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ごっとさんのブログ

病気を治すのは薬ではなく自分自身
  
   薬と猫と時々時事

友達が多い高齢者と孤独な高齢者

2025-06-20 10:33:45 | その他
私は比較的友人は多いほうだと思っています。昔からの(中学・高校時代)近くの友人や、昔の職場仲間の麻雀や囲碁の友達、大学時代の友人やギターの仲間と皆同世代ですがかなり多くいます。

ただ残念なことにすでに3人が亡くなってしまい、78歳という歳ですのでやむを得ないのですが寂しい感じがしています。

内閣府のデータによると、60歳以上の約3人に1人は親しい友達がいないそうで、これは世界的にみてもかなり低いほうだそうです。また日本人の特徴として、同性の友達が多く、異性の友達が少ないという傾向もあります。

友達はいらない、人と話すのは苦痛、そういう人には確かにかえってストレスになるので、無理をする必要はないと思いますが、紹介する方法を友達づくりの参考にしてみてください。ひとつは共通項を見つけることです。

友人形成の研究によると、人は同じ要素や似た要素ホモフィリーがあるとひかれあい、友人になりやすいことがわかっています。類は友を呼ぶとはまさにこのことです。

本来は相手が異性でも、子供でも学生でも社会人でも、同じ共通点があれば友達になれるということを意味しています。多くの人は友達というと、次のような定義をしているのではないでしょうか。友達は同世代の同性。この考えが友達を作りにくくさせている一つの要因です。

同性代、かつ同性の中から探そうとすると、既に選択の幅が狭くなっています。特に日本人はこの傾向が強いようです。また高齢になればなるほど、同世代の人は亡くなっていくため、友達を作るという視点で見ると、同世代同性の友達しかいないのは、さらにリスクがあります。

歳の差がある友人関係のことを、エイジギャップフレンドシップといいます。欧米では、この歳の差フレンズに拍車をかけているのが、SNSやインターネットの利用です。

SNSで発信したり、インターネットで特定のコミュニティに参加したりするなど、世代を超えた交流を手軽に実現することができます。これからは日本も高齢者ほどSNSが役に立つ時代が来るのではないでしょうか。

年下の友人がいる高齢者の特徴は、自分が相手よりも年長でも相手と対等に接する人が多いことです。人は上下関係で接することを嫌います。対等に接して初めて友達といえるのです。

自分が思っている友達の定義を変更し、年の離れた人、異性で友達になれる人がいないか探してみると、意外と見つかるかもしれません。その時大切なことは、相手と対等に接することです。

この歳になると今更新しい友達を作る気にもなりませんが、試みてみるのも面白いかもしれません。

こんな人には孤独な人生が待ち受ける、タイパやコスパ その2

2025-06-09 10:36:48 | その他
このブログは長さを一定にすることを優先していますので、タイトルの内容まで行かずに終わってしまうことがあります。このタイトルも時計と標準時の話で終わってしまいましたので、その続きを書くことにします。

オーストラリアの先住民アポリジニは、天体の動きや花木の開花時期、干潮から現在時刻を算出するため極めて高度な計測を行っていました。しかし入植した英国人たちは、この方法は自然的でかつ気まぐれだと断じ、入植者たちは彼らの時間をも支配しようとしました。

ここで重要なのは、時間によって労働が管理しやすくなり、生産性や対価の算出が容易になって点です。一定の労働時間に対して人間がどれくらい生産性を上げられるかを考えたとき、人間を一種の資源としてとらえているとも考えられます。

時計時間は資本主義の産物ではなく、その逆でもありません。科学や宗教が時間を同一に分割したことは、資本主義にとって好都合でした。資本家たちは時計時間を便利なインフラとして用い、人間の体と労働、商品を搾取し、金銭価値を変えたとしています。

時計時間は私たちが生まれつき共有している時間でもなく、近代の発明品のひとつにすぎません。この発明品は時代折々の権力者にとって有利に使われてきた側面があります。

あまり時計時間にとらわれすぎるのではなく、自分の時間を測る物差しを必要に応じて持ち替えることも大事です。

現代ではすぐに何かができるようになることがもてはやされますが、それは時計時間の世界上での評価にすぎず、誰かよりも早く何かができなかったことで自分を責めたり、貶めたりしてしまうことに違和感を覚えます。

時計時間を便利に活用しつつも、時としてあなたを効率という尺度で測ろうとする時計の呪縛から逃れることで、生きることはもっと豊かになるでしょう。最近コスパやタイパという言葉を耳にする機会が増えました。

この言葉は乱用されている印象があるので、定義をはっきりさせておきます。コスパは支払った金額に対して得られる効果や満足度のことで、費用対効果とも呼ばれます。タイパの基準は時間で、自分が投じた時間に対して、どれくらい効果や満足度が得られるかを指します。

いずれも、効果や満足度のためにかけるお金や時間は少ないほうが好ましいというのが共通する傾向でしょう。タイパは時短、隙間時間の活用によって、可処分時間を増やすことが本来の意義です。

コスパ、タイパについては個人の信条もありますし、それらの追求そのものに喜びを感じる人もいるので否定はしません。しかしコスパやタイパに執着しすぎると短期的な目線になりがちのようです。

こんな人には孤独な人生が待ち受ける、タイパやコスパ

2025-05-31 10:34:28 | その他
現在は時間が十分にありますので、ほとんどタイムパフォーマンスなど気にしたことがありません。

私は研究職として生きてきましたので、実験を中心に仕事をしていました。実験というのはコスパやタイパなどと無縁の世界ですので、その感覚がまだ残っているのかもしれません。

ドイツの哲学者が技術の本質は「潜むものを明らかにすること」にあると考えました。たとえば身の回りにある自然も、技術なくしてはそこから何も生まれてきません。山にある木を切り倒し、運搬し、それをさらに加工する技術があって、初めて山は人にとって資源になりえます。

この指摘を踏まえると、技術があれば非常に多くのものが開発の対象であり、資源になる可能性があるとわかります。人が人そのものを資源化するに至るうえで重要な役割を果たしたテクノロジーのひとつが時計時間です。

かつては天体の移動によって移り変わる自然時間に親しんでいた人間たちが、機械式時計の誕生をきっかけに大きく生活様式を変えてしまいました。機械式時計が誕生したのは、およそ13世紀ごろです。修道士が祈りの正確な時刻を測るために発明したといわれています。

その後時計は世俗化し、時の権威者は自らの定めた時間を標準時と定め、それに沿った生活を浸透させました。それに付随して、各地に根づいた太陽時(地方時)や、自然の移り変わりをもとに時間、そして季節を割りだす方式は影を潜めていきました。

英国の鉄道時代初期、各地の鉄道会社は現地時間に即した異なる時刻をそれぞれ採用していました。しかし鉄道網が広がるにつれて鉄道時刻の統一が急務となり、1840年にウエスタン鉄道が世界で初めて標準時を採用しました。他の鉄道会社もこれに続きました。

1855年までには、英国のほぼすべての公共の時計はロンドンの時間、つまり標準時に設定されました。そして1880年、時間に関する定義の法が施行され、英国全土の法的な時間は標準時であると定められました。

標準時の導入によって鉄道の運行効率は大いに向上しましたが、その一方で太陽が南中した時間を正午としていた各地の住民たちは、標準時に適応しなければいけなくなり、生活のリズムが自然の流れと異なるものとなってしまいました。

米国でも鉄道網が整備され、標準時の採用が進みましたが、各地で反発を招きました。特にボストンでは、われらの正午時間を守ろう、と抗議活動が起こったほどでした。

時計と標準時の歴史的なもので長くなってしまいましたので、一旦ここで終わりにしますが、この続きはまた書く予定でいます。

MARCHと日東駒専の差はどこにあるのか

2025-05-30 10:32:47 | その他
このところ学歴社会の問題をよく取り上げていますが、ここでは大学入試を考えてみます。

タイトルのようなMARCHや日東駒専といった分類がいつごろから始まったのかはよくわかりませんが、私の息子たちが大学に行った二十数年前にはなかったような気がします。

MARCHと日東駒専を併願するケースは多いと思われますが、難易度に差があるというのが一般的な見方です。この差はいわゆる偏差値60の壁が両者の間にはあるようです。この偏差値60というのは、基礎を完璧にしないと取れない偏差値とされています。

自分が基礎をしっかりカバーできているのか、応用問題の勉強に進んでいいのか、の判断基準がここにあるといえます。そのため多くの受験生がその壁を突破する基準としてMARCHを意識するのです。

MARCHは基礎を完璧にすれば合格が見えてくるという、ちょうどいい目標設定の役割も担っているのです。ただ私としては、受験勉強のどこまでが基礎なのかはなかなか難しいような気もします。

最近だと東洋大学のレベルが上がってきているといった話も聞きますが、MARCHと日東駒専が部分的に入れ替わるところまではいっていないようです。一部では東洋大学のTをとってTMARCHと言ったりするケースも出てきましたが、難易度は全然ちがうとしています。

この著者も文系受験におけるMARCHと日東駒専の間に位置するグループの取材をしたときに、ほとんどの学生が日東駒専は受かって、MARCHには落ちていたようです。この差は結構しっかり出ていて、簡単に難易度は入れ替わらないようです。

ただ東洋大学が日東駒専の中で抜けてきたのも事実で、子供が減っているこの時代に伸びているというのはなかなかすごいことです。これはあくまで偏差値的な差であって、本人が学びたいことで選んだ大学なのであれば、どれも正解です。

入学後の違いとしては、就活時に両者の差は一番出るようです。基本的に誰もが知っているような大企業に書類で落とされないのはMARCHまでです。

その先では東大や早慶と競り合わなければいけないので、内定となると話は別ですが、少なくとも書類は8割がた通過するのがMARCHまでです。対して日東駒専は大企業だと書類で苦戦することが多い印象です。

とはいえ有名大学であることは変わりはないので、最終的にはいい会社には収まっています。日東駒専でも理系の場合は、研究室との関係性や職種によっては大企業でも狙いやすいとは思いますが、文系は結構難しいと感じます。

理系は理系で今度は芝浦工大などの理系専門で就職に強い大学も出てくるので、決して簡単ではありません。このように学歴が就職まで決めてしまうというのが、現在の状況のようです。

穏やかな面接と厳しい面接をわけるのは志望理由書

2025-05-28 10:34:26 | その他
タイトルの面接は就職のときと思っていましたが、ここでは推薦入学時の面接のようでした。

私のころは推薦入試などという制度がありませんでしたが、確か早稲田大学の2次試験が面接だったような気がします。ほとんど記憶がありませんが、無事合格しましたので何とか面接をこなしたようです。

ここでは推薦入試では、自分にしか語れない何か、を見つければ9割受かるとしています。大学に提出する志望理由書に求められるのは、構成の巧みさや文章の技術ではなく、この自分にしか語れない何かなのです。

少しばかりまずくても大丈夫で、大学も高校生にそこまでのことは求めません。ではなぜオリジナリティが重要視されるのでしょうか。近年は推薦入試対策が成熟してきています。

事前に提出するプレゼン資料や課題、志望理由書に大人の手が入っていると感じられるものが目立つようになってきているようです。まるでプロが作成したような完成度が高い書類が提出されます。

試験官の教授たちもこんなの大人の手が入っているのでは、と感じて残念な気分になるわけです。そういった大人の手が入りすぎている風の志望理由書は、1次選考で不合格にしたいのですが、そうすると大半に受験生を切り捨てることになってしまう。

そのため内容がいいものは通すしかないとしています。現在、AIが志望理由書を書いてしまうのではないかということが話題になっていますが、現時点ではそこまで重要な問題ではないでしょう。AIは工場のロボットと同じです。

ロボットは材料を当てれば商品を完璧に組み立てますが、材料を探してくることはできません。材料の良し悪しの判断、交渉などは人間でないとできません。受験生が仮にAIに志望理由書を書かせようとしても、材料探しは自分でやるしかありません。

ところが推薦塾の中にはこのテーマや材料も与えてくれるところがあります。塾によっては志望理由や研究テーマを講師が指示します。中には志望理由書を書いてくれる塾もあるようです。

合格者たちへのインタビューの中でも、マンツーマン指導の塾に通って、講師の指示通りに志望理由書を作成したという学生もいました。そうやって作成した志望理由書も教授たちには分かってしまいます。なぜなら全くオリジナリティがないからです。

ある学生は、心理学科に入学したいと伝えたら、塾の講師に自己開示という心理学用語を教えてもらい、それについて調べそれを切り口に部活動の経験を分析していけばいいといわれたそうです。

こうしてみるといろいろな書類もどんどん学生個人からかけ離れそうですが、大学もそういったことを注視しているはずですので、どうすべきかは鼬ごっこのような感じがしてきました。