カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インドへの旅(その4)カウシャーンビー

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
ここは、バナーラスから、北西方面に30分ほど車で走ったガンジス川の支流の一つバルナ川である。現在、朝の7時半、何とも幻想的な風景である。
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これからカウシャーンビーに行くことにしている。カウシャーンビーは、現在では寒村にすぎないが、仏陀の時代には北インドに栄えた十六大国の一つ、ヴァッツァ国の都があった。現在では多くの歴史的遺跡が発見されている。

バナーラスからは西に約170キロメートルの道のりだ。途中の120キロメートル地点にあるヒンドゥー教の聖地として有名なアラハバード市を過ぎ、更に60キロメートル先に行ったヤムナー川沿いに位置している。
アラハバードまではバナーラスから直通の列車が走っているが、その先のカウシャーンビー村へは交通機関もなくなり辺鄙な場所になる。

当初、バナーラスからアラハバードまで列車で行き、アラハバードから車をチャーターするつもりでいたが、アラハバードまでハイウェイがあることから、バナーラスから直接車でカウシャーンビー村に行く方が時間短縮になると判断した。そこで車を手配し今朝7時にホテルまで迎えに来てもらい、途中、このバルナ川沿いの運転手の自宅に忘れ物を取りに寄ったわけだ。
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さて、出発し30分程でハイウェイに乗った。前方の道路標識にアラハバードと書かれている。
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何と牛がハイウェイを横断している!
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道路の両端にはバザールなどもあり、住民も自転車や徒歩で気軽に往来している。住民だけでなく牛、ヤギ、犬なんでもありである。インドのハイウェイは、実質一般道と変わらないではないか。やれやれ、前の車はナンバープレートなしで走っている。
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一番の驚きは、車が数珠つなぎで逆走して来たことだ。写真ではわかりにくいが、ここも片側2車線なので、対向車は当然右手の草に覆われている中央分離帯の向こうを走らなければならない。更に驚きは、逆走する車を追い越そうとして猛スピードで正面に突っ込んで来る逆走車がいることである。
しかし、我が運転手はまったく動じずクラクションを鳴らしパッシングしながら、いつものことだと言って力強くアクセルを踏み進んでいく。
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そもそもハイウェイの出入り口が走行車線側にしかないのに、中央分離帯を作っているため、所々にある分離帯の切れ目からUターンして目的の出口に向かわざるを得ないのが実情のようだ。

さて、デンジャラスハイウェイは、アラハバード市内を通らず大きく北側に迂回して、西に向かっている。我々は、迂回後しばらくしてハイウェイを降り、一般道(田舎道)を西南方面に向かう。人や自転車の往来が多くなってきた。
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時刻はもうすぐ11時半になろうとしている。何故これほど時間がかかるのか。。商店が並んでいるので車を停めて休憩する。お昼を食べる時間はなさそうなので、バナナ(20ルピー)を買っておく。
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途中踏切があり、列車通過のため停まったが、だいぶ待たされた。歩行者と自転車は時間が長く待ちくたびれたのか、踏切内に入ってしまっている。危険だ。
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運転手は道路地図を持っていないようで、その都度、窓を開けて地元民に道を訪ねている。何度も人に聞きながら、結局到着したのは12時過ぎであった。そもそもハイウェイ効果があったのだろうか。とは言えこのインドで日本人の時間感覚は通用しない。気にするとストレスが溜まるだけだ。一般道から左方面に坂道を登っていくと、一面見晴らしの良い丘が広がっている。

左手数十メートル先に、アショーカ王柱が見えてきた。どうやらようやくカウシャーンビー村に到着したようだ。中国・唐時代に盛名を馳せた玄奘三蔵(602~664)によると、「城の東南遠からざる所にゴーシタ長者の園があり、中に卒塔婆がある。これは無憂王(アショーカ王)が建てたもので高さ200余尺ある。如来はここで数年間説法された」と記録している。
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アショーカ王柱とは、紀元前3世紀、インド亜大陸を最初に統一したマウリヤ王朝のアショーカ王が仏陀により説かれた法(ダルマ)による国家統治を行うべく、仏教保護に関する方針や政治理念、仏教教団の戒律、領民の生活の上で守るべき事項など様々な内容を王の法勅文として円柱に刻んだもの。高さは15メートル程で、柱頭にはインド四聖獣(象・牡牛・馬・獅子)等が載せられていた。領内各地に30基余り建てたと言われている。

さて、このアショーカ王柱は先端が折れた7メートルほどの高さである。王柱の周りは、一面コンクリートで固められ、鉄柵で覆われているが、その鉄柵はあちこち壊れており、遺跡保護にはなっていない。周りを見ても売店もないし物売りもいない。また観光客らしい人もいない。ただ小遣いをしつこく要求する子供たちが数人遊んでいるだけである。
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王柱の周りには、煉瓦積みの遺跡が広がっている。ゴーシタ園の跡であろうか。
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案内版があったが、残念ながら何が書いているのかわからない。
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こちらにも英語の表示がない。
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残された資料によると、仏陀は悟りを開いてから6年目と9年目にこのカウシャーンビーを訪れるなど、仏教修道の中心地に位置付けていた。そして、ここにはバダリカ園、クックタ園、ゴーシタ園、パーヴァーリヤのマンゴー林と4つの施設があり、仏陀は、これらいずれかの施設において多くの説法を行ったとされている。
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子供たちに4つの施設名を言ってみると、東南方向の道を行けと指さした。しばらくあぜ道を歩いていくと、丘の谷間のそばに遺跡が現れた。
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煉瓦がきれいに積まれている。かなり広範囲に広がっている。
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また丘に面しているため、階段状に遺跡が連なっている。
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更に東側の丘の上からあぜ道を下っていくと、丘の下に向けて煉瓦が伸びている。煉瓦は階段状に積まれており、下に降りることができる。丘全体を取り込んで、建物が建っていたのだろう。
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遺跡のある丘の向こうには、農地が広がっている。なんとものどかな風景である。よく遺跡が残っている。修復されていると思われるが、観光客がほとんど来ないことも良く保存されている理由ではないだろうか。ヤムナー川沿いに都城跡があるはずなのだが、このあたりからはヤムナー川は見えない
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西に向かうと右手に寺院が見えて来た。
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寺院を過ぎると民家らしき建物が何件か見えてきた。
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子供たちが遊んでいるが、裸の子供が多い。
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数件の民家を抜けるとその先は坂道になってヤムナー川が見える。
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女性たちが洗濯をしているようだ。
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このあたりには遺跡らしいものが見えないため、一旦戻り寺院を見学する。塔の下に窓があり覗いてみると、大理石であろうか、60センチメートルほどの高さの柱の四面に立像が彫られている。裸像なのでジャイナ教であろう。すると老人が仏陀、仏陀と言いながら近づいてくる。布に包まれたものを持参し見てくれと言っているようだ。布の中からは、仏像のつま先部分が現れた。老人の宝物らしい。お布施を渡してその場を立ち去る。
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振り向くと運転手は何やら老人と話していたが、もう少し西に遺跡があるらしく、アショーカ王柱そばの最初の通りに戻り車で移動する。西に数十メートル戻り、南に行くと、小高い丘に蛇行して遺跡が繋がっているのが見えた。周りは一面畑である。
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車を降りて歩いて行くとヤムナー川沿いに都城跡と思われる遺跡が広がっていた。
インド十六大国の一つであったヴァッツァ国の首都カウシャーンビーは、ガンジス川中・下流域に位置する6大都市(※)の一つとして繁栄していたと言う。
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(※)6大都市・・チャンパー(アッガ国)、ラージギル(マガダ国)、シュラーヴァスティー(コーサラ国)、サーケータ(コーサラ国)、バナーラス(カーシー国)、カウシャーンビー(ヴァッツァ国)

ヴァッツァ国のウダヤナ王は深く仏陀に帰依していた。仏陀が母の摩耶夫人に説法するため三十三天に昇りこの地を去った際、ウダヤナ王は、仏を拝することができず、仏陀の像を作って祀ったと言われている。これが仏像建立の起源とされている。なお、有名な清凉寺式の生身像は優填(うてん)王思慕像とも言われるが、この際作られた伝承像を模したものであり、優填王とは、このウダヤナ王のことである。
また、ここは仏陀の弟子であったビンドラ・バラダージャ(賓頭盧(びんづる)尊者)の生誕地でもある。
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崖沿いに張り出して遺跡が見える。
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回り込み覗くと防塁の跡のように見える。
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ヤムナー川側から遺跡方向を眺めてみる。あちらこちら不自然に土地が隆起している。長い年月を経てヤムナー川も浸食が進んだであろうが、まだ多くの遺跡が埋もれている可能性はある。かつて大都市として栄えたカウシャーンビーは、現在ではまったくの廃墟であった。。
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時刻は既に14時半である。予想以上に往路に時間がかかった。アラハバードの博物館を見学するつもりだったが、この時間では無理であろう。車に乗り込む前に、振り返ると、山羊たちが歩いてくる。見送りしてくれているようだ。
カウシャーンビー村の遺跡群は、見ごたえがあった。大満足である。運転手もこの場所のことはまったく知らなかったらしく、これだけの規模の遺跡にも関わらず観光客が来ないのはもったいない。もっと宣伝すれば良いと話していた。
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さて、アラハバードに向け車を走らせると、市内が近付くにつれ、混雑が激しくなってきた。
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寺院だろうか。豪華な城門が見える。
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リキシャの往来が激しくなっているのも渋滞の要因だろう。
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16時になった。カウシャーンビー村から約60キロメートルの距離に対して既に3時間半かかっている。お土産屋さんかな?
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アラハバード博物館は断念してアラハバードのサンガムに行くことにした。サンガムとは、ガンジス川とヤムナー川の2つの大河に加え、地下を流れているとされるサラスワティー川も加えて3つの聖なる大河が合流する地を指すのだと言う。
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このサンガムの地は、ヒンドゥー教徒にとっての最大の聖地であり、12年に一度、クンブ・メーラ(水瓶の祭り)が開催され、インド全国から100万人に及ぶ巡礼者が訪れる。来年1月がその開催年にあたっており、まわりには、多くの巡礼者用のテントが準備されている。
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どうやら到着したようだ。多くのオートリキシャと車が停まっている。
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やはり聖地なのだろう。多くの人がいるにも関わらず、皆静かに時を過ごしている。夕日を浴びたヤムナー川は印象的であった。
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多くの船が停泊している。10分ほど散策したのち、バナーラスに戻った。
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(2012.11.18)
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インドへの旅(その3)バナーラス

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
今朝は、夜明けのガンジス川での沐浴風景を見ようと朝5時にガイドへ車の迎えを頼んだ。ガイドは、途中別のホテルでアメリカ人女性を1名乗せて、15分ほどでガンジス川近くのゴードウリヤー交差点に到着した。この交差点からガンジス川へ続くダシャーシュワメード・ガート通り(中央分離帯がある)は、この時間は車両進入禁止であることから3人は歩いて向かった。早朝にも関わらず多くの人がガンジス川に向けて歩いて行く。
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400メートルほど歩いて通りから左側にある八百屋前の路地を抜けると目の前が開け、ガンジス川沿岸に到着した。ここは「ラージェーンドラ・プラサード・ガート(Rajendra Prasad Ghat)」で、多くの船が並ぶ船着場となっている。

ガンジス川は、ヒマラヤ山脈の南麓ガンゴートリー氷河を水源とし、インド亜大陸の北東部を流れベンガル湾へと注ぎこむ全長約2525キロメートルの大河である。バナーラス(ヴァーラーナスィー)は、上流からは約1900キロメートル地点にあたる平原地帯で、西から大きく北に曲がり込んで東に流れていく左岸に位置している。

そのガンジス川の左岸には、88のガート(川岸に設置された階段)が並んでおり、その多くは沐浴用と法会用で、内2つは火葬場として使用されている。この辺りがガートのほぼ中間地になり、すぐ南隣に沐浴者が最も多く集まる代表的なガート「ダシャーシュワメード・ガート(Dashashwamedh Ghat)」がある。まだ夜明け前のガンジス川のガートには、人が溢れかえり、あちこちで怒号の様な声も聞こえ、殺気立っている。
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バナーラス(ヴァーラーナスィー)は、ヒンドゥ教最大の聖地(中でもシヴァ神)で、多くの信者や観光客が訪れ、最もインドらしい街の一つと言われる。古くは紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃にかけてインド十六大国の一つ「カーシー王国」の首都として水運交通の中心として栄え、宗教的にはヴェーダ時代を通して修行地であった。そして紀元前4世紀には仏教を庇護したマウリヤ朝の支配を経て、その後、歴代ヒンドゥ教王朝の下で、ヒンドゥ教の聖都となり現在に至っている。

ガイドは「ボートを探すので、地元民に声をかけられても無視するように」と我々に伝えた後、その場を離れていった。時刻は午前6時近くになり、明るくなった頃、交渉が終わったのかガイドは戻って来た。我々2人は指定されたボートに乗せられた。

船頭が勢いよくオールを漕ぎ始めると、瞬くうちに混雑した岸辺を離れて、ガートに隙間なく建ち並ぶ建物が目の前に飛び込んできた。左右のピンクの塔と建物の間が「ダシャーシュワメード・ガート」である。
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ガートやガートに建ち並ぶ建物は、18世紀以降に再建されたものが多い。何故なら12世紀末からイスラムの勢力が大きくなり、仏教やヒンドゥ教などの他宗教への侵略と破壊が繰り返されてきたことによるためだ。例外的に、16世紀ムガル帝国3代アクバル皇帝が他宗教に寛容策を採ったことから一時的に再建が進んだが、その後は、再び多くの宗教施設が破壊されてしまった。18世紀に入り、ムガル帝国が弱体化したことで、台頭してきたヒンドゥ教を深く信仰するマラーター王国(1674~1849)の支援などにより再建され現在に至っている。

どのガートでも多くの人が沐浴している。川の水はかなり汚れてゴミだらけであるが、その中で洗濯をしている人もいるのは凄い。沐浴以前に、あまりの水の汚さに触れる気にならないのが正直な感想である。日本人で指を浸しただけで、お腹を壊したという話も聞く。同乗のアメリカ女性に沐浴しないのか聞いたところ、ノーサンキューと思い切り首を振られた。同感だ。
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メインガートである「ダシャーシュワメード・ガート」は、1748年、マラーター王国の宰相バラジ・バジ・ラオにより建てられ、1774年にインドール藩王国の女王アヒリヤー・バーイー(1725~1795)により再建されたもの。女王は、18世紀を代表するヒンドゥ寺院のパトロンであり、自国内外を問わず、多くの寺院の建設・復興事業に尽くしたとされる。
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シカラと呼ばれる赤い塔状の屋根がある「プラヤーグ・ガート(Prayag Ghat)」は、1778年にマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオによって建てられたもので、アラーハーバードのプラヤーガ(犠牲を捧げる地)と呼ばれた巡礼地を再現している。
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ボートは、ガンジス川の上流側に向かっている。プラヤーグ・ガートの南隣にある大きなガートは、ヒンドゥ寺院のパトロンであるインドール藩王国の女王アヒリヤー・バーイーの名前に因んだ「アヒリヤー・バーイー・ガート(AhilyaBai Ghat)」である。
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混雑するボートとオールの間をかき分け2人の男性が列になって泳いでいくのは沐浴なのだろうか。。
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南隣は「ムンシー・ガート(Munshi Ghat)」で、1812年にナーグプルの財務大臣の名前に因んで付けられた。その後、1915年、ダルバンガー(ビハール州)のバラモン王がこのガートを購入し、南隣のダルバンガー宮殿まで拡張したため、宮殿前を「ダルバンガー・ガート(Darbhanga Ghat)」と呼んでいる。美しいポーチとギリシャ風の柱を備えた豪華なダルバンガー宮殿は、1930年にチュナール砂岩で建てられたもの。
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しばらくすると、火葬場のある「ハリシュチャンドラ・ガート(Maharaja Harishchandra Ghat)」が見えてきた。火葬場は、もう1つの「マニカルニカ・ガート」が有名だが、こちらのガートは地元の人向けで、比較的規模が小さい。写真撮影は禁止なので、恐る恐る撮影するが船頭からは注意されなかった。
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こちらのガンジス川に向かって3つのポーチがある建物(ラジャスタン様式)は、1670年にウダイプルのメーワール王国(1818年からウダイプル藩王国)の王ラナ・ジャガツィンによって建てられた「ラナ宮殿」で、その前は「ラナ・マハール・ガート(Rana Mahal Ghat)」である。この辺りになると、沐浴する人々はいなくなった。
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朝日が昇ってきたが、ガスっているせいか薄暗く日暮れのようだ。水面にはキラキラと光が反射して幻想的である。ガンジス川もガートから大きく離れると、それほど汚れを感じない。対岸(東)付近には建物らしい構造物はなく、湿地帯が広がっているようだ。
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ヒンドゥ教では、ガンジス川の聖なる水で沐浴をすれば、全ての罪は洗い浄められ、死んだ後に遺灰をガンジス川に流せば、輪廻からの解脱を図ることができると言われている。この聖なる町バナーラスには年間100万人の巡礼者が訪れるという。


ボートは「ハリシュチャンドラ・ガート」の先で、Uターンして「ダシャーシュワメード・ガート」付近まで戻って来たが、通り過ぎて、次に下流に向かった。この辺りからガンジス川の流れは東側に向かって行く。
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しばらくすると、船頭の向こうにバナーラス(ヴァーラーナスィー)を代表する火葬場がある「マニカルニカ・ガート(Manikarnika Ghat)」が見えてきた。ガートには、多くの人が集まっており、寺院の前には火葬用の木材が多く積まれている。左端のジャルサーイー・ガート(Jalasen Ghat)に建つ建物前にも木材が積まれている。24時間火葬の煙は途絶えることがないとされているが、現在も2か所ほど炎が上がっているのが見える。
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「マニカルニカ・ガート」に運ばれてきた死者は、最初に大小のシカラ(塔状の屋根)が集まった「ターラケーシュワル寺院」に安置され、死者の耳にシヴァ神が救済の真言(マントラ)を囁くことで、生前で罪を犯したものも解脱できるとされる。その後死者がガンジス川に浸され、火葬の薪の上に載せられ、施主が火を付ける。遺灰は、ドーム・カーストによりガンジス川に流される。

出発してから1時間ほどボートに揺られた後、出発地点の「ラージェーンドラ・プラサード・ガート」に戻り、船頭に謝礼の50ルビーを払った。
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再び、ガイドと女性の3人でダシャーシュワメード・ガート通りをゴードウリヤー交差点方面に歩いて戻る。途中で銃を下げた警備兵が横を通って行ったので少し驚いた。。通り沿いにはヒンドゥ教寺院が見える。バナーラスには、このように大小数多くのヒンドゥ寺院があちらこちらにあり、その数は1000を越えると言われている。
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ゴードウリヤー交差点まで戻り、交差点の先に停めていた車に乗り込み出発した。時刻はそろそろ午前8時になる。
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その後、車で、市内観光に向かった。最初に、5キロメートルほど南に行ったバナーラス・ヒンドゥ大学に向かう。こちらは、大学の敷地内に建つ「シュリ・カシ・ヴィシュワナート・マンディール寺院(Shri Vishwanath Mandir)」である。寺院は、歴代のイスラム王朝により何度も破壊されたが、都度再建されている。現在の寺院は、1930年代より始まり1966年に完成したものである。

神殿の全高は77メートルあり、インドの寺院ではトップクラスの高さを誇っている。ほとんどが大理石で作られた豪華な寺院で、シヴァ寺院を中心に、ラクシュミナラヤン、ドゥルガー、ガネーシャなど、信仰する神ごとに異なる9つの寺院から構成されている。
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寺院内は白を基調とした大理石造りの美しい吹き抜けの空間があり、一面鮮やかなサンドアートで飾られていた。
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南北に延びる大通りを市内に2キロメートル戻った通りに沿って右側には、大きな四角形の池がある。その池に面して南側に赤い外観が印象的なドゥルガー寺院がある。ドゥルガーとはシヴァ神の妃の女神のことで、この寺院にはヒンドゥ教徒のみしか入れないらしい。
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池の通りを挟んで反対側には、サンカトモーチャン寺院(Sankatmochan Temple)がある。この寺院では神様ハヌマーンを祀っている。ハヌマーンはインドの叙事詩「ラーマーヤナ」で主人公ラーマを助ける猿の戦士のことで、勇敢で忠誠心を持っていると信じられている。敷地内には、多くの猿が我が物顔で動き回っていた。
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見学後、午前10時ごろホテルに戻ってきた。レストランで朝食(トーストとオムレツ、コーヒー)をとり、午後1時頃まで寝た後、ガイドのオートバイに乗せてもらい、ガートの見学に向かうことにした。オートバイに乗る際にヘルメットを要求して着用したが、インドでは、ヘルメットを着用してオートバイに乗っている人をめったに見ない。

途中道路のあちこちで牛を見かけるが、ヒンドゥ教では牛は神聖な動物として扱われ、殺したり、その肉を食したりすることは許されていないことから、自由に闊歩している。しかし臭いがきつくて辛い。。
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ゴードウリヤー交差点が近づくと、混雑してくる。皆やたらにクラクションを鳴らすため、騒音が凄い。道路は側溝などが整備されていないため埃やごみが舞い上がり息苦しくなる。花粉用メガネとマスクが必要だ。。
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ホテルからは20分程で、ようやく交通量が少なくなり、「アッスィーガート(Assi Ghat)」に到着した。このガートは、ガンジス川の最も上流で最南端に位置している。すぐ南には、西からガンジス川に流れ込むアッスィー(剣の意)川との合流地点にあたる場所である。バナーラス・ヒンドゥ大学から近いこともあり、レクリエーションや祭りでよく使用されるとのこと。この日は特に催しはなく、何人かの人が何をするわけでもなく座っている。
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ガートは全部で88あり、全部見るのは無理だが、とりあえず北方面に向けぶらぶら歩いてみる。100メートルほどで、最初に現れた大きな建物は「ガンガー・マハル・ガート(Ganga Mahal Ghat)」と呼ばれ1830年にナラヤン王朝の宮殿として建てられた。現在は海外情報発信の教育機関として使われている。
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上部に青いアーケードが並び左右にポーチがある建物には、ヴィシュヌ派の聖人トゥルシーダース(Tulsidas、1532~1623)が住んでいたことから、このガートを「トゥルシーガート(Tulsi Ghat)」と呼ばれている。彼は16~17世紀にかけての宗教詩人で、ヒンドゥ教の聖典の一つ、古代インドの大長編叙事詩「ラーマーヤナ」から、1584年頃、宗教的大詩篇「ラームチャリットマーナス(ラーマの行跡の湖の意)」を完成させた。これはヒンドゥ教における最も大きな影響を与えた偉大な書として知られており、現在も各地で劇としても催されている。建物内には彼の履物が残されている。なお、近隣にある「サンカトモーチャン寺院」は、彼が設立した寺院である。
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洗濯ものが並ぶ「プラブー ガート(Prabhu Ghat)」で少し、ガートに座り、ガンジス川を眺めてみた。街の喧騒から離れて心をリラックスできる最高の場所だと思った。
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隣の、城門を思わせる巨大なムガル様式の赤い建物が建つガートは「チェート・スィン・ガート(Chait Singh Ghat)と言い、18世紀、バナーラス藩王国の藩主チェート・スィン(Chait Singh)(在位:1770~1810)により建てられたもの。このガートを過ぎると町に向かう道が伸びている。
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一旦、ガートを離れ町にある「イーバカフェ(Iba Cafe)」という日本人が経営するレストランに向かった。
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お昼をだいぶ過ぎたためか、他にお客はいなかった。日本人は厨房にいるのか、注文を聞きに来たのはインド人女性であった。
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丼物が中心のようで、時間も昼をだいぶ過ぎていたので、少し軽めに野菜天丼(295ルピー)を頼んだ。付け合せに生野菜が出てきたが、このカフェの評判を事前に聞いていたので、迷わず食べた。その後もお腹は快適だった。
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再びガートに戻る。「ニランジャンーガート(Niranjani Ghat)」を過ぎるとなだらかなガートが続く広い場所で、前方のネパール国王が建てたガート「シヴァーラー・ガート(Shivala Ghat)」水辺では牛が水浴びをしている。その先の「グルリアー・ガート(Gularia Ghat)」には、やたら人がたむろしている。
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シンプルで長い白い建物の前のガートは「ハヌマーン・ガート(Hanuman Ghat)」で18世紀に造られた。壁面には猿の顔が描かれている。
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20ほどのガートを過ぎると火葬場「ハリシュチャンドラ・ガート」に到着した。写真撮影は禁止なので、この位置からが限界。3か所で薪が組まれ、その上に全身を布で纏った死体が乗せられ、炎につつまれていた。地元の人々や観光客が集まっていた。
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地元の子供たちが、すぐ近くで遊んでいる。子供たちを含め、地元の人々にとってみると日常的な風景なのだろう。本来、このように生と死は別のものでなく隣同士の関係である。昔は、特に日本の田舎でも日常的に見かける風景であった。ガンジス川に目を向けると、ボートから、遺灰を河に流している様子が見え、人間の儚さをあらためて感じてしまう。
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燃えかけの巨木と灰の前に座るサドゥーと観光客の周りに人々が取り囲んでいる。何を話しているのだろう。サドゥーとは、ヒンドゥ教におけるヨガの実践者や放浪する修行者のことをいう。ほとんど裸に近いかっこうで、からだに白い灰を塗って町中を歩いている。
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朝来た「ダシャーシュワメード・ガート」付近まで歩いたようだ。この時間は、どのガートでも人出は少なく散歩には最高だった。
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その後、Uターンして、アッスィーガートに戻り、しばらく待ち、迎えのオートバイで、再び「ダシャーシュワメード・ガート」に行き、夜はプジャーと呼ばれるヒンドゥの踊りを見学した。プジャーとは、神像礼拝の儀礼で、供物を神像に直接ささげ礼拝する祭式だそうだ。
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プジャーの儀式を15分ほど見学した後、ダシャーシュワメード・ガート通りを歩と、朝は気が付かなかったが、あちこちにシルクショップがある。バナーラスは、高級シルクの町で有名でシルクの歴史も古い。仏陀がまだ王子ゴータマ・シッダールタだった頃、カーシー(バナーラス)産で出来た美しい絹の衣を愛用していたとされる。ただし、この辺りは観光客向けで値段が高い。。
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午後8時半になったので、オートバイに乗りホテル近くの昨日行ったレストランに夕食を食べに行く。この日は、麺が食べたくなり、フライヌードルを食べた。カレーとケチャップを使った2種類のソースで、味は普通。その後、ホテルに帰った。
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*****************************

アッスィーガートからガンジス河を2キロメートルほど上流(南)行った対岸にラームナガル城(Ramnagar Fort)に行ってみる。ラームナガル城は、バナーラス藩王国を樹立した藩主バルワント・シング(1711~1770)により1750年にムガル様式で建てられた。「チェート・スィン・ガート(Chait Singh Ghat)の藩主チェート・スィン(Chait Singh)は、彼の息子である。渡し舟(交渉し往復150ルピー)を雇って対岸に向かう。


城は雨季のガンジス川の増水にも浸水しないように、煉瓦を高く積み上げた砦の上に建てられている。


乗船時間は概ね15分ほどであった。


下船して、坂を上ると、すぐに大きなアーチ門が現れる。門前には川魚を並べ販売している商人の姿が見られた。門は古びているが、上部には、近年塗りなおされたのか鮮やかな紫に彩色されている。チャトリー(小亭)が並んでいる姿は典型的なムガル建築である。


入口を入ると、広い中庭が現れる。ダーバーホール(宮廷の謁見の間)と公衆聴衆ホールは現在、博物館として公開され、館内には、アメリカのビンテージカー、宝石で飾られた椅子、象牙細工、中世の衣装などのコレクションが展示されているが、保存状態があまり良くない印象だ。


城内には、ヴェーダ・ヴィヤーサ寺院、博物館、及び王の住居から構成されている。ハヌマーンのダクシン・ムキ寺院も南に面して建っている。中庭には、18世紀頃のものだろうか大砲が置かれている。城内は綺麗に清掃されているのが良かった。


藩主(マハラジャ)城に居る際は、旗が掲げられるそうだ。なお、王室称号は既に廃止されている。


砦からはガンジス川が一望でき気持ちが良い。

(2012.11.16)
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インドへの旅(その2)サールナート

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
ニューデリーからの夜行列車は、1時間遅れで無事バナーラスに到着し予定のホテルに向かった。場所は、バナーラス・ジャンクション駅から1キロほど北、ザ・モール・ロードから100メートルほど入ったところにあるMMコンチネンタルである。
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チェックインをして、シャワーを浴びた後、11時半にホテルを出て、車でサールナートに向かう。
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サールナートは、バナーラス郊外の北方10キロメートルに位置しており、ブッダ・ガーヤーで悟りを開いた仏陀が最初に訪れた地である。一緒に苦行に励んでいた5人の比丘たちが、サールナートにいたことから、最初に教えを説こうとしたのだろう。ちなみにサールナートとは、サーランガナータ(鹿の主)に由来しているという。当時は、イシパタナの鹿野苑(ろくやおん)と呼ばれていた。このサールナートは初転法輪の地として、誕生の地ルンビニー、成道の地ブッダ・ガヤー、涅槃の地クシーナガルとともに仏陀の4大聖地と言われている。「大般涅槃経」では、4つの仏陀の記念すべき場所をあげ、その聖地を巡礼する功徳が説かれている。

30分ほどで、サールナートに着き、最初に考古学博物館に行った(5ルビー)。ゲートを入りすぐ右手の小屋に荷物を預ける必要がある。館内は残念ながら写真禁止であった。
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ゲートを入り数十メートル先が、博物館である。博物館入口には、更にセキュリティチェックをするためのゲートがあり、その先にアショーカ王柱(4つ頭の獅子像)がある。
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獅子像は、想像していた以上に大きい。台座の上にあるため、観光客は、像の周りを取り囲んで、獅子を見上げている。像は下から、蓮弁装飾、法輪・象・牡牛・馬・獅子を浮彫にした冠盤の柱頭部分と、その上に背中合わせに配置された4頭の獅子像からなっている。現在この獅子像はインド共和国の紋章になっている。像の表面はよく磨かれており、とても美しい。一瞬大理石かと見まがうが、バナーラス近郊のチュナール産黄灰色砂岩を研磨したもので、紀元前3世紀のものである。

この博物館は、このアショーカ王柱が置かれている正面の展示室と左右に1か所づつ展示室がある。向かって左の展示室奥に博物館を代表する仏陀の初転法輪像がある。台座には、5人の比丘と法輪、鹿が2頭彫られており、その上に柔らかい表情をした仏陀が坐っている。近づくと、三帰依文(Buddham saranam gacchami Dhammam saranam gacchami Sangham saranam gacchami)が、力強く低い声で返し唱えられている。それにしてもすばらしい像である。この博物館は、展示物はさほど多くはないが、どれも秀作であり、なかでも、このアショーカ王柱と初転法輪像は群を抜いている。この2点を見学できただけでも、ここまで来る甲斐があったと思った。

その後、博物館から出て、出店が並んでいるダルマパル・ロードを600メートル程東に歩くと左手にムールガンダ・クティー寺院が見えてくる。
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ムールガンダ・クティー寺院は、日本語で「根本香積堂」と紹介されている。この地は、仏陀が弟子たちと最初の雨安吾(うあんご)を過ごしたとされる場所である。1931年に建てられた。
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堂内に入ると、本尊として黄金の釈迦座像が据えられている。サールナート考古学博物館の初転法輪座像のレプリカとのことだが、正直まったく似ても似つかない。
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堂内には、野生司香雪(のうすこうせつ)氏による仏陀の生涯(30の画題)を描いた壁画がある。1936(昭和11)年作であり、すでに70年以上が経過している。
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野生司香雪氏の絵は、線が細くソフトであるせいか穏やかな気持ちにさせてくれる。どこか女性漫画家を連想させるタッチでもある。
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寺院の周りを取り囲むように、仏陀の言葉が刻まれた石碑が4箇所あった。石碑には、ヒンディー、英、シンハラ、日本語の4カ国語で書かれている。石碑は、新しいものであるが、それぞれの言葉には、力強い仏陀の言葉が刻み込まれている。
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その後、ダメーク・ストゥーパ・モニュメントサイトの敷地内に向かう。入口は、考古学博物館の近くにあるため、歩いて来た道を西に戻る。入場料は100ルビーだが、これは外国人旅行者料金であり、インド人は5ルビーとかなりの料金差がある。敷地内に入ると、右手遠方(東)に、ダメーク・ストゥーパが見える。最初に左の道を北方面に右遠景のダメーク・ストゥーパを見ながら歩いていく。
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しばらく歩くと、鉄の柵に囲まれた、アショーカ王柱が見えてくる。高さは2メートル、直径70センチほどの基部である。かつては、石柱の上に、考古学博物館にある4つ頭の獅子像があったが、現在は3本に折れてしまった基部のみが保存されている。
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通路から離れて遺跡内を東に歩き遺跡を回り込むと、ムーラガンダクティーと書かれた説明版があった。仏陀が、座禅・瞑想をしていた場所であるという。この遺構は、5世紀グプタ朝時代に、建てられた巨大な精舎跡である。当時の精舎は、1辺18.29メートル、高さが61メートルあったが、現在は、その1階部分のみが残っている。正面の階段を上ると、祠堂跡があり、その左手には、2階へ上がる階段が残されている。
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ムーラガンダクティーの南側には、ダルマラジーカ・ストゥーパの基壇がある。ここは、仏陀が5人の比丘に初めて説法をした場所と言われている。7世紀にここを訪れた玄奘三蔵は、ストゥーパの高さは30メートルほどあったと記録しているが、1794年ヴァーラナシー王により破壊されて現在は基壇だけとなっている。各国から訪れた信者たちは、経を唱え、基壇の周りを歩いている。
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ダルマラジーカ・ストゥーパの基壇のそばでは読経姿の僧侶が見える。その奥には巨大なダメーク・ストゥーパが聳えている。
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ムーラガンダクティーの東側は、グプタ朝時代に建立されたパンチャタン寺院がある。直径5メートル、高さ1メートルほどの竃のような小寺院だ。この場所で、5人の高僧が集まり、教団を乱す破戒僧を裁いたといわれる。
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その後、ダメーク・ストゥーパに向かう。直径は28.3メートル、高さ31.3メートルある巨大な円錐形のストゥーパである。ここで仏陀は5人の比丘に初めて説法した場所であると言う。このストゥーパはアショーカ王時代に時代に創建され、グプタ朝時代に現在の姿になったという。
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塔の中ほどには、仏像が飾られていた龕がある。その周りには、ハスの花や幾何学模様などのデザインがほどこされている。ここにも多くの仏教僧や巡礼者が経を唱えていた。
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遺跡の北側は鹿公園となっており柵で仕切られている。数頭の鹿が餌をほしがっているのか、柵の近くまで来ていた。
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他にも多くの遺跡があるが、MONASTERY3、MONASTERY4との表示があるだけで説明書きはない。遺跡内は静かで、穏やかである。何組ものカップルがベンチや遺跡に腰かけている。
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敷地内の中央には、東西にかけて深く掘り下げられた広い空間があり、そこにも多くの遺跡が残されている。
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その後、遺跡を出て、チャウカーンディ・ストゥーパに行くため南に向け歩く。地図を見ると1キロメートルほどのようだ。すると右手奥に巨大な仏像が見える。
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入場のためのゲートは特にない。近づいてみる。
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右手に寺院がある。ここは、タイ寺院(Wat Thai Temple)である。
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寺院を覘くと、本尊として椅像姿の仏像が祀られていた。椅像は両脇を持たない単身仏だが、背後の左右の大理石の波模様が脇侍を配しているかのように見える。
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再び道路に戻ると、リキシャから「乗れ・乗れ」と声をかけられるが、無視して歩いて行く。
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10分ほどで右前方に、ストゥーパの上に八角形の煉瓦造りの建物が建っているチャウカーンディ・ストゥーパが見えてきた。このストゥーパは、仏陀がブッダ・ガヤーで悟りを開き、サールナートに初めて訪れた時に5人の比丘たちと再会した場所と言われている。
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八角形の煉瓦造りの建物は、ムガール帝国のアクバル王の時代に、父フマーユーン王がこの地を訪れたことを記念して1588年に建てられたもので、現在周りは公園になっている。ダメーク・ストゥーパ・モニュメントサイト遺跡の中心からはやや離れているせいか観光客らしい姿は見えない。近くの親子づれやお年寄りが公園のベンチに数人座っているだけである。
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頂上の煉瓦造りの建物を見ると、数人の少年がいたので上れるようだ。ストゥーパの後ろに回り込むと、ところどころ崩れてはいるが、右回りになだらかな煉瓦道が続いている。
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数分で頂上の建物に着いた。中を覗き込むと中心部に小さな石の塊が6個ある。ストゥーパを模したものなのか、それともリンガなのかはよくわからない。
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良い眺めである。北方面を眺めると一面木々に覆われており、中央にダメーク・ストゥーパの頂部が見える。眺めの良さに見とれ、しばらく座り込みサールナートの風景を眺めた後、16時半に、車でサールナートを後にし、バナーラスのホテルに戻った。
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昼抜きであったので、お腹がすいた。近くのレストランでビールを頼みチキンカリーを食べる(365ルビー)。
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(2012.11.15)
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インドへの旅(その1)ニューデリー

2013-03-13 | インド(仏跡)(その1)
成田空港を11月13日(火)16時55分に出発、上海で乗り換え、翌日2時5分にインディラ・ガンジー国際空港に到着した。今回は予め、空港からデリー市内までの送迎、送迎後のホテルの宿泊、及び列車のチケット(バナーラスまで)は、現地の旅行会社に予約しておいた。
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空港からの迎えの車に乗りパハールガンジにある旅行会社に向かい、事務所で両替(1ルビーは約1.53円)してもらい、紹介ホテル(Cottage Good day)に送ってもらう。休息後、市内観光に出かけることにした。現在11時である。
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パハールガンジは、ニュー・デリー駅のすぐ西側に位置している。ここは、格安のホテル、ゲストハウスの他にもレストラン、売店、ネットカフェ、服屋、土産物屋などの店が軒を連ねていることから、バックパッカーや個人旅行者が多く集まるところ。午前中にも係わらず町は独特のディープさを感じる。さてこのパハールガンジ(メインバザール)を東方面に歩くと、
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正面がニュー・デリー駅である。ここから、今夜の20時40分発バナーラス(ベナレス)・ジャンクション行きの夜行列車に乗ることとしている。
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歩いてきたパハールガンジを振り返ってみる。角の建物の2階は壁が崩れている。危険じゃないのだろうか。。ところで正面に停まっているオート三輪はオートリキシャと言い、インドでは主要な交通手段だ。インドを旅した人なら解ると思うが、町を歩いていると、オートリキシャから乗車の勧誘を何度も受けるのである。彼らは高額な運賃を提示してくるので、交渉の上、相場価格にして乗車するのが現地のルールだ。
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ニュー・デリー駅前の通りを南に歩くと、駅から長蛇の行列が続いている。チケットを買うための列なのだろうか。インドの鉄道は総延長は62.000キロメートルを超える世界第5位(アメリカ・ロシア・カナダ・中国に次ぐ)の鉄道大国だが、このインドで鉄道チケットを入手するのはなかなか大変なのである。これは、乗車を希望する人の数に対して鉄道の運行能力が追い付かないからだ。インド鉄道は、外国人に対する利便性を考え、大きな駅には、専用窓口を設けているが、全体の席数も限られていることから早めに予約しておかないと、希望する鉄道に乗車するのは困難である。取りあえず今夜のチケットは予約しているのでまずは安心であるが。
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案の定、歩いていると、頻繁にオートリキシャやリキシャ(人力車)の兄さんから乗らないかと誘いを受ける。手始めにリキシャに乗り市内を走ってみることにした。
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リキシャは、乗用車やオートリキシャやバイクと同様に一般道路を走行する。正直いって交通量の多い道路でリキシャに乗っているのは危険な感じがする。ヘルメットを被らず単車に4人乗りするお兄さん達がすぐ横を追い越していった。。
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ニュー・デリー駅を越えて、東側の南北に伸びるバハタ・シャー・ザフェア・ロードを北上するとジャーマー・マスジドに続く参道がありバザールが開催されていた。
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通りの東側には、レッド・フォートが聳えている。赤い城、デリー城とも呼ばれ、ムガル帝国時代の城塞で、毎年8月15日のインド独立記念日には、この場所で首相演説が行われる。
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レッド・フォートの城壁が続いている。かなり広大な敷地だ。
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次にレッド・フォートの南にあるラージ・ガート(ガンジー廟)に向かった。道路の喧騒さと比べると整然で厳かな霊廟だ。さすがにインド独立の父と言われたマハートマー・ガンジーの人気は高いようで大勢の人が参拝していた。この廟は、兵士に24時間護られているとのこと。
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中央にガンジーの慰霊碑がある。なお、マハートマー・ガンジーの名前のマハートマーは、「偉大なる魂」をあらわす尊称で、毎年10月2日は「ガンジー記念日」として、国民の休日になっている。
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館内にはガンジーの写真や多くの資料が展示されている。
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糸紡ぎの機械が並んでいる。インドでは「チャルカ」と呼ばれ、もともとは古代インドで発明されたもの。ガンジーがこのチャルカによる糸紡ぎを奨励し、ガンジー自身も裸でチャルカを回していてことは良く知られている。
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次に車に乗り換えて、インド門に向かった。この門はパリのエトワール凱旋門を基にエドウィン・ラッチェンスによって第一次世界大戦で戦死したインド帝国兵士約8万5000人を追悼するために造られた慰霊碑である。
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門の高さは42メートルあり、戦死したインド人兵士の名が刻まれている。
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門の下には石碑があり、周りには銃を持った警備兵に守られていて、くぐることはできなくなっている。石碑の上には永遠の火が灯されている。
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周りは公園になっており、門の両側(南北)には対となる噴水がある。
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反対側の噴水では水浴びをしているらしき多くの人たちが見える。子供かと思ったら、お兄さん達である。日本なら完全に注意の対象だと思うが。。
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インド門から西に向かうと直線道路(ラージパト通り)が伸びており、西端の大統領官邸と結ばれている。振り返るとインド門が遠ざかって行く。ラージパト通りを途中で左折し、南に向かう。
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2.5キロメートルほど南下したところに、ロディ ガーデン(Site Plan of Lodi Garden)がある。特に有名な観光名所ではないのか、ガイドブックには乗っていない。公園内は多くの木々や池などもあり広くて静かで、地元人々の憩いの場の雰囲気だ。
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あちこちに遺跡らしい建物も点在している。この建物は、バダ・グンバド(Bada Gumbad Complex)と案内版に書かれている。これらの遺跡は、15世紀後半から16世紀初頭にかけてガンジス川流域とパンジャーブ地方を中心に北インドを支配した、デリー・スルターン朝、5番目のアフガン系イスラーム王朝、ローディー朝時代の墓廟とされている。
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建物に入り周りを見渡すと、驚くほど細かく浮き彫りがされている。
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バダ・グンバドのアーチから北側を見るとシーシュ・グンバド(Sheesh Gumbad)と名付けられた建物が見える。
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こちらは、一番北側にあるスィカンダル・ローディー墓廟(Tomb of Sikander Lodi)。
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さて、ニューデリー駅に戻ってきた。駅近くのレストランでカレーを食べ、これから20時40分発の夜行列車に乗り、758キロメートル先のバナーラス(ベナレス)・ジャンクションに向かう。予定では翌朝8時30分着だがどうなるやら。インドでは、定刻通り列車が運行するという話はあまり聞いたことがないからだ。パハールガンジにある旅行会社で購入したチケット(1等寝台)は、2,140ルビーに手数料200ルビーを加えた額である。
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それにしても駅前や構内はものすごい人の数だ。呆れて周りを見渡していると、すぐに見知らぬ男が近づいて来て、乗車する列車の場所まで連れて行くと声をかけてくる。断って自分で列車を探すが、構内の表示はいい加減で、列車に取り付けられている表示を見に行かないと信用できない。ようやく自分が乗る列車を見つけるが、今度は接続車両が多く、ホームの端から順番に確認していかなければ1等車両がわからない。途中溢れかえっている車両は、一般車両のようで乗り込むスペースはないにも関わらず無理に乗り込もうとする人で溢れている。
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ようやく1等車両を見つけると乗車口には、係員が仁王立ちで目を光らせている。チケットを見せると、乗るように乗車口を指さした。車内に乗り込むと1等寝台と言っても個室ではなく上下2段のベッドが2つの4人部屋であった。自分は上の段で、下の段には、若いインド人夫婦で、向かいの上の段は、まだ、少年の面影が残る若いインド人男性である。1等車には、食事のケータリングがあるが、列車に乗る前に、食事をしたので、あとは寝るだけである。 幸い、警備も厳しいのか、1等車両には、予約している人以外が入り込んで来ることはないようだ。
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とにかく睡眠不足にはならないようにと、耳栓をしてすぐに寝た。何度か目が覚めたが、翌朝6時に起きた。同室の3人は、途中の駅で降りたのか、年配の夫婦と、更に若いインド人男性に変わっていた。 通路には、別の男性が寝ている。厳重な警備はどうなっているのか?
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いずれにせよ、初めてのインドでの列車の旅は、無事クリアしたようだ。バナーラス到着は1時間遅れの9時30分と、定刻通りといっても良いぐらいだ。
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(2012.11.13~15)
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