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Vol.74 フォークソングとの付き合い

2013年12月13日 | 日記

 10日付け朝日新聞の「リレーおぴにおん」に、昔なつかしい岡林信康が出ていた。私はフォークソングとの付き合いも長い。中学時代に舟木一夫の「高校3年生」が流行って、高校時代に「日本人歌手はつまらん」と言ってビ‐トルズに傾注した。

 そのころギターを買って病みつきになり、加山雄三の「君といつまでも」が流行ると、青春時代まっただ中に「やっぱ日本の歌もなかなかだ」と、若い人は判らないだろうが、鼻を人差し指でこすりまくった

 フォークの老舗?岡林信康の雄姿(写真クリックで拡大、拡大をクリックでさらに拡大)

 大学時代にジョーン・バエズ、ボブ・ディラン、PPMなど反戦フォークソングが流行り、新宿の東口広場に毎週土曜日集まって反戦ソングを歌っていたのもそのころだ。(Vol.7ベトナム旅行参照

 ジャンルは違うが高石友也の「受験生ブルース」が火付け役か、ギターを持った日本人の反戦歌が関西からポツポツ出て来た。その先頭を走ったのが岡林だろう。

 休題:地元紙に載った「無駄にはならなかったやっくんの死」:Vol/36参照(写真クリックで拡大)

 当時はまだ大阪―博多の新幹線が無く、私は関東から山口への帰り道、よく大阪に途中下車していた。友人の下宿に転がり込んでアルバイトしたり、岡林や吉田拓郎のコンサートを聞きに行っていた。

 こういうことも有った。1971年の第3回中津川フォークジャンボリーが、岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市)にある椛の湖(はなのこ)湖畔にて行われ、関東からのこのこ出掛けた。

 岡林の反戦ソングに対して、軟弱な歌詞(当時は)の吉田拓郎が出ると、帰れコールが起きてそのまま中止になり、ジャンボリーそのものも中止になった。その後は拓郎の活躍に対して岡林はパッとせず、やはり「人間、才能て有るんだな」と思った。

休題:タネ取り用ケイトいちりん(写真クリックで拡大)

 これで話は終わらない。何十年か経って名古屋に転勤になり、1971年のジャンボリーを懐かしむ地元の人たちの大会復帰の記事が出ていた。今度は車で出掛けて当時の面影を偲んだ。

 深夜に中止になり、明け方になるのを待って、みなトボトボ駅まで歩いた。後年このことを経験している輩が中部、関西に結構いのには驚いた。

 岡林は「神様」つながりで美空ひばりとも共演していたが、時々テレビのフォークソング集にも出てくる。拓郎と違って「オーラ」は無いが「ハナ」がある。フォークソングと言えばやはり岡林だ。

 新聞の記事内容は昔から言っていたことでモノ珍しくないが、最後の青線2は朝日にリップサービスする必要ないだろう。

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