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その2 久しぶりに高坂正堯さんの記事に遭遇

2018-11-06 16:43:26 | Weblog
その2 久しぶりに高坂正堯さんの記事に遭遇

先日の教師座談会で皆さん日本の一人称の多さにびっくり

調べてから報告って話していたので本日アップ

一人称:
わたし・わたくし・あたい・あたし・あたくし・あっし・あちし・わちし・わし

ぼく

おれ・おいら・おら・おい・おいどん・おれさま

うち・じぶん・てまえ(てめえ)・おのれ・わがはい(我輩)

われ・わい・わて

ぐはい(愚輩)・ぐせい(愚生)・ぐせつ(愚拙)

しょうせい(小生)・せっしゃ・せっせい(拙生)

とうほう(当方)・こちとら・それがし

よ(余,予)・

天皇陛下のみ ちん(朕)


文藝春秋10月号を見ていてあの童顔で京大の先輩で
虎気狂いの吾輩より一回り上の若くして62歳で逝った高坂さんの記事を見つけて懐かしい!!

高坂 正堯(こうさか まさたか、1934年(昭和9年)5月8日 - 1996年(平成8年)5月15日)は
日本の国際政治学者、社会科学者、思想家、法学博士、元京都大学法学部教授









昔の民主党の星 京都の彼は京大で最後の弟子

前原 誠司
まえはら せいじ

生年月日 1962年4月30日(56歳)

前原 誠司(まえはら せいじ、1962年(昭和37年)4月30日 - )は、日本の政治家。国民民主党所属の衆議院議員(9期)。

京都府議会議員(1期)、民主党代表(第5代)、国土交通大臣(第12・13代)、外務大臣(第145代)、国家戦略担当担当(第6代)、民主党政策調査会長(第11代)、内閣府特命担当大臣(防災・沖縄及び北方対策・経済財政政策・科学技術政策・原子力行政・宇宙政策)、民進党代表(第3代)などを歴任。

一浪の末、京都大学法学部に入学後は、学費・生活費捻出のため、バスの添乗員から魚の卸売市場、喫茶店のウエーター、塾の講師等、ほとんど寝ないで働きつつ、高坂正堯の下で国際政治学を学ぶ。卒業にあたり、外交官の道に進むか大学に残るか、あとは漠然と政治家にと考え高坂に相談したところ、「学者は天才でなければならない、外交官は東大が羽振りを利かせているし、おまえはおやじがいないからどうか[2]。山田宏[8]を紹介してやるから[2]」との助言を得て松下政経塾への入塾を決断した。




そして

とってもいい記事でした。

日本を離れて10年を過ぎると
日本の良さ悪さがyく見えるもの!!

それを五十年前の三十代の高坂教授が本にしている。















関連のネット記事もいいです。

下記:


なぜ「悪」を取り込む必要があるのか
細谷雄一

 高坂正堯元京都大学教授がその設立に深く関わったサントリー文化財団が刊行する雑誌『アステイオン』。「追悼・高坂正堯氏」と銘打った一九九六年の第四二号では、北岡伸一立教大学教授(当時、以下同)、坂元一哉大阪大学助教授、そして中西寛京都大学助教授が、座談会で高坂の巨大な足跡とその功績を回顧している。坂元と中西は高坂の門下生であり、北岡も高坂とは政治的立場が近い位置にいた。
 その座談会の末尾で、「最後に、後学のため、先生のご本でお勧めのものを紹介して終わりにしましょう」と、北岡教授が述べている。数々の名著を残した高坂の著作の中で、北岡教授と坂元助教授がそろって、新潮選書から高坂が一九六八年に刊行した『世界地図の中で考える』をあげているのは興味深い。一九六〇年代後半は、政治学者高坂にとって、人生で最も豊穣な成果を生み出した時期であった。一九六六年の『国際政治』、そして一九六八年の『宰相吉田茂』は高坂の評価を決定的なものとし、現在でも広く読まれ続ける国際政治学の古典的名著である。
『国際政治』と『宰相吉田茂』というこの二つの著作では、政治学者として明確な主張を展開しているのに対して、同じ時期に書かれた『世界地図の中で考える』は対照的な印象を読者に与える。それもそのはずで、「あとがき」のなかで高坂は、「私はこの書物で、かなり自由な書き方をした」と断り書きをしている。というのも、「私が旅行で見、感じ、そして考えたこと、旅行から考えて本を読み、論じ合ったことを、そのまま書く方がよいと思った」からだ。そのような肩の力が抜けた自由奔放な思考と記述が、本書の魅力をよりいっそう大きなものとしている。
 それでは、この著書にはどのようなことが書かれているのか。まず高坂は本書の叙述を、自らのタスマニアでの滞在についてから始める。高坂がタスマニアに関心を持ったのは、自らが子供の時代に知った、タスマニア島原住民の滅亡の理由への知的好奇心がきっかけであった。なぜタスマニア人は、滅びなければならなかったのか。
 それを調べていくうちに、高坂は興味深い事実に突き当たる。すなわち、「タスマニア土人(ママ)を滅亡させる上でもっとも効果があったのは、イギリス人の鉄砲でも大砲でもなかった。皮肉なことに、そうした文明の利器よりも、イギリス人が彼らの身体のなかに携えて来た微生物が、はるかに有効だったのである。」というのも、タスマニア島の原住民は、外部との接触がなかったために、このような細菌への免疫がなかったのだ。
 たとえ細菌が悪であったとしても、その「悪」を体内に取り込むことでむしろ免疫を高めて、われわれはより強くなれる。高坂は語る。「ごく簡単に言えば、より多くの種類の病原菌を体内に持っている人間がより多くの病気に耐えうるのである。」高坂は、社会のなかからひとつずつ悪を摘まみ取って排除するよりも、その悪を内側に取り込み強くなる必要に目を向ける。これこそが高坂の文明論の真骨頂である。政治の世界でも、権力、軍事力、戦争、帝国主義、独裁といった、数々の悪徳が見られる。そして、それらの悪徳を排除することを政治の目的に掲げる理想主義者はあとを絶たない。しかし、そのような悪をむしろ内側に取り込むことで免疫を高め、われわれはより強くなれるのだ。
 高坂が社会に求めるのは、均衡である。「社会のなかには、さまざまな要因が微妙な釣り合いを保っている。人びとはそのなかのあるものを善とし、あるものを悪とするけれども、その相互の関係は複雑に入り組んでいて、どれが善であり、どれが悪であるかを言うことが難かしいのが真実なのである。」「あとがき」でもまた、次のように書いている。「実際には、文明そのものが光の面と闇の面を持っている。そしてその二つは離れ難く結びついているのである。」そのような高坂の文明論は本書の全体に貫かれ、そのような視座からアメリカ、イギリス、フランス、日本の文明を自由に描き、その光と闇に目を向ける。
 なんと成熟した思考だろうか。戦後の日本社会はあまりにも稚拙に、「光の面」に執着し「闇の面」を否定することに懸命となってきた。われわれに必要なのは、そのような社会の「闇の面」あるいは「悪徳」を、人間社会が生み出す不可欠な全体の一部として捉えて、その均衡を生み出すことではないか。高坂の古典的な文明論を読むことで、読者は見失いがちな価値のある視点を得ることができるのであろう。

(ほそや・ゆういち 慶應義塾大学教授)
波 2016年6月号より


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半世紀前に今日を見通した思考の芸術
藻谷浩介

〈著名人が薦める〉新潮選書「私の一冊」(2)
 掲題書は、半世紀近く前の1968年に、30代前半の研究者だった高坂正堯(1996年没)が書き下ろした本の復刊である。当時高度成長の終盤にあった日本は「経済発展という目標を失いつつあり、そして、それに代るべきものを見出みいだせない」状況だったし、米国はキューバ危機を経てベトナム戦争の泥沼に足を突っ込んでいた。
 困ったことに、『世界地図の中で考える』という初版当時からの書名も、復刊に際し裏表紙に掲げられた「なぜ人間は『悪徳』を取りこむ必要があるのか――?」というコピーも、著者の主旨を汲くみ損ねたものだ。このコピーや高坂正堯の名に些いささかの抵抗感を覚える人たちにこそ、本書を読んでもらいたい。「『中国の脅威』に対抗して集団的自衛権!」と短絡する政治家や一部有権者に危うさを感じるあなたこそ、本書のあるべき読者だ。
 若き日の高坂正堯が試みていたのは、「狭いようで広く、そして複雑な世界」の本質に迫ること。人々の頭の中の世界地図には白地図のままの部分が広大にあり、我々が知っていることの大体は「『イメージ』にすぎない」。「人から聞いたり、書物で読んだ知識、すなわち『意見』が現実から離れたものであり、それ故空虚で危険であること」を、彼は無数の例を引きながら解き明かす。
 評者は満腔まんこうの意をもって賛同したいのだが、「問題の複雑さを理解している人だけが、中心的な事実を単純化して捉えてもよい」のであり、「ある体制を、時と場所と無関係に、抽象的に判断するくらい大きな誤りはない」。そうした認識に立ちつつ探り続けることで、現実がその背後の構造に遡さかのぼって理解され、時代の目の曇りから自由な、確固たる認識が生まれる。
「(アメリカは)有能で、強力な中央政府によって『体系的』に動かされている国ではない」。「アメリカの戦争方法は限定戦争(ゲリラ戦)に合わない」。「(アメリカが)世界のすべての問題に首を突っ込まないことが、いかに望ましいか」。著者のこれらの言を理解できる人は、半世紀前よりも今の方が多いだろう。アジアは「『近代に現われた最大の侵略者は西欧である』という点では一致」するが、それ以外に一致点はない。まさに著者の語る通りである。
 ぜひ本書を手に取り、半世紀前になされた未来予測の的確さを検証してほしい。著者はタスマニアの山火事に自然改造の限界を見、二酸化炭素の増加や長寿命化が未来に及ぼす影響を推測する。インドネシアの共産ゲリラの蹉跌さてつからイスラム教を知ることの重要性を導き、米国の力の源泉は「技術」ではなく「経営」にあるのだと喝破する。「コミュニケーションの分野において、世界はますます一つになる」とコンピュータの黎明れいめい期にあって見通しつつ、「二十世紀の末は、闇と光に二分された明快な世界像を狂信する時代になるかもしれない」と懸念している。今を生きる我々は、半世紀後の地球について、ここまで本質を突いた予測を成し得ているだろうか。
 本書終盤で「現代ほど言葉と、表現すべき事態の複雑さの間に距離があることは少ない」と慨嘆する著者。その後半世紀を経て、状況がさらに破滅的に悪化していると感じるのは、評者だけではないだろう。だがすべきことは同じだ。「愚かな狂信と暗い懐疑主義の中間に踏みとどまること」であり、「但ただし書をつけながら現象の本質を捉える」ことである。成果なきアベノミクスが惰性で延長される今年に、その行き詰まりの先を見据えて、我々は準備を続けなければならない。

(もたに・こうすけ 日本総合研究所調査部主席研究員)
「毎日新聞」2016年7月17日書評より

今日は懐かしドラマを鑑賞























本日は学生のワクチン注射で
ラジオ体操は中止

これから散策に出かけます。


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