北島邦彦の「すぎなみ未来BOX」

元杉並区議会議員(2007-2011)北島邦彦の活動日誌 e-mail kjmirai@jcom.home.ne.jp

自衛隊の「通信宿泊訓練」の実態はどうだったのか

2012年07月31日 | 日記
今月16~17日に強行された自衛隊の災害時における通信宿泊訓練の実態について、杉並区の実態について調べてみました。実際に行なわれたことは、16日の夜21時30分頃自衛隊員2名が区役所に到着し、防災担当職員がその報告を受けたうえで、自衛隊員は庁舎1Fと屋上から指揮所と区内に展開している部隊との通信訓練を行ないました。そこで自衛隊員はいったん撤収し、翌17日に再度来庁して屋上から通信訓練を行ないました。宿営などのために公園や施設を利用したいという要請はなかったそうです。
そもそもの発端は自衛隊からの電話連絡でした。「16日の夜間に、通常は訓練を行なっていない東棟屋上での通信訓練を実施したい…」と。杉並区としては、訓練に使用している西棟屋上での通信訓練ならば(日常的にやってるんだな!)夜間警備員で対応できるが、そうではない東棟屋上を使用するならば担当管理職以下の職員体制をとる必要があるが、祝日なので…と若干の難色を示したところ、自衛隊は「そうですか」とあっさり引き下がって電話を切ったというのです。杉並区はこの時の電話のやりとりでは、今回の訓練が23区全体を対象にした大規模なものであるとの認識はもたなかったようです。その後再び自衛隊から電話で訓練協力の要請があり、すでに述べたような訓練が実施されたのです。
このような経過を見てみると、自衛隊の訓練計画―自治体への協力要請がきわめて杜撰で、バタバタと訓練計画が立てられたとしか思えません。やはり7・16反原発行動にぶちあてる形で立案し、まさしく治安出動訓練、いや治安出動そのものとして強行されたと断言することができます。防災訓練と銘打ちながら東京都が介在した影も見えず、自衛隊主導の行動だったという点でも、二重三重に許しがたい自衛隊の暴走だったということです。

NAZEN杉並8・6ヒロシマ学習会

2012年07月30日 | 日記
NAZEN杉並では、運動に若い世代の人たちが加わってきたことから、「ヒロシマ」とは何であったのかを学んでいく学習会を企画しました。また熟年世代の人たちも、あらかじめ「わかっている」とせずに、あらためて3・11時代の「ヒロシマ」についてとらえ直して、8・6ヒロシマ大行動―8・9ナガサキ闘争に参加するための企画です。以下はそのレジュメです。ちょっと長文ですが。

8・6ヒロシマ―8・9ナガサキとは何だったのか、何であり続けているのか
1)原子爆弾(水素爆弾)はなぜ開発されたのか
①「核抑止論」は大ウソだ
・ウランの核分裂が発見されたのに続き(1938年12月ハーン&シュトラースマン)、核分裂の連鎖 反応を実現し(1942年12月フェルミ)、核エネルギーの取り出しに成功。
・「核エネルギーの巨大なエネルギーによる破壊力がファシストのものになれば、彼らはその破壊 力をためらうことなく行使する。その悲劇を予防・抑止するためには、アメリカがドイツに先が けてより強力な核兵器を準備する以外ない。」典型的な核抑止論。
・原爆製造のための「マンハッタン計画」がスタート(1941年12月)し、1945年7月に3個の原爆 が完成。7/16アラモゴードの砂漠で、人類史上初の核爆発実験を強行。残りの2個が8/6広島、 8/9長崎に投下された。
・ナチス・ドイツは降伏し(1945年5月)、ヨーロッパでの戦争は終結していた。「ドイツが保有す るかもしれない原爆を抑止する」論理は、その根拠を喪失していたにもかかわらず、日本に対し て原爆攻撃が実際に行使された。原爆開発はそのスタートから、「最強の武器」として使用され るものという本質をもっていた。
②米ソの核兵器開発競争と核拡散
・原爆が実際に使われたことは、東西間の対抗的な核兵器開発競争を必然的にもたらした。
   1945年7/16    アラモゴードの砂漠で人類史上初の核実験
   1945年8/6,8/9 広島・長崎への原爆投下…米による原爆の独占
   1949年       ソ連による原爆実験の成功
   1950年       米トルーマン大統領が水爆開発を命令
   1952年       米が水爆実験に成功
   1953年8/12    ソ連が軽量型(運搬型)水爆開発に成功
   1954年3/1    米がビキニ環礁で水爆実験→「ビキニ事件」
・運搬可能でより爆発力の大きい水爆製造に突進するアメリカは水爆実験を繰り返し、その過程で 引き起こされたのが「ビキニ事件」であり、世界中で3000回を超すと言われる核実験の堰を切っ た。
・1953年12月アメリカ大統領アイゼンハワーが国連で行なった、「Atoms for Peace」(核の平和 利用)演説。難航するIAEA(国際原子力機関)による原子力の国際管理構想をいったん棚上 げして、濃縮ウランと原子力技術の提供をもって西側軍事ブロックによる核管理を行なって、ソ 連の核開発に対抗しようとした。これをもって、「核管理」という名の核拡散が大々的に始まっ た。
2)8・6ヒロシマ―8・9ナガサキで何が起こったのか
①人類史上最悪の大殺戮行為
・爆心地で3000~4000℃と想定される超高温の熱線よって、熱傷が被爆者に苛酷な苦痛を強制しつ つ死に追いやった。さらに、爆発時の強烈な衝撃波は爆風となって人々と建物をなぎ倒し、とり わけ大小無数のガラス片が身体にくいこむ創傷は、生き残った被爆者をも長期間にわたって苦し めた。
・核爆発によって放射され地上に到達したガンマ線・中性子線と放射能を帯びた分裂生成物(死の 灰)が降下し、人々に急性の放射線障害をもたらした。放射線は新旧交代が盛んな若い細胞に障 害を与えて血液・内臓粘膜を甚大に破壊した。さらには白血球・リンパ球の破壊によって生体防 御機能(免疫力)が著しく低下して、感染症などで死に至る人々の数も膨大だった。
・このような惨状の中で、この年の年末までに広島13万人・長崎7万人が死亡した。さらには、ケロ イド・白血病・がんなどの「後障害」が数十年にわたって被爆者に襲いかかっている。
②事態の隠蔽と被爆者のモルモット化
・1945年9/21GHQのプレスコード(検閲)によって、原爆関連の言論・報道・出版などが厳し く規制されることになり、栗原貞子「生ましめん哉」や峠三吉「にんげんをかえせ」などの詩も 発禁処分となった。
・被爆直後から日本の大学関係者などによって被爆調査が行われてきたが、日米合同調査団に統合 されて、アメリカによる統制の下におかれた。また、米国戦略爆撃調査団による独自の調査も実 施された。これらが行なったのはまさしく「調査」であり、医療救護などの治療は一切行なわな かった。
・1947年3月に原爆傷害調査委員会(ABCC)設立。被爆にかかわる調査研究機関として、その本 質は「調査団」のそれをそのまま継承するものだった。1975年に放射線影響研究所に改編された が、その性格は何ら変わっていない。その調査研究の結果として、内部被曝の影響を否定し、被 爆による遺伝子障害(「被爆二世・三世」問題)をも否定する役割を果たしている。
3)3・1ビキニと原水禁運動→詳細は別途学習しよう!
①米水爆実験による第五福竜丸の被爆
・1954年3/1アメリカの水爆実験(キャッスル作戦)によって、マーシャル諸島住民をはじめ1000 隻におよぶマグロ漁船が被爆した。そのシンボル的存在が第五福竜丸である。「原爆マグロ」被 害と久保山愛吉・無線長の急性放射線障害による死亡によって、水爆実験に対する大衆的怒りが 高まった。
②水爆禁止署名運動と原水爆禁止世界大会の開催
・各地域で自然発生的に始まった水爆反対署名や地方議会決議のなかで、杉並で始まった水爆禁止 署名運動はその広がりの大きさにおいて運動の核となり、全国的な署名運動形成の発信地となっ た。
・原水爆禁止署名の全世界的な広がりを受けて、1955年8月広島で原水爆禁止世界大会が開催され  た。これまで人々の視野から隠されていた広島・長崎の被爆の実態が、広範な民衆の認識―核と 戦争への怒りの中軸となった。
③ビキニの政治決着と日本の原子力開発の始まり
・「ビキニ事件」の政治的決着(1955年1月に日米政府が交換文書に調印)は、日本政府にとっても 原子力技術と原子炉導入のための取引材料となった。アメリカの太平洋での核実験継続に反対せ ず、被害に対する賠償金も少額の慰謝料・見舞金でよいとした。
・「決着」の背後にはワトソン(CIA要員)×柴田秀利(日本TV役員)-正力松太郎(読売新 聞社主)の裏工作があった。「毒をもって毒を制する」。原水禁運動をつぶすには、原子力の平 和利用を大々的に宣伝して希望をいだかせ、核アレルギーを克服するしかない…と、ワトソンに 提言した。正力は政界に進出し、原子力担当大臣に就任。読売新聞は原子力開発推進をキャンペ ーンした。
4)3・11フクシマとヒロシマ・ナガサキの現在的闘い
①福島で起きていることとヒロシマ・ナガサキ・ビキニ
・「原発は地上に置かれた原爆である」ということをハッキリさせる。被爆―被曝の実相を隠そう とすること、その影響を過小評価―否定することにおいて、政府・資本の姿勢はヒロシマ・ナガ サキ・ビキニとフクシマでまったく同一だ。
・福島県立医科大学副学長・山下俊一は長崎の8・9平和祈念式典・平和宣言文起草委員会会合に 出席して(!)、「福島の子を励ませるのは広島や長崎だ。情報をきちんと伝えていくことが大 事だ」と述べている。「内部被曝による健康への影響なんかないのだ、100msv以下なら大丈夫な んだ」ということ。許してはならない。
②「黒い雨」と内部被曝
・原爆爆発によって超高温化した大気が急激な上昇気流となって、爆発後20~30分後に広範囲に万 年筆の太さのような「黒い雨」を降らせた。この雨には大量の放射性物質が含まれており、これ を浴びた人や建物や土壌が被爆した。
・国は住民からの聴き取り調査にもとづいて「大雨地域」(援護対象地域)「小雨地域」(援護対 象外地域)に線引きした。しかし、元気象研究所の増田善信さんの調査や広島市の調査によれ  ば、「黒い雨」の降雨地域は従来の4~6倍の広さとされており、内部被曝による健康への影響が 認められるとしている。そうであるにもかかわらず、5/26長崎地裁判決は国の主張を追認し、  「爆心地から半径5㎞以上では放射能による健康影響はない」として、内部被曝の認定を全面否定 している。
・放射線影響研究所が「黒い雨」に関する13000人のデータを保有していることが明らかに。被曝の 身体への影響の基準とした「100msv」の根拠が崩壊する。
5)8・6ヒロシマ―8・9ナガサキに行こう!
①8/6(月)7:30原爆ドーム前集会へ
・原爆忌当日の早朝から平和公園に集う、被爆者をはじめとする労働者人民の“静かな怒り”を共 にしよう。そして、原発再稼働を強行した野田首相が祈念式典に出席し、「二度と過ちを繰り返 しません」などと述べることは許せない。野田打倒のデモに立とう。
・8/5NAZEN結成1周年集会は、ヒロシマ・ナガサキの怒りとフクシマの怒りが完全に一体化す る画期的な集会となる。大成功させよう。
②原爆資料館・放射線影響研究所
・原爆資料館に行こう。旧館と新館の雰囲気の違いもしっかりとつかもう。
・放射線影響研究所は8/5・8/6の9:00-16:00に一般公開される。
③第五福竜丸展示館
・夢の島にある第五福竜丸展示館は、9:30-16:00まで入場無料で参観できる。東京西部ユニオン は8/19に見学会を企画している。参加しよう。
(以上)

反原発国会包囲行動

2012年07月29日 | 日記
労働者人民の原発反対の巨大な怒りが、ついに国会正門前の道路にあふれ出しました。国会前を埋めた人々の表情には、デモ行進で噴出させた原発再稼働―野田政権に対する怒りと、このところ首相官邸前で抑えつけられてきた警察権力の規制を打破したぞという解放感に満ち満ちていました。春からずっと継続されてきた国会周辺の反原発行動は、日本の階級闘争に明らかに大きな転機をもたらしています。あらゆる人々が「政治」に関与する道筋をつくりあげました。しかもその「政治」は、何年かに1回投票するといった政治の現場から遠く離れた抽象的な行為ではなく、そこに国会や首相官邸や議員会館が具体的な形をもって実感できるものです。すなわち、権力めぐる攻防としてある「政治」に手を触れるということです。これまで黙ってきた、座り続けてきた、あきらめてきた、絶望してきた人々が、いま政治主体としての主張と行動を開始しました。だから「革命的情勢」が到来したと言えるのではないでしょうか。

東京朝鮮第9初級学校の納涼大夜会

2012年07月28日 | 日記
阿佐谷北にある東京朝鮮第9初級学校の校庭で、毎年恒例の納涼大夜会が開催されました。猛暑の日でしたが、夜会が始まる頃には校庭は校舎の陰となり風も出てきて、まさに「納涼」の気分を満喫。初級学校で学ぶ子どもたちのかわいいこと!今年は朝鮮語の歌ばかりで、私には残念ながら歌詞の意味はわかりませんでしたが、子どもたち自身もみずからの母語でありながら「学ぶ」必要があるという状況を考えさせられます。こうした楽しいひとときも政治の渦中です。父母会の知人に聞いたところでは、高校授業料無償化の対象から朝鮮高校がはずされたことで、朝鮮高校への進学を断念せざるをえない生徒が数多くいるとのことです。それは必然的に民族教育全体への打撃を強制するもので、民族教育を受ける権利を形式的にではなく実質的に保障させる日本人の闘いが求められています。


七輪で炭焼きにする焼肉・ホルモンのおいしいこと!

オスプレイ岩国搬入弾劾ー再論

2012年07月25日 | 日記
昨日のブログにオスプレイの岩国搬入弾劾の書き込みをしましたが、もうちょっと詳論した文章を書いてみました。来月初め発行のある月刊誌に掲載される予定です。

新型輸送機MV22オスプレイ12機が、7月23日に米軍岩国基地に搬入されました。現地では早朝から500人の労働者人民が基地対岸に集まり、オスプレイ陸揚げに抗議しました。反戦共同行動委員会の中国・四国の仲間たちも、この抗議行動に参加しています。また、日常的に厳戒警備が敷かれている首相官邸前でも、200人がオスプレイの沖縄配備に反対する抗議行動に起ち上がっています。原発再稼動に反対する抗議行動とともに、危機に立つ野田政権を直撃する闘いになっています。
山口県岩国市は、筆者の生まれ故郷です。山口県はもともと保守的な政治風土をもつ地方と言ってよいと思います。民主党政権が誕生した3年前の総選挙においても、県内にある4選挙区うち岩国地域を除く3選挙区で自民党が勝利しているほどです。現岩国市長・福田良彦氏も、空中給油機配備問題などで政府と対立した前市長を選挙で破った自民党員です。しかし、オスプレイ搬入に対する岩国市民の怒りは、当初何も問題視せず搬入を容認しようとしていた岩国市長をも揺り動かして反対の姿勢をとらせ、“街ぐるみ”の闘いへと発展しています。
そもそも「安全性の確認をする」などと言っている、野田首相のペテンを許してはなりません。本来的に武器には「安全性」の思想などありません。軍事的要請にいかに応えるかのみが問われており、その武器を使用する兵士の安全など二の次三の次、ましてや周辺住民の安全など想定の外です。その最たる存在がオスプレイです。
岩国市民の怒りは、沖縄県民のオスプレイ配備反対の闘いと完全に一体であり、8・5沖縄県民大会の10万人を超えるであろう闘いにがっちり連帯する闘いを生み出しています。沖縄―本土を分断することで辛うじて成り立ってきた日米安保体制を、その根底から撃ち破る闘いの始まりです。安保闘争の新たなシーンへの突入となっています。
こうした事態が生じたのは偶然ではありません。オスプレイが安全か危険か…岩国市民・沖縄県民の問題意識は、今やこうした点にとどまっているわけではありません。こんな危険な武器を有無を言わせずに地元に押しつけて、それに抗議する地元の声をまったく聞こうとしない政府のあり方、政治のあり方に対して怒っているのです。原発再稼働に関わる政府の態度とまったく同じであり、オスプレイ反対の声と原発再稼働反対の声は同じ底流から発せられています。もうこんな政治は耐え難い!もうこんな政権は許せない!こんな社会は根本的に変えなければダメだ!何が「国民の生活に責任がある」だ。何が「国民の生活が第一」だ。こうした怒りであるからこそ、この闘いは永続的であって、日米安保体制の打破までやむことはありません。8・5ヒロシマ―オキナワを貫く闘いに、反戦共同行動委員会は全力で決起しましょう!