その1 マー君 石坂先生
平成28年 西暦2016年5月11日 水曜日
もうヘアサロンの日
一週間があっという間です。
昨夜はテレサ・テンにはまって午前3時スリープ
ってことで今朝は8時前と起きるのが遅くなる。。。
楽しみのマー君のライブ、 KCとNYYのライブをつける。
マー君が又もや逆転ホームランで負けています。
でも7回今度はNYYが逆転で1点リード
8回もマー君って思ったら交代!!
勝利投手の権利もすぐに同点!!
ついてないマー君
そして9回NYY10:7で大逆転中です。
このところ数年前の本日が気になる。
そして昨日についで石坂先生のいい記事が我がブログに!!
コピペです。
それにしても数年前の5月は雨季の雨が一杯です。
2013年5月11日のブログ
その2 閉じこもり極貧生活 猛勉
間もなく夕方6時です。
先程強烈スコールがありました。
サイゴンはもう完璧に雨季に入っています。
本日は部屋に吾輩自身を幽閉し
まだ3Fから一歩も出てないです。
食べ物も最低限:極貧生活の様相!!
本日午前6時から今までに食べたものは
トマトとハムとブドウパンとコーンフレークとミルクのみ
嫌いではない翻訳仕事も締め切りがあり
いつもながらギリギリにしかやらない我輩は
突然の風邪ひきでまあ言えば今朝からはじめたようなもの!!
結構なページ数をこなすためには、もう今日明日は閉じこもるしかない!!
しかし翻訳のよさは外国文化を知る最高の手段かも!!
話は昨日の石坂先生:
先生も学生時代に翻訳させられたことがきっかけで免疫の世界に進むようになったって!!
そして吾輩が留学していいたジョンズホプキンス大学時代の背景も考察されています。
興味ある人は次のサイトを訪問してください。
http://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no35/
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1.免疫学を志す
ある日、これ を翻訳してくれたまえと、先生に渡された本が『The Chemistry of Antigens and Antibodies 抗原と抗体の化学』(J.R.マラック著、1938)で、これが私と免疫化学のつき合いの始まりでした。東京大学医学部の学生だった私が、1946年の夏 休みに細菌学を学びたいと思って、伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)の中村敬三教授の研究室に実習に行っていた時のことです。中村先生は元来細菌学 者でしたが、同時にアレルギーの薬理学的な研究をされており、アレルギーが免疫学的な機序で起きると信じておられました。免疫学は、ベーリングと北里柴三 郎の抗毒素の発見に始まったものですが、戦争中の日本ではもっぱら細菌毒素や抗感染免疫、ワクチンの研究に力が注がれていました。しかし、中村先生は、こ れからの免疫学には化学的なアプローチが必要と考えておられたのだと思います。
マラックの本は第一章が化学結合論に始まり、聞いたこともないような話の連続でしたが、主体は、抗原の特異性はその化学構造によって決まるということの 系統的な叙述でした。終戦の1年後でしたから、日本には外国の本はほとんど入ってきませんでしたし、抗原と抗体がなぜ特異的に結合するかなどということは 誰も問題にしていませんでしたから、私にとってその内容は驚きであり、非常におもしろかった。しかも翻訳しなければならないので何度も読むうちに、内容を 克明に憶えてしまったのです。おそらく先生の目的は私を夢中にさせることにあったのでしょう。確かに、この本を訳さなかったら、私は免疫学をやる気になら なかったかもしれません。
卒業後、1950年に先生の教室(国立予防衛生研究所/予研)に入りました。学生時代から先生とは本当によく議論しましたね。私が質問すると、先生は文 献を渡されて、君の質問の答を得るためにはどんな実験をしたらよいか考えてこいと言われる。答をもってゆくと、初めて、僕ならこういう実験をするがねと言 われる。このようにして先生は私に考え方を教えて下さったのだと思います。日本にはまだ免疫化学が入っていない時代でしたが、卒業後研究所に入ってから は、先生は免疫化学の領域で私が疑問に思うことをやらせて下さり、御自分は相談相手になって下さったわけです。
3.ジョンズホプキンス大学でアメリカ東部を知る
58年の春、 フィラデルフィアの免疫学会での発表がきっかけで、ボルティモアのジョンスホプキンス大学から誘いがきました。仕事がうまくいっていたので、移りたくはな かったのですが、キャンベル先生は、お前はここがアメリカだと思っているけれど東部へ行ってみろ、全く違う、それを知ってから日本に帰ったらどうか、と言 うのです。
59年の1月に移ったジョンスホプキンスでは、それまでの仕事を続けてもよいことになっていたのですが、医学部ですから、実験動物はふんだんに使える一 方、機械や試薬はあまり豊富ではありません。しかも、キャンベル先生の教室のように、多量の抗血清も持っていません。私はあと8ヶ月で日本に帰らなければ ならないので、自分でウサギを免疫していたのでは、実験をする時間がなくなってしまいます。仕方なく、抗体を使わずに今までの仮説を証明する方法を考えま した。
それまでの結果から、抗原抗体結合物がアレルギー性反応をおこす活性を持つのは、2つ以上の抗体分子が抗原によって引き寄せられるためであり、抗体が集 まるのが大事なのではないかと考えていました。そこで、正常のγグロブリンを化学的な方法で重合させてみました。もしそれで抗原抗体結合物と同じ活性が出 れば、抗原は抗体を重合させるためだけに働いていたということになります。確かに、重合したγグロブリンは皮膚反応を起こしたのです。予想的中!嬉しかっ たですね。
実は、ジョンスホプキンスに補体に関しては世界一の学者であるマンフレッド・メイヤー先生がいました。妻の照子は日本にいた時から補体の研究をしていた ので、彼女はメイヤー先生の教室で研究を進め、重合したγグロブリンが抗原抗体結合物と同様の機序で補体を結合することを証明しました。これで、補体が抗 原抗体結合物に結合するのも、抗体分子が(抗原によって)重合するためであることがわかったわけです。キャンベル先生の言ったように、ボルティモアはカリ フォルニアとは違って住み難い所でしたが、幸い仕事の方はうまくゆきました。
結局、2人で、2年間の留学の間に9つの論文を発表しましたので、アメリカに残らないかという誘いもあったのですが、私は公用出張で留学しているのです から帰らない訳にはいかない。しかし、当時の日本では、アレルギー性疾患などは問題にされていませんでしたから、予研でこの研究を続けることが許されない のは当然です。そこで、キャンべル先生に相談したところ、アメリカ政府は他の国の研究にも研究費を出しているから申請してみてはどうかというので、NIH へ研究費の申請書を出してから帰国しました。幸い翌年からこの研究費をもらうことが出来たので、私どもは日本でもこの研究を続けることができました。こう いうところ、アメリカのふところの深さを感じますね。研究には国境はないと言われますが、こういうところで実行している。素晴らしいことです。
6,ジョンスホプキンスから、ラホイヤ・アレルギー免疫研究所設立
吾輩もボルチモアで先生の授業にでました。
その当時の先生の研修室スタッフさん
小児喘息研究所は、こじんまりした地方の研究所でしたが、私どもはよい人間関係に恵まれて落ちついて研究ができました。その間いくつもの誘いを断っていま したが、結局70年にジョンスホプキンス大学医学部教授としてボルティモアに移ったのは、私たちの基礎研究が臨床医学の研究に広がってゆくことを期待した からでした。ジョンスホプキンスでは強カな臨床免疫部門を持ち、特にアレルギーの研究に熱心でしたから、我々の研究を臨床に応用したかったのです。
我々としては、レアギンの正体がわかりましたので、IgE抗体がどの様な機序でアレルギーを起こすのかが次の研究課題になりました。アレルゲンが体内に 入ると、それに対するIgE抗体がつくられ、それが、そのFc部分で鼻や目の粘膜などに並んでいる肥満細胞の表面にある受容体に結合する。次にアレルゲン が入ってくると、それは肥満細胞に結合しているlgE抗体を架橋し、その刺激で細胞内の酵素が活性化されて、細胞からヒスタミンやロイコトリエン、プロス タグランジンが放出され、アレルギー症状を起こす。この様な機序は照子が中心になって行った研究から明らかになったことです。一方私は、IgE抗体は、な ぜある条件でしかつくられないのかということに興味をもち、抗体産生の問題に取り組みました。ジョンスホプキンスはlgE産生、lgEによるアレルギー反 応の機序、臨床アレルギーの3つの研究領域を持っていたので、国際的にもアレルギー研究の指導的役割を果たせました。
このように、ジョンスホプキンスに移ってから最初の10年間は自分達の研究と若い研究者の育成が私の主な仕事でしたが、80年から免疫学部長を引き受け ましたので、私は大学院学生の教育の責任を負わなければならなくなりました。また、政府からの研究費の配分とか、大学院学生への政府の援助とか、研究費申 請書の評価に関する仕事も多くなりました。ジョンスホプキンスはワシントンから近いので、何かとNIHから意見を聞かれることが多かったと思います。私は 根っからの研究者ですから、大切だと考える課題について自分で研究することが一番楽しいのですが、若い研究者や学生を育てることも、自分が専門とする免疫 学の将来のには不可欠なことですし、そのための努カも大いにやり甲斐のある仕事だったと思います。そういうことは、そもそも私が先生たちから学んだことで す。先生達の時代には、免疫学を独立した領域として確立するという目的がありました。自分達の分野を認められるようにしたいということになると、競争相手 を叩き落としているわけにはいきません。政府に働きかけて研究人口を増やすことも、若手を教育することも大切だったわけです。
私が89年にラホイヤに新しい研究所をつくる気になったのは、次の時代の研究者に賭けたいと思ったからです。80年代のアメリカは国の財政が悪化してい ましたから、基礎研究をすべて政府に依存することができなくなっていました。そうなると、いくらアメリカでも、学界の大勢にそわない研究には研究費が出に くくなってきますので、若い人が独創性を発揮できません。80年に施行したバイドール法は、大学の基礎研究が政府だけでなく企業からも支援されることを可 能にしました。ラホイヤの研究所の設立は、バイドール法を100%利用させてもらったお蔭です。この研究所は企業のお金で公益研究所をつくる原型になりま したが、現在約200名の研究者を擁し、アメリカ中に名を知られるものになっています。研究者達はもちろん激しい競争社会の中にありますが、彼等はよく協 カしあっており、我々が先生から受け継いだ精神が保たれていると思います。
7,引退して思うこと
私は70才で引退して日本に帰ってきましたが、振り返ってみると、私ほど自分のやりたいことを、自分の行きたい所へ行って、自分の好きなようにやった日本 人は珍しいのではないかと思います。よい指導者に恵まれましたし、周囲の人からも理解されました。しかし私がこんな勝手なことができたのは、何といっても 照子のお蔭だと思っています。彼女はすべての意味で私の相棒であり、大学や研究所内では、研究以外でも、私の不得手なことは頼まなくても進んでやってくれ ました。彼女はラホイヤで発病し、山形大学病院に入院してから4年になりますが、私には彼女を犠牲にしたという感覚はありません。彼女も自分の生きたいよ うに力一杯生きたと思いますし、少なくも25年間は自分のやりたい研究をしましたから研究者としても恵まれていたと思います。彼女が79年からジョンスホ プキンスの教授になり、ラホイヤ研究所のアレルギー部長兼カリフォルニア大学教授であったのは、その研究業績を考えれば、男女同権のアメリカ社会では至極 当然でした。しかし日本の社会ではいつまでたっても色眼鏡をかけて見られるようです。その原因の1つは、日本の大学の人事が教授会という閉鎖社会で、“お 手盛り”で行われていることにあります。しかも、日本の大学人は欧米の大学でも同じことが行われているだろうという大変な誤解をしているようですが、アメ リカのプロの社会では“なれあい”はありません。
アメリカの大学の教授選考は、候補者と専門を同じくする学外の多くの学者達の率直な意見を聞いて行われています。現在の日本のシステムを変えないかぎ り、大学改革もできないし学閥もなくならないでしょう。もう1つ私が気になることは、日本の将来の科学の方向を決める研究費の配分や教育方法が学者の意見 ではなく、研究にも教育にも経験のない政府の官僚によって決められていることです。従って、日本では、常識的なことや既に流行している領域に重点がおかれ ています。考えてみると、私が30代にやった研究は、当時の常識からはずれたことばかりでした。日本では、現在でも大部分の研究費はグループ研究に分配さ れていますが、当時の私のことを考えると、この方法の下では、どう考えてもグループに入れてもらえなかっただろうと思います。
アメリカの研究者たちは、自分の専門領域の将来は自分たちが決めなければならないという責任感が強く、そのために大変な努力をしていますし、政府もそれ に依存しています。私も照子も、ジョンスホプキンスに居た時は、そのために多くの時間を費やしました。それは、自分のためには何の得にもならない努カです が、自分の専門領域の学問の将来のためには必要なことです。私は、日本の学者達が同じような努力をしない限り、日本のサイエンスは国際的な競争に勝てない のではないかという危惧を持っています。
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こんな寄り道していたら翻訳が間に合わないが
忙しいときに限って何かやりたくなるのは
中学時代から今まで同じ進歩無しですが
これが我が生き方やり方って
もうDNAに刷り込まれて
います。
一度上がった雨が小ぶりになって降っています。
やっぱ本格的雨季です。
雨や雨音大好き人間
にはたまりません。
2回目の休憩
多分本日はハングリーにこのまま家にいます。
午後6時18分
さっき大雨の時は21度でしたが
今は温度計を見に行く元気がないです。
昨日から我が生まれ故郷伊予の松山
坊ちゃん球場で阪神対ヤクルトがゲーム中
綺麗球場です。
えらく阪神が勢いづいてきました。
間もなく巨人を抜きそう
楽しみです。
一方、大リーグもアリーグ東はすごい!!
ゲーム差なしでヤンキース、オリオールズ、レッドソックスが並んでます。
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