私が小中学生のころというと、もう60年以上前ですので記憶もあやふやになっていますが、当時は目立ついじめなどなかったような気がします。
単に私がいじめられなかっただけかもしれませんが、断定するほどの記憶はありません。学校は「教育」「学校らしさ」「生徒らしさ」という膜につつまれた不思議な世界です。
その膜の中では外の世界では別の意味を持つことが、すべて教育という色に染められてしまいます。そして外の世界のまっとうなルールが働かなくなります。こういったことは、学校以外の集団でも起きます。
たとえば宗教教団は「宗教」の膜で包まれた別の世界になっていることが多いです。オウム真理教教団では、教祖が気に食わない人物を殺すように命令していましたが、それは被害者の魂を高いところに引き上げる慈悲の行いという意味になりました。
また連合赤軍のような革命集団でも、同じ形の膜の世界が見られます。学校も、オウム教団も、連合赤軍もそれぞれ「教育」「宗教」「共産主義」という膜で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界を作っています。
この三つを同じ列に並べるのはやや無理がありますが、この三つが同じ形をしているといえるでしょう。このように様々な社会現象から、学校と共通の形を取り上げて説明するとわかりやすいでしょう。
こうして考えてみると、学校について今まで当たり前と思っていたが、よく考えてみたらおかしい点が多くあることに気づきます。これらのポイントに共通して言えるのは、クラスや学校のまとまり、その場のみんなの気持ちといった全体が大切にされ、一人ひとりが粗末にされるということです。
全体はひとつの命であるかのように崇拝されます。この全体の命が一人ひとりの形に現れたものが「生徒らしさ」となります。だから学校では、生徒らしい心を形であらわす態度が、何よりも重視されます。
これは大きな社会の全体主義とは別のタイプの、小さな社会の全体主義です。大切なことは、人が学校で生徒らしく変えられるメカニズムを知ることです。自分が受けた洗脳がどういうものであったかを知る作業であり、人間が集団の中で別な存在に代わる仕組みを発見する旅でもあるのです。
ある条件の下では、人と社会が一気に変わり、場合によっては怪物のように変わります。この人類共通の仕組みを、学校の集団生活が浮き彫りにします。
このように学校の全体主義がいじめを引き起こしているという説ですが、面白い説ではありますが私はあまり賛同できません。まあ参考までにというような意味です。
単に私がいじめられなかっただけかもしれませんが、断定するほどの記憶はありません。学校は「教育」「学校らしさ」「生徒らしさ」という膜につつまれた不思議な世界です。
その膜の中では外の世界では別の意味を持つことが、すべて教育という色に染められてしまいます。そして外の世界のまっとうなルールが働かなくなります。こういったことは、学校以外の集団でも起きます。
たとえば宗教教団は「宗教」の膜で包まれた別の世界になっていることが多いです。オウム真理教教団では、教祖が気に食わない人物を殺すように命令していましたが、それは被害者の魂を高いところに引き上げる慈悲の行いという意味になりました。
また連合赤軍のような革命集団でも、同じ形の膜の世界が見られます。学校も、オウム教団も、連合赤軍もそれぞれ「教育」「宗教」「共産主義」という膜で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界を作っています。
この三つを同じ列に並べるのはやや無理がありますが、この三つが同じ形をしているといえるでしょう。このように様々な社会現象から、学校と共通の形を取り上げて説明するとわかりやすいでしょう。
こうして考えてみると、学校について今まで当たり前と思っていたが、よく考えてみたらおかしい点が多くあることに気づきます。これらのポイントに共通して言えるのは、クラスや学校のまとまり、その場のみんなの気持ちといった全体が大切にされ、一人ひとりが粗末にされるということです。
全体はひとつの命であるかのように崇拝されます。この全体の命が一人ひとりの形に現れたものが「生徒らしさ」となります。だから学校では、生徒らしい心を形であらわす態度が、何よりも重視されます。
これは大きな社会の全体主義とは別のタイプの、小さな社会の全体主義です。大切なことは、人が学校で生徒らしく変えられるメカニズムを知ることです。自分が受けた洗脳がどういうものであったかを知る作業であり、人間が集団の中で別な存在に代わる仕組みを発見する旅でもあるのです。
ある条件の下では、人と社会が一気に変わり、場合によっては怪物のように変わります。この人類共通の仕組みを、学校の集団生活が浮き彫りにします。
このように学校の全体主義がいじめを引き起こしているという説ですが、面白い説ではありますが私はあまり賛同できません。まあ参考までにというような意味です。