さて、公務員の政治活動についての議論を整理しましょう。
一 公務員の業務遂行の「中立性」の定義
公務員の業務遂行の中立性とは、
公務員が職務行為をする場合に、
民主的に決定された法律を忠実に従うべきことを意味する。
二 公務員の政治活動の禁止と公務の中立性確保の関連性
1 公務員の業務遂行の中立性が、その1に示した概念である以上、
個人の立場でやる=業務としてではなく行う政治活動は、
公務員の業務遂行の中立性に違反しない。
2 また、個人の立場で政治活動を行う人間は、
業務においても中立性に反する業務を行う、
という事実を認定することは困難である。
(例えば、休日にA党のポスターを張っている八百屋さんが
B党支持者にニンジンを売らない、
という現象は、一般に観察されない)
3 よって、公務員が個人の立場で行う政治活動の禁止は、
公務の中立性それ自体を保護するためには、役立たない。
(公務の中立性確保という目的とは、関連性が欠ける)
三 公務員の政治活動の禁止と公務の中立性への「信頼」確保との関連性
1 ただし、
「個人の立場で政治活動を行う人間は、
業務においても中立性に反する業務を行う」
という偏見をもっている国民がいる可能性は否定できない。
2 よって、
公務員が個人の立場で行う政治活動の禁止は、
公務の中立性「への信頼」を保護する目的には資する。
四 批判
最高裁の立場は、三に示した通りであるが、
三1の国民の偏見は、偏見ないし差別感情にすぎず、
これに迎合する目的は、およそ正当とは言い難い。
ふむ。よくまとまったなあ。
このままゼミの報告とかしたら、ウケるかもしれない(悪知恵)。
・・・・・・。
はい。ゼミの発表では、ちゃんと出典を示しましょう。
さて、ここまでの議論は、
公務員が個人の立場で(=業務外で)行う政治活動を禁止することは
正当化できない、というものです。
しかし、公務員が、業務遂行中に、あるいは、
業務上の立場を利用して政治活動を行えば、
これは、当然、公務の政治的中立性に違反します。
たとえば、
「学校の先生が家庭訪問中に、特定候補者への投票を依頼する」
(めがふぉにっく様ご指摘。ありえん。戸別訪問で逮捕じゃ。)とか、
「警察官が、休日に、制服と拳銃を持ち出し、
『次の選挙で、○×候補に投票した者は、それ以降、
警察の保護を受けられないものと思ってほしい』と演説する」とか。
これは、
政治的信条によらず業務を誠実に執行すべき、という公務員法の規範
公務員の立場で発言(ガバメントスピーチ)する場合には、
内閣以下の監督の下で、許容された範囲での発言すべき、
という規範に、真正面から違反しています。
さて、そうすると、公務員の政治活動の禁止のうち、
「公務員の地位を利用した」政治活動の禁止は、
公務の中立性の確保と言う目的と関連しているといえ、
正当なわけです。
現行法は、それをはるかに超える範囲を規制していて、
関連性のない規制が多く含まれているので
違憲部分が多いということなわけですね。
はい。こんな風に公務員の政治活動の禁止の論点、
考えて見てはどうだろうか?ということでした。
一 公務員の業務遂行の「中立性」の定義
公務員の業務遂行の中立性とは、
公務員が職務行為をする場合に、
民主的に決定された法律を忠実に従うべきことを意味する。
二 公務員の政治活動の禁止と公務の中立性確保の関連性
1 公務員の業務遂行の中立性が、その1に示した概念である以上、
個人の立場でやる=業務としてではなく行う政治活動は、
公務員の業務遂行の中立性に違反しない。
2 また、個人の立場で政治活動を行う人間は、
業務においても中立性に反する業務を行う、
という事実を認定することは困難である。
(例えば、休日にA党のポスターを張っている八百屋さんが
B党支持者にニンジンを売らない、
という現象は、一般に観察されない)
3 よって、公務員が個人の立場で行う政治活動の禁止は、
公務の中立性それ自体を保護するためには、役立たない。
(公務の中立性確保という目的とは、関連性が欠ける)
三 公務員の政治活動の禁止と公務の中立性への「信頼」確保との関連性
1 ただし、
「個人の立場で政治活動を行う人間は、
業務においても中立性に反する業務を行う」
という偏見をもっている国民がいる可能性は否定できない。
2 よって、
公務員が個人の立場で行う政治活動の禁止は、
公務の中立性「への信頼」を保護する目的には資する。
四 批判
最高裁の立場は、三に示した通りであるが、
三1の国民の偏見は、偏見ないし差別感情にすぎず、
これに迎合する目的は、およそ正当とは言い難い。
ふむ。よくまとまったなあ。
このままゼミの報告とかしたら、ウケるかもしれない(悪知恵)。
・・・・・・。
はい。ゼミの発表では、ちゃんと出典を示しましょう。
さて、ここまでの議論は、
公務員が個人の立場で(=業務外で)行う政治活動を禁止することは
正当化できない、というものです。
しかし、公務員が、業務遂行中に、あるいは、
業務上の立場を利用して政治活動を行えば、
これは、当然、公務の政治的中立性に違反します。
たとえば、
「学校の先生が家庭訪問中に、特定候補者への投票を依頼する」
(めがふぉにっく様ご指摘。ありえん。戸別訪問で逮捕じゃ。)とか、
「警察官が、休日に、制服と拳銃を持ち出し、
『次の選挙で、○×候補に投票した者は、それ以降、
警察の保護を受けられないものと思ってほしい』と演説する」とか。
これは、
政治的信条によらず業務を誠実に執行すべき、という公務員法の規範
公務員の立場で発言(ガバメントスピーチ)する場合には、
内閣以下の監督の下で、許容された範囲での発言すべき、
という規範に、真正面から違反しています。
さて、そうすると、公務員の政治活動の禁止のうち、
「公務員の地位を利用した」政治活動の禁止は、
公務の中立性の確保と言う目的と関連しているといえ、
正当なわけです。
現行法は、それをはるかに超える範囲を規制していて、
関連性のない規制が多く含まれているので
違憲部分が多いということなわけですね。
はい。こんな風に公務員の政治活動の禁止の論点、
考えて見てはどうだろうか?ということでした。
「学校の先生が家庭訪問中に、特定候補者への投票を依頼しようが。時間外に電話で投票の依頼をしようが。」
公務員の業務遂行の「中立性」の定義って揺るがないものなのでしょうか?
勤務時間の内外をとわず
「地位を利用した公務員としての政治活動」
になってしまうでしょう。
そういうことだとおもいますが、どうですか?
難しい…。
規定の大部分を違憲とする結論が導かれるのも、ここに原因があるのではないでしょうか。
私は、中立性とは、「当該公務員の政治的中立性」をさし、
より具体的には、「当該公務員が、他の国民の政治的意思に恣意的影響を与えること」と定義すればよいと思います。
このことは、人事院規則14-7の5条5号が、「政治の方向に影響を与える意図」を要求していることとも整合します。
他方で、国公法102条及び上記人事院規則は業務関連性を何ら必要としていません。
業務の適正が直接の保護法益に含まれないことは明らかだと思います。
以上のように解すれば、政治活動一律禁止との関連性が容易に肯定できます。
私は、私的領域で反原発運動を積極的に行っている公務員について、
業務自体を適正に行っていることをもって「原発問題について中立性を保っている」
と評価できるとすることは、やはりおかしいと思います。
個人が「他の国民の政治的意思に影響を与えること」は、
私的領域での表現の自由の中核部分とされます。
そして、公務員の立場を利用せずに行われるものである以上、
それを規制する正当な目的を構成することは不可能だとされています。
公務員の立場を利用していない以上、
その行為を規制する理由はないはずです。
おそらくご指摘のような議論は、
現在の表現の自由論の水準を前提にした場合、
問題外と評価されると思いますし、
だからこそ、最高裁は業務への信頼を目的としているわけですね。
>>それを規制する正当な目的を構成することは不可能だとされています。
しかしながら、現にこれを規制する法が存在するということがあります。
仮に、国側に立ってこれを正当化する主張をせよと言われた場合、
どのような構成を採る事が可能であるのか、検討する価値はあるかと思います。
実は、規制当局は、信頼を規制根拠にはしていません。
これは、以前ご紹介した政府答弁、それから、下記の人事院の見解からも明らかです。
http://www.jinji.go.jp/kisoku/tsuuchi/14_fukumu/1402000_S24houshinhatsu2078.htm
「国家公務員は、国民全体の奉仕者として政治的に中立な立場を維持することが必要である」
と明言しています。
業務の中立ではなく、公務員個人の中立が要求されているのです。
私は、この考え方は、冷戦終結後相当期間は規制を正当化しうると考えます。
すなわち、戦後まもなくの激烈な労働運動、およびソ連、中国、北朝鮮、ベトナムというように
アジアの国々が次々と共産化されていくなかで、日本は次の共産化の標的であったという
国際情勢の下においては、国家の存続に切迫した危険が現在したといえます。
国家が転覆されれば表現の自由の保障などあり得ないのですから、
国家の維持・存続という目的は、優に表現の自由に優越するのです。
そうすると、公務員の政治活動を認めることによって国家転覆の自体に
陥る事を防ぐために、これを規制することは、やむにやまれぬ(compellingな)公共利益と
いうことになります。
しかしながら、冷戦終結後相当期間経過後には、上記のような状況は
収まったと評価できますから、もはや現在において規制を存置することは
正当化できないと、そのような評価をせざるを得ないと考えました。
上記のように考える余地は、現在の憲法学の水準を前提にしてもあり得ると
思いますが、いかがでしょうか?
また、仮に先生に国から公務員の政治活動の一律禁止を正当化する意見書を
書いて欲しいと頼まれたなら、どのような構成をお考えになりますか?
そのような考え方はあり得ません。
また、一律禁止を正当化する憲法理論は
あり得ないと思います。
>>個人の行為は機関の行為とは切り離されるので
>>そのような考え方はあり得ません。
>>また、一律禁止を正当化する憲法理論は
>>あり得ないと思います。
そうしますと、上記人事院の見解や、猿払上告審は
憲法上あり得ない見解を述べているというように
理解してもよろしいのでしょうか?
私は、どうもそこにためらいを感じてしまうのですが。
というのは、司法試験で猿払上告審のような理解を
自説として展開した場合、およそあり得ない間違った見解を
書いたとして減点される恐れがあるということになるからです。
おっしゃる通り、ありえない見解と批判されております。