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Vol.12 豊田英二氏を偲ぶ

2013年09月18日 | 日記

 17日豊田英二氏が亡くなった。急きょ予定の稿を取り止め、ご冥福を祈りたい。Vol.8でも書いたが、若いころ自動車部品を納入する営業を行っており、T社を担当していた。

 英二氏が社長を退き、T社が全盛を誇った頃の時代で、氏の豪邸の前を車で通行していた。犬を連れてよく散歩していると聞いていたが、お目にかかることは無かった。T社には多くのことを学んだ。 

 T社を担当する前は栃木県のH技術研究所に出入りしていた。H社の本田宗一郎氏には出会ったこともあり、講演にも出掛けた。

 T社の祖、自動織機を発明した豊田佐吉氏も本田宗一郎氏も浜松の出身で、何か有るのかと両氏の生家を訪れたが、浜松気風を何も感じなかった。

 昔の織機は「ガチャマン」と言って、一度シャトルを通して「ガチャン」と糸を紡ぐと1万円になったという。それは織る機械の保有台数によって糸の配給が決まる、というので、業者が段ボールに現金を詰めて、企業名を書いて置いて行ったという。繊維業界の古き良き時代の話だ。

 その現金をもとに長男の喜一郎氏が自動車製造を始めた。佐吉氏の弟の次男が英二氏だ。

 高く大きく育った、我が家の鶏頭 

 私はH社からT社の担当になった時、「H社は実にユニークで面白かったが、T社はクソ真面目で面白く無いだろうな」と腹を括っていた。 

 この両社はクルマ作りのポリシーが全く相反していた。H社はやんちゃ坊主の三男坊、T社は礼儀、常識をわきまえた長男という感じだが、自由も金も即断力も有った。

 H社は国立大学卒は少ない、実力主義だ。T社は国立大、しかも一流ぞろいだが、決して学歴尊重主義ではない。ただ任務を課すと必ずやり遂げるという、人脈の奥深さが底力としてあり、どこぞの商社のような金太郎飴(どこを切っても同じ意見)でもない。

 まあT社は西の人間が多くて話が通じ、パソコンもそうだがいろいろと教えてもらった。不謹慎ながらT社社員になりすまして業者から接待ゴルフを受けたことが有る。また社員としてデンソーへ納品をお願いされたことがある。

 この地区のT社は、こんなにも大事に扱われているのかと瞬時の殿様気分を味わった。

三河モンロー主義で「国内で転勤しても単身赴任でなく、通勤できる」のが応募の動機には参った。今はそんな田舎の大企業は卒業したと思うが・・・・。

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