HAYASHI-NO-KO

北岳と甲斐駒ヶ岳

ロマンチストの独り言-29 【花ごよみ 目次ぺージへの書き込みの幾つか】

2004-12-31 | 【独り言】

ロマンチストの独り言-29

【花ごよみ 目次ぺージへの書き込みの幾つか】
 社会思想研究会出版部発行・現代教養文庫303「花ごよみ」松田修著、昭和39年2月16日購入

本の体裁は、1月から12月の月を追って編まれ、一つの花の解説が右、写真が左に見開き、上下二段組になっている。
幾つかの解説部分には、その花に関わる僕自身の書き込みがあり、写真部分に迄書かれているページもある。
巻末には花名索引が五十音順に掲載され、そこにも、それぞれの花に関わる幾つかの懐かしい書き込みがある。 


40.
4.8~10  花蘇枋、連翹、桜、桃、 菜の花、つばき、雪柳、沈丁花、つつじ、ボケ、夾竹桃、石楠花 

  何度も何度も書き綴った、春爛漫の諌早に咲いていた花達。
その会話の一つ一つは正確に覚えているべくも無いのだが、不思議なきっかけで見つかった一枚の切符と、それに続く多くの記憶の糸の先には、この花達の明るさも残されている。
そして又恐らく、その懐かしい場所には、巡る季節に同じ色で明るく咲き誇っているのだろう。
人の記憶の移ろい易さとは違って。
僕達が同じような感慨を持ってそこに立つことは無い。 


42.
8.15,17  コスモス、キョウチク   サルスベリ       米子・松江 

この夏の記憶は『邂逅』の章に詳しい。
大学卒業の前年夏訪れた米子、そして松江散策の折、松江城から、武家屋敷を歩いた時に見つけたこの花達。澄んだ空の下に意外な程鮮烈なピンク色の百日紅が武家屋敷の塀の向こうにあった。
コスモスは、外堀沿いのあちこちに自然に飛ばされた種がそのまま根づいたのだろうか、いかにも手付かずの状態が松江らしくていい、等と話した事があったような(そのことすら、既におぼろげな記憶になってしまっているのだが)、そんな風情で風に揺れていた。 


43.3.16  ツバキ、ウメ(紅梅、白梅)
沈丁花             米子 

この花達も、『邂逅』の章に登場している。
その邂逅の翌年早春、まだ大山の残雪が見られるかもしれないという、淡い期待を抱いて訪れた二度目の米子で、僕は暖かい幾つもの思い出を残した。
前年夏に工事中だった、山陰線の線路を跨ぐ大きな跨線橋はすでに完成しており、その途中から階段を降り、新加茂川に架けられた木の橋を渡り、土の臭いの感じられる細い径を辿る。
十軒長屋と呼ばれた家並みの前、無造作に並べられた植木鉢や木箱の幾つかに沈丁花は咲き匂っていた。
梅の花は、大谷町の集落の入り口と、ブランコのあった小さな広場の石垣の上に、幾つもの花を咲かせていた。
雨上がりの大谷町への道すがらに写した紅梅・白梅の写真(モノクロだったからどちらが紅梅だったのか自信がないのだが)が、学生時代最後の、その感傷旅行の最後の写真だった。
 

43. 5.19  建長寺、浄智寺、東慶寺、 そして円覚寺
ツツジ、マーガレット、シラン、バラ、テッポウユリ、シャクヤク、カーネーション、 キク         高見順の墓 

僕は、社会人になって新入社員研修の為二ヶ月間、関東での生活をした。
研修の終わりに近く、鎌倉・円覚寺で5日間の座禅修行があった。
その座禅修行の終わった日の午後、同期入社の仲間たち何人かで、円覚寺を出て鎌倉散策と洒落込んだ。
座禅そのものも貴重な体験だったが、研修期間中首都圏のあちこちを渡り歩いた生活の中で、春の花達が咲き乱れる古都を歩き回れるとは思っても見なかったから、皆修学旅行気分で大はしゃぎだった。
相変わらず僕はカメラを提げていたから行く先々で皆から「写せよ」の催促を受ける事になった。 

東慶寺、浄智寺、明月院から建長寺まで足を伸ばし、境内の裏山、天園アルプスと称されている尾根の途中まで登った。
学生気分の抜けきっていない僕達の騒々しさは半端ではなかっただろう。
同期入社の別のグループの面々とも、方々で出くわしたが、門限(?)ぎりぎりまで歩き回ったのは僕達のグループだけだった。
その散策の最後に、駆け込み寺の別名を持つという、東慶寺に立ち寄った。
竹が伸び始め、あちこちに大きな茂みを作っていた事、円覚寺の高台からは、鬱蒼とした木々に囲まれた寺の印象だったのに境内は意外な明るさの感じられる広さがあったこと、裏山裾に広がる続く著名人の墓地には、そこを訪れた観光客の供えていったであろう季節の花達が溢れていた事等など、大袈裟に「観光地の有名な寺」を実感させられた。
春というよりも、初夏の様な陽射しが、濃い緑と共に印象に残る。
歩き疲れて僕達はその古都散策の最後に、円覚寺山門前の「門」に入った。
管長朝比奈宗源氏の書になる「門」の文字をマッチ箱にあしらったその喫茶店には、すでに多くの同期生がたむろしていたから、ふっと懐かしい学生時代を思い出して苦笑してしまったことを、30年も経った今も思い出す。
店の入り口には、竹細工の花器に入った紫蘭の花が架けられていた。
 

43. 8  サルビア、マリーゴールド(鷹取)
  その新入社員研修の後、それぞれの職種に選別され、僕達は社会人一年生としての新しい生活をスタートした。僕は営業職種として、関西地区の配属になり、何と自宅通勤の可能な、神戸勤務となった。
周りは「良かったネ」と、地元勤務を喜んだが、当の本人は不満だった。
研修期間の2ヵ月を除き、関西以外での生活経験は皆無だったから、出来れば地方勤務を望んでいたし、大学時代に「狭い日本」の広さを経験していたから、自由な気持ちで自宅からの通勤ではなく、自立した生活に入りたかった。
しかし、結局は明石に戻り、国鉄兵庫駅から徒歩5分の、日本ビクター(株)神戸機器営業所に通い始めた。
営業の仕事そのものは、学生時代の知識・経験など全く以って役に立たないと思えるほどに異質だった。
しかし、いわゆるデスクワークではなく、外回りというのは、僕自身には合っていた。
何ヵ月かの見習い期間を体験し、先輩セールスマンからの販売テリトリーを引き継いだのは、もう夏になっていた。
僕の担当したテリトリーは、営業所のあった神戸市兵庫区と、隣接する長田区。
大震災で、最も被害の多かった場所である。
さほど景気の好くなかった当時だが、それでも音響機器類は売れていた。
外回りの僕達は、担当する電器店・レコード店での音響機器類の注文を、時には電話で営業所に連絡する。
その為に、販売デスクという担当が営業所に配属されていた。
受け持ち地域を二分し、東販売課と西販売課に分かれていた神戸営業所には二人の販売デスクが居た。
僕の所属していた西販売課は、金谷美枝子という女性が担当だった。
小柄で、いつも笑顔を絶やさない、明るい声の持ち主で皆からは「キンチャン」の愛称で呼ばれていた。
時折、先輩セールスマンと口論している現場などに遭遇して、「気の強い女の子だ」との印象は持っていたが、ふだんはとにかく明るくてきぱきした応対が、お店の受けは抜群だとの評判だった。
彼女自身には付き合っている男性が居たようだし、仕事仲間という程度の関わりだった筈だが、それでも夏になる頃には、幾つかの会話を交わすようになっていた。
ある日、僕は仕事を終え、兵庫駅の階段を上がって神戸寄りの、ホーム事務所の方に足を向けた。
いつも同じように階段を上がったその場所で一人、下りの電車を待つのが常だったのだが、その日僕はそこに、金谷美枝子ともう一人の会社の先輩、大森さんを見つけた。
何かバツの悪そうな二人の雰囲気を直感した僕は、仕方なく、明石寄りの方角に向きを変えた。
電車は直ぐやって来た。車体は鋼体化されてはいたが、まだ車内の設備は木造のままだった、旧型51系。
その各駅停車に乗った僕の直ぐ前に、彼女は現れた。
どの様な会話を交わしたのか、全く覚えてはいないのだが、新長田駅の次の鷹取駅で下車する彼女と共に、僕は途中下車した。
その駅前にある電器店へのセールスの為に、何度か下車した事のある鷹取駅。
その駅前広場はロータリーになっていて、小さな花壇があった。
明るい街灯やホームの蛍光燈に照らされて、サルビヤの赤と、マリーゴールドの黄色とオレンジの花がびっしり埋められていた。
その後何度と無く下車した鷹取駅だが、印象に残っているその花壇の花は、不思議にこの最初の夏の、二種類の花しかない。
その後、僕達はちょっとした気持ちのズレで別れるまで、随分長いお付き合いをする事になるし、その時間の長さに比例して、多くの記憶に残るべき体験をしている筈だが、浮かんでくるものが少ないのは、何故なのだろう。
意図して残す事を拒んでいた時期が確かにあったことは事実だ。
ただ、たとえ忘却する事を意図したとしても、残るべき印象は、思い出すべき思い出は、どこかに残されていなければならない筈だ。
それでも残っていないとすれば、一体僕達はその時間に、何を無駄にしたのだろう。
間違いなく僕は、その数ヶ月前に学生生活を終え、その時代に関わった佐野礼子との別れを少し寂しく受け入れて、新しい生活を始めていた筈だ。
だからこそ、その新しい生活の中で起こった幾つかの事件は、間違いなく新鮮な印象と共に残っていた筈だ。
しかし、ぼんやりと浮かぶものは何枚かの笑顔の写真と、その時々に見つけた季節の花達の印象だけだ。
人の記憶は、やはり移ろい易く、その内消えてしまうものなのだろうか。
 

44. 2~3  沈丁花、木瓜(鷹取)
  その夏の、ささやかな出会いの後、僕達は季節の花達の会話を共通の話題にして、夜の鷹取駅前のロータリーで話し込んでいた。
彼女の自宅は、駅から高架沿いに東に少し離れた、日吉町にあった。
その一帯は平成7年の大震災で殆ど全てが焼失し、今もポツリポツリと家並みが戻り始めたに過ぎない場所。
狭い路地にあった長屋風の家々の、ささやかな軒先には、幾つもの鉢植えが並び、花達はあるものは奇麗に手入れされ、あるものは手入れされずに放置されながらも、それぞれに花を咲かせ、実をつけ、子孫を残していた。
当然だが大きな庭があるはずもない長屋風の建物が密集するその場所には、大きな樹木は殆ど無く、大半は草花が中心だった。
ただ、冬から春にかけての季節には、狭い路地に不似合いな程に大きな甕に植えられた沈丁花の香が流れていた。その長屋の続く一角は、国鉄の高架下に続く道路から一段高く、数段の石積みの階段があった。
その西側の階段を上がって直ぐの場所に、朱色を中心に幾つもの花を付ける木瓜の木があった。
同じ場所には、同じように朱色の花を咲かせる、柘榴の木があったから、僕の鷹取の印象は、鮮やかな朱色を見ると思い出せる。
当時まだ健在だった神戸市電は、その直ぐ東の道路を板宿に向かっていた。
その道路に沿った街路樹が柳だったことも時折思い出す事がある。
しかし、先年の大震災がきっかけで綴り始めたこの独り言なのに、その大部分が焼失してしまった程の大きな被害を受けたこの場所を、そこにあったはずの花達を、そこに住んだ筈の人々を、何と僕は覚えていないのだろう。
僕自身の記憶は、既にその震災以前にその場所から離れてしまっていたのだろうか。
何年か経って、人々の生活は元に戻る事はあっても、同じ場所同じ季節に同じように咲き匂っていた筈の沈丁花や木瓜の花は、もう戻らないのだろうか。
その花の香、その花の色は、僕の記憶の中にさえも残り続けることはないのだろう。
やはり、人の記憶と言うものは曖昧だし、都合の良い事だけが何の脈絡も無くただ、繋がっているだけなのだろうか。
答えの無い、遣る瀬無い思いで一杯になりながらも、この先僕はやはり何かに憑かれたように、浮かんでくる日々の一つの断片を必死に繋ぎあわせて、この小文を綴るのだろう。 


北出佳英子の印象 
金木犀、紫陽花そして山の花。 ーー➨ 【ロマンチストの独り言-26 秋色山行 爺~針の木・蓮華】

僕達の関わりは、夏の一つの山行からだった。
その山行の後、本当に急速に親しくなった僕達は、何度も深夜まで語り、遊びまわっていた。
その年の秋、京都・長岡天神近くのボーリング場(タイコーボール)の喫茶店の外に咲いていた金木犀の記憶が残っている。
盛りは過ぎていたが、「おかあさん、金木犀が匂っている」という会話があったことだけは覚えている。
岡本和恵の大阪弁も愉快だったし、北出佳英子の北陸訛りの入った関西弁も、岸野千恵子の京都弁も楽しかった。それぞれが存分に青春を謳歌していた。 

昭和46年夏、僕は世話好きだった学生時代の山仲間、吉田の発案で後立山を歩いた。
同行者は、大学時代の同級・野村武と、彼の高校時代の同級窪田氏、それに女性三人は彼の同じ会社のメンバーだった。
全てを彼が取りまとめ、僕は只、大阪駅中央コンコースの、指定場所に集合すれば良かった。
久し振りの山行だった。
初対面にもかかわらず、僕達が意気投合するのに全く時間は必要無かった事、差し入れのシュークリームだったかの取り合いで、誰だったかがクリームを座席に落として大騒ぎになった事を思い出す。
山行の詳細は、手書き原稿を作り、青焼きコピー版で同行者に配った別冊に詳しいし、アルバム二冊に貼り込んでも余るほどに多くの写真が残されている。

[挿話]
出発の日の夕方、会社の宿直室で着替えをした。
突然山屋に戻った僕を、同僚達は奇異の目で見ていた。
久し振りに汗の匂いが染み付いたキスリングは、しかし学生時代とは比較にならないほど軽かった。
大阪駅中央コンコース・ダイキンエアコンの前、が吉田から電話で示された集合場所だった。
野村武の勤務先の製品である。
僕達はそんな洒落っ気たっぷりな関係だったのだろうか。
名古屋で夜行列車に乗り換え、大糸線信濃大町で下車。
扇沢行きのバスの始発よりも前に到着した僕達は、駅前で幾つかのおにぎりだったかを買い求め、迷わず特別に料金交渉して、10人以上は乗る事の出来るワゴン車をチャーターし、扇沢(黒四ダムへの観光ルートの信州側のターミナル、トンネル専用トロリーバスにはここで乗り換える)の手前で下車した。

天気は良くなかったし、爺ケ岳南稜の取り付きで眠さをこらえながら食事をしている最中に、ポツリポツリと降って来た。
いきなりの急勾配だったが始終笑いの絶えない、句読点の無いお喋りを続ける7人パーティは、既に裾野近くまで下っていた紅葉の中を登って行った。
途中の、谷に突き出した大木に跨いだり寝転んだりしてめいめい勝手なポーズで写した最初の個人写真には、色づいた葉が奇麗に写されていた。
翌日歩く予定の稜線がガスの向こうに見え隠れする程度の視界。森林限界を抜け、爺ケ岳と岩小屋沢岳の鞍部にある種池小屋の、三角屋根が見える辺りでは、「♪♪みどりの丘の赤い屋根、♪♪♪」の歌声が流れ始めた。
小屋の前にザックを置き、爺ケ岳へのピストン(少し離れた頂上を往復する際に使った言葉、行ったり来たりすることからこう表現した)に出発。
ガスの為、まるっきり視界のきかない乳白色の頂上だったが、それでも最初のピークだった。
下山途中小屋への道で見つけたお花畑には、咲き遅れた夏の花達、ハクサンフウロや、チングルマがそれでもいくつか残っていた。
僕は知っている限りの花の名前を得意げに披露したと思う。
その日のテントサイトは、小屋から1㌔ほど岩小屋沢岳寄りの、棒小屋乗越(ぼうごやのっこし。山と山の間の最低部は、峠とか、垰とか呼んだり、鞍部と言う呼び名の他に、乗越/のっこしとも呼ばれていた)の、2張りがやっとの狭い場所だった。
少し汚れた池の横に、我が「ズボリアンズ」7人部隊の2張りのテントが設営された。
池の辺にも、リュウキンカの黄色い花が群落を作っていた。 

翌日は晴れ。
南に、その日のテントサイトである、針ノ木峠を挟んで右に針ノ木岳、左に蓮華岳が見渡せる。
北は、剣岳主峰からの南東岩稜(八ツ峰)が異様な雰囲気で見渡せた。
取り付きからの急勾配は歌い過ぎて寝不足の身体にはきつかったけれど、立山側を見晴るかす稜線に飛び出し時の感激は、誰もその絶景を予測していなかっただけに格別だった。
真正面の立山(雄山・大汝・真砂)も見事だったが、剣岳の雄姿はそれまでに幾つも眺めたどの山よりも凛々しかった。
這松の林が、稜線を埋めていた。
僕たちの大騒ぎは、その絶景を始終右に眺めながらの稜線歩きでも果てしもなく続いた。
だらだらとただ長いだけの、起伏に乏しい岩小屋沢~赤沢~鳴沢岳の稜線は立山側から見ると良く解る。
しかし陽気なズボリアンズは鼻歌交じりに駆け抜けていった。
新越乗越への下りにも、お花畑が広がっていた。
乗越での昼食は、その日の目的地、針ノ木峠をほぼ正面に見渡し、その鞍部の先に北アルプスの盟主・槍ヶ岳の穂先をかすかに望む場所。
余りの天気の良さと景色の良さに、のんびり昼寝などしてしまったし、途中では黒部渓谷の最奥、黒四ダムを真下に見下ろしながらの快適な縦走だったものだから、岩峰のスバリ岳を越えて針ノ木岳の頂上に着いた頃にはすっかり夕方だった。
途中で見た、ブロッケンの怪は、学生時代最後の山行になった蝶ケ岳山頂以来だった。
えーぃまヽよ、のいつもの乗りで頂上では、黒部渓谷を挟んで立山の西に沈んで行く夕陽まで見送り、とっぷり日暮れてしまった針ノ木岳の東稜を滑り落ちるように峠の小屋に辿り着いた。
小屋は既に無人になっていた。
少し疲れが溜まっていたのだが、それでも深夜まで僕達は語り合い、歌っていた。 

三日目の早朝、峠から1時間の行程で、蓮華岳をピストン。
既に花が終わっていたチングルマが、朝露に濡れて特徴ある髭状の種子を付け始めていた。
コマクサの群落で有名な蓮華岳の二つのピークの間に広がる砂礫地では残念ながら可愛いピンクの花には出会えなかった。(しかし、僕はその数年後、会社の同僚・池田文雄と吉村清美の三人で、後立山縦走を企て、唐松岳からの長い縦走の最後に、蓮華岳のその場所でコマクサに会っている)
遠く、浅間山を望むその山頂がこの山行の最後のピークだった。
安曇野は未だ眠りの中だった。
天気の崩れが予想された為、早々にそこを辞し、峠の小屋の前でひとしきり大暴れし、すっかり雪の消えていた針ノ木雪渓を下った。
途中摘んだヤマブドウは酸味が残っていたけれど、食べ切れないほどに飯盒に詰め込まれた。
帰路は散々だった。
台風の影響による線路浸水等の影響で、途中列車は大幅に遅れ、結局名古屋に着いてのは翌朝。
新幹線に乗り継ぎ、月曜日の朝、僕は神戸に戻った。着替えは会社においていた。
顛末の詳細は前述の冊子に詳しい。 

  吉田を介した僕達の関わり合いは、突然降って湧いたようなものだったのだが、いつも明るい話題に満ち満ちていた。
その初めての山行の後、意気投合してしまった僕達は、大阪駅前のお好み焼き屋さんでの、爺・針ノ木縦走報告会の折、何の根拠も無く唐突と、同じ年の晩秋の大山登山を計画し、初雪に見舞われるというハプニングを体験した。
そしてその数日後だったと思う。
僕は突然の激痛に見舞われ、2日間寝床から起き上がれず、結局その年の暮れに椎間板ヘルニアの手術を受けた。自宅にも、入院中の長整形外科にも何度も見舞いに訪れてくれた二人。
「元気になったら又、山に連れていって下さい」と認められた年賀状を貰って以来、しかし僕は一度きり彼女に会ったに過ぎない。
足だったか、腰だったかの手術で、六甲山麓の甲南病院に入院した彼女を見舞った事を覚えている。
勿論、吉田と一緒だった。
そして、その直後だったと思う。二人は結婚した。 

時折、山の本などを拾い読みしたり、絵はがき等の中に、高山植物の写真を見る時など僕は例外なく「おかあさん」と呼んだ北出佳英子を思い浮かべる。
少し残っていた北陸訛りに、関西弁が交じり合った独特の人懐っこい口調、優しい笑顔。
「博士、この花はなんですか?」の洒落っ気たっぷりな言葉遣い。
二度の山行は、シーズンを過ぎていたから、最盛期のお花畑ではなかった。
しかし、幾つかの咲き残った花達を見つけて、僕達は高山植物談議に時を過ごしていた事が、昨日の事のように浮かんでくる。 

47. 1 人丸山の蝋梅、ウメ、水仙、ツバキ   (入院中に)

新しい生活を始め何年か経って、僕は幾つかの記憶に残る体験をした。
前項に記述した通り、昭和46年11月、初冬の大山登山の直後に突然、寝返りすらうてないほどの腰の痛み(と言うよりも、下半身が完全に痺れてしまって無感覚になっていた)に襲われ、二週間程度の通院治療の後、結局その年の12月に「椎間板ヘルニア」の手術を受けた。
体力は有り余っていたのだろうが、腰から下への多くの神経が集中している場所の手術。
「長年腰椎の手術はやってるが、患者側からの手術要請は始めてだ」と、明石市相生町にある、長整形外科の長靖麿院長に言われて苦笑し、それでもあえて手術を敢行してしまった当時の心境。
今思えば、無謀としか言いようの無い、賭けにも似た心境だった。
突然の病とは言え、内科ではなく外科だった為、さほどの悲壮感はなく、むしろ激務の骨休め、程度の感覚だったかも知れない。
同僚達の心配、そのきっかけになった大山登山と、その前の秋色山行、爺・針ノ木縦走の同行者だった、吉田秀夫を中心とする山仲間の心配は痛いほど伝わってきた。
寒い外気温を全く感じずに過ごしたその冬は、今も幾つもの出来事と共に、そして時折腰痛を訴える人達に出会う度に、一つの貴重な体験談を語る材料として鮮明に覚えている。 

手術の前日、僕は二通のはがきを認めている。
二つの山行で急速に親しくなり、早く元気になって又、山に連れてってと、励ましの手紙をくれた北出佳英子と、僕の大学卒業後3年以上音信は途絶えていたが、その年の春大学を卒業し、米子に戻っていた佐野礼子。 

正月三日間だけの外出を許可してもらった以外、寝返りさえうてない安静の状態でベッドに横になっているだけの術後。
僕は、従兄弟に借りた、カッパブックスの松本清張を読み漁り、友らの差し入れてくれた単行本の全てを読み終わった頃、やっとギプスを取って、歩行訓練を始めるようになった。
何しろ約三週間ベッドに転がされたままの生活。
毎日の検温と、化膿止め、痛み止めの注射の繰り返しの、単調すぎる生活。
親しくなった同室の患者さん達や、噂を聞きつけて駆けつけた何人かの看護婦さん達の見守る中、自分の意志とは全く無関係に、ベッドから床に着けた足は、力無く折れ曲がってしまった。
思いっきり笑われた。
それまで、散々悪態をついていた仕返しだったのだろう。
全く力が伝わらない自分の足を、一番親しかった看護婦の成田さんに支えてもらい、同室だった、明石市役所勤務の家永保さんに肩を貸してもらって、やっとの思いで立てた。
「どうしたの。山男!!」と、初ちゃんに笑われて、返す言葉が無かった事を、その直後に、手術前から伸ばし放題だった髭を触られ、「お風呂屋さん教えたげるから、無精ひげ剃って来てね」と言われて、不思議なくらい素直になった事を思い出す。

その歩行訓練の二日後だった。
僕は調子に乗って無理をすることを心配する看護婦さん達から、外出禁止処分(?)を受けて、仕方なく病院内部をウロウロしていた。
その夕方だった。
その日も、午後屋上に上がって、西に傾いた陽射しの下に穏やかな波が揺れる瀬戸内海の煌きと、次第に濃くなってゆく淡路島の島影を眺めていた。 

「お客さん、ノダさん」咄嗟に僕は、小学校時代の友、野田和江を思い浮かべた。
しかし、何故彼女が見舞いに来たのだろう、と怪訝な気持ちで階段を降りる途中、僕は懐かしい笑顔が、三階の踊り場に立っているのを見つけた。
佐野礼子の訪問だった。
何年振りだろう。否、本当に礼ちゃんなのだろうか。
間違いだろう。
否、あの声は礼ちゃんだ。
僕は、初めて自分の足で立てた一日前の感激に似た感激を再び味わった。
既に大学を卒業した事は知っていた。
米子に戻って就職するという事も随分前に聞いて知っていた。
神戸に居れば見舞ってくれただろう。
そうだ、手術の前の日にはがきを書いたんだっけ。
もしかして返事をくれるかも知れないと思って、等など。
そうベッドの上で思い巡らせた事もあったけれど、やはり信じがたい思いと喜びがクルクル頭の中を走り廻った。 春の『邂逅』から既に四年近い。
病室に戻った僕に、「病人らしくしていたら?」等と、不思議なほど親しみ深く話してくれる彼女を、しかし、遠い存在のように感じながら見つめているだけだった。
友人が神戸で結婚式を挙げること、その結婚式に出席する為、今朝米子を発ってきた事を話し、明石駅で買ってきたからと、薄いピンク色のプリムラの鉢植えを手渡しながら、
「鉢植えしかなかったの。ごめんなさいネ」と、その親しみ深い笑顔が四年も前と少しも変わっていない事に驚かされるくらい、親しみ深く笑った。
ほんの10分足らずの再会だった。
既に夕暮れて、彼女の帰った後の、窓の外にいつも見ていた天文科学館の時計台には、照明が点っていた。
昭和47年1月15日、成人式の日だった。 

翌日以降、暫くはそのプリムラの鉢植えが僕のベッドの横に置かれ、時々は光に当ててやらないと可哀相だ、と言う初ちゃんのお達しで、屋上に持ち出される事もあった。
季節感の全く無かったその冬は、それでも徐々に歩行訓練の為、病院外に出る機会が増えるに従って、寒さの中に咲く花達に出会えた。
人丸山の蝋梅、ウメ、水仙、ツバキを訪ねたのは、風も無く寒さが少し和らいだ午後だった。
2月になっていた。
高校時代、いつも喧騒の中で自分達の時間を楽しんでいた人丸山東坂は、往時と変わり無く蛇行して太寺方面に続いていた。
人丸町の、戦災を免れた古い家並みの黒々した屋根瓦は、冬の午後のやわらかな陽射しに輝いている。
懐かしい友の笑顔がふっと浮かんで来る気がした。天文科学館の北、真っ直ぐ柿本神社・月照寺に続く石段は、少しきつかった。
藤本が居る気がした。幸ちゃんもひょつこり顔を出しそうな気がした。
少し樹勢が弱ったように感じる蝋梅も、薄い透明感のある黄色の花を付けていた。
船形にかたどられた八つ房の梅は、少し遅咲きだったが、二、三輪は咲き始めていた。
金子薫園の歌碑の下の水仙は、少し蕾を膨らませていたし、山門の傍の水仙は幾つもの花を付けていた。
月照寺を抜け、切手門から水子地蔵の横を通って、亀の水に下った。
その数日後、吉田秀夫と北出佳英子は黄色いバラの花を抱えて、二人で見舞ってくれた。
足腰の回復は順調で、僕はその二週間後には退院した。

この昭和46年12月から、翌年1月にかけての約二ヶ月間の入院生活以降、僕は大きな病気もせずに生きている。
恐らく最初にして最後の、大きな手術の結果が、今も腰椎のほぼ中心部に10㌢ばかりの跡として残っている。 


梔子(くちなし)
47. 6.28 「輪」へ持参 幾つかの花の会話。そしてなつかしく思い出す面影 

喫茶「輪」は、僕が社会人一年生として仕事を始めた最初の仕事場、国鉄兵庫駅の南にある。 
営業の仕事は、自分の担当する電器店の訪問と、販売支援が中心だったし、時間はすべて自分でコントロール出来た。
しかし、そうなるまでには暫く時間が必要だった。
僕たち新人は、OJTで先輩セールスマンについて幾つかのお店を廻りながら、仕事のやり方を覚えていった。
当然、時間の使い方なども見よう見真似で覚えていった。
喫茶「輪」は、営業所に近く、すぐ横が、僕達の販売するテレビ・ステレオ等の商品を一時保管する為に契約していた、神港倉庫があった為、セールスマンの溜まり場となっていた。
朝昼晩、時には深夜まで、細長い店の、一番奥にセットされた二つのテーブルが指定席だった。
デミタスカップを少し大きくした程度の小振りのコーヒカップは何の飾りも無いシンプルな白。
肉厚のカップだから、注がれたコーヒが冷めるまでの時間は長い。
そのカップに注がれた濃い目のコーヒを飲み、缶ピー(50本入りのピース、缶に入っていたのでこう呼んだ)を開けるのが楽しみだった。
学生時代とは比較にならない程、大人になった気分で仕事の整理をしたり、他愛無い芸能ネタの雑談に興じたりしていた。
お店は、姉弟と二人のウエイトレスで切り盛りされていたが、昼時以外店内は比較的空いていたし、雑談に興じて時間を忘れるくらい家庭的だった。
マスターの覚さんは、ほぼ同年代だったし、お姉さん(ケイちゃんと呼んでいた)も、トヨちゃん、アゲさんと呼んでいた二人のウエイトレスも、気さくな人柄で平気で長居できる場所だった。
僕は、高校時代からの写真と、大学時代の山行の話題を持っていたし、現役で幾つかの山も歩いていたから、特に高山植物の話は得意だったし、何時の間にかここでも植物博士の渾名を頂く事になってしまっていた。
いつも鉢植えの季節の花々が、レジの横や、隣の寿司屋(店の名前は忘れたが、二階の麻雀荘「上海」も含めて、姻戚関係のある人達の経営だった)との間の、狭い花壇に置かれている位に、皆花が好きだった。
ケイちゃん、ケイコママは、大輪の花が好きだった。
トヨちゃんは、白い花が好きだった。
梔子の花が、店の前の花壇に幾つか白い花を咲かせ、香しい匂いを漂わせていた頃の一つの会話を懐かしく思い出す。
「私の田舎は、四国の大島。知らんで しょ。今治の沖にあるんよ。蜜柑畑が多いから、白い蜜柑の花が一杯咲くけど、私は、ダイコンの白い花が好き。梔子の花も好きだよ」
そう言って、瀬戸内海に浮かぶ、遠い故郷の幾つもの景色を話してくれた。
僕はいつもその、少し遠くを見るような話し振りで故郷の話をしてくれる彼女に、諌早のツーちゃんの面影を重ねていた。
背が高く、静かな話口調、会話の中に、ふっと見せる寂しげな物腰。
しかし、しっかりと自分自身の考えを伝える芯の強さ。
後に、トヨちゃんは明石祐二と、アゲさんは後郷正雄と結婚した。
二人とも会社の同僚である。
その後、営業所は国鉄兵庫駅南から、神戸一の繁華街、三ノ宮の東南に移転し、僕達が喫茶「輪」に屯することは無くなってしまったが、それでも時折顔は出していた。
結婚祝いには、その愛用のカップを二組貰ったのだが、東京転勤の折には持参しなかった為、先年の大震災で多くのカップ類と共に壊してしまった。
明石祐二は、岐阜に転勤した後、実家のある滋賀・長浜から長距離通勤していたが、その後会社を退職し、御両親の後を継いだ形で、現在司法書士の仕事をしている。
元気だったお母さんも先年他界され、「子供達で相談の結果、母の残した俳句を一冊の本に纏めたから送る」との添え書きと共に、立派な装丁の歌集を送ってくれた。
家族の記念品なのだろう、挿入されたイラストは弟さんの手になるものだったし、神戸時代に一度、彦根・長浜にカメラを担いで写真撮影行をやった時、お邪魔した記憶のあるお姉さんの句も何首か入っていた。
歌集の題字は、トヨちゃんの筆だった。
懐かしい、新入社員時代に知り合った彼等の笑顔が、細やかな心遣いが、そして花の話題がいっぱい溢れていた、喫茶「輪」での長い長い会話の数々が、断片的に浮かんでは消えていった。 

クチナシ   常緑の潅木。高さは一~三㍍位、葉は光沢があり長楕円形革質で、花は雪白六弁盃形。魅力ある芳ばしい香気があり特に夜の多湿の時に良く匂う。
果実は紅黄色。古来黄色の染料でこれで染めた衣が梔子衣である。
この実には口がないのでクチナシの名がある。 

百日紅(サルスベリ/ひゃくじつこう)  ーー➨ 【季節の花たち サルスベリ】 

小学校時代の記憶の中に、広い(と、当時は身長120㌢の視点で感じていただけの)我が家の庭の南西の隅に、二本の木が植えられていたことが残っている。
父の手作りの築山があり、そこには百日紅があったし、立派な樫の木がいつも緑の葉を茂らせていた。
冬枯れの頃には細い枝の先端まですっかり丸裸になる百日紅の、幹の部分の樹皮は、正しくその木の名前の由来通りスベスベの状態になっていた。
隣の樫の木は、一部の葉が落ち始め、次の新しい葉に置き換わる準備が始まって、築山はその枯葉が一杯積もり、風が吹く度にガサガサと大きな音を立てていた。
百日紅の字からは、赤い花をイメージするし、我が家の百日紅も赤だったから、随分後まで、僕はその花に薄いピンクや、白い花があることを知らなかった。

長江和子さんと、東京・新宿御苑を訪れたのは昭和40年の夏だった。
その前年の夏、何の前触れも無く突然訪問した福島で、一寸したハプニングの末に初めて出会った、大学時代の山仲間、林正朗の西宮時代の同級生。
その顛末は『いくつかの詩』の項に書いた。 

その夏も、本当に暑い夏だった。
お盆を挟んで予定されていたワンゲルの2週間にわたる長期の夏合宿参加を、その直前、京都御所の中にあるグラウンドで行われたワンゲル部親睦の野球大会で受けたアクシデントが原因で断念することになってしまっていた僕は、直前に鈴蘭台で宏子姉さんの東北旅行計画作成を手伝ったこともあって、自分自身も秋田に旅する計画を立てていた。
夜行列車で朝東京に着いた。
僕はその日の夜、当時、未だ国交の回復していなかった中国へ、東大学寮委員の立場で訪問することになっていた(その一部は、『星の王子さま』の章等に書いた)藤本を、羽田に見送り、彼の紹介で京王井の頭線駒場の、東京大学教養学部北寮に泊まり(彼はそこの寮長をしていた筈だ)、翌日、南アルプスでの夏合宿を終えて東京の親戚に立ち寄る予定の田中久大と、後楽園で遊ぶ計画をしていた。
そしてその日の上野駅発の夜行列車、臨時急行「おが」に乗り換えて、秋田・大曲に行く予定だった。
藤本を見送るまでの半日を、一人無為に過ごす積もりだったが、出発直前にふと東京・中野に住んでいると聞いていた彼女に会いたくなった。
福島での偶然の出会いから、何度か手紙を貰っていたし、東京にいるのなら、との気軽な気持ちだった。
出発前日、所在と連絡先を詳しく書いた、はがきを速達便で送ってくれた親切。
東京の地理など、全く不案内の僕だったが、乗り換え予定の上野駅まで辿り着き、無事、臨時急行「おが」の着席整理券を入手し、しのばず口の公衆電話から電話を入れた。
親戚の家に住んでいる、と思いこんでいたのだがその近くに一人住まいとかで、電話口迄呼んでくるから、暫くしてもう一度電話しなさい、でもカコちゃんは今日会社だったのよ、と伝えられた時、少しバツの悪い思いになった。
僕自身は学生で、有り余る時間を持て余し気味の夏休みの最中だったのだが、考えてみれば、彼女は社会人だった。
しかし、やはり会いたかった。気を取り直し、10分後にもう一度電話した。
「カコちゃん」と呼ばれているらしかった彼女の声は、その懸念を消し去ってくれるほどに弾んでいた。
懐かしい声だった。と言うよりも、何かしら安堵の気持ちを抱かせてくれる暖かい響きだった。

僕達の一年ぶりの再会は、国鉄高田馬場駅の、西武新宿線との連絡橋の、新宿寄りの階段の所だった。
新宿までの車内、会社を休ませることになってしまったこと、その事に無頓着だったことを僕は詫びたと思う。
しかし、「一向に構わないですよ、私も夏休みを取ったと思っていますから。」と一蹴し、
「でも、私も東京生活は日が浅くて、ご案内できる場所は、本当に少ししか無いから許して下さいね」等と、優しく包むような笑顔。
自分自身の無頓着さを反省しながらも、随分満たされた気持ちで、山手線に揺られていた。
新宿で下車したのだろうか? 覚えていない。
僕達は、新宿御苑に居た。
会話の多くは残っていないし、御苑には幾つか門があるのだが、何処から入ったのかは覚えていない。
広い公園はいくつか知っていたけれど、あの新宿御苑の夏、平日とは思えない程の雑踏の駅を少し外れただけで、あんなにも広々とした緑が広がる場所があることを始めて知った。
よく歩いた。
時々車の騒音が耳に入ってくることはあったけれど、平日だったせいだろう、人の少ないその公園を、殆ど花や木の会話を続けながら、僕は歩いていた。
あちこちの花壇には、夏を盛りに存分に光を浴びて、色鮮やかな季節の花達が咲き乱れていた。
人工的な花壇の雰囲気は余り好きにはなれなかったが、疲れましたネ、そう言って座ったベンチの前に、マリーゴールドを従えてその奥に咲いていた、金魚草の花壇だけは不思議に鮮明に覚えている。
その花壇の前で交わした一つの会話、二人に共通の、林正朗から僕が借りていた「星の王子さま」を紹介した折、庄野英二の「星の牧場」を紹介してくれたあの場面の記憶と共に。
その会話の後も、僕達は広い緑の中を所々に見事に手入れされた花壇や生け垣に咲き誇っている花達の会話を続けながら歩いた。
真っ赤なデイゴ(カイコウズ/海紅豆)の花が、芝生の緑と白い砂利の歩道を限る境目に続いていた。
咲き終わった幾つかは、豆科特有の鞘をつけていた。
「変った花ネ。豆のようで...」
「すごく大きいですネ」
「ほんとに、サヤエンドウ、ですネ」
「春には、桜が咲きますし、藤棚もあって、奇麗ですよ」
「白もいいですネ」と教えて下さった、台湾閣と呼ばれる建物が池の一つの点景になっている場所で、僕は花水木を見つけた。
花は終わっていたが、そこでも春爛漫の頃の藤の花や、桜と花水木にまつわる会話があった。
2時間以上歩き回っただろう、プラタナスの並木の道にバラ園を見ながら、僕達は御苑を出ることにした。

百日紅の花が目に入ったのは、確かその出口に向かう、少し下り坂だったかの途中だった。
「百日紅って、夏の間中咲き続けるようですね」と話す僕に
「福島には、白もありました」と、遠い故郷の町並みの中に、今頃咲いているであろう白い百日紅のことを話してくれた。
同じ夏に咲く、百日紅と、夾竹桃。
いずれもが赤と、ピンクと、白の花を付けている。
ただ、僕はその会話の直前まで、白い百日紅は知らなかった。
不思議な感覚だった。
奇妙な一致だった。

  確か、前年夏初めて訪れた福島の、県庁近くで、街路樹風に植えられた植栽の中に、白い夾竹桃を見つけた。その夜、国鉄福島駅待合室で、初めて彼女に出会ったのだった。
その時の白い、ワンピースだったかの清楚な服装の印象と共に、僕の記憶の中に昇華されている長江和子の印象は、夏の白の印象であり、白い百日紅の会話と「星の牧場」の印象である。 

僕は、その新宿御苑の金魚草の咲く花壇の前での会話の中に登場した「星の牧場」という童話を、翌々日秋田・大曲に着いたその夜の、横手で催された花火大会からの戻り、横手駅前の商店街にあった本屋で見つけて購入した。
福音館書店のA4版の大きな絵本だった。
その大判の『星の牧場』は、椎間板ヘルニアの手術をする直前、自宅療養していた頃に見舞ってくれた、北出佳英子が本棚に見つけて持って帰った。
一緒に見舞ってくれた岡本和恵も読んだと聞かされたが、その最初の、秋田・横手で購入した本は現在手元に無い。
その童話の中に登場し、その後も不思議な位印象深く残っていた「アンコロン」と言う竹製のジャワ(インドネシア)の民俗楽器を、先年仕事で訪問したジャカルタで手に入れた。
湿気の多い日本では、等と説明されたが組み立てると60㌢以上にもなるアンコロンを、丁寧に新聞紙に包んでもらってしっかり日本に持ち帰った。
熱風が北から吹いていた、スルヤチプタの風景と、暑い夏に初めて訪れた新宿御苑の百日紅と、暑い夏に初めて訪れた福島の白い夾竹桃が交錯している。
夏の暑さの中に、夾竹桃と共に咲き続ける百日紅。
明石の自宅の百日紅は家の建て替えの折に移植されて何とか二年目の夏を乗り切り、以前よりも多くの花を見事に咲かせた。
自宅の東隣にある、神応寺は、かっては夾竹桃の生け垣が続いていたのだが、何時の頃かにブロック塀に替わり、先年の大震災では本堂も墓石もブロック塀も大きな被害に遭った。
子供の頃に、その樹液には毒性があるから触るな、と言われながら夏休みにはその花も葉も枝も、いつも僕達の遊びの中にある位近い存在だった。
花が少し夏の疲れを見せはじめ、少なくなり始める頃に地蔵盆があり、夏休みが終わった。


トロロアオイとモミジアオイ  ーー➨ 【季節の花たち トロロアオイとモミジアオイ】

トロロアオイ  古名ネリ。
この根茎から取れる粘液を使って昔は丸薬の粘骨薬を作り、今は製紙の粘料にしている為起こった名。
別名オウショッキは、黄蜀葵の字音よみ。
一年草又は多年草で、モミジアオイ同様、葉は掌状で深裂している。
葉腋に一つだけ大型鮮黄色五弁の花を付け、中心部は紫。
ほのぼのと咲く鮮黄色の花はいかにも夏の花と言った感じで何か夢見ているような雰囲気である。 

モミジアオイ トロロアオイが中国原産種であるのに対し、これは北米産。
明治の渡来。多年草で全株にやや粉白を帯びるが、冬には地上部は枯れる。葉は紅葉の如く深裂して掌状である。
紅蜀葵は漢名で、コウショッキはその字音よみ。
花は真紅五弁で梢上に次々咲き続ける。 

大森玲子は、昭和22年2月21日生まれ。
父の姉の孫にあたる。
確か、中学2年の夏だったと覚えている。
「浜のおばあちゃん」と呼んでいた、父の姉の嫁ぎ先、林酒店の配達の手伝いをするようになって数日が経っていた。
僕達の小学校、中学校時代の夏休みは、さほど楽しい日々ではなかった。
学校に行っている日々は免除されていた家庭の手伝いを、半ば強制されることが当然だったし、断ることは不可能なそれぞれの家庭環境だったせいで、暑い夏の間あちこちで友らの働く姿を見掛けた。
今で言うアルバイトなどと言う洒落たものではない。
当然のことながら、無報酬だった、家の手伝いである。
僕は、すすんでやったのではないが、老人(昭和34年当時、林酒店の夫妻は60歳を越えていた筈だ)が、重いビール瓶や、一升瓶を何本も自転車の荷台に積んで配達する様子を見かねるように、或は父に手伝いを要請されるような形で、ほぼ毎日出掛けていた。
粗末な平屋の民家の玄関口を改造した、漁師相手の酒屋だったが、結構繁盛していた。
海に続く店先には夏場だけ縁台が置かれ、飲み客が焼いた鯣をさかなに焼酎を飲んでいた。
狭い店の中でも、さほど冷えてはいないビールや、カウンターに零れるほどなみなみとコップに注がれた焼酎を飲んでいる漁師達の顔は、一様に赤銅色だった。
例外なく、頭に巻かれるか腰にぶら提げられていた手拭いで、盛んに汗を拭いながら、その狭い店先で談笑する大人は、間違いなく級友達の父親だった。
僕は、時折は店番を手伝うことはあったが、殆どは注文を受けたビールや酒類の配達に廻っていた。
ビール瓶は24本入りには既にプラスチックの持ち運び用ケースがあったから、さほど苦にならなかったが、木枠に6本入っていた一升瓶の配達は大変だった。
重さもあったが、高さがあったためにバランスが悪く、荷台に載せて自転車を漕いで行く道中は、舗装されてはいなかった港町道に、風に吹かれて砂があちこち盛り上がり、転倒こそしなかったが何度もハンドルを取られてふらついた。
しかし、暑さと、転倒すれば間違いなく地面に酒を撒いてしまうその配達業務も、慣れれば楽しい夏の仕事になっていた。
時折顔見知りの家では、配達の途中で、当時はどこにもあった井戸水で冷やされた西瓜をよばれることもあったし、晩御飯のおかずにと、煮物を頂くこともあった。
何よりも、自宅が商売をやっている友達の家の付近に配達する時など、寄り道して元気な友の顔を見つける楽しみもあった。

その夏のある日、僕は配達から戻った店先の、誰も居ない縁台に一人の少女を見つけた。俗に言う、「鄙には稀な美少女」と咄嗟に思った。父の姉だったから、おばさんと呼ぶのが正当なのだろうが、日常はおばあさんと呼んでいた、酒屋の林夫妻の長女の嫁ぎ先、大森さんの末娘だと聞かされたのは、初対面から随分経った、冬の頃だった。

その店舗兼住居の建物の南側は、隣家とくっついていた為、随分日当たりは悪かったけれど、花好きだったおばあさんが丹精込みめて育てていた家庭菜園と、花壇があり、僕が印象深く覚えているその最初の夏には、鮮やかな黄色のトロロアオイが咲いていたから、大森玲子の印象は、鮮やかな黄色である。
彼女はその夏以降も、度々おばあちゃんの家を訪ねてきた。
夕立の後、少しの間だけ涼しい風が吹きぬけ、突然ピタリと風が止む、瀬戸内特有の夕凪の折などは、花びらに残った雨の滴と、えも言えぬ鮮やかな黄色を見る事が楽しみになっていった。
その菜園には、トマトや胡瓜、苦瓜も育っていた。
しかし、大輪の色鮮やかな朝顔が次々咲く花壇は、昭和41年秋に、家の建て直しの為に潰され、酒店は現在の場所(道路が広げられ、田圃が少なくなってしまった分、殆ど流れの無くなってしまったドブと言えそうな川沿いの道に面する側、そこは元々酒類の倉庫だった所)に移されたが、移植された筈のトロロアオイの花を見ることは、その後無くなってしまった。 

白の百日紅と「星の牧場」の会話を持って僕が秋田・大曲にある、秋田地方裁判所の官舎に着いたのは、昭和40年8月15日の朝だった。
「鈴蘭台の玲ちゃん」は、僕よりも数日前に到着していた。
一つ年上だった宏子姉さんが学友達との東北旅行の途中、大曲に立ち寄る事を計画していたのを知って、玲ちゃんは一人そこで夏休みを過ごす事を計画した。
僕は半ば強引に、勉強道具を抱えて数日間の居候を決め込み、東京経由で大曲に着いた。
その夏は殊のほか暑かった。
しかし幾つもの部屋があり、開けっ放された家にはいつも風が吹き抜けていた。
僕はそんな静かな環境の中、食事にも全く不自由なく、勉強三昧(?)の日々を過ごした。
毎朝、玲ちゃんの作ってくれる食事は美味しかった。
中でも、茆の入ったすまし汁は絶品だった。
「元気が出るのよ」といつも食卓に出されていたオクラの、あの粘っこい歯ざわり、近所の人が持ってきてくれたからとお皿に山と盛られていた蕗、何もかもが新鮮だった。
そんな、時間だけがのんびりと流れて行く大曲の夏、そのゆったりした時間の流れに身を任せ、僕はどれくらいそこに滞在したのだろう。
一週間は居ただろうか。
分厚い原書等、勉強道具はしっかり持ち込んでいたけれど、真面目に勉強したのだろうか。
いつも自転車を走らせて、くっきりとした青空が広がり、暑さの中に長閑な田園が広がるその周辺を走りまわっていたように思う。
官舎に戻る途中にあった駅前の本屋に立ち寄り、「長征」や、エドガー・スノウの「中国の赤い星」など中国近代史関連書(当時は、まだまだ学生運動への関わりを断ち切れないでいた)や、思想書等を買い込んだ事も覚えている。
雄物川の川岸で吹かれた気持ちよい涼風、入道雲の下に広がっていたトウモロコシ畑を吹き抜けた風の音、官舎の前に次々咲いていた貝殻菊や、アスターの花の色も覚えている。
大曲に着いた日の夜の、横手の花火大会見物と、大曲を去る前日の、田沢湖高原からの乳頭山登山、麓の乳頭温泉郷黒湯の湯煙や、頂上で食べた残雪にかけたジュースの味、午後の長閑な湿原歩きも鮮明に覚えている。
しかし、一番楽しみにしていた宏子姉さん達には会えなかったと思う。
到着が随分遅れたからだったし、僕が帰る予定の列車の時間には間に合わなかったからだと思うのだが覚えていない。
否、到着を待ってぎりぎりで駅まで急いだような気もする。
帰路も一人だった筈だが覚えていない。
僕の記憶は、やはり自分に都合の良い事ばかりを残して、他は記憶の外に追いやっているのだろうか。
まだまだ暑かった別れの日の午後、一人残る事になってしまった玲ちゃんの寂しそうな顔が少しだけ笑ったのは、
「宏ちゃん達は、何時頃着くん?」の僕の質問に答えた時だった。
「夜になったら着くと思う。電話してくると思う。楽しみだわ」 

その夏の大曲の1週間の、静かすぎるほどの生活から戻ってしばらくして僕は、鈴蘭台を訪問した。
玲ちゃんは疲れたとかで昼寝中だったから、留守だった宏子姉さんの部屋を借りて勉強していた。
山間のその地にはいつも奇麗に手入れされた植木が茂り、季節の花が咲いていたし、中でも庭梅や百日紅は、我が家から移植されたものだったから、おばさんとの会話には必ず花の名が出てきた。
玲ちゃんは昼寝から醒めたようで、大きな柿を剥いて二階に運んで来てくれた。
通りから階段を上がってすぐ、玄関の脇にあった金木犀がその午後の静かな部屋に匂って来た。 

その夏から、何年経っていただろう。
玲ちゃんとは、三人居た父の姉の内、阪神淡路大震災のあった平成7年1月17日の前日、兵庫県芦屋で亡くなった奥村のおばさんの葬儀(19日通夜、翌20日葬儀)の折、久し振りに出会った。
斎場からの車の中で交わした気軽な会話に、30年以上経ってしまっていることは全く感じなかったし、火葬場の駐車場横の生け垣に咲いていた山茶花を目敏く見つけて
「ケンちゃん、あの山茶花、挿し木出来る??」などと、唐突と語り掛ける親しみ深い雰囲気は、全く変っていない気がした。 

僕は、懐かしい中学2年の夏休みに初めて出会ったその少女と、山茶花の挿し木の話をした女性が同一人物であることを覚えていることが嬉しかった。
しかし、彼女の思い出に続く、遠い中学2年の夏にはじめて見た鮮やかな黄色のトロロアオイは、その後何度も夏を過ごしているが、一度も見たことは無い。 

もう一つのモミジアオイは、社会人になって随分日が経った夏に、大山・出雲を巡り、倉敷を訪れた時、美観地区を流れる川の辺に咲いていた鮮やかな赤に出会ったし、椎間板ヘルニアの手術をした年の翌年夏、定期通院していた長整形外科に行く途中の相生町の民家の庭に、見事に咲いていた花に出会っている。 

葵、芙蓉の類は、夏には欠かせない花だし、何処にでも咲いている、という気がするくらいあちこちで見かける。
だから印象に残る場面に例えその花があったとしても、花そのものの印象は薄い。
しかし、トロロアオイ(ネリ)だけは、その後見る機会が絶えてしまった所為もあるし、不思議な安らぎをいつも感じさせてくれた大森家の末娘玲ちゃんの、少し気の強いわがままさを思い出させてくれる花として、今でも印象に残っている。
人には、その人を印象づける色や花が必ず一つはあるものだ。
今度会った時は、このネリの話と、秋田・大曲の一週間の記憶や、雄物川の河川敷で吹かれた、涼しい風のことを話してみよう。 

たった一冊の本にも、その折々に記されたメモがあり、そのメモの大半は記憶にすら残っていないものもあるのだろうけれど、やはり断片を繋ぎあわせて行く作業の中で、人はその折々の記憶を取り戻す事もある。
僕は、一つのきっかけで取り出した一冊の文庫本の中に、懐かしい花達に続く、懐かしい顔を幾つも思い浮かべる事ができた。
どうしても残さなければならない記憶でさえ、突然糸が切れてしまっている事を度々思い知らされながら。

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【このページへの追記】
【ロマンチストの独り言】なる、歯が浮くようなタイトルで書き綴ることが出来たのは今にして思えば奇跡?みたいなもの。
実家の建て直しを決めた震災の年、残していたかなりの古い資料などが一瞬にして瓦礫と共に処分されてしまったけれど
まだ幾つかの記憶に繋がる写真や切符類があったので書き溜めた。
それでも現役で海外を飛び歩いていた頃のことだからやはり奇跡?だと思う。
後年、花に特化したようなブログを作っている。
当然だけれどこのページに書いた内容に幾つかの画像をあしらったページが出来ることもあって
幾つかの類似のページを書いた。

【あれから…】 【鎌倉の紫陽花】 【大船植物園】 【ヤマハギ】 【ムラサキハナナ】 【チャ】 【2005.11-2】
等は、藤沢から明石に引っ越す頃の記憶に繋がる。

最近では同じ花を1ページに何枚も上げるようになったから、記憶頼りに 
【季節の花たち ネムノキ レンギョウ】
【季節の花たち ヒガンバナ】
を追加した。


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