城郭探訪

yamaziro

井口(いのぐち)城(弾正屋敷)  近江国(長浜市高月町井口)

2018年05月22日 | 居城

 

お城のデータ
所在地: 滋賀県長浜市高月町井口168 map:https://yahoo.jp/8kOIx9
別 称:弾正屋敷 
現 状: (学校・宅地)富永小学校
築城年:室町期 
築城者: 井口氏
区 分: 平城 (居城)

遺 構:石碑。現地説明板

目標地: 富永小学校

駐車場: 富永小学校来客用駐車場

訪城日: 2018.5.20 

お城の概要

井口城は 井口集落は高時川の水路が集落内を巡る。「高時川上流には井口氏が管理していた井関が今も残り、取水された用水が村々の水路をとうとうと流れ、中世以来の水利遺産」。

 高時川の中流、長浜市高月町井口が阿古(浅井長政の母)の故郷。阿古の父である井口弾正経元(つねもと)は、浅井家に仕える武将で、現在の富永小学校一帯に屋敷を構え、近くの真言宗豊山派の寺、理覚院は井口氏の菩提寺である。理覚院庭園は江戸初期の庭園で小堀遠州作とも言われているようです。

経元は浅井家の忠臣でした。長政の祖父・亮政の代のときにあった箕浦の合戦で、経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしたと伝わっています。浅井家ではその忠義に応え、亮政の子であり、のちに長政の父となる久政のもとへ阿古を嫁がせたそうです」。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、

「伊香郡 井ノ口 住 佐々木隋兵 井ノ口宮内少輔 同 井ノ口仙蔵 同 黒田末 小寺重蔵 同 寺田半之助」名を記す。

井口氏は、近江佐々木氏の一族とも、崇峻天皇の後裔と云う近江中原氏の一族とも伝えられ、中世以来、高時川の「井預り」として湖北地方の水利権を掌握し、「湖北四家(磯野氏、赤尾氏、雨森氏、井口氏)」に数えられた。

 織豊期に浅井亮政からの姻戚関係を受け入れ、浅井氏の重臣に列するようになった。享禄4年(1531)の六角定頼との「箕浦の戦い」で、井口弾正経元は主君の浅井亮政の身代わりとなって討死し、亮政はこれに報いるため、経元の嫡男・経親を重用するとともに、経元の娘阿古を亮政の子・久政の室に迎え、阿古御料は長政を産んだ。    その長政は、織田信長の妹・お市を室とし、お茶々(後の淀殿)、お初、お江の三姉妹をもうけ、末娘のお江は二代将軍徳川秀忠の正室となり、その子の家光は三代将軍に、和子は天皇家へと嫁している。
阿古御料は、小谷城落城後に信長に捕らえられ、十指を毎日1本ずつ切断され殺されたという悲惨な記録が残る。

井口氏によって築かれたと云われる。高時川の「井預り」として水利権を掌握し、湖北四家の一つに数えられた。

浅井長政の母は「阿古(あこ)」という。江ら三姉妹の祖母である。高時川の中流井口が阿古の故郷だ。阿古の父である井口弾正経元は、浅井家に仕える武将で、現在の富永小学校一帯に屋敷を構え、近くの真言宗豊山派の寺、理覚院は井口氏の菩提寺である。
 「経元は浅井家の忠臣でした。長政の祖父・亮政の代のときにあった箕浦の合戦で、経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしたと伝わっています。浅井家ではその忠義に応え、亮政の子であり、のちに長政の父となる久政のもとへ阿古を嫁がせたそうです。井口氏は代々、湖北を流れる高時川の水利権を統括する「井関預かり」であったことから、浅井家は自領への水利権を優位にするため、久政と阿古の婚姻を進めたとも考えられている。
 小谷城が落城する際、阿古は捕らえられ、信長の怒りによって指を数日に分けて切り落とされた後、殺害されたという記録が『嶋記録』という文書にある。信長にしてみれば、長政の母ということでの憎しみが相当あったのでしょう。久政は戦争を好まず、六角氏との争いを避けていたため無能と思われがちだが水利件を得ることで、領地に富をもたらした。
 井口弾正邸の石碑

井口弾正のお墓

井口弾正の菩提寺「理覚院 地蔵堂」

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

本日の訪問ありがとうございす。



最新の画像もっと見る