気儘に書きたい

受験勉強よりもイラストを書くのが好きだった高校生の頃---、無心に絵を描く喜びをもう一度味わえたらいいのだが。

♪十年は一昔♪ウウー♪暑い夏♪(陽水)

2012-08-15 01:20:25 | イラスト
 八月一日に娘が文鳥二羽を伴って一週間帰省した。オフの2日を娘に付き合ってもらった。最初のオフは2時間ドライブして犀川町の「エフ」の林檎カレーと桃のパフェを堪能したあと、この日小倉の旧ラフォーレにオープンした「漫画ミュージアム」を観覧した。6時半に妻からのメールに気づき、あわてて妻を職場に迎えに行った。それから「チャチャタウン」で夕食となったが、娘の好意で妻と私はビールが飲めた。(誰かが運転しなければならない。)食欲を満たした後、8時30分からアニメ「おおかみこどもの雨と雪」を鑑賞した。

次のオフは午前中に仕事が入ったので、昼から娘と「天花」で懐石料理を堪能(アルコール無し)した。家で寛ぎたいという娘の希望で、手土産を買ってから帰宅した。妻はこの日は仕事の後、会社の飲み会があるので、私一人で娘を空港まで見送らねばならない。夕飯も外食するつもりだったが、娘が爆睡していたので諦めた。出発時間がせまったのでベトナム料理のフォー(ビーフンで作るラーメンのようなもの)を短時間で拵えた。速やかに食事をすませ、娘と文鳥を車に乗せて空港に着いたときは離陸30分前だった。

明日から長男一家と次男が帰省する。暑い夏の第二章を開くのを妻と私は楽しみにしている。

孫の夢

2012-04-24 22:49:46 | イラスト
 先日、夢に初孫が現れた。現実でなくても、孫に会えて幸せな気分だった。朝の食事をしながら、妻に夢の話をした。孫が夢に出てくることがあるか妻に尋ねると、覚えがないという。なんだか私だけ得をしたようで、愉快だった。
 その晩、NHKの「平清盛」を妻と二人で観ている時、息子から久しぶりに電話がかかってきた。妻はドラマはどうでもよいかのように、息子との会話に没入し、話の種が尽きたのか「今日ね、お父さんヤマト君の夢をみたらしいよ。」とか言ってるのが耳に入った。(俺の夢の話なんかするなよ…)こっちが恥ずかしくなるような話題に、ドラマへの集中力が途切れそうになった。
 妻のお蔭といってよいのか、大河ドラマが終わったあと息子とスカイプをすることになった。ライブ映像入りで孫二人と会話を楽しみながら、爺ジと婆バはいちばん幸せなひと時を過ごした。

五十肩との闘い

2011-12-22 23:40:00 | イラスト
 11月に入った頃から左肩の調子が悪い。上着のポケットを探ろうとしただけで、痛みが走る。車の運転中にラジオやエアコンのスイッチへ手を伸ばす時は顔をしかめている。就寝時は左手のひらを右胸に置いて仰向けの姿勢で寝るのだが、夜中に寝返りを打つ度に激痛で何度も目が覚める。起床時は右手で左手首を支えながら上体を起こす。肩の具合が良くなる兆候がないので、11月29日に外科の病院で診てもらった。レントゲンを撮ったあと即効性のある痛み止めの注射を左肩に打った。鎮痛剤のロキソニン錠と貼り薬が一週間分処方された。
 翌日から痛みが消えて喜んだのもつかの間、注射の効力は3日しかもたなかった。一週間後の仕事が休みの日を待ちかねたように、病院へ行き、麻薬中毒者のように筋肉注射を切望した。「前回から日が浅いので注射は打てません。物療(物理的治療)にしましょう。」と医師は私を突き放すように言った。老人に混じって(私は気持ち的には青年のつもり)、首の牽引、ホットパック、電気マッサージ、両腕のつるべ落とし(みたいなこと)等、やたらと時間がかかるだけで気休めのような治療を行った。
 先日は2週間ぶりの休みで、天気も良く、絶好のツーリング日和だったが、身体に不具合があると遠乗りをする気にならない。大晦日まで年内は休めないこともあり、散髪と病院とでジジくさい半日が過ぎた。身体のどこかに問題があるのは加齢のためだと諦めたくない。正月までに肩は治ると信じよう。

良性だった!

2011-11-27 21:57:45 | イラスト
 13日間休みなしで働いて休みを調整し、今月15日、16日と2日間、新小文字病院に入院した。入院するのは生まれて初めての経験で、身体にメスを入れるのも初めてだった。
 一人で入院するつもりだったが、妻が仕事を休んで付き添ってくれた。朝9時半に病院に入ってレントゲンや血液の検査を終え、11時頃に内視鏡科で下剤の拷問が始まった。私の他に二人の患者がいたが、手術は私だけで、そのまま入院するので、順番は私が最後となった。昼食をすませて待合室で一人待っていた妻に、手術まで間があるので家に帰ってもらった。「手術が終わったら電話するよ。」
 4時ごろ手術台に寝かされ、いよいよ手術が始まったと思ったら3分ほどで「終わりましたよ。」と声をかけられた気がした。麻酔で眠っていたようで、実際は20分くらい経っていた。結腸に見つかったポリープの摘出手術はあっけなく終わった。手術までの手順は大腸内視鏡検査の時と同じだったが、下剤が前回より強く作用したようで、病院に着くまで3回、手術まで6回、手術後に5回もトイレに足を運んだ。手術後は血が出るばかりだった。
 手術後、車椅子で病棟に移され、四人部屋に入った。絶飲、絶食は病室の中で私一人だった。夜の食事が私以外のそれぞれのテーブルに運ばれ、美味しそうな匂いと音が私を悩ませた。気を紛らすためにベッドの上でイヤホンを付け、テレビと向かい合った。テレビはオプションだったが、借りて大正解だった。 サッカーの日朝戦の中継の後はプロ野球の日本シリーズが始まり、まったく退屈しなかった。
 病棟は10時消灯だったが、同室の方の要望で部屋の照明が9時に落とされた。普段の就寝が2時頃なので、なかなか眠れない。音が漏れないことをいいことにテレビを見続けていたが、画面のちらつきが薄い間仕切りカーテン越しに回りに迷惑をかけそうなので、11時に布団に潜った。
 少し眠れたかなと思ったら、ナースが私の点滴を取り替える気配で目が覚めた。
 懐中電灯を片手に持って、作業に手こずっていた。「灯りをつけましょうか。」「あ、大丈夫です。」 出血を抑えるために、点滴バッグを変えたりしていたのだが、調子が悪いのか、数時間ごとに点検の気配で起こされた。なんとか熟睡モードに入ったと思ったら、私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。     「すみません。ちょっといいですか。今朝は6時に採血をして、8時からレントゲンを撮ってもらいます。結果がよければ退院です。」時計をみたらまだ4時だった。ぐっすり眠っているのを起こしてまで伝える事かと少し腹がたった。
 採血のことが気になって、5時に完全に目が覚めた。朝食の配膳が始まった。わたしの前に一汁一飯と野菜と豚肉の煮付けの小皿、ヤクルトジョアが載った盆が置かれた。「食べていいんですか。」「あ、『絶飲、絶食』なんですね。ナースに聞いてきます。」配膳係りと入れ替わりにナースがやってきた。
 「おなか痛くないですか。」「大丈夫です。」「じゃあ、食べていいです。」36時間ぶりの食事は質素ながらもご馳走に思えた。
 食事の後、手術の執刀医が来て「まだ出血しますか。」と聞いた。朝から既に四回下血していたが、退院が延期になっては困るので、「下血の色が薄くなってきてますから大丈夫です。」と答えた。ドクターが手術の処置を大腸内のカラー写真を見せながら説明した。「ポリープを注射で膨らませてこのように切除し、あとはこうしてクリップで止血してます。」三枚目の写真には二個の黒い小さなバインダーのような物で腸壁を摘まんでいる様子が写されていた。「え、まだ体内にこれが残ってるんですか。」「傷口が塞がれば、自然に取れて便と一緒に排出されますから。」
 10時半ごろ点滴が終わり服を着替えた。担当医の診断で、異常がない事を確認して退院することになった。摘出したポリープを病理検査に出しますので、26日に来院してください。」
 妻が迎えに来るまで病院のフロントの出店で、美味しそうなクッキーやサンドイッチを買って食べた。 家に帰り着いて安堵した。二日間の入院だったが、それ以上に長く感じた。

 昨日、朝一番に病理検査の結果を聞きに病院へ寄った。運命の判定は?
 「良性でした。」精神的に楽になって出社して、検査結果を周りに報告した。夜は二週間ぶりにお酒を飲み、妻と二人の健康に感謝した。

大腸の内視鏡検査Ⅱ

2011-10-12 19:34:02 | イラスト
 長いファイバースコープ(内視鏡)がいきなり私のお尻に挿入された。透視台の周りの動きが「わさわさして」落ち着かなかった。腸に空気を送り込む者、私のお腹を抑える者、内視鏡を操作する者、いったい何人立ち会っていたのだろうか。内視鏡が大腸の内壁にぶつかりながら、奥へ奥へと突き進む様子が私のお腹から伝わった。鈍痛に堪えきれず呻き声をもらすと、看護婦が「がんばってください。」と励ましてくれた。                                                               密室の格闘技は30分ほどで終了した。「終わりました。お疲れさまです。」の声を聞いて緊張が解け、どっと疲れがでた。
 透視台から車椅子に乗せられ、検査室の隣りにある休息室へ移動した。そこにはサウナの休憩室に置いてあるようなリクライニング式の肘掛ソファと足のせ用のスツールが3組置かれていた。ソファとソファの間はカーテンで仕切られていた。私は真ん中のソファに座らされたが、穴あきパンツの下に紙のパッドがおねしょシーツのように敷かれたのが気になった。
 「麻酔が完全に覚めるまで安静にしていてください。」
 私のお腹は空気でパンパンに張っていた。ガスが出ると楽になる、お腹の中は空っぽだからガスが出ても大丈夫と看護婦は言うが、オナラを出す勇気がなかった。安静よりもトイレに行きたかった。左隣のカーテンの向こうでは私の前に検査を終えた70代の女性が鼾をかいて寝ており、ときどき豪快なオナラを出していた。
 「すみません、待合室に読みかけの本を置いてるのですが、読んでもいいですか。」と看護婦に甘えると快く取ってきてくれた。
 今日の検査が一日がかりになることを考えて、妻が薦めてくれた単行本を持参していた。
 「『アルジャーノンに花束を』ですか。私も読みました。」看護婦が嬉しそうに言った。
 安静タイムが終わり、検査着を着替えるように言われたので、まずトイレに入った。病院に来てから7回目だが、下剤と潤滑剤が少し出ただけで、肝心のガスが出ない。
 着替えが終わって暫くして内科医から検査結果の説明があった。カルテに腸内の画像が添付されていた。
 「ポリープが見つかりました。組織検査に出しましたので、来週また来てください。」
 見つかってよかったのかどうか判らないが、安心できるのはまだ早いようだ。
 
 下剤が効きすぎたようで、帰宅して寝るまでにトイレに5回通った。組織を取った時の傷が原因と思われる下血もあった。なんとか大変な一日が終わったが、トイレの回数が一日に14回という結果に驚くとともに、ウオッシュレットのありがたみをヒシと感じた。

大腸の内視鏡検査

2011-10-11 20:48:30 | イラスト
 八月に受けたメタボ健診で大腸の精密検査を必ず受けるようにとの結果が出た。これまで便潜血反応が度々陽性になっていたので、今回は観念して内視鏡検査を受けることにした。
 検査日の2日前から野菜などの残滓性のある食品は食べられず、豆腐、卵焼き、うどん等、歯ごたえのないメニューが続いた。検査までに腸内をきれいにするためだから我慢するしかない。
 検査前日の午後2時に、仕事を中断してマグコロールを溶かした下剤200cを飲むと2時間程で、トイレに駆け込んだ。接客中でなくて良かった。
 その夜は9時以降、翌日の検査まで絶食だったので、口の寂しさを紛らすためにグレープジュースをガブ飲みした。(毎食後にお茶か水をコップ2~3杯飲むように指導されていた。)                                             9時30分にシンラックを溶かした下剤200ccを飲み、就寝するまでに2度トイレに駆け込んだ。寝ている間もお腹がゴロゴロ鳴り続け安眠できなかった。
 検査日の今朝は6時30分に起床して、シンラック入りの下剤200ccを朝ご飯代わりに飲み干した。家を出るまでに二度トイレに入った。おしっこが尻から出ている感覚だった。
 9時前に病院の受付を済ませ、検査着に着替えた。内視鏡検査室の待機場所には私以外に70代と60代の二人の女性がいた。全員内視鏡検査は初めてだった。
 9時40分に看護婦が500ccの下剤を二つのコップに分けて、各自のテーブルの上に置いた。30分以内に飲めばよいとのことだが、耳鼻科で使う鼻の洗浄液のような味で、一気に飲めるものではなかった。10時10分に空になったコップに500ccの下剤が注がれた。女性たちは既に2回づつトイレに行ったが、私は兆候がなかった。女性陣が4回目のトイレを済ませた頃、私は少しあせり始めた。看護婦は、個人差があるから心配ないといいつつも、お腹をマッサージすることを薦めた。10時30分にやっと催したのでトイレに入った。用を足した後、残滓の状態を5段階に分類した便の写真を参考に、申告するのだが私のそれはオリーブ色の液体だった。
 トイレから戻ると看護婦が微笑みながら「どうでしたか」と聞いた。「4でした。便が緑色なんですけど、胆汁でしょうか。それとも薬の作用ですか。昨夜グレープジュースをたくさん飲んだからかもしれません。」「次は流さずに私を呼んでください。」
 自分の席に戻ると新たに500ccの下剤が注がれていた。飴が用意されていたので、飴で舌をごまかしながら下剤を飲んだ。
 2回目の便も緑色だった。看護婦はこんなのは初めてだと言い、先生に聞いてきたが、やはり胆汁だった。
 60代の女性が5段階になったとのことで、最初に検査室へ入っていった。11時10分に4回目の下剤が注がれた。
 2リットルの下剤を飲んだことになるが、それでも透明度が低ければ浣腸をすることになるらしい。
 幸いなことに4回目の状態で、5の評価を貰えた。検査用の後ろに穴のあいたパンツにはきかえるように看護婦に指示された。点滴の用意をする前に、5回目のトイレに行った。右手に点滴を繋がれている間、内視鏡をお尻に突っ込まれることを想像すると緊張した。点滴をつけたまま6回目のトイレに入った。勢いよく出るので、下剤の効きすぎではないかと心配になった。内視鏡が入っている時に催したらどうしよう。
 検査が始まった。透視台の上で、体の左側を下にして、「く」の字に横になった。心電計測の電極や血圧、脈のコードが装着された。点滴などコードだらけのからだを見つめて、自分が死ぬときは延命治療は拒絶しようと思った。
 点滴の管から、筋弛緩剤が注入されたようで、右手の血管に沿って、しびれるような熱いような感覚が広がった。続いて麻酔剤が注入されると、看護婦が「少し眠くなりますよ。」と言う声がだんだん遠退いていくように感じた。

名古屋旅行

2010-12-07 10:20:17 | イラスト
 今日は先週の日曜に名古屋から帰って以来の休日となった。久しぶりに文鳥の篭を清掃したあと、いつもの西野式の体操を始めた。そこへ私の携帯に、仕事の件で得意先に電話するように会社から連絡が入った。急ぎの用件でないことを祈りながら控えた番号にダイアルした。工事見積もりの依頼だったが明日でよいとのことで安堵した。
 
 名古屋行きは、妻が早く孫に会いたがっており、日曜日が妻の誕生日ということもあって、日程を組んだのだが、天気にも恵まれ楽しい週末となった。
 時間に縛られないドライブ旅行に慣れていたので、さんざん妻に急かされながら新幹線のホームに着いたときは、発車2分前だった。流れる景色を楽しみながら、缶ビールとつまみで寛げたのは列車の旅ならではだ。名古屋到着までの3時間5分はあっけなかった。
 
 名古屋駅には息子夫婦とお兄ちゃんとなった孫が迎えにきてくれた。新しい孫と対面する前に昼食を摂ることにした。息子たちが案内してくれた店はお昼どきでもあったが、人気のイタリア料理店で、順番待ちの客が絶えなかった。おいしいピザとパスタ、デザートを食べ終えたところで、サプライズがあった。私たち夫婦それぞれの名前と誕生日を記したバースデーケーキをスタッフが運んできた。店のスタッフたちとバースデーソングを歌い二人でロウソクを吹き消すと、他のテーブルからもいっせいに拍手が沸いた。ちょっと恥ずかしかったが、息子夫婦の気持ちが嬉しかった。
 
 胸いっぱいの愛と腹いっぱいのイタリアンに満たされたあと、嫁の御実家で、孫娘に対面した。息子からのメールで生まれて間もない写真は見ていたが、なかなかの美人だ。手足の指がすらりと長く、指の仕草がすでに女の子らしい。
 きっと息子はコミックの「お父さんは心配性」のパパみたに娘を守ろうとするのだろう。孫娘を取り巻く私たちの傍らで、おとなしく遊んでいる孫息子がいじらしく、娘が生まれた頃の幼かった息子を見ているようだった。嫁の母親と孫息子の微笑ましいやりとりを見ながら、子育ての大変さを思い出した。

 夜、安城市に住む娘も合流して、嫁の御両親がセッティングしてくれた料亭でご馳走になった。まだよく喋れないのに時折会話に加わる孫息子に大人たちが癒された。
 閉店となるまで料理とお酒を堪能して、すっかり眠った孫を抱く息子と嫁の御両親と別れた。私たちの乗ったタクシーは、栄駅で娘を降ろしたあと、宿に向かった。
 
 翌日は名古屋城観光の後、息子夫婦と孫息子、娘と待ち合わせて味噌カツで有名な「矢場とん」でランチを食べた。孫の食べっぷりが見ていて気持ちよかった。食事を終えると、息子たちと別れて、安城市の娘のアパートに向かった。一昨年に就職して家を出た娘の暮らしぶりを一目見ておきたかったのだが、予想していたほど酷くなかったので安心して、帰路についた。
 
  


週末、二人目の孫に会いにいきます。

2010-11-23 20:30:33 | イラスト
 先月末からの腰痛はだいぶ良くなってきたが、あいかわらずコルセットと飲み薬、貼り薬の世話になっている。さらに18日の夜、梅酒の4L瓶を左足指の上に落として親指が腫れ上がってしまった。この日の朝、二人目の孫誕生の知らせがあり、夜に妻と祝杯をあげたのだが、ちょっと飲みすぎたかも。からだはガタガタだが週末のことを考えると心が弾む。二回分の休みを返上して、土日に代休をとり、二人の孫に会いに行くことにしたのだ。はやく土曜日が来ないかな。
 


一瞬でズタボロになった衣服

2008-07-23 23:25:22 | イラスト
新小文字病院に到着すると救急スタッフが玄関で待機していた。ストレッチャーに移されICUに運び込まれた。治療室の寝台に寝かされると、すぐに右手首に点滴が繋がれた。寝たまま、両手、両足のレントゲンを撮った。骨には異常がなかった。左膝まわりの4ケ所の深い裂傷、左足首の2ケ所の裂傷、右膝1ケ所と右足裏の深い裂傷の処置がされた。左肘関節裏に直径1センチくらいのえぐれ傷と3センチの深い裂傷があった。「これはひどいな。」「局所麻酔をしよう。」「ちょっと痛いですよ。」洗浄液を2パック使って、傷口を歯ブラシのようなものでしごいて、傷口の不純物を取り除いた。「ここは縫ったほうがいいね。」「眼科用のメスを持って来て。」8針縫った。「肘の神経が集中したデリケートな所なので、あとで痺れが出るかもしれません。」8ケ所以上の浅い裂傷や打撲については何の処置もされず、次にMRIで頭の検査をした。脳に異常はなかった。すべての検査と処置が終わり、控え室に移動した。そこで、衣類や靴、警察が届けてくれた現場の遺留品を確認しながら渡された。服を着て、渡された大きな無地の白い紙袋2枚にリュックサック、レインスーツ、弁当、イオン水をいれる4Lの空ペットボトル、ヘルメット、バイクカバー、ブーツカバー、靴等を収めて、受け取り書にサインをした。「あと会計のカウンターで手続きをしてください。」
ICUの控え室のベッドからおりて、足を引きずりながら、教えられたホールに向かった。そこは玄関ホールだったようで、すぐに病院の案内係がとんできた。
「靴は御持ちじゃないのですか。当病院に何か御用ですか。」
広くて新しい病院内を、穴だらけの靴下をはいただけで、大きな紙袋を二つぶらさげ、ズタボロの衣服を纏ってフラフラ歩いている姿は、どこから見てもホームレスに見えたのだろう。
治療費は12万円ほどで、交通事故は社会保険の対象外で全額自己負担になるという。当然持ち合わせがないので、誓約書を書かされた。
 薬局で薬を受け取ったあと、タクシーで帰宅した。仕事に出るのに着替える必要があった。病院で出された診断書には5日間の安静加療を要すると書かれていた。