室町~戦国時代の館跡が発見されている。
 
発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
楢崎氏館跡の目と鼻の先の正楽寺には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
なお、楢崎氏館に詰城があったとすれば、尾根上の勝楽寺城と重複していた可能性が高い。
高源寺の背後尾根、前面の段築
 
アクセス
 
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を東の多賀方面に道なりに8.3km程行った国道307号の金屋北交差点で左折する。県道227号線に入り、東に道なりに1.5km程行った道が左に大きくカーブする手前で右折する。道なりに南に270m程行った先の山裾にある高源寺付近が城跡である。
 
 
 
 
 
 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 
  

仁正寺陣屋(西大路藩) 近江国(日野)

2013年07月14日 | 陣屋

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町西大路  map:http://yahoo.jp/W2g8gq

別 称:西大路藩

区 分:陣屋・藩庁

現 状:運動場

築城期:江戸期 元和6年(1620)

築城者:市橋長政

遺 構:城跡碑・説明板・移築本殿

標 高:200m  比高差:ー

目標地:日野城(中野城)

駐車場:日野城(中野城)駐車場

訪城日:2013.7.6

お城の概要

西大路陣屋は中野城の城域にあり、案内板と共に石碑が建つだけで、陣屋の藩庁跡はゲートボール場となっている。

 唯一京都の相国寺の塔頭である林光寺の本堂に陣屋の御殿が移築されている。

 京都相国寺の塔頭 林光寺の本堂に陣屋御殿を移

お城の歴史

 大永3年(1523)蒲生氏が日野の地に日野を築城した。賢秀の代に織田信長の臣下となった。天正12年(1584)蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降廃城となった。

元和6年(1620)市橋長政が越後国三条より2万石で入封し、日野城(中野城)の一部に陣屋を構えた。元和8年(1622)、長吉に2千石分知し、慶安元年(1648)、市橋政信の弟政直に1千石分知し、1万7千石となった。文久2年(1862)仁正寺を西大路藩に改称した。

以降江戸時代を通じて、市塙氏は日野を離れる事もなく10代長和の代に明治維新を迎えた。

  

仁正寺藩は、近江国蒲生郡仁正寺(現滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩。別名を西大路藩とも言う。藩庁は仁正寺陣屋。

 西大路陣屋は西大路藩市橋家1万7千石の陣屋で、元々仁正寺と記していたものを文久2年(1865)に改称したものである。

 西大路藩は元和6年(1620)市橋長政が野洲郡,蒲生郡などに2万石を封され、この地に入部し、築城したことに始まる。
市橋家は元々織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いや大阪両陣での活躍により、元和2年に越後三条に4万石をを封された。同6年3月藩主長勝が死去し、養子の長政は減封され近江国に移り、戦国期の蒲生氏の居城・中野城に注目し仁正寺陣屋を構えた。

 元和8年幕命により所領2千石を同族の市橋長吉に分与し、2代目政信は弟・政直に1千石を分与し、1万7千石となる。その後11代続き幕末を迎えた。明治4年の廃藩置県により西大路藩は廃された。

 陣屋は明治7年に朝陽小学校となり、建物はそのまま使用されたが、大正5年に小学校が移転・新築され陣屋の建物は京都相国寺の塔頭である林光院に移築された。

藩史

元和6年(1620年)、市橋長政が近江国蒲生、野洲両郡と河内国内に合わせて2万石を与えられたことから、仁正寺藩が立藩した。長政は元和8年(1622年)1月、幕命により市橋長吉(三四郎)に2,000石を分与したため、所領は1万8,000石となった。長政は徳川家光のもとで奉行として功を挙げている。慶安元年(1648年)に長政が死去すると、後を長男の市橋政信が継ぐ。このとき、弟の市橋政直に1,000石を分与したため、1万7,000石となった。政信は徳川家綱、徳川綱吉のもとで功を挙げている。その後の藩主は第5代藩主・市橋直挙が第8代将軍・徳川吉宗に認められた教養人であるということくらいで、特筆すべき事柄はない。

幕末期、最後の藩主であった市橋長和は幕末の動乱の中で国防のために火薬の製造、武芸奨励などに尽力した。文久2年(1862年)4月28日には仁正寺を西大路と改名したため、以後は西大路藩と称された。長和は当初は佐幕派であったが、次第に新政府側に傾いてゆき、明治天皇が東京へ行幸するときには天皇の奉送や京都守衛などで功績を挙げている。

現存する建物

  • 旧藩邸の大半は大正初年に京都相国寺の塔頭林光院として現存。
  • 旧藩邸の勘定部屋は町内に移築。現在大字西大路衆議所として使用。
  • 市橋家の菩提寺である清源寺書院は文久元年の新築前の藩邸の一部を移築。
  • 大字西大路聖財寺、法雲寺も藩邸の一部が移築または部材が転用されている伝承がある。

歴代藩主

市橋(いちはし)家

外様。2万石→1万8,000石→1万7,000石。

  1. 市橋長政(ながまさ) 元和6年(1620年)藩主就任-慶安元年(1648年)2月11日死去
  2. 市橋政信(まさのぶ) 慶安元年6月4日藩主就任-宝永元年(1704年)1月1日死去
  3. 市橋信直(のぶなお) 宝永元年2月29日藩主就任-享保5年(1720年)3月26日死去
  4. 市橋直方(なおかた) 享保5年4月26日藩主就任-元文元年(1736年)5月25日隠居
  5. 市橋直挙(なおたか) 元文元年5月25日藩主就任-宝暦8年(1758年)11月24日隠居
  6. 市橋長輝(ながてる) 宝暦8年11月24日藩主就任-天明5年(1785年)10月6日死去
  7. 市橋長昭(ながあき) 天明5年12月7日藩主就任-文化11年(1814年)9月27日死去
  8. 市橋長発(ながはる) 文化11年11月29日藩主就任-文政5年(1822年)1月30日死去
  9. 市橋長富(ながとみ) 文政5年9月1日藩主就任-天保15年(1844年)10月7日隠居
  10. 市橋長和(ながかず) 天保15年10月7日藩主就任-明治4年(1871年)7月14日藩知事免官

幕末の領地 近江

    • 野洲郡のうち - 3村
    • 蒲生郡のうち - 27村
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア
  本日の訪問ありがとうございす!!

楢埼(ならさき)氏の菩提寺 近江国(多賀)

2013年07月14日 | 居館
楢崎(ならさき)城
佐和山城の移築門は、敷居ない(馬で駆け抜けるため)
お城のデータ
所在地:犬上郡多賀町楢崎 map:http://yahoo.jp/fYrh5J
現 状:寺院・宅地・森林
区 分:平城
遺 構:土塁・石垣・水堀・大堀・佐和山城より移築門
築城期:室町期
再興期:江戸期
築城者:楢崎氏
再興者:彦根藩主 井伊家の家老、脇家・宇津木家
目標地:高源寺
駐車場:高源寺駐車場3台
訪城日:2013.7.13
 
:佐和山城から移築門
 
 
裏には、水堀が2重に(灌漑用溜池か)現在も確認できる。
西は、大横堀、南は2重の水掘、東は犬上川…北の守のみ!(自然の地形に横堀・水掘の防御備え)
 
お城の概要
 この寺は鎌倉時代に創建され、もとは天台宗に属し十福寺と呼んでいました。当寺の裏山には近江源氏・佐々木氏の四天王寺の一人として活躍した樽崎氏の館の跡が残っている。
 高源寺は、元楢崎氏の菩提寺の十福寺で廃寺となった。
江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
 発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
 楢崎氏館跡の目と鼻の先の正楽寺には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
なお、楢崎氏館に詰城があったとすれば、尾根上の勝楽寺城と重複していた可能性が高い。
宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
 
墓地の突き当り勝楽寺城の東裾大横堀
 
移築門は、敷居ない(馬で駆け抜けるため)高源寺の背後尾根、前面の段築
 
 
歴史
 樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にもその名が記されている。
 永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
 江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
高源寺の総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門を移したものと云われ、また、宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。

 平成8年度には、多賀町教育委員会により発掘調査が行われ、室町~戦国時代の館跡が発見されている。
発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
楢崎氏館跡の目と鼻の先の正楽寺には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
なお、楢崎氏館に詰城があったとすれば、尾根上の勝楽寺城と重複していた可能性が高い。
 江戸初期の慶長年間に京都妙心寺の高僧禿翁禅師を招き開山として、脇・宇津木両家の菩提寺としました。そして脇五右衛門豊久禄高三千石(法号 天徳院殿徹岩善随居士)宇津木治部衛門久豊禄高千五百石(法号 高源院殿良山全長居士)両氏の院号にちなんで、天徳山高源氏とし、臨済宗妙心寺派に属し現在に至っています。最盛時には大寺院で学僧五十有余が住した湖東における名刹でしたが、明治九年五月八日未明の火災により、総門だけはまぬがれましたが、他の伽藍はすべて灰燼となりました。
 総門は石田三成の居成であった佐和山城の裏門を移したもので文化財としての価値も高いといわれています。
 
鎌倉時代に創建された寺で、もとは天台宗に属し、十福寺と呼んでいた。
近江源氏・佐々木氏の四天王の一人として活躍した楢崎氏の菩提寺として当院が創建されたたものと推定されている。織田信長によって、佐々木氏が滅亡するや楢崎氏もこの地を離れ、それ以後廃寺になった。これを再興したのが、彦根藩主井伊家の家老の脇家、宇津木家の両家。両氏の院号にちなんで、天徳山高源寺とし、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至る。
 〔大寺院で湖東における名刹であったが、しかしながら明治9年(1876)火災により、総門だけは災を免れたものの他の伽藍はすべて灰となった。総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門をうつしたものである。明治14年(明治の神仏分離令)多賀にあった正覚院、般若院、不動院を移した。
  また、茶人、井伊大老が始めたと伝えられる石州流直弼派‘一会流’の「茶筅(せん)塚」がある。塚は75センチ立方の台座の上に75センチの茶筅が置かれ、ともに御影石製。
  当院には、井伊直弼を助けた「村山たか女」の肖像画がある。「村山たか女」は、多賀大社の近くの生まれで、多賀大社境内にあった般若院に出入りをしていたころに 井伊直弼と当院で出会ったと言われている。〕
源氏物語明石之巻襖絵・地蔵菩薩半跏像など
【その他】
「村山たか女肖像画」「絹本著色源氏物語明石之巻襖絵」300円
高源寺 高源寺
高源寺 高源寺

・村山たか女肖像画   ・絹本著色源氏物語明石之巻襖絵
村山たか女肖像画   絹本著色源氏物語明石之巻襖絵
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布、多賀教育委員会、近江の城、淡海の城、 
 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


後藤館  近江国(八日市)

2013年07月13日 | 居館

後藤館

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)中羽田町   map:http://yahoo.jp/XBTctB

区 分:居館

現 状:田地・宅地

遺 構:土塁・堀・石垣・説明板

築城期:室町期

築城者:後藤氏

標 高:111m 比高差:-

目標地:雪野山トンネル東側出口

駐車場:児童公園(神社御旅所)

訪問日:2013.7.6

お城の概要

 中羽田集落の南東端にあって昭和58年に県指定史跡となった後藤氏館跡は、その名に見られるように進藤氏と並んで佐々木六角氏の両藤と称された後藤氏の居館跡です。後藤氏は六角氏の奉行人を務めた重臣で、永正13年(1516)の伊庭貞隆の乱の際には六角氏の家宰として活躍、これを機に、さらに権勢を高めたことから、永禄6年(1563)、後藤氏の力を恐れた時の守護佐々木義弼に賢豊父子が暗殺された「観音寺騒動」は、歴史上の重要、かつ有名な出来事です。

館跡の構造は、西辺の中程に、両側に石積みを施した幅約6mの虎口を持ち、四周に幅6~8m、深さ約1.5mの堀と、その内側に基底幅約11~15m、高さ約3mの土塁を巡らせた方形単郭に分類されるもので、規模は外周の堀跡を含めて東西が約100m、南北が東辺で約100m、西辺で約120mを測る台形状の平面形を呈しています。しかし、現状では南辺と西辺の堀は埋没し、土塁も削平され、虎口両側の石積も後世に積み直された状況で畦畔上に孤立しています。

お城の歴史

後藤館跡(滋賀県東近江市中羽田町)は、近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館跡である。
後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、六角氏の家老の位置にあった。

十六世紀中頃、後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)義賢の子・義弼に謀殺された。
これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる
『現地案内板』

賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、六角義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務める。永禄5年(1562年)、義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

後藤 賢豊(ごとう かたとよ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。

生涯

主君である六角義賢の偏諱を受け、賢豊と名乗った。

賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。

永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務め、永禄5年(1562年)には義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。

永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

 

後藤館跡

 

 後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、六角氏の家老の位置にあった。

後藤館跡(滋賀県東近江市中羽田町)は、近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館跡である。

十六世紀中頃、後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)義賢の子・義弼に謀殺された。
これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる
(『現地案内板』)。

後藤氏館跡は、周囲に基底幅約11m、高さ約3mの土塁を築き、その外に堀を穿った単郭構造の館跡で、東西幅、東辺の長さ約100m、西辺の長さ約120mの変形四辺形プランを呈し、西辺土塁の中央部に正門が存した(『現地案内板』)。

当時の在地領主の館は、非常時に備えて土塁、板塀などの防御施設が設けられ、敷地内には主屋、納屋、蔵、厩などの建物が存した。当館跡の建物配置は定かでないが、昭和五十六年の発掘調査で井戸跡、厠跡、柵跡などが検出され、その位置から主要な建物は敷地内北部中央付近に存したと推定される(『現地案内板』)。

六角重臣の居館跡ということだが、水田にぽつんと石垣と土塁が残るのみである。しかし、大規模な遺構で、観音寺城と類似する貴重な史跡である。

門址の石垣

北辺の土塁。背景に見える山は観音寺城跡のある繖山

瓶割城址

観音寺城・清水山箕作城・箕作山小脇城・・・・さらに玉緒山布施山城跡、雪野山野寺城跡・・・・佐々木六角氏の重臣の山城が

石垣で組まれた虎口石垣で組まれた虎口

田んぼの真ん中に大きな石を使って組まれた石垣と土塁が残る。石積みとしては、観音寺城平井丸の大手城戸によく似た作りである。

 このような平地に残る遺構としては非常に珍しく、高く評価したいところであるが、残念ながら積み直しの跡が生々しい。

土塁土塁

参考資料:東近江遺跡シリーズ3・・東近江埋蔵文化財センター、現地説明板、淡海の城、 ウィキペディア

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


雲迎(うんこう)寺(音羽氏館) 近江国(日野)

2013年07月12日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町音羽 map:http://yahoo.jp/FS9o8Y

別 称:音羽氏館

現 状:寺院・森林

区 分:城郭寺院

築城期:室町期

築城者:音羽氏

遺 構:土塁・空堀・犬走り・切岸

目標地:雲迎寺

駐車場:雲迎寺駐車場20台

訪城日:2013.7.12

 

お城の概要

雲迎寺は、通称、"さつき寺"と呼ばれる浄土宗の寺であるが、寺の正面にサツキや石を配した築山のような土盛りは、紛れもない土塁である。

一歩裏手へ回ると、雲迎寺の周囲は見事な土塁で囲まれ、空堀が配されている。寺とはいいながらも、その造りは"城砦"そのものである。
 位置的には音羽城の北約300mに位置しており、音羽城の出城的な位置づけが考えられる。

 なお、雲迎寺の境内には約1000株のサツキが植えられ、中には樹齢380年を越えるというサツキがあり、サツキが咲く時期には観光客で賑わう。

  

  

雲迎寺の土塁

雲迎寺の土塁

雲迎寺の周囲は見事な土塁で囲まれ、空堀が配されている。寺とはいいながらも、その造りは"城砦"そのものである。
 位置的には音羽城の北約300mに位置しており、音羽城の出城的な位置づけが考えられる。

 歴史

 蒲生氏の支流音羽氏と深い関係を持つことからしても、音羽城を本城とした蒲生氏との強いつながりを持った寺院と考えられ、境内に南北朝時代の貞和5年(1349)の刻印がある宝篋印塔がある。

 更に徳本上人名号碑や鉄火裁判記念碑、千体地蔵などがあり、さつきの開花時期には訪れる人が多い。(日野観光協会、西大路公民館 現地案内板より)

 雲迎寺は、見事な庭園を持つが地元の人以外はほとんど知られていない“花の名刹”である。寺中におよそ1000本のサツキが耐え間なく植えられており、色とりどりに咲き乱れる時期は実に美しい。本堂正面にあるサツキは“花の津波”を思わせるほどの迫力で高く盛り上がっており、サツキ庭園として日本随一の眺めといってよいだろう。

名称
さつき寺(雲迎寺) (サツキデラ(ウンコウジ))
所在地 〒529-1626 滋賀県蒲生郡日野町音羽261 MAP
TEL:0748-52-3914
植物さつき
その他情報 時期 :6月上旬~中旬
お問合わせ 0748-52-6577
HP http://www.biwa.ne.jp/~hino-to/098.html

 

 

養泉寺

養泉寺

養泉寺の詳細情報

住所〒529-1626 滋賀県蒲生郡日野町音羽258

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その他説明/備考 蒲生郡日野町音羽258 湖東 東近江市周辺 真宗大谷派 ※ 養泉寺

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、日野町HP、現地説明板

   本日の訪問ありがとうございました!

 


雪野山城   近江国(八日市)

2013年07月10日 | 平山城

 雪野山古墳から出た鏡の中には三角縁神獣鏡も多数あったのは事実だが、それは被葬者の足下に置かれていて、もっとも重要だと考えられる、頭部近くには三枚の鏡が置かれていたが、そのうちの一枚は同じ三角縁鏡でも、三角縁竜虎鏡であった。

 

  雪野山城

 

後藤氏の羽田館の詰城:雪野山古墳に築かれた雪野山城だった。

お城のデータ 

所在地:東近江市上羽田      map:http://yahoo.jp/FF3kwx

現 状:雪野山古墳・ハイキングコース

区 分:平山城

築城期:南北朝期

築城者:後藤氏

城 主:後藤賢豊

標 高:308m 比高差:200m

遺 構:石垣・竪堀・畝状竪堀・曲郭基壇

目 標:東近江側・・雪野山公園駐車場・竜王町側・・妹背の里無料駐車場

駐車場:雪野山公園駐車場・妹背の里無料駐車場 

訪城日:2013.7.6

(前方後円墳の円墳部分)が主郭ヵ、北に竪堀・土橋カ、西は切岸カ・・・

詰め城として、雪野山の墳丘の雪野山城を築いていた(東近江遺跡シリーズ3・・東近江埋蔵文化財センター)

また、後藤氏は北の有事に備えて城郭【佐生城】を構えていた。

後藤屋敷雪野山城

アクセス

 

後藤 賢豊(ごとう かたとよ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。

生涯

主君である六角義賢の偏諱を受け、賢豊と名乗った。

賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。

永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務め、永禄5年(1562年)には義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。

永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

参考資料:東近江遺跡シリーズ3・・東近江埋蔵文化財センター、現地説明板、 ウィキペディア

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


圓城寺城 近江国(大津)

2013年07月09日 | 城郭寺院

関ヶ原の戦いの前哨戦

大津市・琵琶湖展望(園城寺内)

お城のデータ

別 名:三井寺

所在地:大津市園城寺町246 map:http://yahoo.jp/W69Yvt

築城期:壬申の乱(672)の後創建 7世紀

築城者:大友与多王(大友皇子の皇子)

現 状:圓城寺(三井寺)

区 分:城郭寺院

標 高:150m 比高差:60m

陣 城:長等山(ながらさん)の山腹に西軍の陣所

  • 大津籠城は慶長五年(1600)9月4日
  • 西軍、立花宗茂と毛利軍
  • 大津開城は慶長五年(1600)9月15日

目 標:圓城寺(三井寺)

駐車場:圓城寺(三井寺)

訪城日:2013.7.7

展望台から大津市・琵琶湖(園城寺内)

お城の概要

関ヶ原の戦い前哨戦

  大津籠城は慶長五年(1600)9月4日から始まり、家臣の妻子をよんで兵糧米の確保や、塩や味噌、醤油も城内の蔵に入れ、防御を堅固にするため城のまわりを14時間もかけて焼き払いました。
この籠城に対して、西軍、立花宗茂と毛利軍の率いる一万五千の大軍は大津城を包囲し、大津城が非常に見やすい、城の南西にある長等山(ながらさん)の山腹に陣をはりました。西軍の総攻撃は9月6日からはじまり、城外の前線陣地は全滅となりましたが、城内の守りは堅く、一進一退の攻防が続きました。そこで西軍は、長等山に大砲を据えて、城内に向かって砲撃を開始いたしました

この攻撃ぶりを京の町衆も手弁当をもって見物にきていたといわれています。城内はこの攻撃にも開門の様子なく、6日目を迎えましたが、西軍の外堀を埋める戦略により、より激しい攻撃が行われ、9月14日、秀吉と親しかった高野山の僧、木喰応其(もくじきおうご)と新庄直忠が本丸に入り、和睦開城を申し入れました。

 

歴 史

三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。

平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。

しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

 文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

 寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

関ヶ原の合戦前哨戦

東軍の勝利を決定づけたともいえる大津城籠城の攻防戦

慶長三(一五九八)年八月、豊臣秀吉が伏見城で死去すると政治情勢が急激に動き出す。秀吉生前中から五大老の一人、徳川家康の台頭により合議体制がくずれつつあったなか、翌年に豊臣家を継承した秀頼の補佐役であった前田利家が病死すると、それまで保たれてきた均衡状態が失われてしまう。

家康は、豊臣方に忠誠を誓う有力大名の圧服にのりだす。まず加賀の前田利長、丹後の細川忠興などを押さえ、ついで東国の雄、会津の上杉景勝に働きかける。ところが、景勝が上洛を拒んだため家康は上杉討伐を企てる。

この強引ともいえる出兵は、反家康派の反感を呼び、石田三成を中心に五大老の毛利輝元や宇喜多秀家をはじめ豊臣方に縁の深い諸大名が大阪城に集結することになる。

これに対し、家康の動きも早く慶長五(一六〇〇)年六月十八日には大津城に入り、城主の京極高次と密談している。『京極家譜』には「大津城へ入御、御密談あり」と記されている。ときに高次は、豊臣方か徳川方か、いずれにつくか苦しい立場にあった。高次は豊臣方恩顧の大名であり、正室の常高院(お初)は秀吉の側室・淀君の妹であった。高次の妹・松の丸も秀吉の側室として仕えていた。一方、高次の正室の妹・崇源院は徳川家康の次男・秀忠(二代将軍)の妻となっていた。そんな苦しい状況の中で、高次はとりあえず豊臣方に応じて、加賀の前田討伐に兵を出す。

 高次は突如東軍に寝返り、手勢3,000名を率いて大津城に籠城し、防備を固め始めた。この出来事に大坂城の淀殿は驚き、城中にあった高次正室の初(常高院、淀殿の妹)に海津殿を使者として遣わして停戦・降伏を求めるが、大津側は拒否した。

これに対して西軍側は、高次の裏切りに対する報復として、毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5000人の軍勢をもって、慶長5年9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始した。しかし城攻めは捗らなかった。中でも赤尾伊豆守・山田大炊は兵500を率いて城外へ討って出て、戦ったという。攻めあぐねた寄せ手は、13日には大砲を城内に撃ち込んだ。砲弾は天守にも命中、城内は混乱し。高次も防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将・立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。

高次をはじめとする京極勢は9月15日に降伏して大津城を開城する。高次は一命を助けられ、高野山に上って出家することとなった。

金堂は、桃山時代、豊臣秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)による再建。

削岩のノミの跡

影 響

この大津城攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大局的には西軍の敗因にもつながった。なぜなら、大津城が開城した9月15日は、関ヶ原の戦いのまさに当日だったからである。つまり西軍は、本来なら関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦う、という不利な状況を招いたのである。西軍は大津城を陥落せしめたものの、同じ日のうちにその局地的勝利は意味を失った。

立花宗茂は大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津まで進出したが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ、戦後に改易されてしまった。

一方、敗軍の将である京極高次に対して家康は、関ヶ原戦後に高次の弟・京極高知(関ヶ原で東軍の将として功を挙げた)を使者として高野山に派遣し、大名としての復帰を許しただけではなく、若狭一国・9万2000石を与えて功に報いた。家康は、宗茂を大津城に引き付けたことを大いに賞賛したという。

 

参考資料:ウィキペディア、圓城寺HP、大津の城、

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上坂城 近江国(長浜)

2013年07月09日 | 平城

 

所在地:長浜市西上坂町

現 状:児童公園

築城期:室町時代

築城者:上坂氏

区分:平城

遺 構:曲輪、土塁、屋敷跡、碑、説明板

訪城日:2013.7.9

 

 

戦国時代に京極氏・浅井氏の家臣であった上坂(こうさか)氏の館跡です。

 

上坂氏は、室町時代から北近江の守護であった京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握りました。さらに、伊賀守意信(おきのぶ)は浅井氏に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟・羽柴秀長の家臣として各地を転戦しています。

 

関ヶ原合戦の際、西軍となり敗れたことで帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から屋敷跡を受け取っています。

上坂氏は中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井(ごうりゆ)」の管理者として知られ、姉川上流や北岸の村々との争いに際しては、その代表者として臨みました

 

館跡は土塁と堀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や土塁の一部を残しています。また、江戸時代の絵図(「上坂家文書」)にみえる「丸之内」の跡が、この児童遊園に当たります。

城址は丸の内の跡が児童遊園に整備され、周辺には「いがんど(伊賀守殿)」「しなんど(信濃守殿)」の地名や土塁の跡が残されている。また、城址北方の鹿座神社は春日神社が勧請されたもので、寛正年間(1460~66)、上坂泰貞が修造したと伝えられている。代々の上坂氏の崇敬を集めた神社としても知られ、拝殿には透かし彫りで神紋「笹竜胆」が刻まれていた。

今浜城の戦い

 北近江の守護大名は京極氏で、戦国初期の段階では京極高清(たかきよ)が当主だっが、その跡継ぎを誰にするかで争いが起こった。
高清の子供のうち、弟の高慶(たかよし)が選ばれた。高清の意向と同時に、京極氏の重臣中の重臣であり、守護代をつとめていた上坂信光(こうさかのぶみつ)が高慶を推したからといわれている。

これに対し、上坂信光の専横的な行動を日頃から快からず思っていた部将たちは、高慶の兄高延(たかのぶ)への守護職継承を主張し、京極高清・上坂信光と敵対する行動に出たのである。

高延への相続を主張したのは浅見貞則をはじめ、浅井亮政・三田村忠政・堀元積・今井越前らで、京極氏譜代の家臣であり、国人領主として位置づけられ、「国人一揆」の名で呼ばれている。
彼等は浅見貞則の居城、尾上城に集結した。これに対し上坂信光は機先を制そうと、軍兵を率いて安養寺まで出陣した。
ところが、国人一揆の方が上坂軍に攻めかかり、上坂軍は今浜城に退いて、ここで合戦が繰り広げられたのである。

上坂信光は今浜城を支えることができず、高清の本拠である上平城に逃れ、さらにそこから尾張へ落ちて行った。
結局、国人一揆に擁立された高延が新守護になったのだが、今度は国人一揆の盟主だった浅見貞則に不満が集中。やがてその不満をたくみに利用した浅井亮政が貞則を倒す事に成功し、北近江一の実力者にのし上がって行ったのである。
浅井氏の台頭を物語る一戦であった。

その浅井攻めの功績により、浅井の旧領と小谷城を与えられた秀吉が今浜城跡に目を付け、ここに築城した秀吉の最初の居城、長浜城はあまりにも有名であり、そして皮肉な物である。

  

上坂氏

矢筈/四つ目結
(桓武平氏梶原氏流/佐々木氏支流)



浅井の「両坂」と呼ばれていた。下坂氏は下坂田を領して下坂と称し、上坂氏は上坂田を領して上坂となったものという。
 上坂氏は、梶原氏の子孫といわれる。梶原氏は桓武平氏鎌倉党ののうち、坂東八平氏の一つ。相模国梶原郷を本領とし、源頼朝が挙兵した石橋山の合戦では平家方として戦った。戦に負けた頼朝が土肥の椙山に逃げ込んだとき、その所在を知りながら、見逃した話は有名である。その後、源頼朝に従い、平家との合戦では源義経の軍奉行として派遣軍の監督にあたった。
 また景時は上総・安田など幕府にとって煙たい存在の豪族を、次々と失脚させて、鎌倉体制の統制責任者として活躍した。しかし、頼朝死後、御家人から弾劾され、ついには鎌倉を追放され、梶原一族は没落したのである。
 とはいえ、支流のいくつかが各地に分散して梶原氏の血脈を伝えた。室町期、梶原景家は近江国坂田郡上坂に流れ落ち、同地に土着し上坂氏を称したという。その子の景重は佐々木京極勝秀の養子となった。そして、京極実高の子を養子として上坂を継がせ、高景と名乗らせて上坂城を譲った。
 以後、平氏を源氏と変え、家紋も梶原氏ゆかりの「矢筈」から佐々木氏の「四つ目結」に変えたと伝える。

京極氏の重臣

 しかし、近江上坂氏の場合、三つの系統があったとされている。すなわち、さきに述べた梶原氏流、多田源氏の山本氏流、そして坂田氏の三つである。坂田氏というのは、佐々木六角氏頼の二男、坂田二郎氏高を祖としている系統で、いわゆる近江源氏佐々木氏の支流である。とはいえ上坂氏には、上坂治部大輔と名乗った流れ、上坂伊賀守を称した流れ、さらに上坂信濃守との三系統があっていずれが、佐々木坂田氏の流れかは判然としないのである。
 上坂氏は早くから佐々木京極家の被官として、近江国上坂田に勢力を有していた。このため、上坂田の田の一字を略して上坂の姓を名乗り、居住地もまた上坂と称したという。
 上坂氏で著名なのは、京極高清に二十有余年仕え、その執権として権勢を振るった治部大輔景重(家信か)が知られている。景重は、文亀元年(1501)北近江の国衆である浅井氏・三田村氏・河毛氏・堀氏らと今浜で合戦に及んだことが『江北記』に記されている。
 当時、京極氏は家督をめぐって二派に分かれて争っていた。上坂氏は京極高清を擁して、一方の京極氏の流れである材宗をかつぐ今井氏ら国人衆と対立していたのである。このような国人層の対立をみて、美濃国揖斐にいた京極材宗は江北の今井館に帰り、今浜へ攻め寄せたが、京極高清方に敗北を喫している。京極家はこの段階において、国人領主の動向に左右される存在として、守護職たる地位を低下させていたことが理解できるのである。
 永正二年(1505)材宗は、九里氏らの支援を得て、南方から江北を攻撃したが失敗に終わり、結局、箕浦日光寺で和睦がなされた。
 以後、約二十年間は何事もなく過ぎたが、大永三年(1523)、また国人領主間の対立が劇化する。前述した浅井氏・三田村氏・今井氏・堀氏らは浅見氏を盟主として結束し、京極高清と結ぶ上坂氏と合戦に及んだ。上坂氏は安養寺に警固の軍勢(番勢)を置いていたが、国人同盟は小野江から仕掛けて、今浜まで撃破したので、上坂勢は数多くに戦死者を出した。京極高清は上坂氏が合戦に敗れたことで、尾張国へ落ちのびた。

近江の戦国争乱

 勝利した浅見氏ら国人衆は京極高延を擁立し、高延は浅見氏の小野江城へ入っている。ここに、江北では、国人衆の主導によって守護の交替がなされたのである。まさに下剋上が成立していたといえよう。
 やがて、浅井氏が台頭し、江北の支配権を守護京極家と取って替わったため、上坂氏は浅井氏の勢力としばしば戦ったが、結局、浅井氏の戦国大名化は揺るぎないものとなり、ついには主家京極氏とともに上坂氏は浅井氏の圧迫の前に衰退を余儀なくされたのである。
 その後の、上坂氏は大和郡山の豊臣秀長に仕えたが、郡山豊臣家滅亡のあと近江上坂に帰って帰農した者、また、彦根藩主井伊氏に仕えた者、あるいは加賀金沢藩主前田家に仕えた者など、それぞれの人生をおくったことが知られる。
 ところで、上坂氏の居城であった今浜城は、近江浅井氏滅亡のあとに江北の領主となった羽柴秀吉の居城が築かれ、その名も長浜と変わった。そして、居城跡は長浜城の築城によって跡形もなくなってしまった。しかし、上坂氏の一方の居城であった上坂城は、姉川水系の豊かな流水を取り入れて濠とし、その幅は五間はあったと思われる壮大なものであったというが、現在は道路となり、細流のみが残っているばかりだ。また、土塁もところどころに残り、往時における上坂氏の権勢のほどが偲ばれる壮大さをいまに感じさせている。

参考資料:長浜市史・近江国坂田郡志・田中政三氏著「近江源氏」など】

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


膳所城門? (京都新聞)

2013年07月09日 | 文化財

膳所城門?移築し竣工式  栗東の酒店主、町づくりに活用

 

移築され8日から一般公開が始まった、膳所城のものとされる城門(栗東市岡)

 江戸時代、膳所城にあったとされる門が滋賀県栗東市林の寺から同市岡に移築され、8日、現地で竣工(しゅんこう)式があった。寺では山門が新築されたことから地元の酒店店主が譲り受け、この日から一般公開も始めた。

 門は高さ約4メートル、幅約5メートルで、明治以降、同市林、長徳寺の山門として活用されてきた。膳所城は1663年の地震で大きな被害を受け、当時の藩主、本多俊次が改修を行った。門の瓦には本多氏の家紋「本多立ち葵」があしらわれており、この改修時に設けられた城門では、とされる。

 同寺には、明治維新後に同城が解体となった際、移築されたと伝わる。老朽化が進んだため、寺は4年前に門の新築を決め、古い門は廃棄される可能性もあった。これを知った酒店店主、山本喜三雄さん(73)が、地元の町づくりに活用しようと譲り受けた。

 式には地元住民ら約30人が出席。江戸時代に地元の田楽茶屋や酒について詠まれた句を刻んだ句碑の除幕も行われた。

 山本さんは「(栗東市)林も岡も、もともと膳所藩の一部だった。歴史を生かした地域資源になれば」と話している。


滋賀県内戦争遺跡見学フィールドワーク

2013年07月09日 | 戦争遺産

県内戦争遺跡見学フィールドワーク

 県平和祈念館は、七月七日の「県内戦争遺跡見学フィールドワーク」の参加を二十三日まで募っている。大津第九連隊にかかわる若鷲の碑、御幸山の紀年碑、園城寺の絵馬などを巡る。定員は先着三十人。参加費五百五十円。京阪電車別所駅午前九時集合。TEL0749―46―0300。

講師・現地案内・・・ 滋賀県立大の中井均准教授(日本考古学)

 

兵営跡地の多くは、大津商業高校・市役所となっている。

【若鷲の碑】案内板・・・歴史博物館方面へ

 歴史博物館下の穴太遺跡のオンドル

 歴史博物館下の旧東海道の車石

歩兵第9連隊は、よく京都9連隊と言われるが、その輝かしい歴史の多くは大津を衛戍地としていた。

明治7年6月に大阪で創設、同年12月に軍旗を親授され、翌明治8年3月に大津へ移駐し、以後、西南戦争、日清戦争、台湾土匪討伐、日露戦争、シベリア出兵、満州守備などの経歴を経て、大正14年に京都伏見へ移駐した。
ただ、郷土の誇りでもあり、また経済的理由でも連隊の移駐には反対も多く、第3大隊は引き続き大津に残る事となった。
その歴史ある歩兵第9連隊の遺構は皆無と言われているが、詳細不明ながら、僅かに境界石等を見付けたので紹介する。

歩9兵営跡地の多くは、大津商業高校となっている。

    

削岩のノミの跡

削岩のノミの跡

大正7年・・奉納額

のろばん碑の展望台から大津市・琵琶湖(園城寺内)

三井寺の裏山には、西南戦争の祀念碑がある。明治13年5月24日竣成(?)と彫られている。
さて、この祀念碑の場所は分かり難い。土地勘のある人なら山道を通って行けるだろうが、私は三井寺の中を通って訪ねた。(この際には、拝観料500円が必要となる。)
大津そろばんの碑等、記念碑がある一角があるのだが、そこから更に山を登る事5~10分のところに開けた場所があり、そこにあるのだが、非常に分かり難い。

 

明治末年に撮影された陸軍歩兵第九連隊の写真です。
明治6年(1873)1月、明治新政府によって徴兵制が施行されると、同年、全国を6つの軍管区に分けて、その下に連隊を置くことで、兵力の整備を計りました。
このとき、軍管区も連隊も、ナンバーを付けて呼ばれるようになります。
大津には、第四軍管大阪鎮台所属の第九連隊と呼ばれました。
陸軍歩兵第九連隊の始まりです。

ただ、大津に移駐してきたのは明治8年でした。
場所は別所の地、現在の滋賀県立大津商業高校の建つ地で、そこに兵舎が建ち並び、兵舎の東方(琵琶湖側)は広い練兵場でした。

以前、京都市山科区の方から、この第九連隊の兵舎を撮影した明治末年の写真を寄贈していただきました。

かなり鮮明な写真で、拡大すると、第九連隊の正門や兵舎、練兵場、その背後の将校集会所、弾薬庫の詳細が見てとれます。

以下に、全体写真と正門付近、将校集会所付近の写真3枚を掲載し、解説を付けましたので、興味のある方はご覧ください。


写真1 第九連隊兵舎全景
画面左下には(練兵場の向かって左側)、藁葺きの小屋や莚を干している風景が写されています。
また兵舎は、現在の大津商業高校あたりですが、向かって右側、寄棟の屋根に2階建ての兵舎2棟が並んでいるのは、現在の大津市役所本館・新館・別館が建っているところです。


写真2 第九連隊正門付近
現在の大津商業高校正門と同じ場所にあたります。門の手前両側には、門衛の詰め所となっていた小さな建物が見えます。
九連隊の敷地全体が少し高くなっており、手前の練兵場との間に細い道があることも確認できます。


写真3 将校集会所付近
写真左上、九連隊兵舎群の向こうの山すそに、将校集会所が写っています。
この集会所は戦後、アメリカ軍が接収し、引き続き使用していたのですが、昭和26年、漏電によって全焼し、その後、洋風の建物が建設されます。
この新しい建物は、年配の市民の方は覚えておられると思いますが、ながらく大津市民文化会館として活用されていたものです。
なお、全焼前の将校集会所は、彦根城内の建物を移築したものとも言われています。
また、その集会所の右上には、土手に囲まれた蔵のような建物が写っていますが、これは九連隊の弾薬庫とのことです。

 

 

歩9 (5)
碑の近くにある石柱。詳細不明だが営内にあった物か?

歩9 (7)こちらも詳細不明の燈篭の一部と思われる物。将校集会所の庭園の物か?

歩9 (9)
階段を上がるとある「陸軍地」の境界石。陸軍墓地にある物と同じである。(ただし、どこにあった境界石かは不明)

 兵営前駅はホームのみが残っている。

陸軍墓地の南には火薬庫の記載が有る。何の情報も無いので何も残ってないだろうが、せっかく来たので訪ねてみる。

歩9 (10)火薬庫に向かう道には狸の石像と、その後ろには道標があった。形状的に違うだろうが、念のために見てみると・・・

歩9 (8)何と、陸軍の文字が!!!これは珍しい境界石で、こんな指さしの形状の物は初めて見た。

歩9 (13)さらに坂を登る途中にも、境界石と思われる石柱の有ったが、埋まっていて詳細不明。


火薬庫付近は、境界を調べるために墓地に入ると、移設された物であろう「陸軍省所轄地」の石柱が2本あった。

写真、向かって右の石柱 こちらは左の石柱。

なお、大津連隊区司令部跡と憲兵隊跡では、遺構は見つけられなかった

 

参考資料:現地説明、poen/blogレポート


長寸(ながす)(上の城)城 近江国(日野)

2013年07月08日 | 平山城

お城のデータ
所在地:蒲生郡日野町佐久良 map:http://yahoo.jp/nXY5F6

別 名:上の城山

築城期:鎌倉時代初頭

初城主:小倉三河守実澄

区 分:山城

遺 構:石垣・曲郭・土塁・竪堀

標 高:269m  比高 約90m

訪城日:2013.7.6

・駐 車:桜谷小学校のお客様駐車場

お城の概要
長寸城は日野町佐久良の桜小学校の背後の小高い丘に築城されている。桜谷小学校裏のコンクリートの階段から登ると、すぐに山道に変わり、右手に大きな竪堀が山道と平行して走り、竪堀と山道との間には曲輪跡らしき削平地がいくつか見られる。

 20分程度で山頂に着く、ここが主曲輪で入口には土塁の虎口が設けられている。
また虎口を右手のなだらかな斜面に竪堀が1本掘られ、、緩斜面を伝って直接本丸跡へ取り付く敵が意識されている。

 主曲輪は虎口右手の土塁を最高として、からなだらかに傾斜しており、一段低くなった曲輪奥に石積みが残っている。
 石積みは崩れ完全な形ではないが、長さ10m余り、高さは1m程度であろうか。

 佐久良城と長寸(ながす)城は、小倉氏の居館本城であり、佐久良城を下の城山といい、長寸城を上の城山という。

お城の歴史

 永禄7年3月九居瀬(現永源寺町)に居を構える小倉右近太夫と、佐久良城を本拠とする小倉実隆(実澄の孫・実重が早世したため、蒲生定秀の三男にして賢秀の弟を養子)の間で和南で戦いが始まり、実隆が戦死。この戦いで永源寺も焼失した。

 奥津保(愛知郡,蒲生郡辺り)の城を手にした小倉右近太夫を撃つため、兵を進めた蒲生氏は小倉氏との戦いに勝利し、以後この一帯を領内に編入していくことになる。
同時に佐久良城,長寸城を初めとする小倉氏の城郭は廃城となる。


 なお、麓の仲明寺は小倉氏の菩提寺で、小倉実澄,実重,実隆三代の墓だと伝えられる宝篋印塔がある。

                                                   

      

 長寸城遠景・・・鳥居平城下から

 麓の仲明寺は小倉氏の菩提寺で、小倉実澄,実重,実隆三代の墓だと伝えられる宝篋印塔がある。

 

         

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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六角氏

2013年07月08日 | 武将

六角氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

六角氏(ろっかくし)は、日本の氏族の1つ。宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江南部を中心に勢力を持った武家(守護大名)。なお、藤原北家流の公家六角家とは血のつながりは無い。

概要

近江源氏と呼ばれた佐々木氏の四家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。六角氏と名乗ったのは、京都の六角堂に屋敷を構えたからだと言われている。

鎌倉時代、佐々木氏は承久の乱で一族の多くが宮方に属した前歴もあって、鎌倉幕府から特に警戒されていた。佐々木信綱の死後、所領の多くは3男の泰綱が受け継ぐはずであったが、廃嫡された長男の重綱の訴えを幕府が容れたため、領土は兄弟で四分され、重綱と次男の高信、末子の氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となった。泰綱の子孫である六角氏が佐々木氏の嫡流であることは変わりはなかったが、その勢力は大きく減退することになる。鎌倉幕府の滅亡時は、六角時信は六波羅探題に最後まで味方したが敗れ降伏している。

同族である京極氏とは、佐々木道誉の代で台頭した室町時代以降敵対し、近江の覇権をめぐって争った。また、領内に比叡山が存在することもあって、室町時代を通じてその支配は安定せず、六角満綱・持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、持綱の弟で後を継いだ久頼は京極持清との対立の末に心労により自害して果てている。

久頼の跡を継いだ六角高頼は応仁の乱では西軍に属し、持清と共に東軍についた従兄の政堯と戦い、長享元年(1487年)には9代将軍足利義尚、10代将軍足利義稙から討伐を受ける(長享・延徳の乱)。高頼はこの侵攻を2度に亘り跳ねのけ、守護代である伊庭氏との対立にも勝利し、六角氏の戦国大名化をなしとげた。ただし通説の久頼の没年が高頼の生前になってしまうため、久頼-高頼間に1世代あるとする立場もあり、佐々木哲は古文書に見える六角政頼をその間に置くべきとする。

戦国時代に入ると六角定頼(高頼の次男)が登場する。定頼は足利将軍家の管領代となり、近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げ、六角氏の最盛期を創出した。伊賀や伊勢の一部までにも影響力をおよぼしたとされる。しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においては、永禄3年(1560年)に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せはじめる。義賢の嫡男義治(義弼)の代においては永禄6年(1563年)に重臣中の重臣であった後藤賢豊父子を殺害して、六角家の内紛となる観音寺騒動が起こし、六角式目への署名を余儀なくされるなど、六角氏の弱体化は明らかとなった。このように六角氏は六角義賢・義治父子の時代に大きく衰退し、永禄11年(1568年)、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去ることになる(観音寺城の戦い)。

その後、義賢と義治は甲賀郡の石部城に拠点を移し、信長に対してゲリラ的に抵抗したが、次第に歴史の表舞台から遠ざかることとなった。                     しかし本能寺の変頃までは弱小勢力ながら近江で活動していたようである。後に豊臣秀吉あるいは豊臣秀次によって家臣にとりたてられたという。

義治の婿養子・定治は豊臣氏・蒲生氏を経て前田氏に仕え、江戸時代には加賀藩士の佐々木家として1,000石となり、子孫が加増され2,100石で幕末に至った。義治の弟義定(観音寺騒動の後に義治に当主の座を譲られたと家伝にあるが、異説もある)の子孫も江戸幕府の旗本となった。こちらも本苗の佐々木氏を名乗っている。しかし義定の曾孫・求馬定賢が若年で死去し絶家となった。

義治の弟高一は織田信雄の家臣となり、その子正勝は生駒氏を称し、大和宇陀松山藩織田家の重臣となった。子孫は丹波柏原藩織田家に仕えた。

以上が従来の通説であるが、江戸時代に記された江源武鑑では、定頼の系統は六角氏庶家の箕作氏で陣代にすぎず、氏綱(高頼の嫡男で定頼の兄)の子義実系統が嫡流であるとしている。この書物では豊臣秀吉が氏綱の子義秀に仕えて偏諱を受けたことや、氏綱の子義郷が豊臣姓と侍従の官を授かった12万石の大名となった等と書かれており、寛政重修諸家譜の山岡氏系図などに引用されている。しかし、この書物は沢田源内という人物が書いた偽書であるとされており、同時代史料にこの系統の実在を裏付けるものは発見されていないこともあり、佐々木哲等の在野の歴史家を除いては支持されていない。

六角氏の一族

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

  • 寛政重修諸家譜』『系図纂要』『石川県姓氏歴史人物大辞典』に拠る。ただし室町後期から戦国時代にかけての系図は諸説ある。
                  佐々木信綱
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       大原重綱  高島高信  六角泰綱  京極氏信
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                    頼綱
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 頼明 宗信(宗継) 成綱 宗綱 時綱 時信
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             森川宗春   氏頼 山内信詮(建部信詮)
                    ┣━━━┓
                    満高  義信
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                    満綱
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            持綱  時綱  久頼
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            政信  政堯  高頼
                ┏━━━╋━━━━┳━━━━━┓
                氏綱  定頼  大原高保  梅戸高実
                    ┃    |
                    義賢   賢永
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                    義治(義弼)    義定(高定、賢永)
                    |   ┏━━━━━┫
                    定治  高賢    高和
                    ┃   ┃     ┣━━━━━┓
                    定之  高守(定治)高重(義忠)高慶
                    ┣━━━┓     ┃
                    定賢  定保    定賢
                    ┃
                    定明
                    ┃
                    定国
                    ┃
                    定則
                    ┃
                    定正
                    ┃
                   温二郎
  • 『寛永諸家系図伝』では、頼綱の跡は子・宗信(宗継)で、宗信から成綱・宗綱と直系で続き、成綱弟・時信へ至る。『寛政重修諸家譜』は事蹟の年代などから上記のように考証・修正している。

 

六角氏の主要家臣

室町時代

  • 山内氏(佐々木氏流)
    • 山内信詮
    • 山内政綱
    • 山内就綱
  • 伊庭氏
    • 伊庭満隆
    • 伊庭貞隆
    • 伊庭貞説

戦国時代

分国法

参考文献

(佐々木哲は高頼の父を政勝、高頼以降は氏綱の直系を正嫡、定頼系を陣代とする見解に立つ)

関連項目


小川城      近江国(安曇川)

2013年07月07日 | 平城

o城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町上小川    map:http://yahoo.jp/bD33QH

現 状:農地

区 分:平城

遺 構:郭・土塁・案内標柱

築城期:室町期

築城者:小川氏

城 主:小川主膳正秀康

目標地:藤樹書院跡の北西側、161号線沿い

駐車場:農道に路上駐車から:1分

訪城日:2013.7.7

お城の概要

水田の北側、個人宅の西側にL字状で土塁が残っていました。 

小川城は安曇川町上小川の小川氏宅を中心とした一帯と考えられる。
現在は小川氏宅の裏庭から西側に隣接する田圃の北側に、高さ1~1.5mの土塁が約20mにわたって残っている。

土塁の西端では、田圃を取り囲むようにL字型に曲がっており、当時、は田圃も曲輪の一部であったことが窺える。

籐樹書院跡の100m手前で地蔵様(祠)のある路地に右折して国道161号線の高架手前まで行くと、道路沿いに【小川城跡】案内板、これの水田の先20mに土塁が見えます。 

国道161号線の高架手前まで行くと右手水田の先に土塁が見えます。京方面へR161号線の側道は一方通行。

   

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「高島郡 小川 住 佐々木隋兵 小川伝四朗」の名を記す。 

『滋賀県中世城郭分布調査』のその他城郭一覧には、高島郡 小川城(安曇川町上小川) 佐々木氏の家臣小川主膳正秀の居城で織田信長の高島征服の折に落城した。

  佐々木氏家臣小川氏の居城とされる。小川氏について、『中世城館調査報告書集成』によれば、『小川記』なる書物に「小川城ハ蒲生郡箕作城主 食邑七萬石 佐々木定頼ノ二男従五位下源義實ノ築ク処ニシテ」とあるとされる。

 佐々木定頼とは六角定頼のことと思われるが、定頼の子に義實の名は確認できない。「七萬石」という六角氏家臣としては少々大きすぎるようにみえる禄高や、箕作城主に小川氏あるいは義實を名乗る人物が見受けられないことからも、『小川記』の内容の信憑性には疑問が残る。

 小川主膳正秀康の代の元亀三年(1572)、織田信長の高島攻略によって、小川城は他の高島の諸城と同様、信長に屈した。

その後の小川城については不明である。なお、『日本城郭大系』では城主名を「主膳正秀」としているが、「康」の字が欠落したのだろう。

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