というわけで、今回で、法令の審査方法に関する連載は終了です。
これまで多くの方のご声援をいただきました。
本当にありがとうございました。
最後に書きました通り、ここで紹介した議論は、
今年中には公式戦で発表される予定で、
ペンギンに高速回転式炊飯器がいらないように、
来年冒頭には、木村説は、
天下無双の木村節として通説になっていると思います。
(言葉の意味はよく分かりませんが、とにかくすごい自信ですねえ。)
それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
****************************
「ははは。ずいぶんなキラーパスだな。ソクラテスメソッドってのは、
相手の議論をうまく引き出して、おいこんでいかなきゃだめだろう。
そんなん、答えられないだろう。」
「答えられないって、どういうこと?」
「法令の目的ってのはさ、規制範囲と整合的に構成しなきゃいけないんだよ。
たとえば、屋外広告物規制の目的を美観の維持とか景観保護と構成することはできても
人の生命の保護と構成することはできない。」
「なんでだ?」
「解釈の限界を超えるからだよ。
目的の構成は、それ自体一つの解釈だからな。限界がある。
で、三人集会条例なんて、目的を構成できないって
ああ、なるほどね。」
ツツミ先生は、何かに気付いたようだった。
「そう。屋外広告物規制の目的を、人の生命の保護だと構成することが
解釈の限界を超えることからも分かるように
目的の理解にも限界がある。そして・・・」
「そして、過度に広範な法文は、およそまともな目的を構成できない。
むりに三人集会条例の目的を構成しようとすると、
人が集まっていることから生じる不安感の除去とか、
リア充撲滅を望む人への配慮とか、
そういう希薄な目的しか構成できないってことね。」
リア充撲滅って、あんた、と思ったが、私は続けた。
「そうなんだよ。おそらく、
『何人も公衆に不安を与える集会をしてはならない』って規定する
広島市暴走族条例についても同じことが言える。」
「なるほどなー。まてよ、ってことは
過度広範な法文の『合憲部分』って、ひょっとして、合憲じゃないってこと?」
「そう。三人集会条例による暴走族集会の規制って
たぶん『合憲』じゃないし、その部分を『合憲部分』と呼ぶのは言葉のあやで、
『他の規制との関係では、正当な規制の対象になる部分』
『合憲的な他の規制を受け得る部分』って呼ぶのが正確で、
それ自体は、合憲な部分じゃないんだよ。」
「そうかー。そうすると、過度広範な法文に基づく規制って、
もしかして、普通の目的手段審査をすればはじけるってこと。」
「そう。いわゆる合憲部分の適用を受ける人も、
そもそも目的が重要、正当じゃないって言って防御できる。
第三者の主張適格云々も関係ない。」
「おいおい、ってことは、明確性の審査も過度広範性審査も
特別な審査方法としては観念する必要なくて、
前者は解釈は限界内で、っていう当然の規範に解消され、
後者は、普通の目的審査でさようなら、ってことか。」
「そういうことだね。
だから、アメリカ法に言う『文面審査』なんて概念は、
なくったいい、という方向に、
今後の議論は進んでゆくだろうね。」
「ラディカルだな。」
「確かにそうかもしれないが、
理論的にありうる可能性を排除していって、最後に残ったものは、
それがどんなに非常識で、直観に反していても、真理なんだよ。」
・・・こうして、我々の長い長い長い憲法判断の旅は終わった
。
以上のお話しは、今年発表予定の
「憲法判断の方法」という論文で整理する予定なので、
そちらもご参照ください。
これまで多くの方のご声援をいただきました。
本当にありがとうございました。
最後に書きました通り、ここで紹介した議論は、
今年中には公式戦で発表される予定で、
ペンギンに高速回転式炊飯器がいらないように、
来年冒頭には、木村説は、
天下無双の木村節として通説になっていると思います。
(言葉の意味はよく分かりませんが、とにかくすごい自信ですねえ。)
それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
****************************
「ははは。ずいぶんなキラーパスだな。ソクラテスメソッドってのは、
相手の議論をうまく引き出して、おいこんでいかなきゃだめだろう。
そんなん、答えられないだろう。」
「答えられないって、どういうこと?」
「法令の目的ってのはさ、規制範囲と整合的に構成しなきゃいけないんだよ。
たとえば、屋外広告物規制の目的を美観の維持とか景観保護と構成することはできても
人の生命の保護と構成することはできない。」
「なんでだ?」
「解釈の限界を超えるからだよ。
目的の構成は、それ自体一つの解釈だからな。限界がある。
で、三人集会条例なんて、目的を構成できないって
ああ、なるほどね。」
ツツミ先生は、何かに気付いたようだった。
「そう。屋外広告物規制の目的を、人の生命の保護だと構成することが
解釈の限界を超えることからも分かるように
目的の理解にも限界がある。そして・・・」
「そして、過度に広範な法文は、およそまともな目的を構成できない。
むりに三人集会条例の目的を構成しようとすると、
人が集まっていることから生じる不安感の除去とか、
リア充撲滅を望む人への配慮とか、
そういう希薄な目的しか構成できないってことね。」
リア充撲滅って、あんた、と思ったが、私は続けた。
「そうなんだよ。おそらく、
『何人も公衆に不安を与える集会をしてはならない』って規定する
広島市暴走族条例についても同じことが言える。」
「なるほどなー。まてよ、ってことは
過度広範な法文の『合憲部分』って、ひょっとして、合憲じゃないってこと?」
「そう。三人集会条例による暴走族集会の規制って
たぶん『合憲』じゃないし、その部分を『合憲部分』と呼ぶのは言葉のあやで、
『他の規制との関係では、正当な規制の対象になる部分』
『合憲的な他の規制を受け得る部分』って呼ぶのが正確で、
それ自体は、合憲な部分じゃないんだよ。」
「そうかー。そうすると、過度広範な法文に基づく規制って、
もしかして、普通の目的手段審査をすればはじけるってこと。」
「そう。いわゆる合憲部分の適用を受ける人も、
そもそも目的が重要、正当じゃないって言って防御できる。
第三者の主張適格云々も関係ない。」
「おいおい、ってことは、明確性の審査も過度広範性審査も
特別な審査方法としては観念する必要なくて、
前者は解釈は限界内で、っていう当然の規範に解消され、
後者は、普通の目的審査でさようなら、ってことか。」
「そういうことだね。
だから、アメリカ法に言う『文面審査』なんて概念は、
なくったいい、という方向に、
今後の議論は進んでゆくだろうね。」
「ラディカルだな。」
「確かにそうかもしれないが、
理論的にありうる可能性を排除していって、最後に残ったものは、
それがどんなに非常識で、直観に反していても、真理なんだよ。」
・・・こうして、我々の長い長い長い憲法判断の旅は終わった
。
以上のお話しは、今年発表予定の
「憲法判断の方法」という論文で整理する予定なので、
そちらもご参照ください。
分かりやすく要領を得たご質問で、
キツネさまの実力を感じます。
回収業者のもうけがなくなる
というのは、
回収業者の営業の自由の侵害
ということなので、
そちらの方面から検討すれば、
そうした考慮要素を検討できるのではなかろうか、
と思います。
どうでしょう?
疑問が浮かんできたのは、ここでいうところの「目的の重要性」を判断するに際して、規制が守ろうとしている法益のみならず、規制によって制約を受けることになる法益をも判断要素に含めてよいのか、ということです。
具体的に申しますと、本問は、ペットボトルの海外への輸出が続くことによってリサイクル事業者のなかに倒産するものが出てきたことなどを背景に、本件で問題となる輸出規制立法がされたとあります。倒産するものをなくそうと立法府が考えることは、首をくくるような人を出さないようにするという意味では、それ自体は、重要であるとは思います。
ただし、このような全面禁止をすれば、今度は回収業者のもうけがなくなります。すなわち、立法以前のリサイクル業者がおかれていたのと同様な状況に、回収業者をおくことにならないでしょうか。そして、そのような弊害は目的の中で考慮してはいけないのでしょうか。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
ひらたくいえば、
この規制が目的達成にやくだつとか、
年収1ドルだとたべてきけないとかそういう事実です。
それは、目的確定後に関連性を検証する際に使う事実です。
また、立法の経緯のことを立法事実ということもありますが、
これは誤った用語法です。
そのうえで、立法経緯を目的解釈で参照するかということですが、
これは、「参考」にしてもいいが、
立法経緯で説明された目的=立法目的ではない
ので、立法経緯だけを根拠に目的を確定するのは
あやまっているということになります。
詳細は、私の『平等なき平等条項論』の
索引で「立法目的」検索してみてください。
それぞれについてまったく異なる目的を構成できる
というお考えのようです。
それはそれでひとつの解釈方法論ですが、
条文としてのまとまりを重視すべきだと考え、
目的を構成しようとする人が多いと思います。
私はiwaさんの考え方もあり得るとは思いますが、
立法者が一つの条文で表現した以上、
その事実を重く見るべきだ、と思います。
「1-1の目的実現寄与分が、1-2の目的実現寄与分で希釈されるため」
は、
「1-2の目的実現寄与分が、1-1の目的実現寄与分で希釈されるため」
に訂正させて下さい。
失礼致しました。
そこで、さらなる質問をお許し下さい。
「周囲を威圧する態様で三人以上の集会をした暴走族」に刑罰を科す条例からは、
1-2「周囲を威圧する態様で三人以上の集会をした暴走族に刑罰を科す」
という法命題が導かれ、
周囲を威圧する態様による暴走族の三人以上の集会の防止という目的との関係で、
1-2は、問題なく関連性を充足し、合憲となりうるのに対し、
「三人以上の集会をした者」に刑罰を科す条例からは、
1 「三人以上の集会をした者に刑罰を科す」
1-1「周囲を威圧しない態様で三人以上の集会をした非暴走族に刑罰を科す」
1-2「周囲を威圧する態様で三人以上の集会をした暴走族に刑罰を科す」
という法命題が導かれ、
1は1-1及び1-2から構成されるところ、
周囲を威圧する態様による暴走族の三人以上の集会の防止という目的との関係で、
1-2が、目的の実現に寄与するとしても、
1-1が、目的の実現に寄与しないため、
1-1と1-2から構成される1は、
1-1の目的実現寄与分が、1-2の目的実現寄与分で希釈されるため、
目的の実現に寄与するとは評価されず、関連性を充足せず、違憲であり、
その結果、親亀がこけたら子亀もこけるで、
1-2も、違憲となる、
ということになるのでしょうか。
1と1-2の関係について、
これまで私は、1が違憲でも1-2は合憲になりえる、というように、
別個に評価していたのですが、それは誤りであり、
連動しており、
だからこそ、解釈限界肯定説(先生のお立場や通説)からは、
私が示したような目的理解は、解釈の限界を超える、ということになるのでしょうか。
「そう。三人集会条例による暴走族集会の規制って
たぶん『合憲』じゃないし、その部分を『合憲部分』と呼ぶのは言葉のあやで、
『他の規制との関係では、正当な規制の対象になる部分』
『合憲的な他の規制を受け得る部分』って呼ぶのが正確で、
それ自体は、合憲な部分じゃないんだよ。」
ということの意味がよくわかっていなかったのですが、
上記のような理解を意味するのでしょうか。
最後と言っておきながら申し訳ないのですが、以前気になって保留にしていたことを一つ思い出しましたのでお考えをお聞かせいただけるとありがたいです。法令の「目的を確定」する際に、立法事実を参照することは許されるのでしょうか。この点について直に勉強したことはないのですが、これまで法律を勉強してきたことから思い起こすと(特に行政法ですが)、立法事実云々に照らすと…などという発想はしてこなかったように思います。立法事実まで参照する手法は、もはや一般人にとっては困難を強いるものであり、「解釈」手法としては「通常は」認められないようには思うのですが…(「通常は」というのは許される場合もあるのかなあ、という自信のなさの現れです)。よろしくお願いします。
解釈の限界を超えるという人が多いでしょう。
大が小を兼ねるにしても限界があるからです。
ただ、先日から強調しているように、
iwaさんは解釈の限界を否定する見解に近い立場
に見えるので、私とは違う法学基礎論に立っている
ということで、特に何かが誤っているということではないでしょう。
三人集会条例について、
周囲を威圧しない非暴走族の集会を規制対象にしている部分は、
暴走族が周囲を威圧する態様で行う集会の防止という目的の実現に寄与しないが、
少なくとも、
周囲を威圧する暴走族の集会を規制対象にしている部分は、
暴走族が周囲を威圧する態様で行う集会の防止という目的の実現に寄与する。
よって、三人集会条例は、目的と整合し、関連性を充足する。
言い換えると、
大は小を兼ねる、あるいは、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、という意味で、
三人集会条例は、目的と整合し、関連性を充足する。
というように理解していたのですが、
これだとなぜおかしいのでしょうか。
おかしいところがうまく理解できません。
会館使用不許可処分やデモ行進の際の
道路使用不許可処分は
「事前抑制」の一例であり、
「検閲」か?みたいな議論をする文献もあります。
なので、事前規制の一種ではありますね。
あと一点だけ、ローの先生に質問してもいまいち解消しきれていない疑問についてもよろしければお考えをお聞かせいただけるとありがたいです。泉佐野市の使用不許可事件なのですが、これは「事前」規制なのでしょうか。泉佐野市事件に限らず、この手の使用不許可事件ではあまりこのことが問題になっていないような気がして疑問に思っていました。重ね重ねすみません。よろしくお願いします。
あの事案でそれが本丸であると、私も思っていますが、
あの評釈のあの箇所で論じているのは、
比例原則審査における目的審査であり、
その法令を正当化するために構成された目的の正当性です。
動機審査とは別の次元に関する論証ということですね。
先生はこの論文の149ページで「本件戒告処分の適法性」について書かれておいでですが、目的審査のところで「ここで検討すべきは、校長や教育委員会のメンバーがいかなる動機で行為したか、ではない」と述べておられます。これは、違憲審査を行う際の目的審査の方法(比喩的に言えば憲法レベル)と、適法性判断で用いる際の目的審査の方法(適法違法レベル)と同じ考え方をする、ということだと理解しました。確かに、動機の認定の困難性という点ではどちらも通じる話だと思います。しかし、行政法の教科書にはほぼ例外なく「目的違反・動機違反」の場合は裁量逸脱で違法になると書かれています。最高裁もそのような見解だと思います(個室付浴場事件・最判s53・6・16)。そうすると、先生のお考えからすると、行政法で「目的違反・動機違反」などと論じていることは妥当ではない、ということになるのでしょうか。私がどこかで誤解しているかもしれません。ご多忙中とは思いますがよろしくお願いします。
その目的理解とどう整合するのですか?
続いて質問があります。
私の理解ですと、
三人集会条例の規制範囲は、「暴走族が周囲を威圧する態様で行う集会」を含むと解することができる。
よって、三人集会条例は、「暴走族が周囲を威圧する態様で行う集会」の防止に寄与する。
よって、三人集会条例の目的について、「暴走族が周囲を威圧する態様で行う集会」の防止と構成しても、「規制範囲と目的との間におよそ関連性を観念できない」わけではなく、「解釈の限界を超える」わけではない。
ということになってしまいます。
どこがおかしいのでしょうか。
助手論文に書いたように、
わざわざ不当な目的を構成することはできないのですが、
解釈の限界論があり、
一応正当だけど、希薄なものしか構成できない
というケースはあるだろう、ということですね。
なので、おっしゃるような目的解釈ができるということです。
一方、たとえば公務員の政治活動規制について、
一般には「内乱予防」という目的は構成できないとされています。
あるいは、わいせつ物頒布規制の目的を
「不良薬物の流通防止」とは構成できないともされています。
なぜなら、規制範囲と目的との間におよそ関連性を
観念できないからです。
そうした場合、
目的自体は構成可能だ(が関連性欠けると処理すればよい)という人と(iwaさんはこちらの見解です)、
そういう目的の構成の仕方は、
解釈限界を超えるという人がいます。
解釈限界否定説は一般的でなく、
通説は解釈限界があるとの見解なので、
通説からは、
三人集会条例についてのおっしゃるような目的解釈は、
解釈の限界を超えるということになります。
もちろん、解釈限界について通説と違う立場をとってもいいですが、
私は、解釈限界については通説を前提にしています。
だから、三人集会条例について「およそまともな目的は構成できない」のです。
以前はこちらでお世話になりました。
法学入門的な本、
行政事件訴訟法9条の問題、
目的審査における目的の確定方法(本ブログ記事)、
そして
三種の神器(憲法の急所、キヨミズ准教授の法学入門、平等なき平等条項論。なお憲法の創造力も楽しみにしております!)
等に触れることで、
「法令の目的ってのはさ、規制範囲と整合的に構成しなきゃいけないんだよ」(本記事)
に関して、正確な理解はさておき、しっくりきました。
もっとも、別の疑問が生じたので、
よろしければ、次の質問をお許し下さい。
「法令の目的ってのはさ、規制範囲と整合的に構成しなきゃいけないんだよ」(本記事)、
目的審査における目的の確定方法(本ブログ記事)における議論、
「立法目的とは,立法に関係した国家機関の意図とは無関係に,法解釈者がその法律を正当化するために解釈により構成したものを言う……このような立法目的概念……を採った場合,立法目的自体が不当であることは論理的にあり得ない」(平等なき平等条項論118頁)等を踏まえた場合、
三人集会条例について、
「暴走族が周囲を威圧する態様で行う集会とか、凶器もって集まる行為」の防止や
「周囲の営業を守る」(法令の審査方法(9)参照)
というような目的を構成することができ、
「過度に広範な法文は、およそまともな目的を構成できない。
むりに三人集会条例の目的を構成しようとすると、
人が集まっていることから生じる不安感の除去とか、
リア充撲滅を望む人への配慮とか、
そういう希薄な目的しか構成できないってことね。」(本記事)
ということにはならないように思えます。
にもかかわらず、なぜ
「およそまともな目的を構成できない」
ということになるのでしょうか。
目的の画定はきもです。
自分の中の目的画定方法を改めて明確性審査にかけたところ、問題ありでした(モケケピロピロ級には至っていないとは思いたいですが)。かなり場当たり的に解いていたようです。
「法学ってのはさ、結局、みんな知らんでも困らんだろうっていう基礎理論の理解が、最後にはものを言うんだ。」(byツツミ先生)とのことですし(私の場合は知らんと困る基礎理論なのでなおさら!)、不勉強を反省しつつ、早速、三日月先生や団藤先生を入手して出直したいと思います。
手段審査と似るのは確かですが、
それは、
その目的達成に、その規制が実際に役立っているか
という審査とは別問題でしょうね。
iwaさんは、ある法令の立法目的を構成するとき、
どのようにやっていますか?
それを思い出してみれば、言っていることがわかるはずです。
また、この質問に明確に答えられないようであれば、
目的審査の前提である、
規制目的の画定という作業ができていないということになります。
この作業は、憲法論ではなく、
民法をはじめとした実定法学全般から身に着ける
法律家としての必須の作業です。
なので、もし目的の画定方法がわからないということでしたら、
法学入門(三日月先生や団藤先生など)の類を一通り読んでみてください。
それはさておき、目的の構成の方法がしっくりきません。
「法令の目的ってのはさ、規制範囲と整合的に構成しなきゃいけないんだよ。
たとえば、屋外広告物規制の目的を美観の維持とか景観保護と構成することはできても
人の生命の保護と構成することはできない。」というのは、
屋外広告物規制によれば、景観保護は可能になるが、生命保護は不可能なので、屋外広告物規制の目的について、景観保護と構成することができるが、生命保護と構成することはできない、という論法なのでしょうか。
しかし、屋外広告物規制によれば、景観保護が可能になる、というのは、手段(関連性)審査そのもののであり、目的審査で手段審査をしているように私には思えます。これだと、目的審査と手段審査で論法が循環しそうに思えます。
以上について、私の理解が明らかにおかしいのは理解できるのですが、なぜおかしいのかが理解できません。 憲法論点教室13頁も参照したのですが、同じく目的審査に手段審査を含んでいるように思えてよくわかりません。
「法令の目的ってのはさ、規制範囲と整合的に構成しなきゃいけないんだよ」とはどういうことなのでしょうか。お教え頂ければ幸いです。
とりあえず、Q&Aコーナーに処分違憲概念についての記事へのリンクありますので
みてみてください。だいたいそこに書いてあります。
>ぼやぼーやさま
そうですか。がんばってください!
予備校の表現の自由の問題を解いていて、明確性(過度広汎)の点だけを主張する答案を書いてみたら、せっかく原告の特殊事情を加味した権利侵害の部分が正当化段階でまったく使えなくなっていしまい、あれれ?となってしまったので。
勝ち目の問題は疑問はきれいに解決です!
急所第4問の事例で、集会の自由を主張するのがまずいわけはないですもんね。
思考様式の問題か~。自分は短絡的思考が多いので、最も望みが弱いものから考えてみるのもいいかもな~と思いました。
ありがとうございます。
まず芦部3類型については、第1類型のみが適用違憲であることは理解できます。
ただし、適用上審査において、合憲限定解釈をしない、それすなわち処分違憲、すなわち、適用上審査における適用意見は、処分違憲だけ、という理解でただしいということでしょうか・・
この点だけまったくクリアーになりません。
勉強不足でしたら恐縮なのですが、
もしよかったら参照すべき本などをおしえていただけませんか。
一点目ですが、
明確性の問題の具体的な書き方については、
『憲法の急所』の第四問をご参照ください。
「不明確な法文による云々の権利」と書いてもいいかもしれませんが、
ちょっと長々しくなるので、別の書き方でもいいのではないでしょうか。
そのあたりは、相手に伝わればよいと思います。
二点目ですが、
適用審査優先原則を規定した憲法条項や訴訟法の条文はないので、
それは、法原則ではなく、一部の学者が提案している
司法政策指針だと思っておりますので、
まあ、どうでもいいだろうというのが私の態度です。
で、メイドの事案でも妄想族の事案でも、
一番勝ち目があるのは過度広範性で、
集会の自由を主張する意味あるか、と言う点ですが、
確かに、集会の自由の主張はなくてもいいかもしれませんし、
自分が採点基準をつくるとしても、そんなにたくさん配点しないと思います。
ただ、書いてまずいわけではないわけですね。
私は、性格的に
主張できる可能性があるもののうち、
まず、最も望みの弱いものから検討し、徐々に本命にという
思考様式をとる傾向があるようで、たぶん、そういう性格的問題かと思います。
>峯岸キタさま
おっしゃる通り、解釈の限界を超えた解釈では
国家行為を基礎付けられないので、
そもそも、その処分は根拠法なきゆえに違法無効的な処理になるのが自然です。
根拠法なしに自由を拘束されない権利というのは、
根拠法なきがゆえに、国家行為が無効だという客観法原則を
主観的に主張できるようにするために措定される権利なので、
この記事がこれまでの説明を何か変えているというつもりはありません。
まあ、根拠法が無効になった場合の処分の行方は、
違憲無効に決まっているので、
その理由は判例も学説もあまり深く考えてないということでしょう。
現段階では自分なりに説明できれば、
試験でも実務でも不利益にはならないと思います。
程度の差こそあれ、司法試験受験生は暗記→吐き出し作業を余儀なくされる中で、このブログは貴重な存在だと、心底思っております。
不勉強な状態での質問で、既出の質問かもしれませんが、お時間のある時に木村先生にご指南いただければと思います。
明確性に関しての質問ですが、先生のおっしゃる特定行為排除権として権利侵害を主張していく場合、侵害された権利は通常の防御権と異なり、「不明確または過度広汎な法文により、自己の権利を制約されない権利」の侵害であると理解しました。
となると、答案の書き方の話で恐縮ですが、通常の防御権の場合のような、「憲法上の権利として保障される原告の~の自由が、憲法上の救済を受けるべき侵害を受けている」という論証の「~の自由」の部分が、上記のような権利に置き換えられるということになるのでしょうか?
また、木村先生は適用審査優先原則を採用されていないと理解していますが、それはなぜなのかお聞かせ願えれば、と思っております。
原告が典型的適用事例に当てはまらない場合に、より勝ち目がありそうな原告特有の適用違憲の主張ではなく、先に典型的適用事例→法令全部違憲を想定した主張をするのは効率が悪いのでは?と素人判断では思ってしまうのです(--;)
急所第4問(妄想族)とよく比較される、宍戸先生の説例(暴走族X、メイドコスプレイヤーY)では、Xの主張として、過度広汎(Yは規制されるべきでないのに規制され、かつ法文が不可分)を主張してダメなら、その後目的手段審査をしてもさほど生産的にならない、とされています。
対して急所第4問では、「事案からしてやや苦しい」けれども、はじめに集会の自由の制約を主張し、でも主戦場は漠然不明確→過度広汎という組み立てになっていると理解しました。
宍戸先生の事例との対比で恐縮ですが、木村先生のお考えをお聞かせいただければありがたいです。
試験まであと3ヶ月。これからもこのブログで楽しく憲法を勉強していきたいと思っています。
お久しぶりです。こんにちは。どうもありがとうございます。
かなり専門的な媒体ですので、
ぜひ、地元の図書館にリクエストして頂ければと思います(笑)
>UNさま
そういっていただけて、発表する勇気が出ました。
公式戦もどうぞよろしくお願いいたします。
私はアメリカの審査基準論は各論で,ドイツ流の三段階審査は総論として整合的に理解しようとしていました。また一つ,そのように関連付けて考えられることが増えてうれしいです。
「文面審査」の概念は,(米国の)裁判所としては,実際に憲法判断をするのに,経験的に,文面という形式的な審査だけで(他の事実・証拠を審査することなく)判断が可能な方法として類型化する実益があったのではないかなと思いますが,総論的に考える際には,ミスリーディングな理解を誘発するもので,必要がないと思います。
素人ながら、文面審査は不要だという考えは面白いと思います。
論文も楽しみにしておりますので、一般の人にも手が届くものであれば、発表した際には是非ブログでも告知してください!