カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ギリシャ(その1)

2019-05-21 | ギリシャ
今朝、アテネのオリンピア・ホテルを出発し、E75号線(アテネからテッサロニキ方面に向かう幹線道路)をティーヴァ(テーベ)まで進み、3号線を経由しリヴァディアから48号線を西に向かっている。正面にパルナッソス山(2,457メートル)が迫ってくると、道路標識(直進-デルフィ 22、右折-ディストモ 2、オシオス・ルカス 12)が現れた。これからオシオス・ルカスを見学した後、デルフィに向かう予定だ。


ところで、昨夜は、アテネから南西12キロメートルに位置する港町ピレウスの星付レストラン「Varoulko」で夕食を頂いた。料理は海岸沿いに位置しているため新鮮な魚がお勧めで、予想どおり新鮮な素材と独自のソースとの絡みが絶妙で大変美味しかった。ちなみに、アミューズ生牡蛎前菜メイン1メイン2デザートとギリシャ滞在初日から大贅沢してしまった。料理はスムーズに提供されたが、店内は混雑していたこともあり、ほとんどサービスしてもらえなかったが、星付としてはどうなのか、若干疑問が残った。。

さて、48号線の下をくぐって南下すると、小さな町ディストモに到着する。そのまま市内を過ぎると南東方面の山に向かう道になる。狭い山道を進んでいくと10分ほどで「オシオス・ルカス修道院」の駐車場に到着した。オシオス・ルカスは10世紀に設立されたギリシャ正教の修道院で、中期ビザンティン建築の傑作と言われる聖堂と、11世紀に制作されたモザイクが見所である。1990年には、他のギリシャの2つの修道院(ダフニ修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院)とともに世界遺産に登録されている。


駐車場は修道院を見下ろす高所にあり階段を下りて向かうことになるが、階段からは広大な景色が広がっている。オシオス・ルカス修道院は、500メートル級の山の中腹に位置しており、南側は、僅かに支線が見える以外に建造物は見当たらず、山々に囲まれた盆地となっている。天候の良さもあり癒される眺めである。


階段を下りると、左側(右側に公衆トイレ)に大きく回り込んで続く参道となる。右側には、木々が覆い茂る公園が広がっている。参道を70メートルほど進むと、前方に建つ鐘楼の右下にアーチ門があり、くぐると修道院に到着する。


アーチ門の手前を右側の公園方向に歩いて行くと、修道院内の建物が接近して建っている。その前面の平屋建て建物は「修道院美術館(美術館棟)」で、その奥に瓦屋根で覆われた平たく幅広なドームを持つ教会堂「中央聖堂」が建っている。


修道院は「克肖者(聖)ルカス」(896~953)に因んで名付けられた。克肖者ルカスは、アラブ人に統治されていたクレタ島の東ローマ帝国による再征服(961年)を予言し的中させたことや、死後、身体から奇跡の香油が出ると言われたことから、奇跡を求めて多くの巡礼者がこの地を訪れた。この地には、961年から966年頃に「生神女聖堂(テオトコス)(旧ハギア・バルバラ聖堂)」が建てられたが、その後、1048年に克肖者ルカスの墓の上に現在の「中央聖堂」が建てられた。

アーチ門をくぐると、正面の前庭を取り囲んで、北西側にL字状の「修道士宿舎棟」が建ち、東側に公園から見えた教会堂「中央聖堂」が建っている。「中央聖堂」の南北側面には、フライング・バットレス(飛梁)が南側の美術館棟と北側の修道士宿舎棟と直結し耐震補強している。先に建てられた「生神女聖堂」は、北側の飛梁の奥に「中央聖堂」と「修道士宿舎棟」と連結して建っている。


「中央聖堂」は、サイズの異なる大きな白い石と小さな紅レンガを交互に積み重ねたビザンティン建築様式で造られている。近くで見ると石とレンガの配置がバラバラと手作り感満載だが、全体を通して見ると気持ちが落ち着いてくる不思議さがある。
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中央上部のティンパヌムには、ベッドに横たわる聖人と周りに大勢の教会関係者らしき人物が集まっている場面が描かれている。横たわるのは、克肖者ルカスだろうか。天井部(アーチ下部)には、蛇でかたどられた円を中心に唐草文様が描かれている。


中央にある扉から聖堂に入ると、南北にかけてナルテクス(前室)があり、天井は美しいモザイクで覆われている。中央身廊側の扉上部には「全能者ハリストス」が、そして左右には「磔刑」と「復活(アナスタシス)」が、ヴォールト天井には「聖人のメダイヨン」が表現されている。北面の光取りの上にはキリストが弟子の足を洗うという「洗足」の場面があり、


南面の光取りの上には、「トマスの不信」(キリストの復活を目撃していない聖トマスが主の傷痕に指を差し入れるまで復活を信じないと語る)がある。多くのモザイクが綺麗に残っており、見ごたえがある。
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前室から身廊部に入ると、聖堂は正方形を基礎とした内接十字型で、中央ドームの四隅にスクィンチ(四隅の上部を埋めてドームを構築する土台とする。)を架けた中期ビザンティン建築特有の様式で建てられている。


東側にある主祭壇上部のアプスには「聖母子像」のモザイクがある。繊細なモザイクピースの組み合わせによる聖母子の表現は、ビザンティン美術の傑作とも言える。そして、その上部ヴォールトには「聖神降臨」のモザイクがある。鮮やかな黄金モザイクは眩しい輝きを帯びている。
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中央ドームは直径9メートルあり「全能者ハリストス」と「天使」が描かれている。なお、ドームは1593年の地震で崩落し、その後再建されたものだがやや色落ちするなど劣化が見られる。
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ドーム周りの4か所のスクィンチの内、3か所には、南東側に「主の迎接祭(聖燭祭)」が、西南側に「キリストの降誕」が、北西側に「キリストの洗礼」と美しいモザイクが残っている。ヨハネから洗礼を受けるキリストの周りを流れるヨルダン川もモザイクで細かく表現されているのには驚かされる。
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ちなみに、北東側の漆喰がむき出しになっている1か所には、「生神女福音」の場面があったとされている。

北側の側廊天井にも美しく輝くモザイクで溢れている。また、リブやアーチ下部の幾何学文様や花文様の色彩コントラストはため息がでるほど美しい。そして東側を向いて黒修道帽に黒装束姿で両手を挙げる聖人のモザイクは「克肖者ルカス」である。
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そしてその先にある黒大理石の上には、自身のモザイクと向かい合うように「克肖者ルカス」のお棺が置かれている。お棺はガラス張りで、中には、黒装束で全身を覆われたルカスが西側を頭に横たわっている。黒装束から左手だけが出ていたのが、少し怖かった。。


克肖者ルカスの墓の足元側にある廊下は、北側に連結している「生神女聖堂」に繋がっている。「生神女聖堂」にもモザイクがあったとされるが現存していない。壁面には漆喰仕上げはされておらず(剥落?)、積み上げられた煉瓦がむき出しで、その壁面にイコン画が飾られている。


天井のドーム自体は小さいが、周りに縦長の窓が並んでいることから外光がよく入り明るくなっている。


中央聖堂を出て美術館側と繋がる飛梁をくぐると更に二本の飛梁が美術館に繋がっている。その飛梁の間にクリプトの入口がある。


ちなみに、三本目の飛梁をくぐり、中央聖堂の北東側を見ると「生神女聖堂」のドームが見える。ドームは、中央聖堂のドームより小ぶりだが、かさ高で、各側面には白を基調にとした二連アーチ窓が取り囲んでいる。


では、階段を下りてクリプトに行ってみる。


クリプト内には、多くのフレスコ画が描かれているが、特に天井画は、近年描かれたかの様に美しい色彩を留めている。フレスコ画の大半は、中央聖堂が建てられた1048年頃に描かれたとされ、中期ビザンティン時代から生き残った最も完全な壁画とも言われている。
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色彩を当時のまま留めたのは、数百年の間、ほこりで覆われて隠されていたためで、1960年代にギリシャ考古学局による清掃を受けたことにより、当時の美しい色彩を現代に蘇らせた。
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「克肖者ルカス」は、死後も奇跡の治療者、預言者と崇められ、特にクリプトは奇跡を望む人々にとって最も重要な巡礼場所となった。奇跡を望む巡礼者がクリプト近く或いは隣接する部屋に6日間滞在したという記録も残されている。


モザイクの素晴らしさに圧倒されて、2時間近く滞在してしまった。急ぎ、ディストモを経由して48号線まで戻り西方向に向かうと、道路はぐんぐんと上って高度900メートルほどまで上り詰める。前方のパルナッソス山麓には階段状にアラホヴァの町街並みが続いているのが見える。アラホヴァは、見晴らしがよく登山客やスキー客で観光客が多く訪れるとのこと。この町を通って10キロメートルほど下った渓谷沿いの斜面に次の目的地「古代ギリシャの聖地デルポイ(デルフィ)」がある。


すぐに、聖地デルポイに到着した。渓谷を通る48号線のすぐ北側がデルポイ遺跡の入口になる。デルポイは、古代ギリシャのポーキス(フォキス)地方にあった都市国家(ポリス)で、パルナッソス山南側の麓(標高500~600メートル)に位置している。チケットを購入してゲートから入場すると左方向に砂利道の上り坂が続いている。遺跡群は、東西に続く段丘崖の下の傾斜面に階段状に展開していることから、遺跡内の通路をジグザグに上りながら見学していく。1987年に「デルフィの考古遺跡」として世界遺産(文化遺産)に登録された。


アゴラ(公共空間としての広場)やアテナイ(現:アテネ)、アルゴス、コルキュラなど各ポリス(都市国家)から奉納された記念塔などの遺構が続き、途中にデルポイが「世界のへそ(中心)」と信じられていたことからシンボルとされた円錐状のオブジェや、「アテナイの宝庫」などの遺跡もある。宝庫は、マラトンの戦い(紀元前490年、アッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシアの遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦い)での勝利を記念して建てられた。
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入口から上り坂を300メートルほど進むと、古代ギリシャで最も重要な神託所「デルポイの神託」があったアポロン神殿の6本の柱のそばに到着する。
古代より、ギリシャでは、神殿の巫女の口をかりて伝えられる神託(アポロン神の予言)は、真実のものと尊ばれ、各ポリスでは政治・外交の指針を神託に求めていた。アポロンの巫女は「シビュラ」や「ピューティアー」と呼ばれた。例えば、ピューティアーは、洞窟の戸口に置いた三脚台の椅子に座り、岩の裂け目から立ち昇る霊気を吸って、恍惚の境地に至り、難解な言葉で神託を告げ、そばにいる男性司祭により解読され謎めいた予言として伝えられたという。


アテナイの執政官を務めたテミストクレスは「木の壁によれ」との神託を受け、三段櫂船「木の壁」を建造し、「サラミスの海戦(前480年)」でペルシアの王クセルクセス1世(在位:前486~前465)が率いるペルシア艦隊を打ち破ったが、神託の内容は様々な解釈を呼び、木の壁をアテナイの城壁と解釈し市内に残った一部の市民は、ペルシア軍により滅ぼされる結果ともなっている。ちなみに三段櫂船とは、櫂の漕ぎ手数十名を上下3段に配置して高い速力を得たガレー船のこと。

6本の柱の東側には、青色の渦巻き状の柱「プラタイアイの戦勝記念碑」が立っている。サラミスの海戦の翌年の紀元前479年、ペルシア残存勢力とペルシア側についたギリシャの諸ポリスに対して、スパルタ、コリントス、アテナイなどのギリシャ連合軍が出撃し撃退したことを記念して建立された。渦巻きは、3匹の蛇が巻きついた姿で、頂部には三匹の蛇が鎌首をもたげ、三脚の鼎の脚を支えていた


初代となるアポロン神殿は、紀元前6世紀に建設されたが、その後、火災や地震などの災害を受け、その都度再建された。現在の神殿は紀元前373年に地震と火災で破壊した5代目神殿の後を受けて建てられた6代目のもので、幅23メートル、長さ60メートルのドリス式の神殿である。こちらは、アポロン神殿東側の6本の柱とプラタイアイの戦勝記念碑を坂の上から眺めた様子である。


デルポイの神託は、キリスト教を国教化したことで知られるローマ皇帝テオドシウス1世(在位:379~395)治世の390年に、役目を終えたとされる。同時に、アポロン神殿の多くの彫刻や芸術作品は破壊され、その後は、多孔質の石や柔らかい素材の石灰石が使用されていたこともあり、崩壊が他の遺跡よりも早く進んでしまったという。


アポロン神殿のすぐ上には、「円形劇場」が、建てられている。もともとは紀元前4世紀に建てられたが、紀元前160年ごろと、67年に皇帝ネロが訪れた際などに改築され現在に至っている。座席は、下部ゾーン27列、上部ゾーン8列と2つのゾーンに水平分割され、6つの階段を配置している。収容可能人数は、約4,500人となっている。


東側の坂道を上り詰めた「円形劇場」の上部から見下ろすと、アポロン神殿全体から遠景の山々の絶景が見渡せる。円形劇場からの観覧はさぞかし、気持ちが高揚したことだろう。


少し上ると、広い段丘面があり、西方向に直線の砂利道が延びている。その砂利道に沿って右側(崖側)に巫女の名前に因んだ「ピューティアー競技場」がある。 紀元前4世紀後半に建てられたもので、東西177メートル、南北25.5メートルの大スタジアムである。この東側が、競技のスタート地点だったとことから、アーチ屋根など構造物を支えていた址らしき遺構が残っている。収容人数は約6,500人で、現在も北側観客席は山の斜面で支えられ綺麗に残っているのが見える。逆に、南側は壁が建てられ観客席が作られたため崩壊している。


この地で開催された競技会は「ピューティア大祭」と呼ばれ、全ギリシャから市民が訪れて開催された。大祭は8年に一度開催される音楽競技をアポロン神に奉納していたが、後に体育競技を加え4年に一度の大祭に変更された。ちなみに古代ギリシャでは、他にもオリュンピア大祭、ネメアー大祭、イストモス大祭と合計4つの競技大祭があった。

再び、遺跡内の通りを戻り下山し、


48号線を500メートル西に進んだ右側にある「デルフィ考古学博物館」に向かった。ギリシャの主要な博物館の一つでギリシャ文化省が運営している。 1903年に設立され、何度か改装され現在に至っている。後期ヘラディック(ミケーネ)時代(前 1600~前1065頃)からビザンチン時代初期(4世紀から6世紀頃)までの発掘品が14の展示室に収められている。


「第3展示室」には、アルゴスの彫刻家ポリメデスにより紀元前610~前580年に制作された「クレオビスとビトン像」が展示されている。クレオビスとビトンとは、歴史家ヘロドトスによる「歴史」第1巻に登場するアルゴス出身の兄弟である。兄弟の母キューディッペーがヘーラー祭を見に行く際、車を引く牛がいなかったことから、兄弟が牛の代わりに車を引いて8キロメートル先のヘーラー神殿に母親を連れて行った。母は孝行息子の栄誉をたたえるようヘーラー女神に祈願すると、その夜、兄弟はヘーラー神殿で永遠に眠りについた。この孝行話を聞いたアルゴスの人たちは兄弟を称え銅像を作ってデルポイの聖域内に納めたという。


「歴史」の中で、ソロン(ギリシャ七賢人の一人)は、クレオビスとビトンの兄弟を、幸福な者の代表格として挙げており、ソロンは、人間の幸福とは富や権力の有無や、日々の幸・不幸に関係なく、栄誉の絶頂で亡くなることこそが幸福なのだと教えている。

「クレオビスとビトン像」は、アルカイック期のクーロス像(青年の裸身立像)だが、アルカイック・スマイルより前の時代に制作された貴重な作品で、がっちりとした体躯で力強さを感じる。これほどの像が2500年以上も前に造られたことは驚嘆に値する。


「第5展示室」には、特徴的な上向きの羽を持つ女性姿のライオン「スフィンクス像(前575~前560)」(高さ2.32メートル)が展示されている。紀元前560年頃、ナクソス人によるアポロン神殿への供物として神殿の隣(中央基壇の南側斜面に隣接する台座)に建てられたもので、当時は高さ10メートルの柱の上に立っていた。1860年と1893年にアポロン神殿のそばから発見された。


「第6展示室」には、アポロン神殿を飾っていたペディメント彫刻などが収められている。


こちらは「第11展示室」で、古典期(前450頃~前330頃)と、ヘレニズム時代(前330頃~前30頃)の作品が展示されている。


展示室にひと際高くそびえる像は、1894年にアポロン神殿の東と北東のテラスから発見された「踊り子像」。アカンサスの茎と葉で装飾された土台の上に、高さ2メートルほどの3人の女性がリズムをとりながら手を挙げ踊っている。紀元前330年頃に作られ、高さ約13メートルの柱の上に飾られていた


「踊り子像」の隣には遺跡内にあった「世界のへそ(中心)」のオリジナルが展示されている。レプリカの円錐状の形とは異なる上に、網目風の浮彫文様が施されている。


「第12展示室」には、ヘレニズム後期およびローマ時代の作品が展示されている。こちらの美しい青年像は、第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(在位:117~138)の愛人として寵愛を受けた「アンティノウス(111~130)像」である。彼は20歳以下でナイル川で溺死したと伝えられるが、詳細は謎に包まれている。ハドリアヌス帝により神格化されたことから多数の芸術作品で表現されている。像は、1894年に、アポロン神殿と並ぶレンガ造りの部屋の壁面に立った姿で発見された。


「第13展示室」には「デルフィ考古学博物館」を代表する有名な「デルポイ(デルフィ)の御者像」を展示するフロアになっている。1896年にアポロン神殿から、手綱、戦車、馬などの破片と同時に発見された。発見時の像は頭と上半身、下半身、右腕の3つに分かれていたという。


御者像は、数少ない青銅彫刻の一つで、シチリアのゲラの僭主ポリュザロスが、ピューティア大祭(紀元前470年開催時)に於いて4頭立て2輪戦車競走に優勝したことを記念して、アテナイで鋳造され奉納されたものである。
その後、土の堆積や地震などにより地中に埋れ、馬は失われたが、像自体は現在も美しい姿を見せてくれる。御者のモデルは、背が高くスリムな体形の青年で、ハンサムな顔立ちをしている。目に象眼細工のガラスがはめ込まれいるためか、見る角度で表情が微妙に変化する。またまつ毛まで表現されているのには驚かされた。
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後ろから見ると、幅の広いベルトをウエストの上部で締めつけており、上半身は、レース中に衣服が風に揺れるのを防ぐため背中で”たすきがけ”している。細部にわたるまで写実的に表現されており、ギリシャ彫刻の最高傑作の一つとも称されていることは大いに頷ける。展示室の壁面には、馬車に乗る御者姿の絵が展示されている

名残惜しいが時刻が午後3時45分と予定時間を過ぎたこともあり次に向かう。。

デルポイ(デルフィ)を出発し、すぐ現れるデルフィの町並みを通過すると、左側にコリントス湾が見えてきた。デルポイは、巨大なパルナッソス山の南側にあることから、古代の人々の多くは、コリントス湾をデルポイ訪問への拠点としただろう。その後、48号線は山間沿いのカーブが続き急降下していく。


南北に延びるE65号線(コリントス湾から中央ギリシャを南北に横断する幹線道路)を80キロメートルほど北上すると、マリアコス湾が見えてくる。これからE65号線を経由して150キロメートル北部に位置する「メテオラ」に向かうのだが、その前にマリアコス湾沿岸近くに位置するテルモピュライに寄る。


交差するE75号線(アテネからテッサロニキ方面に向かう幹線道路)と並行する1号線を東に1キロメートルほど行った通り沿い北側にある公園が目的地である。そこには、紀元前480年、スパルタを中心とするギリシャ軍とペルシアの遠征軍との間で行われたペルシア戦争の一つ「テルモピュライの戦い」が行われた地を記念してモニュメントが設置されている。


古よりこの地は、アテネのあるアッティカ地方と、北部のテッサリア地方とを結ぶ幹線道路が通っていたが、カリモドロス山の崖からマリアコス湾まで15メートル程度の幅しかなかったことから、防衛に適した要衝として度々戦場となった。しかし、現在では、あまり峻険とは言えない山と広々とした道路に平地が広がっている。これは、経年により浸食され平地が広がったことやローマ帝国時代に拡張工事を行ったためである。ちなみにテルモピュライとは「熱い通り」を意味しており、現在も山裾には熱泉が湧き出ている


「テルモピュライの戦い」でギリシャ軍からは300人のスパルタ兵士が参戦したが、200万以上と伝えられるペルシア軍と互角以上に渡り合い、最期は壮絶な死を遂げたとされる。中央の台座上に槍と盾を持って立つ戦士は、その300人のスパルタ兵士を率いた「スパルタ王レオニダス1世(在位:前489~480)」で、彼らの粉戦により、アテナイは時間を稼ぐことができ「サラミスの海戦」でペルシア海軍に勝利することが出来たといわれている。

ちなみにテルモピュライの戦いを題材とした、2007年公開のザック・スナイダー監督による「300(スリーハンドレッド)」は、脚色が多く賛否両論もあったが世界的な大ヒットとなった。

時刻は午後5時を過ぎた。今日の最終目的地、メテオラのサンセットを眺めるために先を急ぐ。その後、テッサリア地方の北西部のトリカラを経由してカランバカ方面に向かうと、ようやく前方にメテオラの奇岩群が見えてきた。時刻は午後7時10分、日没まであと1時間ほどである。


メテオラの奇岩群は、カランバカ市内北側に位置していることから、東側から市内を横断して西側まで行き、北西部にあるカストラキ村を経由して山道を登っていく。聖ニコラオス・アナパフサス修道院(St. Nikolaos Anapafsas Monastery)を左側に見て進むと、右側の岩の上にルサヌ修道院(Monastery of Rousanou)が現れる。


ルサヌ修道院を過ぎると更に勾配のきつい登り坂になり1.5キロメートル進んだところがサンセットポイントになる。時間には余裕で間に合ったが、奇岩群から眺めるサンセットは、地平線からの位置が高いからか、やや眩しかった。


日没後もまだ明るい。この場所からは、真下にルサヌ修道院を望み、その先がカストラキ村方向になる。


左に視線を移していく。岩山の間からわずかに見える町並みが、カランバカの町の中心部あたりになる。


更に視線を左に移すと、やはりカランバカの町並みが見える。これらの独特の景観を形づくる奇岩群は、約6千万年前に海底で堆積した砂岩が隆起し、浸食されて今の地形となったと言われている。


長かった一日の行程もほぼ終了し、残るは、夕食だけとなった。カランバカの町の西側にある今夜の宿泊ホテル(テアトロ ホテル)から歩いてタベルナ「Paramithi」で夕食をいただこととした。午後9時半を過ぎて到着したため、混雑しており、場所のあまりよくないテラス席となった。座ってしばらくは、賑わっていたが、午後10時を過ぎると多くのお客は帰っていった。


フェタチーズのサラダラム肉、ミートソースパスタを頼み、テラスで食べていると、地元の常連らしき猫が現れ見つめられた。


料理の味は、昨日の今日なので、どうしても比較してしまい評価が下がるが、お腹が減っていることもあり美味しかった。パスタはモチモチとした食感で好みではないと思ったが、後半にはなじんで、全部平らげた。時刻は午後11時前になり、ほとんど人通りがなくなった。ライトアップされた奇岩を眺めながらホテルに戻った。

(2019.5.21)

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オーストリア・ブルゲンラント

2018-07-14 | オーストリア
オーストリア・ブルゲンラント州のメルビッシュ・アム・ゼーの目抜き通りを南に進んでいる。前方に見える「メルビッシュ福音教会(プロテスタント)」の鐘楼手前の交差点を左折し2キロほど進むと、目的地「メルビッシュ湖上音楽祭」の会場に到着する。音楽祭は毎年7月中旬から8月下旬にかけ、ノイジードル湖上に巨大なオープン・エアー・ステージを設けて開催されている。ちなみにウィーンからは、南東方向に約60キロメートル、ウィーンとメルビッシュ間のシャトルバスも運行している。


前方のガラス張りの2階建てでグレーの屋根が見える建物が音楽祭の会場である。会場入口前には、特設のフードコートとテラスがあり、開演前に、腹ごしらえができる。


開演時間が近づいてきたので、ゲートから入場する。チケットは、事前にサイトから、舞台に向かって中ほど左側の席(Block B)、62ユーロを購入している。ダウンロードしたチケットをスタッフにスキャンしてもらうが、スタッフは緊張感もなく、厳しいセキュリティ・チェックもなく緩い感じ。。


カフェの横を抜け、階段を上り右側に回り込む流れになっている。


軽く食事して開演間近になったこともあり、会場はほぼ満席状態。通路側から5席内側になるので、お礼をいいながら、前を通してもらい着席する。今年の演目は、ハンガリー出身のオーストリアの作曲家エメリッヒ・カールマンが1924年に作曲した全3幕のオペレッタ「伯爵令嬢マリツァ」である。舞台には、巨大なヴァイオリンが横たわり、周りにはススキ?を模した草が多い茂っている。背景のノイジードル湖の自然の風景によく調和している。


座席総数は約6000席あるが、後を振り返ると空席が見当たらないほどに込み合っている。オープン・エアーのステージでオペレッタということもあり、観客の多くはラフなスタイルをしている。ちなみに、中央の一段高いガラス張りの席は、飲み放題食べ放題可能なサービスがある席(125ユーロから145ユーロ)である。


最初にピーター・エーデルマン(Peter Edelmann)芸術監督より挨拶があり、まもなく開演される。午後8時半となり、辺りはやや薄暗くなってきた。


オペレッタ「伯爵令嬢マリツァ」の主な登場人物は、伯爵令嬢マリツァ、破産したタシロ伯爵、マリツァの婚約者コローマン・ジュバン男爵、タシロの妹リーザである。ストーリーは、マリツァの領地の管理人を任されていたタシロのもとへマリツァが久しぶりに帰ってきたところから始まり、4人の恋愛模様が繰り広げられるといった内容である。
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マリツァの領地にある邸宅は、ヴァイオリンの胴部から下が左右に開いて現れる仕掛けとなっている。中央階段がある2階建ての造りで、絵画がかけられたバルコニーのある部屋や重厚感のあるカーテンの窓越しに湖が映る様子など、なかなか手が込んでいる。そんなセットの前では、男女が鮮やかな刺繍が施されたハンガリー民族衣装を身に着け、跳んだり跳ねたり、社交ダンスとコサックダンスのコラボダンスが続く。


途中、15分ほどの休憩をはさみ第二幕へと続く。後半からは、踊りに併せて花火が上がり、ライトアップされた噴水が飛び交う。


男女はタキシードとドレスに身を包み、踊る、踊る。観客席にまでなだれ込み、ひたすら踊りまくる!ブロードウェイミュージカルの勢いさながらである。
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ストーリーは、ざっくり言って、二組の恋人たちが結ばれてハッピーエンドで終わるというもの。拍手喝采の中、演目は終了した。
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天候にも恵まれ、特段トラブルもなく大変楽しめたオペレッタであった。1階の屋外テラスに設けられた丸テーブルで軽く食べて午前0時過ぎに会場を後にした。


*************************

さて、翌朝、ここは、ハンガリーのショプロン中心部から南に2キロメートルほど行ったアパートメントである。ショプロンは、メルビッシュ・アム・ゼーから、国境を隔てたすぐ南(直線距離で10キロメートル)のハンガリーの都市である。昨夜はこのアパートメントの左側の階段を上がった2階の部屋に宿泊した。アパートメントのオーナーは、幼子を抱えた爽やかな若い夫婦だった。その彼らからショプロンの旧市街は是非観光してほしいとの勧めもあり、これからその旧市街に向かうことにした。


ハンガリーのショプロン(旧:エーデンブルク)はオーストリア・ブルゲンラント州では最大の都市であったことから州都になる予定だった。しかし第一次世界大戦後に、オーストリア=ハンガリー帝国が解体されたことから改めて国民投票を行った結果、ハンガリーに帰属することになり現在に至っている(現在の人口は約58,000人)。

ショプロンの中心部には、環状道路(周囲1.5キロメートル)が通っている。その北東側の道路内側にある広場が旧市街に向かう起点となる。広場には、シンボルの聖母塔が建っているが、これは、もともとその場所にあった教会がオスマン帝国により破壊されたため、1745年に建てられたもの。ところで、現在午前10時なのだが、日曜日のせいなのか、天気が良いにも関らわず人通りが少ない。また車の量も驚くほど少なく感じる。。
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広場の内側には、2階から3階建ての個性的な建物が連結して建っている。視線を右側に移していくと、空間があり、奥へと通りが続いている建物がある。この建物が旧市街への出入口なる。


視線を更に右側(北側)に移すと、広場から内側に旧市街のシンボル「火の見塔」が見えるので間違いないようだ。


歩いて建物をくぐると4階建ての市庁舎の裏側になり、左側には古びた城壁の遺構が続いている。道路をふさいでいるゲートを越え、城壁の内側に回り込むと見晴らし台があり遺構全体を一望できる。城壁はすぐ先の堡塁にから大きく右手前に曲がり続いている。


この城壁は4世紀のローマ時代の遺構で、広場の建物の裏側に重なる様に続いている。城壁下部には石畳のローマン道路が手前に延び、左右に邸宅の址がある。左手前の区画は、ハイポコースト(古代ローマのセントラルヒーティングシステム)が施された建物だった。


市庁舎の外壁に沿って右に曲がると、正面が開け中央広場が現れる。左側に見える広場にやや突出した黄色い建物は薬局博物館で、15世紀から17世紀にかけての歴史的な薬学者たちの遺品やウィーンの古い磁器などが保管されている。16世紀、ハンガリー王ラヨシュ2世が旧市庁舎を拡張しようと薬局の撤去を要求するが、住民の反対で撤去できず保護された逸話が残っている。
そして、広場の中央には、17世紀にローエンブルグ・ヤカブ(1685~1701)が妻のために建てたバロック様式の「三位一体」の像が建っている。


広場の左奥には1280年にフランシスコ派の教会としてゴシック様式で建てられた「山羊教会」がある。山羊が掘り当てた埋蔵金で作られたという逸話に因んで名付けられた。15世紀半ばに身廊とオルガンロフトが加えられバロック様式で装飾された。17世紀には3回の戴冠式が行われるなど由緒ある教会で1802年からはベネディクト派に属している。
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入口のティンパヌムには15世紀に描かれたマントを着て手を広げた被昇天(聖母)像が描かれ、上部には山羊を模った浮彫が施されている。


さて、広場側から市庁舎を眺めると、ポルチコを持つ堂々とした正面入口側になる。最初の市庁舎は1497年に建てられたが、現在の建物は1897年にネオ・ルネサンス様式で建てられた歴史ある建物である。
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その市庁舎に向かって左隣(北側)に「火の見塔」が聳えている。高さ61メートルの火の見塔の上部はバロック様式で、中間部はルネサンス様式のアーケードがあり、火事など異変をいち早く察知するための展望台の役割を果たしている。中世の頃、塔の警備員は、時刻、事件や火事など住民にトランペットで知らせていたことから、ミュージシャンの番人と呼ばれていたという。そして下部には通り抜けができるアーチ門がある。
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ちなみに市庁舎と向かい合って建つ建物は、ハンガリーの建築家フェレンツ・シュトルノ(1821~1907)が修復した「シュトルノの家」で、当時の家具や調度品などを見学することができる。この建物は既に15世紀には存在しており、中世ハンガリーの最盛期を築き、ルネサンス文化を奨励した、ハンガリー王兼ボヘミア王マーチャーシュ1世(在位:1458~1490)が立ち寄ったことでも知られている。
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そして隣には、中世と現代の彫刻コレクションがある「将軍の家」で、更に隣に元ショプロン市長(在任:1823~1847)が住んだ「ファブリキウスの家」と歴史的建造物が続いている。

それでは「火の見塔」の下部にあるアーチ門をくぐってみる。バロック様式の門枠は、国民投票によりショプロンのハンガリー帰属が決定したのを記念して1928年に完成したもの。くぐった先の左側にはインフォメーションセンター兼博物館がある


博物館の地下には発掘した遺構がそのまま残り、1階と2階と「火の見塔」内には、ショプロンの町の歴史に関する展示がされている。では、塔内の階段を上ってみよう。


ショプロンは、ローマ時代にはスカバンティアと呼ばれ、市内に重要なローマン道路が交差していた。フォルム(古代ローマ都市の公共広場)は、現在の市庁舎にあったようで、1897年の市庁舎建設中に女神像が三体発掘されたという。女神像は「ファブリキウスの家」に展示されている。
4世紀には、堡塁を持つローマ城壁で町が覆われることになった。


1092年には、ローマ城壁の場所に木製の要塞を建造するが、その後火災により消失してしまう。1297年から1340年の間には、4世紀のローマ城壁の基礎の上に高さ8~10メートルの要塞壁が造られ、北門の上にゴシック様式で「ローマ門タワー」が建てられた。主要な邸宅は城壁内に移転して城塞都市となる。1529年、オスマン帝国は、多くのハンガリーの町を破壊し占領するものの、ショプロンはオスマン帝国領とならなかったため、オスマン帝国領から移住してきた人々により町は拡大していく。


こちらは1605年のショプロンの町を描いた銅版画で、オスマン帝国の宗主権下におかれていたトランシルヴァニア公ボチカイ(1557~1606)による攻撃の様子が描かれている。ショプロンの町は丘の上に壁で覆われており塔が二棟建っているのが分かる。この攻撃によりショプロンの町は破壊されてしまう。


ショプロンの町は再建されるものの、1676年に発生した大火に見舞われ、ほぼ消失してしまう。塔内にある覗き窓にはスクリーンが貼ってあり、町が炎で次々に燃え移っていく様子を視覚的に見せてくれる。この演出は凄い。。ちなみに、この火災で「火の見塔」も完全に消失したとのこと。


その後の復興に際してはバロック様式の建造物が多く建造され、現在の町の基礎となった。1700年当時のショプロンの町を描いた銅版画を見ると、20年余りで復興を遂げていることが分かる。旧市街の城壁の外側には堀が造られているが、その堀は聖母塔があった広場にあたるのだろう。そして町は堀の外にも広がり、大きく町全体を取り囲む外壁で覆われている。
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展示物を見ながら上って行くと、辺りが明るくなり円柱が並ぶアーケードに到着する。


旧市街の広場を見下ろすと、正面に薬局博物館があり、右側には山羊協会の尖塔が聳えている。更に後方に見える尖塔は、1782年から1983年にかけて、後期バロック様式、古典様式で建てられた「エヴァンゲリクス教会」で、巨大なパイプオルガンがあることで知られている。全景には山々が連なり中々の眺めである。
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館内には、ショプロンの旧市街の模型が展示されている。左下の聖母塔のある広場から建物の下の斜めの道に入り、ひと際大きな市庁舎を回り込み「火の見塔」まで歩いた経路を俯瞰的に確認できる。


博物館を出て広場を散策していたら、観光用のトレイン・バスが現れた。テーマパークにいるようで楽しい。小さな町だが、歴史が詰まった町で大変勉強になった。


さて、これから、ハンガリーの旧国境ゲートを越えて、オーストリアに戻る。国境には警備員が居て、遮断機や移動式ゲート、コーンなど、いつでも封鎖できる状態にあるが、特段何のお咎めもなく通り過ぎた。ところで、この場所は、1989年8月、旧東ドイツ国民がショプロンからピクニックと称してオーストリアに大量越境したことで知られている。


当時東ドイツから同じ東側陣営のハンガリーへの旅行は許されていたことから、旧西ドイツ国民は、チェコスロバキアを経由してハンガリーのショプロンとオーストリアとの国境付近の緑が広がる一帯に東ドイツ市民を集めて、オーストリアを経由して西ドイツへ脱出させた。この「ピクニック事件」がきっかけとなり、ベルリンの壁が壊され、東西冷戦は終結に向かうのである。

旧国境を過ぎ、5キロメートルほど、畑の一本道を北上し、東西に延びる通りを右折して、更に4キロメートル進むとオーストリア・ブルゲンラント州のルストに到着する。ちなみにルストから南に5キロメートル南に行くとメルビッシュ・アム・ゼーになる。

ルストは、ノイジードル湖畔に位置している人口約1,700人の小さな町で、1681年にはハンガリー王臣下のエステルハージ家が統治した。オーストリアでは有数のワインの産地で、いたるところにワイナリーがある。カトリック教会の東側にあるホイリゲ横から小さな市門をくぐって道なりに進むと町の中心「ラートハウス広場」に到着する。


広場の西端には「プロテスタント教会」と右隣に「市庁舎」が建ち、その隣にはハンガリー風のパステルカラーの建物が並んでいる。屋根の煙突には、コウノトリが巣を作っているのが見える。ノイジードル湖は、野鳥の保護区でもあり、毎年夏には地中海からコウノトリが渡ってきて、このように巣を作る姿が見られるとのこと。


時刻は昼の12時を過ぎたところ、昼食は、広場の南側にあるレストラン(Wirtshaus im Hofgassl)で頂くことにした。


お店のアーチ門から中に入ると、白壁と緑に覆われた石畳の通路が続き、進んだ先に中庭のテラスがある。


テラス全体が見渡せる席に座って、まず最初にビールを頼んだ。木漏れ日の下で頂くビールは最高であった。


料理は、前菜として、ベジタリアン・タブーレサラダ、ミントキュウリとトマトのビネグレット(13.6ユーロ)。新鮮で瑞々しいサラダは、目が覚めるようだ。


魚は、オーストリアでメジャーなザイプリング(淡水魚)フィレとパセリクリームと自家製ジャガイモ入り(25.9ユーロ)である。魚の焼き加減と言い、濃厚だがしつこく感じないクリームソースと魚の身との相性は見事である。パンと一緒に出てきたオリーブオイルやバターなども、爽やかな香りが素晴らしかった。


パスタはもちもちとした食感のねじりショートパスタ(19.9ユーロ)で、キノコとチャイブ(ハーブ・ネギ)がチーズソースに絡み大変美味しい。撮影を忘れ少し食べてしまった。料理は、そこそこ良い値段であるが、星付きに匹敵するほどの、洗練された味であった。もし、再来する機会があったら、夜の食事も体験してみたい。


ルストから東に1.5キロメートルほど行った所に広い駐車場があり、その先がノイジードル湖畔になる。湖面にはレストランや、レンタルボートの乗り場などがある。ノイジードル湖は、南北に約36キロメートル、東西約6キロメートルから12キロメートルもの広大な面積を誇っている。しかし、水深は深いところでも2メートルほどしかないことから、これまで、何度も干上がったことが記録されている。


これから、ルストから北西に道なりに15キロメートル行ったアイゼンシュタットに向かう。街道沿いには、ワイン畑が広がっている。


前方にアイゼンシュタットの町並みが見えてきた。アイゼンシュタットは、ブルゲンラント州の州都だが、北側に広大な森が続き、南にはワイン畑が広がる緑の多い自然豊かな都市で、現在人口は12,000人ほどの小さな町である。ハンガリーに帰属する前のショプロンがブルゲンラント州の州都候補だったことは頷ける。


そんな、小さな町、アイゼンシュタットを有名にしているのは、大作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)が宮廷音楽家として仕えたエステルハージ家の「エステルハージ宮殿」があることによる。宮殿は、町の中心部からハウプト通りを400メートルほど西に行った場所になるが、車の場合は、宮殿のすぐ西側を通る街道側のゲートから入場できる(ゲート手前に地下駐車場がある)。


宮殿は、ハプスブルグ家の土地に13世紀後半に建設されたのが始まりで、1622年からハンガリーのエステルハージ家の所有になった。1663年から1672年にかけてエステルハージ・パール侯爵(1635~1713)により、バロック様式で改築され、更には1797年から1805年にニコラウス・エステルハージ侯爵(1765~1833)時に、新古典主義様式に再び改築され現在に至っている。
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宮殿正面のアーチ門を入ると通り抜けになっており中庭に出る(チケットショップはアーチ門を入った所)。一辺20メートルほどの正方形の中庭で、西~北~東の三方にも扉口があり、目的の場所に向かうことができる。宮殿の側面壁の色は正面入り口側のクリーム色と異なり白で統一されている。グランドフロアの上には、アーチやバルコニー文様で縁取りされた壁面に1階から3階までの大小の窓が並んでいる。


最初に、最大の見所、ハイドンザール(ハイドンホール)を見学した。世界で最も美しく、音響的に完璧なコンサートホールにランクされている。エステルハージ家に40年近く仕え数多くの作品を作曲したハイドンに因んで名付けられた。作品の多くはこの場所で初演されている。ハイドンザールは、宮殿の北翼の大部分を占めており、中庭に面する3つの窓がうまくデザインに取り込まれている。


座席は木の床(床は当初は大理石)に移動可能なものが並べられている。これは、ホールが、もともとは演奏会を前提にしたものではなく、舞踏会や晩餐会などを目的として作られたことが理由である。

ホールの壁画と天井画は、17世紀のスイス、イタリアのバロック画家カルポフォロ・テンカラ(1623~1685)によるもので、2世紀帝政ローマ時代の弁論作家アプレイウスの「変容(または黄金のロバ)」を題材とした作品で、若く美しい少女プシュケーと、ヴィーナスの息子クピドとの恋の物語が描かれている。中央の大きな壁画は「クピドとプシュケの結婚」で、周りの6枚の長方形のパネルには、二人の生活に関連する場面が描かれている。
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十字形のパネルにはギリシャ神話「ヘスペリデスの園」からの場面が描かれ、メダリオンには、ハンガリー王国の戴冠の証で知られる「聖イシュトヴァーンの王冠(ハンガリーの聖冠)」の説話が描かれている。側壁には、イシュトヴァーン1世(969~1038)から皇帝レオポルド1世(在位:1655~1705)までのハンガリー君主の胸像が描かれたメダリオンが飾られている。


第一次世界大戦後の1918年、これまで中欧に君臨し続けたハプスブルク家の帝国「オーストリア=ハンガリー帝国」が崩壊し、エステルハージ家も存亡の危機に見舞われる。オーストリア共和国とハンガリー共和国との二つの地域に分断された上、第二次世界大戦後には、ソ連の管理下に置かれ独房監禁生活を送るなど、当主エステルハージ・パール・ヴィクトール侯爵(1901~1989)の心労は絶えまなく続いた。そんなどん底時代の1946年に、バレエ・ダンサーだったメリンダ・オットーベイ(Melinda Esterházy)(1920~2014)と出会い結婚する。


館内には、プリンセス・メリンダのゆかりの品が展示されていた。数点のモノクロ写真は、苦しい時代にも関わらず、プリンセス・スマイルが印象的で、周りの人々にとっても心の支えになったのだろう。メリンダは、パール・ヴィクトール侯爵が亡くなった後、文化的および歴史的遺産を保存するための基盤としてエステルハージ財団を作り、宮殿や美術品などの維持・管理に努めた。


他にも陶磁器や、


銀製品の調度品が展示されている。


こちらには、歴代当主の肖像画やそれぞれの時代のゆかりの品が収められている。手前に飾られた肖像画は、エステルハージ・パール・アンタル侯爵(1711~1762)で、彼は、音楽のよき理解者であった。自らヴァイオリン・フルート・リュートを演奏し、膨大な楽譜の写本目録を完成させた。パトロンとしても、音楽に重要な役割を果たし、作曲家グレゴール・ヨーゼフ・ヴェルナーを宮廷楽長として雇い、後年1761年、高齢になったヴェルナーの補佐として副楽長として雇ったのがハイドンであった。


ハイドンのオーケストラのための楽譜スケッチなどが展示されている。


こちらは、ミュンヘンの著名な弦楽器商フェルディナント・ヴィルヘルム・ヤウラに制作を依頼し1934年に完成したバリトンで1936年にミュンヘンで開催された近代最初のバリトン演奏会で使用された。1782年制作のジーモン・シェドラーのバリトンのレプリカとして制作されたものである。


ハイドンのパトロンであったニコラウス・エステルハージ侯爵(1765~1833)は、バリトンの愛用家で、ハイドンは侯爵の為に175曲(126曲は、ヴィオラ、チェロ、バリトンの三重奏)ものバリトン用の曲を書いたと言われている。バリトンは、擦弦楽器の一つで18世紀末まで東欧の一部で用いられたが、演奏するのが難しく、調律も難しいため、現在でも演奏されるのは稀である。

時刻はまもなく午後4時になる。今日は午後6時40分発の大韓航空で日本に帰国する予定となっている。名残惜しいが、急ぎ空港に向かった。
(2018.7.14~15)

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オーストリア・ザルツカンマーグート(その2)

2018-07-13 | オーストリア
ザルツブルグを出発して、1時間ほどで、前方にヴォルフガング湖が見えてきた。左に大きく曲がる街道(158号線)右側には、湖を一望できるビューポイントがあり多くの車が駐車している。その先の「聖エギディウス教会」が建つ場所が、湖の最西端の町ザンクト・ギルゲン(St. Gilgen)である。
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※聖エギディウス教会は、聖ギルゲンのラテン語読みで聖アエギディウス(650頃~710頃)のこと。

その大きく左に曲がった街道は、今度は大きく右に曲がりながら下って行く。ロープーウェイが横断する左側の観光案内所前を大きく回り込む様に左折すると、プチホテルが並ぶ通りになり、前方に町を代表する「ホテル・ガストフ・ツアポスト」が見える。


街道からは100メートルほどで「ホテル・ガストフ・ツアポスト」が建つザンクト・ギルゲンの中心広場に到着する。


ホテルの向かい側には玩具の様な愛らしい市庁舎が建ち、その前の円形の花壇中央にバイオリンを弾く幼いモーツァルト像が飾られている。「モーツァルトの泉」と呼ばれ、辺り一帯はモーツァルト広場と名付けられている。そして、そのモーツァルト広場を取り囲む様に、花で飾られたショップや、モーツァルトの鉄看板を飾る建物などが建っている。


モーツァルト広場から、通りを東に向かうとすぐ右側に「聖エギディウス教会」が聳え、更に100メートルほど進んだ左側に「モーツァルト・ハウス」がある。


ここは、モーツァルトの母アンナ・マリアが生まれた家で、その後、アンナは、レオポルト・モーツァルトと結婚して、7人の子供を設けたが、そのうち5人が乳児のうちに亡くなったという。生き延びたナンネルとヴォルフガング(モーツァルト)の姉弟二人は子供時代から楽才があり各地で演奏旅行を行った。その後、このアンナの生家には娘のナンネル夫妻が暮らしたが、1983年からモーツァルト博物館として公開されている。

モーツァルト・ハウスの東側は、通りを挟んでヴォルフガング湖に面しており、すぐ南側には船着き場がある。この場所からザンクト・ヴォルフガング方面への遊覧船が発着している。


予定より少し遅れたが、次に、20キロメートルほど東のバート・イシュルに向かう。。


バート・イシュルは、ザルツカンマーグート・エリアでは中央部にあり、南からのトラウン川と西からのイシュル川が合流する内岸に位置(標高468メートル)する人口1万4000人程の小さな町である。16世紀には、岩塩坑が開かれ、その後、鉱泉水が医療用に使用され、多くの著名人も訪れる湯治場として栄えた。

目的地の「カイザーヴィラ(Kaiservilla)」への到着は午後3時頃を予定していたが、既に午後3時40分である。急ぎ、イシュル川の南側にある入口でチケット(ヴィラの見学と公園料金で15ユーロ)購入し、イシュル川に架かる橋を渡り、北方向になだらかに上る遊歩道を駆け足で進んだ。5分ほどで、大きく左にカーブした南側に建つヴィラに到着した。
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カイザーヴィラは、起伏のある丘を活用したイングリッシュ・ガーデン・スタイルの「カイザー・パーク」内に建つハプスブルグ家の公邸である。もともとは、ウィーン公証人ビーダーマイヤー邸だったが、1853年、この地で結婚したフランツ・ヨーゼフ1世(当時23才)(1830~1916、オーストリア皇帝在位:1848~1916)と、エリーザベト(シシィ)(当時16才)(1837~1898)へのお祝いとして、翌年、皇帝の母ゾフィーによりプレゼントされたもので、その後は皇帝家の夏の住居となった。

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は「地上の楽園」と呼んでこのヴィラを愛した。ウィーンの厳格な宮廷生活に馴染めなかったエリーザベトは、頻繁に旅行に出かけるなど逃避していたが、このヴィラでの生活には心が癒されていたという。

ヴィラは、中央部に柱廊を持つ新古典様式で建てられ、上部のペディメントには白い鹿の群れの彫刻があしらわれている。両翼から手前に張り出している建物部分は後程拡張されたもので、上空から見ると、エリーザベトの頭文字”E”になっている。
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見学はガイド・ツアーでのみ可能のため、ガイドからの呼び出しがあるまで、参加者はヴィラの美しい泉の前で写真撮影などしながら待機していた。
蔓で覆われた正面から公邸内に入った「控えの間」の壁に飾られているのは、すべて皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が射止めた狩猟の記念品だそうだ。皇帝は少年期から狩猟が趣味で、皇帝になった後も、狩りのための別荘を建て、自ら猟銃を背負い狩人さながらの恰好で山腹を歩き回るほどであった。
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午後4時になると、ガイドが現れツアーがスタートした。ガイドの説明はドイツ語のみのため、希望する場合は、他の言語のA4(4枚)の説明書(日本語版あり)が貸与される。参加者は十数人程度で、邸宅内の写真撮影は禁止であった。

ツアーは右側の階段を上った「灰色のサロン」から始まり、礼拝堂、皇后の書斎、赤のサロン、婦人用待合室、馬の間、紳士用待合室、帝国内閣メンバー用待合室、狩猟の間、喫煙室、元の食堂を見学した。

こちらは、皇帝の書斎で、皇帝は執務を毎朝4時15分から始めていたという。1914年7月28日、第一次世界大戦のきっかけとなったセルビア王国に対するオーストリアの宣戦布告に署名したのもこの書斎である。皇帝は、60年にわたりこの地を頻繁に訪れたことから、オーストリア・ハンガリー帝国の政治の中枢の場所であったとも言える。机には15才時の姿のエリーザベトの胸像が置かれている。

※案内リーフ記載の写真より

皇后の書斎には愛馬の絵や多くの写真が飾られている。皇后エリーザベトは、イギリス、スコットランド、アイルランドなどの馬術大会にも出場し、世界にも名前がとどろくほどの乗馬の名手だった。また、エリーザベトは、写真技術が発明されてまもない頃から、写真にやみつきとなり、家族や愛馬などを数多く撮っていた。当時の多くの写真が飾られている。

※案内リーフ記載の写真より

フランツ・ヨーゼフ1世は、自らを帝国の一兵士と見なした禁欲主義者だったこともあり、寝室も兵舎にあるようなシンプルな鉄製ベッドと洗面台と祈祷台が置かれただけの質素なものだった。他の部屋も豪華さの中にも華美なものは極力廃された落ち着いた造りで、調度品も一つ一つ丁寧に作られた品々が多い印象だった。

ちなみに、カイザーヴィラは、現在もハプスグルク家の私邸として、皇帝の曾孫にあたるマルクス大公の所有となっている。

ツアーは40分弱で終了した。閉館時間の午後5時まで若干時間があるので、カイザーヴィラから少し離れた公園内にある「エリーザベト皇后のために建てられたコテージ(大理石の城)」に急ぎ行ってみる。ヴィラを出て左側に向かい北側に延びる坂道を歩いて行くと、途中右側の木々の合間から美しい自然に囲まれた丘にヴィラを望むことができる。この場所からヴィラを見ていると、時代を超えてフランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベトが馬に乗り駆けている姿が目に浮かぶようだ。。
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しばらく丘を上って行くと、木々に囲まれるようにピンク色の大理石で造られた建物が建っている。こちらが、エリーザベトのために1860年に建てられたコテージで、現在は写真博物館として公開している。
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建物の周りは回廊になっており、壁面にはエリーザベト皇后に関する展示が飾られている。扉を入ると見学時間が終了したと伝えられた。しかたがないので、建物の外壁に取り付けられた展示を見学して、出口に向かった。


辺りに観光客はいなくなったので、少し急いで出口に向かった。イシュル川に架かる橋を渡るとまもなく出口である。すると、ヴィラから車に乗った係員がやってきて、敷地を出ると同時に鉄扉は閉じられた。少し慌ただしかったが、よく無事に行程をこなすことができた。。


すぐ先の東西に延びるゲッツ通りには、カイザーヴィラと大きく異なり建物が立ち並んでいる。少し市内を散策しようと、ゲッツ通りを右折して進むと、柱廊のある宮殿の様な外観の映画館があり、その隣の赤い建物の1階に、皇帝御用達の薬局(Kurapotheke)がある。お土産を買おうと思ったがあまり触手の伸びる品はなかった。


映画館左側の三叉路を南に曲がり、映画館の建物沿いにあるお姉さんの居るジェラード屋でジェラードを買う。大きなホテル・ツアポストの1階にあるギリシャ料理店の向こうに、バート・イシュル教区教会のファサードが現れる。


教区教会を右手に見て通り過ぎるとすぐに、右側にトリンク・ハレと名付けられた施設が現れる。こちらではギャラリーなど催しが行われており、バート・イシュルのインフォメーションセンターもここにある。


すぐ南にはトラウン川が流れており、橋を渡った川沿いには、オペレッタ「メリー・ウィドウ」などで知られるオーストリア・ハンガリー帝国生まれの作曲家フランツ・レハール(1870~1948)が、晩年を過ごした館が残されている。レハールヴィラと呼ばれ、現在はミュージアムになっている。


まだ午後6時半だが、昼はケバブだけでお腹が減ったので、予約したレストランに向かう。バート・イシュルからは、西に2.5キロメートルほど離れたクロイターン村にある。


レストラン「Nocken Toni」は、オーストリア料理を中心とした人気店だが、まだ、夕食時間には早いせいかテラス席は空いている。


飲み物は、ツィップ(アッター湖北部の村)産のビール、ツィプファー(Zipfer)(3.4ユーロ)、リースリング(4.4ユーロ)、ブラウフレンキッシュ(6ユーロ)などを頼み、前菜はサラダ(4.9ユーロ)を頼んだ。新鮮なサラダで大変美味しかった。


メインには、ザイプリング(Saibling)(23.8ユーロ)呼ばれ、オーストリアでは、良く食べられるメジャーな魚(淡水魚)を頼んだ。色目は鮭に似ているが、鱒の食感に近いものがある。魚の下には、リゾットが隠れ、一番上にエビが乗っている。


こちらも、オーストリアの伝統料理の一つ、鹿肉(Rehnüsschen)(25.8ユーロ)を頼んだ。肉は臭みはなくやや淡泊な印象があり、慣れていないせいもあったかもしれないが旨みは今一つといった感じ。


翌朝は早く出発する予定もあり、食事は早めに切り上げて午後9時頃ホテルに戻った。日の入り時間は過ぎたが、辺りはまだ明るく景色をゆっくり眺めて一日を終えた。


*******************************

朝7時過ぎに朝食抜きでホテルを出発して、ハルシュタットに向かう。ホテルを出て10分ほどでバート・イシュルを過ぎ、街道は大きく右に曲がり南下して行く。右側に見える教会は、ラウフェン(Lauffen)村の教区教会である。


ラウフェン村から10分ほどで前方右側にハルシュタット湖が見えてきた。ハルシュタット湖は、南北8キロメートルほどの細長い湖で、表面積は8.55平方キロメートル、最大水深は125メートルある。その中心の町ハルシュタットへは、湖西側を6キロメートルほど南下したところになる。


ハルシュタットは、ザルツカンマーグート・エリアの奥にそびえるダッハシュタイン山塊の山麓に位置する小さな町だが、世界で最も美しい湖畔の町の一つと言われ、1997年には世界遺産「ハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観」として登録されている。ちなみにハルシュタット(Hallstatt)のHallはケルト語で「塩」、Stattはドイツ語で「場所」を意味している。

ハルシュタットの中心地へは、山間部を通るトンネルに隣接する駐車場から階段を下りて向かうことになる。

この場所は、その駐車場から10分ほど歩いた湖上遊覧船の発着場である。なお鉄道でハルシュタットに来る場合は、湖の東対岸にあるハルシュタット駅そばの船着場から渡し船を利用(乗船時間10分)するため、この場所は湖の玄関口とも言える。
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案内板によると、湖を周遊する遊覧船の営業は午前10時40分からで、1日3~5便を運航している。運航時間は、80分(13ユーロ)と50分(10ユーロ)があるようだ。他にも貸し出し用ボートとして、手漕ぎボートが11ユーロ、電動ボートが17ユーロと20ユーロの2種タイプ(いずれも1時間)がある。


ハルシュタットはザルツカンマーグート・エリアで最も人気のある観光地のため、常に大混雑するのだが、この時間は、まだ人通りも少なく、何とも静かな佇まいである。


湖面を眺めていると、白鳥がのんびり気持ちよさそうに泳いで行く。。


湖上遊覧船の発着場から振り返ると、湖に隣接する山裾に張り付く様に建つカトリック教会(マリア教会)や歴史的な切妻屋根の建物が並んでいる。カトリック教会は、12世紀にロマネスク様式で建築され、現在の建物は16世紀に建て替えられたもの。後期ゴシック様式の可動翼のある祭壇画と、約1000個に及ぶ頭蓋骨が納められた納骨堂(バインハウス)が見所。

手前左側のテラス席のある建物は、3棟の歴史的建物からなる「ヘリテージ・ホテル・ハルシュタット」で、ハルシュタットでは数少ない大型ホテルである。そのテラスの横にはハルシュタットのインフォメーション・ボードがある。
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ホテルの左側の通りを挟んだ向かい側にハルシュタットのランドマーク「プロテスタント教区教会(オーストリア福音派)」の尖塔が聳えており、教会に沿って南に向け通りが延びている。

通りからヘリテージ・ホテルを振り返って見ると、ぽっかりと穴が開いた様なくぐり門が見えるが、あの門の向こうから湖畔に沿って北側にゴーザウミュール通りが続いている。なお、ハルシュタットを紹介する写真には、この通りの先にあるビュースポットから撮影されたものが、良く使われる。
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通り沿いにあるプロテスタント教区教会の扉口から中に入ると、すぐ正面(東側)に小さく張り出したアプスを持つ主祭壇があり、祭壇左右の窓からは、朝日が眩しいほどに差し込んでいる。教会内は木製の平天井で、礼拝席が多く3階まであり、全体的にシンプルな構造である。この時間は礼拝者は誰もいなかった。

扉口を出て通りを教会に沿って左に進むと、すぐにマルクト広場になる。このマルクト広場からだと、プロテスタント教区教会の高い尖塔も写真に収めることができる。
正面の窓辺の花が可愛いクリーム色の建物1階には、レストランとジェラート店があるが、まだ営業していないようだ。
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左側に視線を移すと、ピンク、水色、オレンジ色など色とりどりの小さな建物が広場を取り囲んでいる。背後の山の岩肌がむき出しになっている箇所が、トンネル内から隣接する駐車場で、このマルクト広場へは、路地裏から続く石段を下りてくると到着する。そして、その石段は、更に左上に続く白く見える登山道に繋がり、頂部にある展望台方面へと続いている。
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マルクト広場から南に続く目抜き通りのゼー通りを歩くと、すぐ先で再び湖畔沿いの通りとなる。右側の「のぼり旗」は「ハルシュタット博物館」のもので、緑の内側に博物館は建っている。


ゼー通り沿いから湖の南側を眺めると小屋の向こうにラーン地区の町並みが見える。そのラーン地区から、マルクト広場の真上に見える山頂へのケーブルカーが運行している。


それでは、そのラーン地区からケーブルカーに乗り山頂に向かうことにする。


ケーブルカー麓駅は、午前9時前にも関わらずそこそこ並んでいた。少し待たされた後、乗り込むと、ケーブルカーは急斜面を勢いよく上って行き、5分ほどで山頂駅に到着した。


山頂駅を出ると、黒色の鉄筋で組み立てられたエレベーター棟があり、上部から白い建物のある隣の頂まで横断橋が延びている。この白い建物のそばに「世界遺産展望台(スカイウォーク)」がある。階段を上って横断橋に行くのが正式のルートだが、楽をしてエレベーターで横断橋まで上った。。
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横断橋の終点にある白い建物には絶景の見えるレストランがあるが、この時間(午前9時8分)はまだ営業していないようだ。


ところで、昼時にハルシュタット湖を眺めながら休憩した。眺めは素晴らしいが、どちらかというと空気が澄んだ朝の方が絶景感は堪能できる。日差しが強くパラソル内でも暑かったせいか、テラスは混雑していなかった。

世界遺産展望台(スカイウォーク)へは、レストラン入口手前の階段を下りて行ったところにある。この場所からもザルツカンマーグートの峰々や湖をも下ろす絶景が広がっている。


世界遺産展望台は、胸ほどの高さの金網フェンスで囲まれた三角形の見晴らし台が空中に突き出ており、先端に立つと鳥になったような気分が味わえる。まだ、早い時間なので、ゆっくり見渡せるが、遅い時間だと大混雑であろう。。


展望台から下を覗き込むと、先ほどまでいたハルシュタットの船の発着場、プロテスタント教区教会、マルクト広場などもはっきり見える。しかし、まるで玩具で作られた町のようだ。ちなみにマルクト広場の標高は532メートルで、この展望台は標高855メートルある。
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湖面は、碧く穏やかでまるで鏡のようで、太陽の光が眩しく反射している。対岸の斜度が大きい山の左下の湖畔の白く見える箇所にハルシュタット駅がある。駅近くの船着場から手前のハルシュタットまで渡し船が運行しているわけだ。そして、右側の湖湾内に見える町並みは、オーバー・トラウン(Obertraun)で、トラウン川が湖に注ぎ込んでいるのが見える。
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オーバー・トラウンから、湖畔に沿って右側に視線を移していくと、ケーブルカー麓駅があるラーン地区が見える。
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これから「ハルシュタット岩塩坑」のガイドツアーを予約・購入(ケーブルカーとのコンビチケット30ユーロ)しているので集合場所に急ぎ向かう。岩塩坑は、古代ローマ以前にまで遡る世界最古の塩の採掘所で、現在も操業中とのこと。事前にチケットを購入していたが時間に遅れてしまった。場所は西に続く尾根道を歩いて行った先になる。
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急ぎ坂道を上って行くと、途中に真新しいガラス張りの展示室が建っている。


展示室には、発掘品らしき遺物が展示されている。ところで、これから向かう岩塩坑からは、古代の墓地遺跡が発見され、ハルシュタット文化の由来となった。ハルシュタットは塩の交易により先史時代から繁栄しており、初期鉄器時代(紀元前800年~400年)はハルシュタット時代と呼ばれていた。展示の大きな壺の反対側には、装飾品と一緒に人骨が展示されており少し驚いた。


この人骨ではないが、1734年に岩塩の坑道から塩漬け状態の人間の遺体が発見されたという記録が残っており、その遺体と同時に発見された衣類や道具から、この遺体は先史時代の岩塩の鉱夫で、落盤などの事故により岩塩内に閉じ込められたと考えられている。この遺体はソルトマンとも呼ばれ、その後は埋葬されたと伝えられている。

展望台からは15分ほど尾根道を歩き、ようやく前方に見える岩塩坑ツアーの集合場所に到着した。このあたりで、標高は950メートルになる。予約の時間は過ぎているのだが、参加者が少ないのか、相当数に達するまで待っているように感じた。なお、岩塩坑の見学は毎年4月の最終週から10月26日まで行われている。


結局15分ほど待たされた後、作業服に着替えてツアーが始まった。最初にテーマパークのスタッフのような軽いノリで説明があり、線路のあるトンネルから岩塩坑の奥深くまで歩いて進んだ。


中世の頃、岩塩は「白い黄金」と呼ばれほど価値のあるものだった。ハプスブルグ家は白い黄金のためにハルシュタットを直轄地として手厚く保護したほどである。100名ほどが入れそうな岩塩採掘場では、岩塩が、地殻変動により隆起して海水が陸上に閉じ込められできた様子などを幻想的な映像を駆使して紹介していた。


岩塩坑で、最も人気のあるアトラクションは、木製の鉱夫の滑り台である。2か所あるが、後半は、なんと64メートルもの距離があり、スリル満点である。滑っている途中の絶叫する姿を写真に撮ってもらえる(別料金)。


先史時代に岩塩を掘っていた人たちが残した道具の数々を見ながら塩坑の歴史や操業の工程などの説明を受ける。中でも、先史時代の採掘の痕跡である3500年前に鉱夫が利用した木製の階段はヨーロッパで現存する最古の木製の階段である。


最後はトロッコにまたがり、出口へと向かう。概ね1時間の見学ツアーであった。塩坑内は、事前に寒いとの情報があったが、この日は涼しさが快適だった。


尾根道を展望台方面に戻って来ると、途中で、次々と自転車が上って来る。そういえば、今朝、ハルシュタットまでの途中の村の街道沿いにおびただしい数の駐車車両が続いて、ロードレース参加者が集まっていたが、この場所がゴール地点だったようだ。それにしても、山頂がゴールとはかなり過酷だ。
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階段を下りるとケーブルカー山頂駅に到着である。ところで、ハルシュタット湖の対岸に見えるオーバー・トラウンの麓からはロープウエイのダッハシュタイン・クリッペンシュタイン・ザイルバーンが運行しており、背景に聳えるクリッペンシュタイン(2108メートル)の展望台から白銀の峰々を眺望することができる。しかし今回は時間がないので行けないが機会があれば是非行ってみたい。
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再びケーブルカーで、麓のラーン地区に戻る。麓駅に併設されているショップで、岩塩グッズをお土産に買ってハルシュタットを後にした。

街道を湖に沿って南下して、ハルシュタットから2キロメートルほど行った湖最南端の湖畔公園からハルシュタットの町並みを眺めてみる。


湖畔公園からは、ラーン地区から延びるケーブルカーの軌道がはっきり見える。対する右側のハルシュタット町中から絶景レストランまでうっすらと延びる線は登山道であろう。山頂駅のある高地も、この離れた場所から眺めると、周辺の2000メートル級の稜線の中に取り込まれてしまい目立たなくなっている。
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湖を真北に眺めると、自然景観でありながら、これほどシンメトリーな景観に遭遇できるのは極めてラッキーではないかと思った。
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時刻は、午後1時になり、お腹が減ったので、オーバー・トラウンの郊外にあるレストラン「Gasthaus Koppenrast」に行ってみる。ハルシュタット市内は観光客で混雑するので、少し郊外で美味しいレストランがないかと探した所、評価が高かったのだ。


レストランは、清流が流れるトラウン川を橋で渡ったすぐ右側の森の中に建っている。レストランは、かなり町からは離れているにも関わらず混雑しており、期待値が高まる。。
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ちょうど空いたテラス席に座り、料理は、ハルシュタット湖名物のライナンケのグリルを頂いた。ライナンケはハルシュタット湖周辺にのみ生息する固有の川魚で希少価値が高い。身の旨みや触感はヤマメに似ており皮のパリパリ感や香ばしさも良く焼き方も抜群である。


こちらは、昨夜のレストランで頂いた同じザイプリングという湖産の魚のスープバージョンである。こちらも美味しいが、ライナンケのグリルには負ける。

(2018.7.13~14)

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オーストリア・ザルツカンマーグート(その1)

2018-07-12 | オーストリア
ザルツカンマーグートは、ザルツブルクの東方に位置する標高500~800メートルの高地エリアで、大小数多くの湖水が扇状に点在し、背後には2000メートル級のアルプスの峰々が連なるオーストリアの景勝地である。
最初に、そのザルツカンマーグート・エリアで最も大きい湖、アッター湖(約47平方キロメートル、南北に約20キロメートル、東西4キロメートル)の最北端にある町シェルフリング・アム・アッターゼーにやってきた。


コバルトブルーの水を湛え、ヨットが並ぶ船溜の先端に建つ建物は、カンマー城(Schloss Kammer)で、世紀末ウィーンを代表する帝政オーストリアの画家グスタフ・クリムト(Gustav Klimt、1862~1918)が描いたことで知られている。
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クリムトが描いたカンマー城の作品は、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿「オーストリア・ギャラリー」に①Schloss Kammer on Lake Attersee Ⅲ(1909/1910)と、②Avenue to Kammer Palace(1912)の2点が所蔵されている。
実際に、このカンマー城へ続く並木道を歩き、玄関前の柵越しから敷地内を眺めてみたが、木が覆い茂り建物はほとんど見えなかった。。

そのグスタフ・クリムトは、このアッター湖をこよなく愛したという。カンマー城から100メートル手前の入り江には、彼の功績を紹介するミュージアム「グスタフ・クリムト・センター」がある。扉横のエスカレーターを上った2階が展示場(入場料7ユーロ)となっている。


クリムトは、甘美で妖艶、エロスや死の香り、金箔を用いた絢爛豪華な作風などで知られているが、実は多くの風景画も残している。特に、このアッター湖付近の風景を好んで描いており、正四角形のキャンバスを使用し、平面的、装飾的でありながら静穏でどことなく不安感をも感じさせる特徴がある。


展示されている風景画はほとんどコピーであるが、写真、映像、着用していた洋服のコピー、小物、手紙などゆかりの品が展示されている。


こちらの、アッター湖全体が写された写真パネルには、それぞれのクリムト作品が描かれた場所を指し示している。地図と解説によると、1900年から1916年まで、アッター湖のカンマー(シェルフリング)、リッツルベルク、ゼーヴァルヒェン、ヴァイセンバッハの4か所のヴィラなどに滞在して作品を描いたり休暇を楽しんでいたようだ。
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40分ほど、見学した後、湖畔を少し散策して、次に、アッター湖の東岸道を一路、南に向かった。シェルフリングを出発すると、すぐに湖の対岸には、山々が連なり始めた。


アッター湖に沿って14キロメートルほど行った湖畔の町シュタインバッハ・アム・アッターゼーには、大型のキャンプ場、ウォータースポーツ施設があり、綺麗に刈りこまれた芝生の湖畔に、ウィーンで活躍した作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Mahler、1860~1911)の作曲小屋がぽつんと建っている。 


入口の扉には、Gustav Mahlerと書かれた小さな表札があり、周りの窓から小屋の中を覗くと、ピアノ、写真、他にもマーラーに関係する資料が至る所に展示されている。彼はこの小屋に1893~1896年の夏に過ごし、交響曲第2番の一部と第3番を作曲したという。


ところで、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が1971年に発表した「ベニスに死す」の主人公で音楽家アッシェンバッハは、グスタフ・マーラーがモデルだとされている。静養のためベニスを訪れたアッシェンバッハ(ダーク・ボガード扮する)は、美少年タジオに理想の美を見出すが、折しも疫病が流行するベニスの町でタジオを求めて彷徨うことになる。。作品に流れるマーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」の甘美な旋律は、誠に素晴らしく映画の評価を一層高めていた。

湖畔では多くの人が日光浴しており、リゾート気分を盛り上げてくれる。しかし時刻は午後5時半になったので、グラーベン村にある今夜の宿泊ホテルに向かうこととする。


グラーベン村は、アッター湖の南端から直線で8キロメートルほど南のウォルフガング湖の東側に位置しているが、途中に山があることから、街道は、ヴァイセンバッハから大きく東側に迂回している。距離にして30キロメートルほどになる。


ちなみに、こちらは、クリムトのForester's House in Weissenbach on the Attersee Ⅰ(1914)(アッター湖畔のヴァイセンバッハの森番の家)で、「オーストリア・ギャラリー」に所蔵されている。クリムトは、ここに描かれた「フォルスト・ハウス」を1914~1916年まで借りて滞在していた。

街道からグラーベン村のホテル「ハウス ヴィンターシュテラー」へは路地を北側に入って丘に続く上り坂の一本道を300メートルほど行った所で、ポツンと建っていたが、街道に案内表示がなかったため、いくつかの路地を行ったり来たりしてしまった。ホテルの玄関は外階段を上った2階にある。


年配の婦人がホテルを経営しているが、指定されたチェックインの時間に遅れたためか愛想が悪い。更にドイツ語しか話せないことから、コミュニケーションが取れないのも難点である。ともかく、無事チェックインを終え、3階の南向きの部屋から外を眺めてみる。東側には草原の中に、ポツリポツリと住居が見え、遠景には、山脈が続いている。
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視線を右側に移して行くと、やはり所々に住居があり、遠景に山々が連なっている。
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更に、視線を右側に移してみる。こちらはウォルフガング湖の方面である。ちなみにネットには「湖が見えるホテル」との案内があったのだが、良く分からない。しかしよく見ると右端の、お椀型の山の右側と屋根との隙間に申し訳なさそうに湖が見えた。。
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今夜は、ウォルフガング湖の湖畔の町ザンクト・ヴォルフガングのやや高台にある「レストランdSpeis」を予約している。午後8時前に到着すると、テラス席には数組の先客がいたが、店内にはお客はいなかった。


テラス席に案内され、最初にビールを頼み、次に、オーストリアの赤ワイン「シュワルツ」を頼んだ。シュワルツは、オーストリア最東部に位置するブルゲンランド州産である。


最初に前菜のサーモンのタルタル(17ユーロ)を頼み、


メインは、リブアイ・ステーキ(42ユーロ)を、付け合せにグリーン・サラダと焼きジャガイモを一緒に頼んだ。


日暮れが近づく午後8時半には、テラス席は満席になった。料理は美味しく、テラス席も居心地が良かったのか、午後10時過ぎまでゆっくり食事した。


食後、ザンクト・ヴォルフガング中心地の広場まで行ってみた。町は外灯が少ない上にレストランも閉店間際で、人通りもほとんどないことから、寂しい雰囲気である。


広場の右側3メートルほどの高さの基壇の上に「教区教会」が建っている。広場の少し手前にある石階段を上ったが、当然、教会の扉は閉じられている。基壇上から教会の反対側に行ってみると真っ暗の中、ヴォルフガング湖が広がっていた。


**********************************

翌朝、再びザンクト・ヴォルフガングにやってきた。ホテルや可愛いショップの建物が並ぶ下り坂の通りを北西方向に歩いて行く。


レストランのテラスが並び始め、通りは大きく左にカーブすると前方に「教区教会」が現れた。通りは教会前で三叉路になっている。
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教会手前を左折すると、昨夜訪れた広場に到着した。前方突き当たりに建つ赤い壁の建物は、作曲家ラルフ・ベナツキー(Ralph Benatzky、1884~1957)の代表作オペレッタ「白馬亭にて」の舞台となった「白馬亭ホテル(イム ヴァイセン レッスル)」で、2階と3階の間に楽譜が描かれている。そして「教区教会」は右側の古びた基壇の上に建っている。
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「教区教会」は924年生まれの聖ヴォルフガング自身により建てられた。ヴォルフガングはレーゲンスブルクの大司教を務め、亡くなった後、聖人に叙された。教会は中世の頃に巡礼地として賑わったが、15世紀に火災にあいその後、後期ゴシック様式で再建される。現在の建物は17世紀にバロック様式で新たに建てられた。


教会は、広場側(東側)に面してステンドグラスのある内陣があり、シンボルの塔は湖側(南側)に建っている。教会内へは北側にある扉口から入る。
教会に入った左奥の内陣を飾る祭壇飾りは、ミヒャエル・パッハーが1481年に制作したもので、オーストリアにおける後期ゴシック芸術の最高傑作の祭壇の一つと言われている。
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祭壇飾り中央には、木彫り(菩提樹)に黄金で塗装された多くの人物が表現され、左右に2枚ずつ計4枚の板絵が配されている。しかし、この4枚の板絵は裏面にも絵が描かれ、その両面に描かれた板絵は左右ともに2枚重なっている。このことから計16枚の板絵が描かれており、平日や祝日の行事毎に扉を開け閉めして異なる板絵を見せる可動翼となっている。
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近くからじっくりみてみよう。中央に王冠を被るキリストの前に跪く聖母マリアがいて(聖母戴冠)、2人の上には精霊のシンボルである鳩が飛び立っている。周りの天使たちは歌い、キリストと聖母マリアの足元には、様々な角度から二人の衣を持ち、敷物を支える天使たちがいる。左端には、教会を持つ聖人ヴォルフガングが、右端には聖ベネディクトが表現されており、王冠、髪、衣の襞に至るまで、どの場面も緻密に彫刻されており大変驚かされる。
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上部の巻き蔓の尖塔も細かく彫刻され、十字架のキリスト像を中心に多くの聖人や天使が表現されている。
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可動翼の4枚の板絵は、左上が「キリストの降誕」、左下が「キリストの割礼」、右上が「神殿奉献」で、右下に「マリアの死」が描かれている。そして、祭壇飾りの最下部にあたるプレデッラの中央には「キリストを拝む聖三王」が表現され、その左側には「マリアのエリサベト訪問」が、右側には「エジプトへの逃避」が描かれている。
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教会身廊の中央部にも見事な黄金の彫刻祭壇が飾られている。マヌエル様式の螺旋状の柱に多くのクピードー(キューピッド)が表現されている。
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教会の湖側には、転落防止用に石壁が続いており、アーチからヴォルフガング湖を眺めることができる。


ヴォルフガング湖に向かって左側には、湖に張り出した「白馬亭ホテル」の専用プールやジャグジーが見える。前面には、青く澄んだ湖が広がり、対岸には山が続いている。


白馬亭ホテルの右側にある細い路地を進むと1階に土産物店などがあるホテルやペンションの建物に囲まれた広場が現れる。


そして広場の目前には湖が広がり、遊覧船の船着場になっている。桟橋にはベンチが置かれ、座って湖を眺めると、居心地が良く時間を忘れて長居してしまいそうだ。


今日は、午後3時にヴォルフガング湖の東側に位置するバート・イシュルに行く予定だが、先に40キロメートル西に位置するザルツブルグに向かう。ただし、現地でゆっくり滞在する時間はないのだが。。

ヴォルフガング湖の東側から南側に回り込み158号線に入った後、一路西に向かう。途中、湖対岸に先ほどまで居たザンクト・ヴォルフガングの町並みと、全景のシャーフベルク山(1783メートル)が望める。山頂へは、映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも登場した登山鉄道で行くことができる。
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158号線は、ザルツブルグ市内の東側に到着するが、目的地の旧市街は市内の西側に位置しているため、渋滞が慢性化する中心部を避け、北側に迂回して向かった。

迂回した後は順調に走行し無事到着した。正面に見える岩山の中に大型駐車場があり、その岩山の向こうがザルツブルグの旧市街になる。


ザンクト・ヴォルフガングから、ここまで1時間20分ほどとやや時間がかかった。。地図の左下のHildmann Platzから進入しBの駐車場に到着したが、あとはトンネルを歩いて右側の旧市街(アルトシュタット)に向えば良いわけだ。
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⑥横のトシャニニホーフ(Toscaninihof)に向けて進むと、トンネルの両壁には様々な広告や案内板が掲示されている。


トンネルを出ると広場になっており、すぐ横にテラス席のあるカフェがある。出口の真上は切り立った岩壁になっており、その岩壁に向かって右側に隣接する古代遺跡の様な建造物は、劇場「フェルゼンライトシュトーレ」である。


劇場名は”岩窟の乗馬学校”を表わしている。1693年、新しいドーム建築のため採石場跡に乗馬学校として建築されたもので、三層に重なった岩盤アーチは乗馬学校の観客席だったが、現在は舞台の全景となり、その手前に1549席の客席が設置されている。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の合唱コンテストの会場として登場したことでも知られている。

なお、入口鉄扉の両サイドには、ロマネスク風の天使の浮彫があり、すぐ左側の外階段は岩壁の上に行け、更に岩山への遊歩道に繋がっている。

さて、トンネル前の広場から前方の高架陸橋をくぐると、更に大きい広場があり、中央に槍とザルツブルク市の紋章の盾を持つ葉っぱで覆われたグリーンマンの様なブロンズ像が建つ泉がある。その後方にはザルツブルク大学付属教会の「コレーギエン教会(Kollegienkirche)」が建っている。
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広場から左側(西方向)には歩行者専用の大通りが続いている。しばらく通りを歩いて少し先で振り返ると、玉ねぎ型尖塔が見えるが、こちらは、べネディクト派大修道院として696年創立したオーストリア最古の男子修道院「聖ペーター僧院教会」である。そして、背景の岩山の上にはザルツブルクのシンボル「ホーエンザルツブルク城」が聳える。11世紀に造られ16世紀初頭に拡張されたが、一度も敵に占領されたことがない稀有な城塞とされている。最高所は標高508メートルで、1892年に開通したケーブルカーで上ることができる。


更に通りを歩いて再度振り返ってみる。中央やや左側の白い外壁の建物は「ザルツブルク現代美術館」で、すぐ左奥の高い塔は「聖フランシスコ教会」。そして右側のくぐった高架橋から続く建物は「モーツァルトのための劇場(旧祝祭小劇場)」で、途中から「ザルツブルク祝祭大劇場」となる。


「ザルツブルク祝祭大劇場」と右側の「ザルツブルク大学附属図書館」の間の歩行者専用の通りを更に進むと交差点になり、この先からは車道が走っている。歩道の左側には、ザルツブルク出身の指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンの功績を記念して建てられた泉「カラヤン広場」がある。広場は馬のオブジェがあることから「馬の洗い場(Pferdeschwemme)」とも呼ばれている。
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そして「カラヤン広場」の先隣のクリーム色の建物は「おもちゃ博物館」で、その先隣りは「聖ブラジウス教会」と続いている。

交差点の左側には、切り立った岩壁が続いており、トンネルから多くの車が走行して来る。このトンネルの向こうが岩山内の大型駐車場への入口であり、駐車場に入らず直進すると、この交差点に到着するというわけだ。


更に進むと通りは狭くなり、岩壁にへばりつくように、建物が並んでいる。一番奥に見える「MdM」と書かれた所がザルツブルグでの目的地となる。「MdM」とは「近代美術館」のことで、メンヒスベルクと呼ばれる岩山の上にあり、この場所からエレベーターに乗って行く。
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時刻は、午後12時40分。お腹も減ったが、午後3時にバート・イシュルへ行くためには、遅くともあと1時間以内には出発しなければならない。「MdM」の手前のビルの1階には、ケバブ屋があったので、テイクアウト(4ユーロ)して、メンヒスベルクに向けエレベーターに乗る。

「メンヒスベルクのエレベーター」を下りると美術館の前はテラスになっている。そのテラスの先の展望台からは「ホーエンザルツブルグ城」の麓に広がる豪華絢爛なバロックの街並みが見渡せる。「北のローマ」或いは「北のフィレンツェ」とも称され、探検家のフンボルト(1769~1859)は「世界でもっとも美しい都市」と評したほど。1996年には「ザルツブルク市街の歴史地区」として世界遺産に登録されている。


天気にも恵まれ、街の美しさを一層引き立ててくれている。ここまでやって来た甲斐があると言うものだ。ケバブを食べながら、ザルツブルグの街をじっくりみてみよう。

まず、一番手前の尖塔が「聖ブラジウス教会」で、その先の歩行者専用の大通り(先ほどまで歩いて来た)沿いに建つ変形四角形の面積の広い建物が「ザルツブルク大学附属図書館」である。そして、そのすぐ後方のドームが「コレーギエン教会」、その右側の尖塔が「聖フランシスコ教会」、そして、その間の奥に見える2本の尖塔の教会は「ザルツブルグ大聖堂」である。
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「ザルツブルグ大聖堂」を眺めるには少し距離があるため「フェルゼンライトシュトーレ」外階段を上った岩壁から見るのが良いかもしれない。そこからは、左側の「聖フランシスコ教会」と右側の「聖ペーター僧院教会」の間に「ザルツブルグ大聖堂」をはっきりと見ることができる。
中央のペディメントを大理石の双塔がはさむ美しいファサードで774年に前期ロマネスクで創建され、1628年には現在のバロック様式で再建された。モーツァルトは、この聖堂で洗礼を受けオルガン奏者も務めた。また、指揮者カラヤンの葬儀が行われたのもこの聖堂である。

次に、少し左に視線を移すと、ザルツァハ川が流れている。ザルツブルグは、この川を境にこちら(西側)の「旧市街」と対岸(東側)の「新市街」とに分かれている。

ザルツァハ川の水源はザルツブルク州のクリムル近郊のキッツビュール・アルプスに端を発し、ザルツブルグ市内を北側(左側)に向けて流れている。ザルツとはドイツ語で塩を意味している。ちなみにザルツブルグのザルツも同じく塩で、ブルグは城(砦)を表しており、文字通りザルツブルグは、この一帯に分布する岩塩鉱から算出される塩の取引で発展してきた。このザルツァハ川には、19世紀まで塩を輸送する船が行き来していたという。
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更に左に視線を移してみる。ザルツァハ川の対岸にある小高い丘、カプツィーナベルクの裾に見えるのが「カプツィーナ修道院」である。カプツィーナベルク丘の東に更に新市街が広がっておりザルツブルク中央駅もそこにある。

中央のシュターツ橋の下流に架かる歩行者専用の「マカルト橋」を新市街側に渡ったすぐ左側の建物は「カラヤンの生家」で、右側の横長の建物はザッハートルテで有名な「ホテル・ザッハー」。その後ろにモーツアルトが1773~81年まで暮らした家が残っている。更にその後ろに見える教会は「三位一体教会」である。
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なお、こちらは、マカルト橋上からカラヤンの生家の方向を眺めた様子である。マカルト橋には多くの「愛の南京錠」が取り付いている。
こちらは、マカルト橋上から「旧市街」側を眺めた様子と、「新市街」側を眺めた様子である。

更に左(北側)に視線を移すと、手前の枝先で見ずらいが、1898年建築の「聖アンドレ寺院」が建ち、枝に半分隠れて一部しか見えないが青い屋根を持つ正方形の建物は、1606年に建てられた「ミラベル宮殿」で右側の緑の「宮殿の庭園」へと続いている。
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ちなみに、マカルト橋上からザルツァハ川の上流(北側)を眺めた様子はこちらで、「ミラベル宮殿」の前のザルツァハ川そばの尖塔は「福音教会」である。また、川に浮いている船の様な施設は、ザルツァッハ川を40分ほどかけて観光する「ザルツァッハ・クルーズ」乗り場で、クルーズ船は1時間に1本程度が運航している。

次に、ザルツブルグの目抜き通りを散策してみる。メンヒスベルクのエレベーターで地上に戻り、来た道を少し戻った「聖ブラジウス教会」の前から、通りに入る。「ゲトライデ通り」と呼ばれる東西350メートルほどの歩行者専用の小道で、15~18世紀の建物(商家)が並んでいる。


ゲトライデ通りを歩き、振り返ると「聖ブラジウス教会」が正面に望める。


通りにはカフェ、ギャラリー、ブティックも多数あり、それぞれの建物には、精巧な細工が施された鉄製の商標や看板が取り付けられている。ちなみにマクドナルドの看板はこちら


聖ブラジウス教会から200メートルほど進んだ左側に「カフェ・モーツァルト」がある。1920年創業の老舗のカフェで階段を上った2階になる。ザルツブルガー・ノッケルンと名付けられてアルプスの山をイメージしたスフレ菓子がお勧めで、モーツァルトが好んで食べたと言われている。入口左側に写真が飾られている。
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ゲトライデ通りには、建物の中や中庭をとおり抜けたりすることができる「パッサージュ」と呼ばれる通路が延びている

前方に見える時計のある塔は「ザルツブルグ旧市庁舎」で「ゲトライデ通り」はそこまでで、その先はかつてユダヤ人の居住したゲットーのあった小路「ユーデン通り」になる。
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旧市庁舎の少し手前の右側にはウィーンでお世話になった魚介類専門のレストラン・チェーンの「ノルトゼー」があり、その先隣りにはモーツアルトハウスがある。この建物の4階がモーツアルトが1756年1月17日に生まれた場所で、その4階の外壁に金色のメダイヨンが飾られている。現在は、彼の楽器や楽譜など、ゆかりの品が展示されるモーツァルト記念館となっている。
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「モーツアルトハウス」の前は丁字路になっており左折してアーチのある建物を抜けるとザルツァハ川沿いの通り「グリースガッセ」に出る。また、モーツアルトハウスからパッサージュを抜けて反対側に出ると、「コレーギエン教会」が建つ「大学広場」に到着する。この広場は朝市の場所として朝から多くの買い物客で賑わう。店舗が少ないこの時間でも多くの観光客が集まっている。


こちらのお店では、焼き菓子のプレッツェルや、モーツァルトクーゲル(モーツァルトが描かれた包み紙に入ったチョコレート菓子)などが売られている。お店の左側から教会に沿って南に向かうと「モーツァルトのための劇場」前の広場になり、高架陸橋をくぐると岩壁の駐車場の入口に戻ることになる。時刻はまもなく午後2時。これで、ザルツブルグの高速ツアーは終了である。

(2018.7.12~13)

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オーストリア・ドナウ川流域

2018-07-11 | オーストリア
ドイツ西南部の森林地帯に端を発するドナウ川は、オーストリアで、リンツ、メルク、ウィーンを経由し、その後、東欧各国を通って黒海に注ぐ全長2,850キロメートルの大河である。
中でも「メルク」から続く約30キロメートル下流までの地域は「ヴァッハウ渓谷」と呼ばれ、ブドウ畑が広がる中に古城や修道院などが点在する景勝地として、ユネスコの世界遺産(ヴァッハウ渓谷の文化的景観)に登録されている。
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※対岸のロッサッツバッハから眺めたデュルンシュタインの様子

では、最初に、そのヴァッハウ渓谷の下流に位置し、最もロマンティックな町と言われる「デュルンシュタイン」に行ってみる。デュルンシュタインは、南西方向から流れてきたドナウ川が大きく右から左へと蛇行する間の左岸にある。なお、ウィーン国際空港からは車で約1時間(100キロメートル)の距離になる。

そのデュルンシュタインの観光は、町の中心部からやや東側(下流側)にある鉄道駅の南側(駐車場も近隣にある)に伸びる大通りからスタートする。途中、自動車道の下をくぐりそのまま進むと、周りをブドウ畑に囲まれた細い上り坂になり、前方に町並みが現れる。


ブドウ畑の先の丁字路を右折して進むと前方山頂に見えるケーンリンガー城跡に行くことができる。城跡へは急な階段の上りだが30分ほどで到着する。
ケーンリンガー城は、12世紀中頃ケーンリング(Kuenring)家により築かれた城で、第3回十字軍遠征の帰路、イギリス王「リチャード獅子心王」(1157~1199)が、オーストリア公レオポルト5世(?~1194)により幽閉(1192~1193年)されていた城として知られている。


正面に見える城門をくぐった先がデュルンシュタインの中心部になる。城門は修復されたらしく新しいが、左側には古びた城壁が続いている。城壁は、そのまま、ドナウ川沿いまで100メートルほど繋がっており、その終点は防塁になっている。城門手前に建つ建物はワインショップで、入口には、大きなワイン樽やビンが並んでいる。
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さて、城門を入ると、左右を建物に囲まれた石畳のメインストリート(ハウプト通り)が続き、土産屋などのショップが現れる。
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丁字路角のホイリゲ(ワイン酒場レストラン)アルテス・プレスハウスのテラスは、昼時でもあり込み合っていたが、通りを散策する人はまばらだ。天候の影響もあるのだろう。
そして、そのホイリゲの後方に見える水色の尖塔は、デュルンシュタインのランドマーク「修道院教会」である。


ホイリゲのハウプト通り向かい側にあるショップでは、デュルンシュタイン名物のアプリコット(ドイツ語でマリレン)のジャムやネクターなどが並べられている。


ハウプト通りをしばらく歩くと左側の建物が途切れ、草木が覆い茂った崖が続く景色に変わった。右側には建物が続いているが、どうやら町の中心はここまでのようだ。


建物が途切れた所は駐車場になっており、町側を振り返ると高級感のある門が佇んでいる、ここは1630年にバロック様式で造られたお城をホテルに改修した「ホテル・シュロス」で、夏期にのみの営業(10月下旬から3月下旬は休み)する5つ星のホテルである。


駐車場横にある「見晴らし台」からはドナウ川を一望できるが、雨の影響からか水が濁っている。前方に見える船は、クレムス発の上りの観光クルーズで、途中、このデュルンシュタインと次のシュピッツを経由して終着点メルクまで約3時間の行程(下りは1時間45分)で航行している。


対岸には、ロッサッツ(Rossatz)の街並みが見えるが、天気の影響もあり眺めは今一つだ。。


再びハウプト通りを戻り右側の路地を入ると「修道院教会」の中庭がある。教会は元アウグスチヌス派参事会修道院として1410年に創立、1733年に、J.ムンゲンアストとM.シュタインルにより現在のバロック様式に改築された。繊細な彫刻が施された美しい門は見所の一つである。
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「修道院教会」の周りの細い路地を通って、坂を下って行くと、ドナウ川沿いの通りに出て、少し歩くと城壁の防塁が現れたので、左折して坂を上ると、ハウプト通り入口の城門に戻った。今回は、立ち寄るだけになってしまったが、また機会があれば、ゆっくり滞在してみたい。


デュルンシュタインから、5キロメートル下流に架かるマウテルナー橋を渡り、回り込むようにしてドナウ川の対岸を上流に向けて進む。このルート近くにある山頂からの眺めが素晴らしい「アックシュタイン城」に寄る予定だったが、雨が降りだしたので諦めて、目的地のメルクまで直接向かうことにした。山の頂に僅かに城壁が見える。


約1時間ほどで「メルク修道院」の東側に隣接する専用駐車場に到着した。メルク修道院は、ドナウ川(メルク川の合流箇所でもある)沿い南側にある切り立った丘の上に建っている。階段を降りて進んだ、前方の木の向こうに見えるドームを持つ建物がそうである。そして、左下に見える町並みはメルクの中心地で、鉄道駅は300メートルほど南にある。
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丘の上に建つメルク修道院は、最初にオーストリア辺境伯(在位:976~994)となったバーベンベルク家のレオポルト1世がこの地に居城を築いたのが始まりである。その後、1089年に、バーベンベルク家第5代レオポルト2世により、ランバッハ修道院出身のベネディクト会修道士に城の1つが寄進される。そして12世紀にはメルク修道士校が設立され、1702年から1736年にかけて、ヤコブ・プランタウアーにより建てられた、オーストリア・バロックの代表的建築である。

階段を下りた先から修道院入口までは300メートル近く離れている。途中庭園の中程にあるレストランの入口を右側に見ながら進み、最初の鉄扉ゲートを抜けると前方に多くの観光客が集まる広場に至る。次に、左右の稜堡のような建造物に挟まれた門を入ると、左側に建つ建物の1階にチケット・ショップに到着する。


入場チケットに載っている修道院の地図を見ると、右端の駐車場からレストランのある建物の前を通り、中程のインフォメーション(チケット)まで来たことが分かる。修道院は、東西320メートルもの巨大な建物が65メートルの尖塔をもつ教会堂を取り囲んで建っており、東側には、修道院と同程度の敷地面積を持つ庭園が広がっている。

右側の稜堡のような建造物は展望台で、その展望台から修道院の方角を眺めると、重厚感のある建物が目の前に広がっている。地図(地図の②からの様子)を見ると、修道院の大きな中庭を形成する一番東側の棟であることが分かる。
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視線を右側(北側)に移すと、庭園が広がっており、ガーデン・パビリオンが一番奥に建っている。修道士や客人のための会合や祭事などに使われているそうだ。そのパビリオンの向こうからはドナウ川対岸のエンマースドルフ・アン・デア・ドナウの街並みが望める。
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さて、チケットを購入(11ユーロ)して、正面の建物を抜け中庭に入って見る。周りの建物の側面は、白とクリーム色とのストライプで統一されており、建物の奥に、教会堂のドームが見えている。
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長く伸びる回廊を抜けると一番西側は半円状のバルコニーになっている。


そのバルコニーからは、メルクの町が一望できる。中程に尖塔のある「教区教会」が建ち、その右側の東西に伸びる通りが町の中心地「ハウプト広場」である。そして広場の右端の建物を挟んで通りは左右に伸びて、
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それぞれの通りはメルク川沿いの大通り(1号線)と交差している。メルク川はドナウ川の支流で、更に右側を覗き込むと、メルク川が、ドナウ川に合流する様子が見える。
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バルコニー中央から修道院側に振り返ると、左右対称の尖塔が並ぶ教会堂のファサードを正面に見ることができる。この教会堂は、中央上部にキリストが十字架を持って立ち、その下には聖ペテロと聖パウロ(改修中で見えないが。。)が立っていることから「ペテロ・パウロ教会」とも呼ばれている。


さらに視線を左側に移すと「図書館棟」がある。図書館内の書庫は16種類に分けられ2階建ての構造となっている。メルク修道院の蔵書は10万冊以上あるが、図書館には1万6千冊が保管されている。なお、内部の写真撮影は不可なので、ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)から画像をお借りした。図書館内の前後の出入り口には、医学、哲学、法学、神学を表す黄金像が2体ずつ置かれ、中央には、地球儀や天球儀が置かれている。天井のフレスコ画はパウル・トローガーの手によるもの。

そして、ペテロ・パウロ教会内は、素晴らしいバロック空間が広がっている。主祭壇中央には聖ペテロと聖パウロが手を取り合っている姿があり、その頭上には大きな王冠が飾られている。天井フレスコ画は、ミヒャエルロットマイヤーの手によるもので、中央天井の美しく装飾された巨大なドームからは、明るい光が差し込んで荘厳な雰囲気を感じさせる。


修道院の東側にある大きな公園を散策して、メルク修道院を後にした。最後に、修道院のすぐ北沿いを通る道路(1号線)から修道院を見上げると、切り立った巨大な岩山の上に建っている。まさに難攻不落の要塞といった印象だ。
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ドナウ川を渡り、対岸のエンマースドルフ・アン・デア・ドナウのドナウ川沿いからメルク修道院を眺めてみると、美しい教会堂のドームや尖塔を望むことができるが少し遠い。クルーズ船からの眺めは良いかもしれない。
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次に、エンマースドルフ・アン・デア・ドナウからドナウ川に沿って、15キロメートル上流に行った高台(標高400~440メートル)の村、マリア・ターファール(Maria Taferl)に向かう。

30分ほどで、マリア・ターファールに到着した。今夜は、村の目抜き通り沿いにある、プチホテル「ハウス・レジーナ」に宿泊する。一部行程を割愛したこともあり、予定より早い午後7時に到着した。


夕食は、ホテルから100メートルほどの距離にあるホテル・シャヒナー(Schachner)のレストランを午後8時に予約している。部屋から通りを眺めると、坂の上に見える教会の辺りだろう。


坂を上ったところにある村の教会は「マリア・ターファール大聖堂」で、1660年から1710年にバロック様式で建てられた。ドームは、メルク修道院の外観を設計したヤコブ・プランタウアーによるもので、多くの金箔と美しいフレスコ画の天井で飾られている。祭壇中央の光輪の奥には金色に輝く聖母像が祀られている。小さな村にこの様なりっぱな教会が建っているのには驚かされた。教会は、長年改修が続けられてきたが2010年に全改修を終えたとのこと。


教会の場所が町では一番標高が高い。緑の広がる丘陵地にドナウ川が蛇行して流れる様子を見下ろすことができる。すっかり天気も回復して美しい姿を見せている。


教会から少し戻った右側にホテル シャヒナー(Schachner)の入口がある。レストランは入口扉を入ったすぐ右前方にある。


レストランはシックな雰囲気で、テーブルは、窓際、中央、壁側の3列で17組ほどが座れる広さがある。なお、予約時間は午後8時だったが30分早くなってしまった。まだ時間が早いのか他に先客はいなかった。


もちろん、窓際のテーブルからは、ドナウ川を眺めることが出来る。


メニューを見るとアラカルトが中心だが、当日は「夏のメニュー」と名付けられた、前菜、スープ、メイン、デザートの4コース44.90ユーロと、3コース38.50ユーロの2種類のコース・メニューがあったので、3コースを選択した。まず前菜の「Softly smoked bio alpine salmon」。
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次に、3コースのメインの「back and haunch of roebuck from the Waldviertel celeru,semolina,chili medlar」。
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こちらは、アラカルトから、「Spicy "Beef Tartare"」(12.90ユーロ)、と「Roasted filet of pikeperch(caught by the angler)on risotto and crayfish foam」(23.50ユーロ)。最後に3コースのデザートの「valrhona chocolate blueberry,kaffir-lime」。

新鮮な食材に洗練された味付けで、正直言って、オーストリアのレストランで頂いているとは思えない(すみません)ほどの美味であった。

ホテルには、テラスがあったが、客は誰もいなかった。朝食用のレストランなのか、単に誰も利用していないだけなのかはよくわからない。。午後9時を過ぎ薄暗くなってきたが、まだドナウ川は見える。


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翌朝、2階の部屋の窓から外を眺めると雲海が見えた。この辺りは小高い山の頂部に位置することから、北側の谷間に雲海が発生するのだろう。ともかく今日は天気が良さそうでありがたい。急ぎ、1階の可愛いレストランで朝食を食べて、東に6キロメートルほど行ったアルトシュテッテン(Artstetten)に向かった。

アルトシュテッテンは、マリア・ターファールと同じくドナウ川のすぐ北側の丘陵地に位置しており、坂道に何件かの住宅が立ち並ぶ程度の小さな村だが、その高台に小ぶりな「アルトシュテッテン城」が建っている。城は1560年から1592年にかけてルネサンス様式で建てられたもので、1914年、サラエボ事件(第一次世界大戦の引き金ともなった)で暗殺されたオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻の居城として知られている。

なお、夫妻は貴賤結婚であったことから、ウィーンにあるハプスブルク家のカプツィーナー納骨堂には埋葬されず、このアルトシュテッテン城の納骨堂に埋葬された。現在、フェルディナント大公の直系子孫のホーエンベルク家が所有しており博物館として公開している。

さて、次に、アルトシュテッテン村から坂を下り、ドナウ川を渡ったペヒラルン(Pöchlarn)村から90キロメートル上流(西側)に位置する都市リンツに向かう。


リンツには、1時間ほどの午前10時に到着した。リンツは、ウィーン、グラーツに続くオーストリア第3の都市で、オーバーエスターライヒ州の州都である。最初にリンツの中心地、ハウプト広場にやってきた。ドナウ川からは南に150メートルほど離れた場所になる。
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ハウプト広場の歴史は古く1230年頃に造られたという。面積は13,200平方メートルとヨーロッパでも最大の面積を持つ広場である。広場中央には、白大理石の三位一体の柱が立っている。柱は高さは20メートルあり、18世紀初頭のトルコ軍との戦いや大火、ペストの収束などを記念して1723年に建てられた。

第3の都市と言うものの、広場には、人通りが少なく感じられる。広場の東南側には、リンツ・シティ・エクスプレスと名付けられた、SL型の乗り物が停まっていた。1時間毎に4人以上の集客で運行され25分間で市内名所を周遊するとのことだが、辺りに観光客はいない。。


SL型の乗り物の後に建つ建物の左側の路地に入るとすぐに「旧大聖堂(聖イグナチウス教会)」が聳えている。1678年にバロック様式で建てられたリンツを代表する聖堂だが、道路幅の狭い裏路地に建っていることから、寂しい雰囲気である。聖堂上部を見たいが路地からは建物が近すぎて良く見えない。


聖堂内は、白を基調に大理石の柱やスタッコ飾りや多くの彫像が飾られ荘厳な雰囲気であり、リンツを代表する聖堂であることが頷ける。
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聖廊の上部には、ブルックナー・オルガンと名付けられた巨大なパイプオルガンが設置されている。1768年から1770年にスロベニア出身のフランツ・クリスマンによって造られ別の教会に設置されていたが、1795年にこの場所に移管されたという。その後、改修工事などを経て一部改造されたが、音楽家アントン・ブルックナーがオルガン奏者となった1856年から1868年までに、彼のリクエストにより次々と改造され現在に至っている。


次に、ハウプト広場の南端から路地を西に向かった。150メートルほど進んだ左側に彫刻や紋章で飾られた門がある。現在はオーバーエスターライヒ州の州庁舎の北門だが、かつて、リンツ大学として利用されていた際、天文学者のヨハネス・ケプラーが講義を行い、惑星の軌道が楕円であることを発表したことで知られている。なお、門に隣接する左側の建物はミノリーテン教会である。


その北門をくぐると、ルネサンス様式の中庭が現れる。


中庭の中央には、天文学者ヨハネス・ケプラーの偉業をたたえた噴水(惑星の泉)が飾られている。


そして、こちらは州庁舎の南門から見た様子で、州庁舎広場にある正面側になる。建物に向かって広場右側には、オーストリアを代表する作家の一人アーダルベルト・シュティフター(1805~1868)の像が設置されている。彼はボヘミア生まれでウィーンで活躍していたが、晩年は、リンツで小学校視学官の任につき基礎教育の発展に寄与した。作品には「晩夏」や「ヴィティコ」などがある。


次に、ハウプト広場からは南西部に1.5キロメートルほど離れた場所に建つ「新大聖堂(聖マリア教会)」に向かう。


新大聖堂は1862年から1924年にかけてリンツ司教フランツ・ヨーゼフ・リューディガーにより建てられたネオゴシック様式の聖堂である。建設当時、ウィーンにあるシュテファン寺院より高い建物は許可されなかったことから、約2メートル低い134.69メートルとなったという。尖塔は北側に聳え、十字のバジリカ型で東西に大きな翼廊がある。東翼廊が出入り口になり、まわりは広場になっており、特設のステージが設置されている。広場の南側には、レストランがある。評判の良いレストランだが、この後の予定があり食事時間がない。。


聖堂内は広い。南北の身廊は100メートルはあるのではないだろうか。天井のヴォールトも驚くほど高い。聖堂を支える柱は54本あり、巨木の様に並んでいる。


最大の見所は、ステンドグラスで、主祭壇はもちろんのこと東西の側廊と身廊の上部を含めて142か所ある。聖書の場面、新聖堂の縁起や、幾何学模様のもの等が表現されている。
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そして、身廊の北側には、1968年にデンマークのワークショップで作られた巨大なパイプ・オルガンが設置されている。さらさらっと、見学した後、聖堂の東側通りにあったデリカショップで昼ごはんをテイクアウトして、次に、リンツから南に15キロメートル離れたザンクト・フローリアン修道院に向かった。
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1時間弱でザンクト・フローリアンの町の中心地に到着した。目的地の修道院は、中心地からすぐ北西側の小高い丘の上に位置している。ザンクトとは「聖なる」を表すことから、「聖フローリアン(フロリアヌス)を奉る修道院」と言う意味だが、現在では、19世紀後半のオーストリアを代表する作曲家アントン・ブルックナーのゆかりの修道院として世界中に知られている。
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学校長兼オルガン奏者を父に持つブルックナーは、1824年9月4日、リンツにほど近いアンスフェルデン村に生まれた。彼は、幼少期から音楽的才能を示し、10歳にして父に代わって教会でオルガンを弾くほどであったという。12歳で父を亡くしたブルックナーは、このザンクト・フローリアン修道院の聖歌隊に入り、その後12年間に亘りオルガニストを務めた。この地を離れた彼は、リンツ大聖堂のオルガニストやウィーンの宮廷オルガニストを歴任する一方、生涯を通じて自分の深い信仰心を宗教音楽に注ぎ、交響曲、教会音楽、世俗合唱曲などを作曲した。

遺言により、彼の遺骸は、音楽家としての人生を大きく飛躍させてくれたこの修道院の下に眠っている。また、ブルックナーゆかりのオルガンコンサートも開催され、多くのファンがこの地を訪れる。

南西側にある正面入口門を入ると、この壮麗で華麗な「ザンクト・フローリアン修道院」の姿が望める。修道院は、アウグスチヌス派参事会修道院として、1071年に創立されたが、現在のバロック建築の建物は、C.A.カルローネとJ.プランタウアーによるもので、1751年に建造されたもの。建物の奥(北西)に見える塔が教会堂(ファサード側)である。
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ところで、この日は、町の中心地からは北に伸びる「アントン・ブルックナー交響曲の散歩道」の案内に沿って、途中トンネル階段を上り、教会堂の北東側から入り墓地を抜け西側にあるファサードを回り込むルートで向かったが、時間的には南側からの車道を上って正面入口門から入る方が早い。

見学はガイド・ツアー(11時、13時、15時(9.5ユーロ、見学時間は約1時間)でのみ可能なことから、13時の回に参加することにしたが、ぎりぎりの到着であった。ガイド・ツアーの集合場所は、南北に伸びる建物の中央尖塔下にある彫像が並ぶ門をくぐった中庭(中央に噴水がある)になる。参加者は20人ほどだ。


ツアーは修道院図書館から見学する。バロック様式で装飾された図書館には、中世の写本や初期の版画14万点もの書物が保管されている。メルク修道院の図書館と比べても遜色ない豪華さだ。天井画は、画家バルトロメオ・アルトモンテ(Bartolomeo Altomonte)の手によるもの
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こちらのホールは、大理石の間(マーブルホール)で、バロック時代の最も美しいホールの一つ。天井画は、図書館の天井画と同じバルトロメオ・アルトモンテによる作品で、デザインは大トルコ戦争(オーストリア大公国を中心とした神聖同盟とオスマン帝国の戦争、1683~1699)の勝者として、平和の新たな時代への希望を表している。この日は、披露宴でも行われるのか、ホールにはテーブルクロスがかけられた多くのテーブルが並べられていた。
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回廊は、ギャラリーになっている。こちらには、ザンクト・フローリアン修道院の名前の由来ともなった、聖フロリアヌスの像が展示されている。フロリアヌスは、左手には旗を、右手には桶を持ち、家に水をかける姿で表される。他にも、石の彫刻バージョン(旗は失われている。)木彫りのバージョンなどが展示されている。もともと水の入った桶は溺死を象徴していたが、時代の経過とともに家を追加することで消防の象徴(守護聖人)となったとされる。


聖フロリアヌスは、ローマ帝国時代ディオクレティアヌス皇帝によるキリスト教弾圧(303年)の際に殉教したと伝えられている。
フロリアヌスは、引退した弁護士だったが、ローリアクム(現エンス。リンツから東へ20キロメートルに位置する古都)で40人のキリスト教信者が投獄されたため、助けるために訪れるが、彼自身が信者であることがわかり死刑を宣告される。そして殴打され、首に石を巻きつけ川に投げられたとされる。

その後、聖フロリアヌスの亡骸は、この場所に葬られ、ザンクト・フローリアン修道院が設立されたという。こちらには、聖フロリアヌスの殉教の様子を描いた、アルブレヒト・アルトドルファー(1480年頃~1538)の絵画のコピーが展示されている。
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アルブレヒト・アルトドルファーは、ドイツ・ドナウ派の代表的画家で純粋な風景画を描いた最初期の画家で、こちらには、本人の真筆(1518年)の祭壇画が展示されている。ギャラリーでは一番の見所で合計12点が展示されている。


左上から、オリーヴ山上のキリスト、キリストの捕縛、カイアファの前に立つキリスト、キリストの鞭打ちで、左下から茨の冠、ピラトの手洗い、ゴルゴタの丘への行進、キリストの磔刑と聖書の場面が並んでいる。
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次に、修道院の最も北側に位置する教会堂を見学する。20メートルある主祭壇は、ザルツブルク近郊で産出する赤いウンタースベルグ石灰岩で作られている。磨くと大理石の様な輝きが出るのが特徴でオーストリアの建築物では多く使用されている。

祭壇画はジュゼッペ・ゲッツィによる聖母の被昇天で、天井のフレスコ画は、ミュンヘンの宮廷画家アントン・ガンプと彼の弟子メルヒオール・シュタインドルの手によるもの。右側のドームには聖母の戴冠が、左側には、聖フロリアヌスの生涯が描かれている。
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左右にある2つの聖歌隊席と屋台は、リンツの彫刻家アダム・フランツとボズナー・ヤコブ・アウアー(1702年)の共同作品で、楽器を持つ小さな天使たちが可愛い作品。上には、小型の据え置き型のポジティフ・オルガンが設置されている。
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パイプオルガンは、1770年から1774年の間にスロベニアのオルガン製作者フランツ・クサーヴァー・クリスマン(Franz Xaver Krismann)によって作られたもので、103の音栓と7386のパイプを持つオーストリア最大級のオルガンの一つ。1848年から12年間オルガニストを務めたブルックナーに因んでブルックナー・オルガンと呼ばれている。
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最後にブルックナーの眠る地下のクリプトの見学に行く。


ブルックナーの名前と亡くなった年の"1892"の文字が刻まれた台座の上に、豪華な石棺が納められている。このお棺が置かれた場所がパイプオルガンのちょうど真下になるらしい。鉄柵の背後には、13世紀からの教会信者6000人ほどの頭蓋骨が並べられている。写真を撮ることに若干躊躇していると、ツアー参加者が入れ代わり立ち代わり記念撮影を始めた。。

(‎2018‎.‎7.11~12)
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