鉄火場のアライグマ

株式投資がメイン、の予定だったのですが、いつのまにかマンション購入記、のつもりが建売住宅購入記になってしまいました・・・

けんぽー

2005年05月09日 | Weblog
今日は憲法記念日でしたので、憲法について考えることを少し。(5月3日 記)

最近、国会や新聞では憲法改正論議が盛んですが、そもそも何故憲法改正が必要なのか?というところがあいまいです。
よく出てくる理由としては、
 ・戦後60年も全く改正しないのは時代錯誤
 ・環境権等の新しい権利に対応出来ない
 ・国際貢献が出来ない
 ・米国が作った憲法の文章が気に入らん(by石原)

などです。
世論調査でも、憲法を改正すべき(してもいい)という人が過半数になっているようです。

 しかし、憲法改正をしたい人たちの最も大きな狙いは、やはり9条改正でしょう。上記の環境権の話も、憲法改正への反発を弱めるための飴にすぎません。何故なら、環境権などの新しい権利というものは憲法に書くまでもなく現行憲法でも認められていますし(判例)、実際に公害対策の各種法律も出来ています。憲法にわざわざ書かなくても、法律を作れば済む話です。


 私個人としては、今の自衛隊は9条2項との関係ではどう解釈しても違憲だと思いますし、軍隊を憲法上の規定なしに置いておくことは危険でさえあると思うので、9条を変更することについては特に異論はありません。もちろん、9条をそのままにして自衛隊をなくす、という選択肢もありますが、果たしてどの程度の国民がそれを認めるかというとかなり難しいでしょう。もちろん、理念としての平和主義は尊重すべきでしょうが、憲法は国民の人権を守り国の統治機構を定めるものですから、守れない理念を憲法に書いて現実との齟齬を放って置くことは問題があると思います。逆に9条以外に特に改正すべき点は見当たりません。

 理念といえば、「憲法に国のあり方を書きこむべきだ」という議論があります。産経新聞がよくキャンペーンを張ってます。聖徳太子の17条憲法を見習うべきだ、など。これは、憲法に対する大きな誤解があります。

 そもそも、日本人は憲法が何のためにあるのか知らない人がほとんどです。学校では「憲法とは法律の法律である」くらいしか習いませんし。
 では、憲法は何のためにあるのでしょうか? 実は、憲法は国民を相手にはしていません。相手にしていないというのは言いすぎですが、憲法の名宛人は「公務員」なのです(憲法99条の憲法尊重擁護義務には国民が含まれていません)。
 憲法は人権と統治という2つのセクションから成り立っていますが、人権セクションは、公務員による人権抑制から国民を守ることを目的に、立法権や行政権の行使に当たって最低限気をつけるべき規範を示しています。統治セクションも、国会はこのように運営しなさい、内閣はこのように作りましょう、裁判所は・・・といった公務員向けの規範です。

 ここで分かるように、憲法とは、

「人が集まって国という組織体を作る際に、その運営を任せる公務員が暴走しないように、国民が公務員に向けて作った規範である」

と言えます。これは、民主主義の国であればどこも同じです。アメリカの場合には、憲法の本編(統治セクション)と修正条項(人権セクション)の2つから成っています。
 要するに、憲法は公務員の活動に縛りをかけるためのものなのです。たとえば、議会が「老人には一人2票の選挙権を与える」などという法律を作った場合、それは憲法違反ですよ、ということで無効に出来るわけです。
 何故公務員に縛りをかける必要があるかについては、(言うまでもないことですが)権力を与えられた公務員は、自分の仕事をきちんとやろうとすればするほど、どうしても人権を抑制する方向に動きがちになるためです。国の管理者である公務員にとって一番楽なのは、すべてのことが法律で規制されて、自分たちの思い通りに国民が動く社会です。しかしそれでは、国民が主であり国の運営を委任しているだけの公務員が大きな顔をする、という近代民主主義国家の理念からは本末転倒になってしまいます。

 ところで聖徳太子の17条憲法ですが、あれは憲法という名前の道徳規範のようなものです。17条憲法にならって、「生き方」「国のあり方」を憲法の中に書くということは二重の意味でおかしなことになります。
①生き方や国のあり方を決めるのは国民であるが、憲法の名宛人は国民ではない
②仮に国民に憲法を守らせるとして、理想とする生き方や国のあり方は一人一人異なるものであり、それを一つの方向に無理に仕向けるのは民主主義社会とは言えない(日本近隣の某国ではありえるかもしれませんが・・・)

長くなったので、今日はこのあたりまで。