ここは、バナーラスから、北西方面に30分ほど車で走ったガンジス川の支流の一つバルナ川である。現在、朝の7時半、何とも幻想的な風景である。
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これからカウシャーンビーに行くことにしている。カウシャーンビーは、現在では寒村にすぎないが、仏陀の時代には北インドに栄えた十六大国の一つ、ヴァッツァ国の都があった。現在では多くの歴史的遺跡が発見されている。
バナーラスからは西に約170キロメートルの道のりだ。途中の120キロメートル地点にあるヒンドゥー教の聖地として有名なアラハバード市を過ぎ、更に60キロメートル先に行ったヤムナー川沿いに位置している。
アラハバードまではバナーラスから直通の列車が走っているが、その先のカウシャーンビー村へは交通機関もなくなり辺鄙な場所になる。
当初、バナーラスからアラハバードまで列車で行き、アラハバードから車をチャーターするつもりでいたが、アラハバードまでハイウェイがあることから、バナーラスから直接車でカウシャーンビー村に行く方が時間短縮になると判断した。そこで車を手配し今朝7時にホテルまで迎えに来てもらい、途中、このバルナ川沿いの運転手の自宅に忘れ物を取りに寄ったわけだ。
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さて、出発し30分程でハイウェイに乗った。前方の道路標識にアラハバードと書かれている。
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何と牛がハイウェイを横断している!
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道路の両端にはバザールなどもあり、住民も自転車や徒歩で気軽に往来している。住民だけでなく牛、ヤギ、犬なんでもありである。インドのハイウェイは、実質一般道と変わらないではないか。やれやれ、前の車はナンバープレートなしで走っている。
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一番の驚きは、車が数珠つなぎで逆走して来たことだ。写真ではわかりにくいが、ここも片側2車線なので、対向車は当然右手の草に覆われている中央分離帯の向こうを走らなければならない。更に驚きは、逆走する車を追い越そうとして猛スピードで正面に突っ込んで来る逆走車がいることである。
しかし、我が運転手はまったく動じずクラクションを鳴らしパッシングしながら、いつものことだと言って力強くアクセルを踏み進んでいく。
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そもそもハイウェイの出入り口が走行車線側にしかないのに、中央分離帯を作っているため、所々にある分離帯の切れ目からUターンして目的の出口に向かわざるを得ないのが実情のようだ。
さて、デンジャラスハイウェイは、アラハバード市内を通らず大きく北側に迂回して、西に向かっている。我々は、迂回後しばらくしてハイウェイを降り、一般道(田舎道)を西南方面に向かう。人や自転車の往来が多くなってきた。
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時刻はもうすぐ11時半になろうとしている。何故これほど時間がかかるのか。。商店が並んでいるので車を停めて休憩する。お昼を食べる時間はなさそうなので、バナナ(20ルピー)を買っておく。
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途中踏切があり、列車通過のため停まったが、だいぶ待たされた。歩行者と自転車は時間が長く待ちくたびれたのか、踏切内に入ってしまっている。危険だ。
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運転手は道路地図を持っていないようで、その都度、窓を開けて地元民に道を訪ねている。何度も人に聞きながら、結局到着したのは12時過ぎであった。そもそもハイウェイ効果があったのだろうか。とは言えこのインドで日本人の時間感覚は通用しない。気にするとストレスが溜まるだけだ。一般道から左方面に坂道を登っていくと、一面見晴らしの良い丘が広がっている。
左手数十メートル先に、アショーカ王柱が見えてきた。どうやらようやくカウシャーンビー村に到着したようだ。中国・唐時代に盛名を馳せた玄奘三蔵(602~664)によると、「城の東南遠からざる所にゴーシタ長者の園があり、中に卒塔婆がある。これは無憂王(アショーカ王)が建てたもので高さ200余尺ある。如来はここで数年間説法された」と記録している。
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アショーカ王柱とは、紀元前3世紀、インド亜大陸を最初に統一したマウリヤ王朝のアショーカ王が仏陀により説かれた法(ダルマ)による国家統治を行うべく、仏教保護に関する方針や政治理念、仏教教団の戒律、領民の生活の上で守るべき事項など様々な内容を王の法勅文として円柱に刻んだもの。高さは15メートル程で、柱頭にはインド四聖獣(象・牡牛・馬・獅子)等が載せられていた。領内各地に30基余り建てたと言われている。
さて、このアショーカ王柱は先端が折れた7メートルほどの高さである。王柱の周りは、一面コンクリートで固められ、鉄柵で覆われているが、その鉄柵はあちこち壊れており、遺跡保護にはなっていない。周りを見ても売店もないし物売りもいない。また観光客らしい人もいない。ただ小遣いをしつこく要求する子供たちが数人遊んでいるだけである。
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王柱の周りには、煉瓦積みの遺跡が広がっている。ゴーシタ園の跡であろうか。
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案内版があったが、残念ながら何が書いているのかわからない。
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こちらにも英語の表示がない。
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残された資料によると、仏陀は悟りを開いてから6年目と9年目にこのカウシャーンビーを訪れるなど、仏教修道の中心地に位置付けていた。そして、ここにはバダリカ園、クックタ園、ゴーシタ園、パーヴァーリヤのマンゴー林と4つの施設があり、仏陀は、これらいずれかの施設において多くの説法を行ったとされている。
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子供たちに4つの施設名を言ってみると、東南方向の道を行けと指さした。しばらくあぜ道を歩いていくと、丘の谷間のそばに遺跡が現れた。
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煉瓦がきれいに積まれている。かなり広範囲に広がっている。
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また丘に面しているため、階段状に遺跡が連なっている。
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更に東側の丘の上からあぜ道を下っていくと、丘の下に向けて煉瓦が伸びている。煉瓦は階段状に積まれており、下に降りることができる。丘全体を取り込んで、建物が建っていたのだろう。
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遺跡のある丘の向こうには、農地が広がっている。なんとものどかな風景である。よく遺跡が残っている。修復されていると思われるが、観光客がほとんど来ないことも良く保存されている理由ではないだろうか。ヤムナー川沿いに都城跡があるはずなのだが、このあたりからはヤムナー川は見えない
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西に向かうと右手に寺院が見えて来た。
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寺院を過ぎると民家らしき建物が何件か見えてきた。
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子供たちが遊んでいるが、裸の子供が多い。
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数件の民家を抜けるとその先は坂道になってヤムナー川が見える。
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女性たちが洗濯をしているようだ。
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このあたりには遺跡らしいものが見えないため、一旦戻り寺院を見学する。塔の下に窓があり覗いてみると、大理石であろうか、60センチメートルほどの高さの柱の四面に立像が彫られている。裸像なのでジャイナ教であろう。すると老人が仏陀、仏陀と言いながら近づいてくる。布に包まれたものを持参し見てくれと言っているようだ。布の中からは、仏像のつま先部分が現れた。老人の宝物らしい。お布施を渡してその場を立ち去る。
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振り向くと運転手は何やら老人と話していたが、もう少し西に遺跡があるらしく、アショーカ王柱そばの最初の通りに戻り車で移動する。西に数十メートル戻り、南に行くと、小高い丘に蛇行して遺跡が繋がっているのが見えた。周りは一面畑である。
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車を降りて歩いて行くとヤムナー川沿いに都城跡と思われる遺跡が広がっていた。
インド十六大国の一つであったヴァッツァ国の首都カウシャーンビーは、ガンジス川中・下流域に位置する6大都市(※)の一つとして繁栄していたと言う。
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(※)6大都市・・チャンパー(アッガ国)、ラージギル(マガダ国)、シュラーヴァスティー(コーサラ国)、サーケータ(コーサラ国)、バナーラス(カーシー国)、カウシャーンビー(ヴァッツァ国)
ヴァッツァ国のウダヤナ王は深く仏陀に帰依していた。仏陀が母の摩耶夫人に説法するため三十三天に昇りこの地を去った際、ウダヤナ王は、仏を拝することができず、仏陀の像を作って祀ったと言われている。これが仏像建立の起源とされている。なお、有名な清凉寺式の生身像は優填(うてん)王思慕像とも言われるが、この際作られた伝承像を模したものであり、優填王とは、このウダヤナ王のことである。
また、ここは仏陀の弟子であったビンドラ・バラダージャ(賓頭盧(びんづる)尊者)の生誕地でもある。
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崖沿いに張り出して遺跡が見える。
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回り込み覗くと防塁の跡のように見える。
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ヤムナー川側から遺跡方向を眺めてみる。あちらこちら不自然に土地が隆起している。長い年月を経てヤムナー川も浸食が進んだであろうが、まだ多くの遺跡が埋もれている可能性はある。かつて大都市として栄えたカウシャーンビーは、現在ではまったくの廃墟であった。。
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時刻は既に14時半である。予想以上に往路に時間がかかった。アラハバードの博物館を見学するつもりだったが、この時間では無理であろう。車に乗り込む前に、振り返ると、山羊たちが歩いてくる。見送りしてくれているようだ。
カウシャーンビー村の遺跡群は、見ごたえがあった。大満足である。運転手もこの場所のことはまったく知らなかったらしく、これだけの規模の遺跡にも関わらず観光客が来ないのはもったいない。もっと宣伝すれば良いと話していた。
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さて、アラハバードに向け車を走らせると、市内が近付くにつれ、混雑が激しくなってきた。
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寺院だろうか。豪華な城門が見える。
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リキシャの往来が激しくなっているのも渋滞の要因だろう。
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16時になった。カウシャーンビー村から約60キロメートルの距離に対して既に3時間半かかっている。お土産屋さんかな?
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アラハバード博物館は断念してアラハバードのサンガムに行くことにした。サンガムとは、ガンジス川とヤムナー川の2つの大河に加え、地下を流れているとされるサラスワティー川も加えて3つの聖なる大河が合流する地を指すのだと言う。
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このサンガムの地は、ヒンドゥー教徒にとっての最大の聖地であり、12年に一度、クンブ・メーラ(水瓶の祭り)が開催され、インド全国から100万人に及ぶ巡礼者が訪れる。来年1月がその開催年にあたっており、まわりには、多くの巡礼者用のテントが準備されている。
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どうやら到着したようだ。多くのオートリキシャと車が停まっている。
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やはり聖地なのだろう。多くの人がいるにも関わらず、皆静かに時を過ごしている。夕日を浴びたヤムナー川は印象的であった。
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多くの船が停泊している。10分ほど散策したのち、バナーラスに戻った。
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(2012.11.18)
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これからカウシャーンビーに行くことにしている。カウシャーンビーは、現在では寒村にすぎないが、仏陀の時代には北インドに栄えた十六大国の一つ、ヴァッツァ国の都があった。現在では多くの歴史的遺跡が発見されている。
バナーラスからは西に約170キロメートルの道のりだ。途中の120キロメートル地点にあるヒンドゥー教の聖地として有名なアラハバード市を過ぎ、更に60キロメートル先に行ったヤムナー川沿いに位置している。
アラハバードまではバナーラスから直通の列車が走っているが、その先のカウシャーンビー村へは交通機関もなくなり辺鄙な場所になる。
当初、バナーラスからアラハバードまで列車で行き、アラハバードから車をチャーターするつもりでいたが、アラハバードまでハイウェイがあることから、バナーラスから直接車でカウシャーンビー村に行く方が時間短縮になると判断した。そこで車を手配し今朝7時にホテルまで迎えに来てもらい、途中、このバルナ川沿いの運転手の自宅に忘れ物を取りに寄ったわけだ。
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さて、出発し30分程でハイウェイに乗った。前方の道路標識にアラハバードと書かれている。
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何と牛がハイウェイを横断している!
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道路の両端にはバザールなどもあり、住民も自転車や徒歩で気軽に往来している。住民だけでなく牛、ヤギ、犬なんでもありである。インドのハイウェイは、実質一般道と変わらないではないか。やれやれ、前の車はナンバープレートなしで走っている。
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一番の驚きは、車が数珠つなぎで逆走して来たことだ。写真ではわかりにくいが、ここも片側2車線なので、対向車は当然右手の草に覆われている中央分離帯の向こうを走らなければならない。更に驚きは、逆走する車を追い越そうとして猛スピードで正面に突っ込んで来る逆走車がいることである。
しかし、我が運転手はまったく動じずクラクションを鳴らしパッシングしながら、いつものことだと言って力強くアクセルを踏み進んでいく。
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そもそもハイウェイの出入り口が走行車線側にしかないのに、中央分離帯を作っているため、所々にある分離帯の切れ目からUターンして目的の出口に向かわざるを得ないのが実情のようだ。
さて、デンジャラスハイウェイは、アラハバード市内を通らず大きく北側に迂回して、西に向かっている。我々は、迂回後しばらくしてハイウェイを降り、一般道(田舎道)を西南方面に向かう。人や自転車の往来が多くなってきた。
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時刻はもうすぐ11時半になろうとしている。何故これほど時間がかかるのか。。商店が並んでいるので車を停めて休憩する。お昼を食べる時間はなさそうなので、バナナ(20ルピー)を買っておく。
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途中踏切があり、列車通過のため停まったが、だいぶ待たされた。歩行者と自転車は時間が長く待ちくたびれたのか、踏切内に入ってしまっている。危険だ。
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左手数十メートル先に、アショーカ王柱が見えてきた。どうやらようやくカウシャーンビー村に到着したようだ。中国・唐時代に盛名を馳せた玄奘三蔵(602~664)によると、「城の東南遠からざる所にゴーシタ長者の園があり、中に卒塔婆がある。これは無憂王(アショーカ王)が建てたもので高さ200余尺ある。如来はここで数年間説法された」と記録している。
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アショーカ王柱とは、紀元前3世紀、インド亜大陸を最初に統一したマウリヤ王朝のアショーカ王が仏陀により説かれた法(ダルマ)による国家統治を行うべく、仏教保護に関する方針や政治理念、仏教教団の戒律、領民の生活の上で守るべき事項など様々な内容を王の法勅文として円柱に刻んだもの。高さは15メートル程で、柱頭にはインド四聖獣(象・牡牛・馬・獅子)等が載せられていた。領内各地に30基余り建てたと言われている。
さて、このアショーカ王柱は先端が折れた7メートルほどの高さである。王柱の周りは、一面コンクリートで固められ、鉄柵で覆われているが、その鉄柵はあちこち壊れており、遺跡保護にはなっていない。周りを見ても売店もないし物売りもいない。また観光客らしい人もいない。ただ小遣いをしつこく要求する子供たちが数人遊んでいるだけである。
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遺跡のある丘の向こうには、農地が広がっている。なんとものどかな風景である。よく遺跡が残っている。修復されていると思われるが、観光客がほとんど来ないことも良く保存されている理由ではないだろうか。ヤムナー川沿いに都城跡があるはずなのだが、このあたりからはヤムナー川は見えない
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このあたりには遺跡らしいものが見えないため、一旦戻り寺院を見学する。塔の下に窓があり覗いてみると、大理石であろうか、60センチメートルほどの高さの柱の四面に立像が彫られている。裸像なのでジャイナ教であろう。すると老人が仏陀、仏陀と言いながら近づいてくる。布に包まれたものを持参し見てくれと言っているようだ。布の中からは、仏像のつま先部分が現れた。老人の宝物らしい。お布施を渡してその場を立ち去る。
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インド十六大国の一つであったヴァッツァ国の首都カウシャーンビーは、ガンジス川中・下流域に位置する6大都市(※)の一つとして繁栄していたと言う。
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ヴァッツァ国のウダヤナ王は深く仏陀に帰依していた。仏陀が母の摩耶夫人に説法するため三十三天に昇りこの地を去った際、ウダヤナ王は、仏を拝することができず、仏陀の像を作って祀ったと言われている。これが仏像建立の起源とされている。なお、有名な清凉寺式の生身像は優填(うてん)王思慕像とも言われるが、この際作られた伝承像を模したものであり、優填王とは、このウダヤナ王のことである。
また、ここは仏陀の弟子であったビンドラ・バラダージャ(賓頭盧(びんづる)尊者)の生誕地でもある。
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アラハバード博物館は断念してアラハバードのサンガムに行くことにした。サンガムとは、ガンジス川とヤムナー川の2つの大河に加え、地下を流れているとされるサラスワティー川も加えて3つの聖なる大河が合流する地を指すのだと言う。
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このサンガムの地は、ヒンドゥー教徒にとっての最大の聖地であり、12年に一度、クンブ・メーラ(水瓶の祭り)が開催され、インド全国から100万人に及ぶ巡礼者が訪れる。来年1月がその開催年にあたっており、まわりには、多くの巡礼者用のテントが準備されている。
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やはり聖地なのだろう。多くの人がいるにも関わらず、皆静かに時を過ごしている。夕日を浴びたヤムナー川は印象的であった。
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