城郭探訪

yamaziro

打越城 近江国(甲賀)

2014年06月18日 | 平山城

  隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町隠岐    map:http://yahoo.jp/HfWyAD

区 分:丘城 

現 状:竹林、雑木林

遺 構:削平地、土塁

築城期:室町期

築城者:隠岐左近大夫

目標地:香蓮寺

訪城日:2014.6.17

お城の概要

 隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集していて、これらはすべて隠岐氏の関連城館群。

その中で名称を見る限り、隠岐城が本城のように思えるが、隠岐城だけが佐治川北岸に単独で位置しているため防御性に乏しく、中心的な役割とは考えられない。

・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭
清三再城跡。義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

  香蓮寺 西側から城内に  

駐車 石仏前(交差点ゴミ集積所):甲賀市甲賀町隠岐map:http://yahoo.jp/dYK5bA

歴 史

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭清三再城跡。

  義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

この地を本拠としていた隠岐氏の隠岐支城群の1つで、詳細は不明。

甲賀二十一家の1つ、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

  「惣」には三種類あり、それぞれ「郡中惣」「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれていたが、各氏族はこのいずれにも属し、それぞれの大小の事案に応じた適切な「惣」の決定により足並みを揃えて行動したという。それぞれの「惣」は以下の通りである。

 ・郡中惣
 これは、五十三家の中から代表として十家を選出し、その合議による決定に従って郡全体の行動を起こしたとされるものである。家柄による身分差はなく、全ての家々は平等に扱われたという。

 ・地域連合惣
 これは二十一家をそれぞれ「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内三家」の四地区に分け、その下に地域ごとに残りの五十三家の各氏族が従い、それぞれの地域に関する案件を合議によって決定したとされるものである。

 ・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

  しかしこれらの惣も、次第にその機能は弱まっていった。一枚岩の団結を誇っていた甲賀衆といえども、もはや斜陽の六角氏を主に据えている限り、押し寄せる織田信長の侵攻をくい止める程の力はなかった。

  1563年10月、六角義治が重臣の後藤賢豊父子を殺害したことから世に言う「観音寺騒動」と呼ばれるお家騒動が起こり、六角氏はますます弱体化していく。そして1568年9月、足利義昭を擁して進撃してきた織田信長の前に家臣達の離反もあってひと支えもできず六角父子は甲賀へ逃れ、ここに近江六角氏は事実上滅亡した。

  承禎(義賢)・義治父子もしばらくの間はわずかに残った甲賀衆を使い、世上に名高い杉谷善住坊の信長狙撃未遂事件を起こすなど多少の抵抗はあったものの、やがて信長が安土に築城して覇権を確立するとともに近江から完全にその姿は消えた。


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