カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インドへの旅(その8)ラージギル~霊鷲山

2013-03-16 | インド(仏跡)(その1)
ナーランダーで昼食を済ませ、再びラージギルに戻ってきた。これから竹林精舎の見学に行く。竹林精舎は、ガヤー・シーサーからカーシャパ3兄弟の1,000人の比丘たちと共にこの王舎城に訪れた仏陀に対して、マガダ国王ビンビサーラ王が寄進した精舎である。竹林精舎は、サンスクリット語でVenuvana-viharasと言い、最初の仏教寺院である。また迦蘭陀(カランダカ)長者が所有していた土地であることから、迦蘭陀竹林ともいわれている。
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入口でチケットを購入しゲートを抜け園内に入ると赤い衣を着たミャンマー僧らしき僧侶がいた。
ところで、マガダ国王のビンビサーラ王が、仏陀に竹林精舎を寄進したのは、出家したばかりの若き日のシッダールタ(仏陀)と面識があったからである。コーサラ国と対峙していたマガダ国の若きビンビサーラ王は、コーサラ国の隣国にあるシッダールタ(仏陀)の釈迦族を味方につけるべく、軍隊と必要な財力の提供を申し出て、シッダールタの出家を思い留まらそうとした。
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シッダールタは「自分が釈迦族の王子の位を捨て出家したのは、自分の欲望をかなえるためではなく、欲望を捨て世俗を離れるためである」と申し出を断った。これに対して、ビンビサーラ王は、「あなたはきっと悟りを開かれるであろう。悟りを開かれた暁には、再度、わが国に来て、その尊い教えを説いてほしい」と述べたという。
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入口から右手に歩くと大きな池(カランダカ池)が現れた。池の向こうには祠があり、仏陀の像が祀られていた。
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竹林精舎は、王舎城の北門から500メートルに位置しているが、現在のラージギルの中心にあたるため、交通量も多く騒々しい。しかし一歩園内に入ると静寂に満ちている。
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園内の竹林はまばらにしか残っていない。日本の竹林と違って、数十本が束になり大きな傘を作っている。このため、遠くから見ると1本の大きな木に見える。
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竹林精舎が完成してまもなくの頃、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラナ(目連)がサンジャヤ(非バラモン教の懐疑論者)の弟子250人とともに仏陀に帰依し教団に参加した。これにより教団はカーシャパ3兄弟とその弟子を含め総勢1,250人となるが、この2人は、後に仏陀の1、2番弟子となる人材でもあり、2人の仏陀への帰依こそが教団を一層飛躍させる結果となった。

30分ほど見学した後、竹林精舎から王舎城の北門から南に延びる街道を通り霊鷲山に向かう。しばらく進むと右手に遺跡が見えてきた。遺跡の手前を右折すると、遺跡への入口があり「MANIYAR MATH」と書かれた看板があった。さらにその奥にも道が続いていた。
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その道をしばらく走ると正面に石窟らしきものが見えて行き止まりとなった。
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正面には「SONEBHANDAR」の表示があった。ここは、ビンビサーラ王時代の国の保管庫と言われている。正面に大きくくり抜かれた洞窟があるが中には何もなかった。当時は財宝などが保管されていたのだろうか。
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元の街道に戻り更に南に走行を続けると、左手に観光客が集まっていた。ここにはビンビサーラ王の牢獄の跡と書かれた案内があった。これらの石壁は牢獄の外壁の跡なのだろう。石壁の周囲は60平方メートルあり、実際に鉄製の足かせが発掘されたという。
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仏陀の晩年のころのことである。仏陀の従弟であり弟子であったダイバダッタは、より厳格な戒律と禁欲主義を主張し、仏陀と対立していた。ダイバダッタは、仏陀から離れて活動していた。彼はビンビサーラ王の王子アジャータシャトルに対して「人生ははかりしれない。もし短命なら王につくことなしに、王子はそのまま寿命は尽きるであろう。父王を亡き者にし王となれ。私は仏陀を殺して仏陀となろう。」とそそのかした。善悪の判断基準を失った王子は、ビンビサーラ王を王宮の牢獄に幽閉し餓死させたという。

時計を見ると15時半を過ぎていた。日の入りが近い。今日は、霊鷲山からサンセットを見る予定にしている。
霊鷲山(耆闍崛山(ぎじゃくっせん)とも言う)とは、仏陀が特に好んで法を説いた場所で、観無量寿経、法華経、般若経などの経典をこの場で説いたとされている。ビンビサーラ王の牢獄の跡から、数メートルを南に行くとすぐに左手に延びる道が現れた。これが霊鷲山への道である。この道をしばらく進むと左手に遺跡が現れたが、日の入りまでの時間が残り少ないので見学は後回しだ。すぐに霊鷲山への駐車場に到着したが多くの車や馬車が停まっていた。
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霊鷲山の頂上には、香室跡があり、仏教徒の聖地となっている。この霊鷲山に向かうには、二通りの方法がある。一つは、ロープウェイに乗って霊鷲山の隣のラトナギリ山(多宝山)の頂上に向かいそこから歩いて下って行く方法と、直接、麓から霊鷲山に向けて歩いて上る方法である。
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ビンビサーラ王は、頻繁に仏陀のいる霊鷲山の頂上に向かったため、多数の人員を動員して、麓から山頂まで石畳を敷きつめた通路を作った。現在この通路は王の名にちなんでビンビサーラロードと言われている。ロープウェイ乗り場は混雑していたためビンビサーラロードを歩いて山頂に向かうことにした。
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ビンビサーラロードは、スロープになっている。前方から、牛が直進して来たため、横に避ける。
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左には人馴れしたサルが座っている。
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ここ王舎城や霊鷲山は、法顕(335~421)、玄奘三蔵(602~664)の紀行文で紹介されているが、その後は歴史に埋没してしまいその位置すら特定されなくなった。
1902年12月、インド仏蹟調査を進めた大谷探検隊(注)は、前正覚山の調査後、ここ王舎城に入った。当時のこのあたりは虎の出没が頻繁だったため一行は2頭の象に乗り、荊棘と竹林を書き分け、翌年1903年(明治36年)1月14日の早朝、朝日に照らされたこの山を経典上の霊鷲山と比定した。その後、インド考古局第3代目の長官ジョーン・マーシャルの調査によって国際的に承認された。
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(注)19世紀末~20世紀初頭、中央アジアでは、スウェーデン、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアの各国探検隊が続々と参入し、埋蔵文化財の獲得競争が繰り広げられた。日本からは、浄土真宗本願寺派第22代法主・大谷光瑞(鏡如上人)が、中央アジアに学術探検隊(大谷探検隊)を派遣し、数々の美術品や仏典を持ち帰るなど大きな成果を挙げた。

現在でも眼下を見渡すと、南北を通る街道と遺跡に続く数本の道があるだけで、一面に灌木の藪が覆い茂った森が広がっている。ここが、王舎城があった場所である。
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10分ほど上っただろうか。土産物を売る青年が2人おり、その左側に階段が見える。この階段を上るとロープウェイの降車地点、ラトナギリ山に向かうという。現在時刻は15時50分。霊鷲山でサンセットを見てからだと日が暮れるし、ラトナギリ山に行くのは時間的に難しいのではないか。青年にラトナギリ山までの所要時間を聞くとすぐだと言う。少し悩んだが急ぎラトナギリ山に向かうことにした。道の途中途中に岩だらけの抜け道もあったためショートカットしながら汗だくになり更に10分ほど上り続けた。
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やがて道がなだらかになり、土産屋も現れて正面に巨大なストゥーパ「世界平和塔」が見えてきた。多くの観光客がいる。家族連れも多いようで観光地になっているのであろう。
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ここは、日本山妙法寺によって1969年に建立された仏舎利塔である。急ぎストゥーパの繞道を周り礼拝する。
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ストゥーパ後方から眼下の景色を眺めた後、再び階段を下り霊鷲山に向かう。
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階段を下りていると、上っている時に気が付かなかった霊鷲山頂上の香室跡が見える。しかし、人は少ないようだ。やはりロープウェイが混んでいたのは、ラトナギリ山(多宝山)に行くことが目的で、霊鷲山には行かないのか。そういえば階段を下りる人も少ない。ほとんどの人はロープウェイで往復するのか。
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さすがに下りである。あっと言う間にビンビサーラロードに戻り、霊鷲山方面に向かって上った。途中に霊山橋と書かれた橋があった。日本の協力で建設されたそうである。
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右の斜面に階段があり上には洞窟が見える。そばにいる人たちは、韓国からの巡礼者のようだ。
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洞窟内にはロウソクに火が灯され、金箔が貼られ、線香があげられていた。
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さらに上っていくと、再び、洞窟が現れ、多くの巡礼者が経を唱えていた。彼らも韓国からの巡礼者のようだ。これらの洞窟には、当時、仏陀や弟子たちが集まり、座禅、瞑想していた場所であるという。香室跡は、左に見える階段を上ったところにあるらしい。そばには駕籠屋のお兄さんが待機していた。
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正面に見える岩を回り込む。
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岩上を見上げると、霊鷲山の名前の由来となった鷲の峰と言われる岩があった。
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さらに回り込むと前方が開け、香室跡が現れた。やはり巡礼者が少ない。なんともラッキーである。時間は16時半になっていた。サンセットまでまだ時間がある。汗を拭きながら、少し香室跡から離れ呼吸を整える。
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日の入りが近づくと、管理しているらしい僧侶以外の巡礼者はいなくなった。せっかくなので、香室内に座ると、僧侶が写真を撮ってあげようと言うので、お願いした。
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香室内で合掌した後、写真を撮ってもらい、謝礼をして、後ろに下がって日の入りを眺める。最高の眺めである。
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16時50分、日の入りである。
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さて、急ぎビンビサーラロードを下って行く。途中で香室を見上げると、先ほどの僧侶の姿が見える。
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下山後、通り過ぎた遺跡に寄る。医師ジーヴァカの果樹園の跡である。ジーヴァカは仏陀とその教団に対して援助を行った。
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その後、ホテルヒルズクイーンズにチェックインをする。場所は、ラージギルの中心地である。
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いつものとおり、酒屋でビールを買いホテルでつまみと一緒に飲みほし、食事に向かう。
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20時40分になった。今夜もカレーである。2人分で180ルビー、しかし今日は昼もカレーだったので2食カレーとなった。2食カレーは胃にきつい。。
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(2012.11.21)

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