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ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

最大の「コリアタウン」ー戦前の奈良で

2010年12月15日 07時18分54秒 | Weblog

奈良県の王寺町を中心にした亀の瀬の地すべり改修工事は、1932年の1年がかりで続けられた。

 延べ労働者の数は旧王寺町史に載っていたが、たしか30万人を越えていたとある(1969年刊行の『王寺町史』407ページに延べ人数3566971人とある。「工事のため朝鮮人を含む数千人の労働者が来住したため学校を急増した。小学校を1、2両学年に2学級を増設」とある)。

 
 家族連れでの就労などで児童、生徒の学校での対応など大変だったと書いてあった。労働者の多くは朝鮮人であった。

 当時の在日朝鮮人が加わった運動である全協の機関紙が周辺で発行されていたというから、奈良で当時最大の「コリアタウン」であったわけだ。工事が終わると人々はほかの工事現場に移り、「コリアタウン」は消えてしまう。

 当時の新聞を見ると、これがひどい。差別用語を多用した朝鮮人関連報道が続出している。これに一般の読者はどうした感情をいだいたか。連日差別語を見出しにした報道。そして工事現場での事故多発。そこには何が心に形作られたか。差別する意識を根底に醸成したことは否めない。

 これら報道の蓄積を新聞は本当に反省しているのか。新聞を読みながらつくづく思う。白日のもとにその歴史的事実を出して、検証するなどやっていないし、同様のことをしてきた日本の公共機関(裁判所、行政など)はほうかむりしている。これではネットの朝鮮人差別流布も下地があると受け止めざるをえない。

 ものごとの事態には歴史的原因がある。その歴史性に背を向けて、いま出てきた現象だけ改める処置をしても解熱剤投与などの応急的処方箋をほどこしたことしかならない。

 ではなぜ応急的で終始しているのか。これの論及が大きな課題なのだ。

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金曜インタビュー「ヒバクシャとボクの旅」を撮った映画監督国本隆史さんに聞く 全インタビュー掲載

2010年12月13日 23時01分36秒 | Weblog


金曜インタビュー「ヒバクシャとボクの旅」を撮った映画監督国本隆史さんに聞く は5回までお届けしたが、最終回6回分の残りもあわせて全インタビューを掲載する。12月17日(金)の18:30〜20:30まで会場・神戸市勤労会館404号室で開かれる。観賞を深める意味でこのインタビューを参照していただければ幸いです。
 インタビューのきっかけは8月にさかのぼる。大阪・釜が崎の夏祭りでの上映会で国本隆史監督の「ヒバクシャとボクの旅」というビデオ作品を見たことがきっかけだ。被爆体験をどう継承するのかという問題を見据えた秀作だと感じた。今年29歳の若手の映画監督に話を聞くことにした。



―映像とのかかわりはいつからでしょうか。
国本 東京の大学時代です。専攻は社会調査論でして、ビデオを持って、フィールドワークへよく出かけていました。指導教官が、長崎の被爆者の生活史調査を30年以上続けている方で、長崎に行って、被爆された方のお話を伺う機会もありました。卒業論文では、ビデオ作品をつけて提出しました。そのとき作ったのは、2002年のワールドカップの日韓のサポーターの比較研究で、新宿区大久保や韓国へ行き、応援に参加する日本人、在日コリアン、韓国人のサポーターにインタビューをし、30分の映像にまとめたものです。僕が通っていた大学では、映像作品での卒論は初めてでしたが、指導教授が「映像で提出してもいいのでは」といってくださりました。
大学卒業後はサラリーマンをしていました。しかし映画づくりに興味をもち続け、働きながら、映像を使って日中交流をすすめる「東京視点」というグループに参加し、映像制作の勉強をしておりました。それから、2008年9月から2009年1月までの4か月間、広島、長崎の被爆者の方々ら103人が地球一周する船に乗りながら、世界に証言を届けるプロジェクトがあると聞きました。このプロジェクトは、国際交流NGOピースボートが企画したものですが、この話を聞いたときに、「参加しなければならない」と思いました。そのときは「地球一周できる」という思いと、「長崎で被爆者の話を聞いたのに、自分は何も応答していない」という思いがあったんだと思います。そしてプロジェクトに同行しながら、「ヒバクシャとボクの旅」をつくりました。完成したのは2010年4月になります。長崎、広島、山口、兵庫、大阪、京都、横浜、東京、オーストラリアなどの各地で上映会を企画していただき、これまで15回以上実施しております。

―その「ヒバクシャとボクの旅」はどれくらいビデオを回されたのですか。
国本 250時間です。100名近くのヒバクシャの方々や、20カ国の訪問先で出会った人々、若者たちにインタビューをして、それを64分にまとめました。「被爆者の表現をどう継承するか」というテーマを追求し、ピースボートの船の中での証言、アジアから回ってヨーロッパにぬけて、中南米、南米、オセアニアなどの20か国で交流など記録しました。タヒチでのフランスの核実験のため被爆した人の証言も撮影しましたが、作品には収録されていません。いろいろな交流や証言があり、何を軸にして映像を構成するか、迷いまして、編集作業は1年近くかかりました。最終的には、被爆証言を聞いた自分たちはどうしたらいいのか、という問いを軸にまとめました。ですから、この映画はヒバクシャのストーリーではなく、被爆証言を受け取る者たちのストーリーにしたかった訳です。

―証言が率直で見ている側には証言者の本音がよく出ていたと思います。若者の証言もストレートでいい。本音を語っているから、その次の展開が映像で出ることになりますね。

国本 乗船した若者の中には、初めて被爆者と出会う若者が多かったです。ある若者は、原子爆弾が通常兵器のように他の戦争で使われていると思っていて、戦争で原子爆弾が落とされたのは「広島と長崎だけなんだ」と衝撃を受ける場面がありますし、何回も証言を聞いて「証言に慣れちゃった」という若者もいます。その若者は、「(証言を聞いて)全然面白くなかった。何キロの地点で被爆して、その時自分は何歳で、という感じの話しを聞いて、何人かまで聞いていくとまたその話かと」いう感想を述べる若者もいました。もちろん証言を聞いて、「原爆は悲惨」「核廃絶しないといけない」という感想もありますが、これは当たり前になりすぎていて、ある意味ステレオタイプで、あらかじめ定められたような感想なんですね。僕は、「証言を聞いて慣れてしまった」という感想に正直さを感じましたし、そういう感覚も含めて、被爆証言をとらえていくことが、自分たちにとってのスタート地点のような気がしました。そういった証言に対する感覚も大事にしながら、自分たちなりに、どう被爆証言に向き合っていくか考えていきたいと思いました。

―若者の証言で注目したのは1人の女性の感想です。その証言はこうです。「不思議なんですけど、悲しまなきゃいけない、泣かなきゃいけないとか、変にそこで悲しんで、だからそこで戦争はいけないといわなければいけないんだって。たぶん、そういう流れがあったと思うんですが、もっとかみくだいたら何が悲しいのか、何で悲しいのかいま1つ説明できない」
正直な感想ですし、その正直な思いが実に自分に向かっていて極めて動的なものを感じました。先ほど、正直に「証言に慣れちゃった」、「(証言を聞いて)全然面白くなかった」という感想がありましたが、その限界を超える視点をこの若者は示したと感じました。

国本 僕も彼女の証言が引っかかっています。被爆証言を聞いているときは、悲しくて仕方がないのに、ふと次の日になってみると何が悲しかったのか思い出せない。じゃあ何が悲しかったんだろう。被爆証言って何なんだろう。そういう感覚をさらに深めて、被爆問題にかかわる作品制作は僕の今後の課題になっています。「悲しまなければいけない」と感じて、悲しんでしまっては、それは思考停止に陥っていることになります。


--映画の中では、被爆者が変化していく姿も描かれています。

国本 乗船した若者だけでなく、被爆者の方々も、世界各地の戦争被害者と交流する中で、変化していく姿が印象的でした。それまで僕の中での被爆者の印象は、固くて大きい岩のような、なかなか変わらないイメージだったのですが、各地を訪れる中で、被爆者の方もどんどん変わっていくんですね。例えば枯葉剤が落とされたベトナムで、障がいを持って生まれた子どもたちに出会い、ある被爆者の方は「自分たちも、あのばからしい戦争の被害者なのに、他の戦争被害者のことを何も知らかった」と語ります。そして、「もしかしたら世界の人々も原爆のことを何にも知らないのでは」と、自分たちの証言の必要性に気がついていきます。

―そのことを映像ではきっちりと記録されていますね。彼女の証言は、枯葉剤被害者との出会いで、戦争被害の共通性、そして伝えていく覚悟、そういう気付きが収録されていて、作品の大事な場面だと思いました。そして幼少や胎内で被爆を経験したために、原爆投下時の記憶を持たない被爆者が登場してきます。

国本 今回103名の被爆者が乗船していた訳ですが、その方たちは被爆者手帳を持っていることを条件に選ばれました。その中には、おっしゃられたように、幼年期に被爆したり、胎内にいたりしたために、当時の記憶がない被爆者の方もいらっしゃいました。その方たちは、航海の最初のころは、「私たちは記憶がないから被爆証言ができない」ということで、遠慮がちなように見えました。ところが、各地で戦争被害者の状況を目の当たりにする中で、自分たちにできることはないのかと、模索を始めます。絵本の読み聞かせをしたり、紙芝居や劇をしたり、「自分には記憶はないけど、こういうことを勉強した」と若者に話したりなど、少しずつ活動を始めていきます。その「記憶がないけど、伝えたい」という気持ちが、僕にとって、これまでの被爆証言では得られなかったもので、印象的でした。

―原爆被害の状況だけではなく、もっと掘り下げて、「被爆したことが人間にとってどういうことなのか」を伝えないといけない。「悲惨な体験を乗り越えたことを語ることから、もっと本質的なことを伝える努力をするべきだ」と語られる証言は、意図せずでてきたものだけに、作品の中心に座るもう1つのテーマと思いました。

国本 映画の中で、当時の記憶のない被爆者が集まり、討論をする場面が出てきます。その中で、「自分たちは記憶がないから逃げていた」とか「あと10年たったら証言できる被爆者がいなくなる。そのときに私たちは次の被爆者として何をするべきなのか」という発言が出てきます。この「次の被爆者」という言葉が印象的でした。この発言をした被爆者の方は、2歳の時に広島で黒い雨を浴び、その後、ブラジルに移民をしました。両親が何も語れなかったこともあり、彼女は自分が被爆者であることを、長い間自覚していなかったんですね。38歳の時に、被爆者であることを知り、被爆者手帳を取得しました。そして、ブラジルで、移民した人たちの被爆証言を読んだり、映像で投下当時の映像をみたりすることによって、「自分は被爆者なのに、何も知らなかった」と衝撃を受け、ブラジルの被爆者団体に参加して、在外被爆者に対する補償要請運動に身を投じていく訳です。また彼女はブラジルの学校の語り部にもなっていきます。その中で、自分は何も知らなかったという地点から、自分の核廃絶に対する思いを展開させていきます。そして今では、継承活動を自分自身の使命として受け止め、積極的に活動し、2010年の9月には、キューバでフィデロ•カストロ前議長の前で、証言をしました。
そういった当時の記憶のない被爆者の活動を受けて、若者たちも反応していきます。ある若者は「被爆証言は、(原爆が)落ちたときのことだけではなく、被爆したその後のことも証言なんだと感じました」と述べています。そして、「(これまでの)被爆証言に共感することは恐れ多いけど、若い被爆者の方(当時の記憶のない被爆者)とは一緒に何か作っていけるという希望が感じられた」とも証言しています。これは、被爆証言に対する我々の解釈の広がりであり、一つの希望だと思うんです。

―それともう1つ、被爆証言に対する国本さんの姿勢は、映像の中でこう語られていますね。「自分の向けられた言葉なのに、被爆証言を聞くと僕はどうしたらいいのかわからなくなる。被爆証言は被爆者でないとできない。証言を聞いてもぼくでは何にもできない」
この国本さんのスタートにあるところからどう進んでいくかが作品を創る姿勢でもあると感じました。

国本 「被爆証言を聞いてもどうしたらいいのか分からない」というのが、僕のスタート地点でした。体験者の方から聞く証言は貴重な機会です。当時の状況を理解できるように、想像力を働かせながら、聞きます。残酷だな、悲惨な光景だなと思いながら、そのときの状況をイメージしていきます。しかし、聞き終わってみると、自分がどうしたらいいのか分からなくなっていました。被爆者の方は「自分や家族に悲惨な経験を負わせた非人道的な兵器なのだから、廃止すべき」と言いますが、僕には同じような言葉が言えなかったのです。もちろん核兵器はない方がいいに決まっていますが、被爆者のメッセージは被爆者のものであって、僕の言葉ではないと思っていた。だからこの映画では被爆証言を聞いた立場から描いたものであり、証言を聞いた僕らの証言にしたかったのです。
 証言を聞いた後、何もできてない自分というのは、せっかく被爆者の証言を聞いたのに、無視しているような気持ち悪さがありました。すれ違う人に「よっ」って声を書けられたのに、そのまますれ違ってしまったような。だから、ずっと心の中に引っ掛かっていたままだったのです。この映画では、証言を聞かせていただいた方への返事の思いを込めました。

―被爆者体験の継承が大きなテーマですが、幼い時に被爆した女性は「被爆者が死んでしまえば証言する人はないんです。わたしらの子どもが『うちのおかあさんがこんなこと体験してこんなことを言っていました』と言っても被爆証言にならないんですよ。いくら被爆2世であっても。だから被爆者本人が伝えないと」こう語っていますね。

国本 確かに、僕も被爆者の立場による被爆証言は被爆者にしかできないと思っています。しかし、僕らにも発信できることがあると思います。それは、被爆証言を聞いた者としての証言です。「自分たちが体験した悲惨な体験を二度と繰り返してはいけない」というのは被爆者のメッセージです。聞いた者として、できることは、勉強して証言を検証していくこと。被爆者だけでなく、いろいろな立場の証言を聞いて、被爆証言を位置づけていくこと。そして、証言に自分たちなりの解釈を加えていくことが重要だと思っています。最終的に、核兵器廃絶というゴールはひとつであったとしても(そうでなくてもいいのですが)、そこに至る道筋は無数にあります。核廃絶の根拠が「被爆者の方が言っていたから」だけであったら、弱いと思います。今、資料館や図書館へいけば、文書、映像、音声記録、あらゆる媒体で、被爆証言が残されています。それをこれからの社会で活かすためには、受け手もままで終わらず、受け手の視点を積極的に取り入れた発信をしていく必要があると思います。もちろん被爆証言は貴重なものですが、当時の経験のない僕らにもできることがあるのだと思っています。

--また軍事評論家の前田さんにも被爆者体験の継承についてインタビューしていますね。「被爆証言は被爆者のものであり、継承出来ない。継承できないメッセージと、継承できるメッセージをどう扱うのかと提起しています。」被爆者の記憶をどう受継ぐのかと提案しています。その1つの具体例としてインド人が演じる芝居とアメリカでの出会いを紹介していますね。
国本 インドでは、ジョンデバラジ氏が主催するNGOボーンアートフリースクールの「白い花」というミュージカルを観賞しました。このミュージカルは、インドのストリートチルドレンによるものです。ジョン氏の主張では、インドの子どもたちも核兵器の被害者です。インド政府は核兵器の開発に多大な予算をさき、子どもたちに予算をさかない。ま上上では2億人以上の子どもたちが生活をしているのに、ストリートチルドレンに対する政策も不十分である。核兵器が開発されているために、子どもたちが貧困を強いられている。だから、子どもたちも核兵器の被害者であるというのです。
 ジョンデバラジ氏は、被爆者ではありません。広島で被爆証言を聞いたときに衝撃を受けて、インドの子どもたちによるミュージカルを作りました。それは、日本で描かれてきたものとは、ちょっと味付けが違うもので、新鮮な衝撃がありました。
 またニューヨークの高校では、キャスリンサリバン氏が、BB弾を使って学生たちに核兵器を伝えていました。一発のBB弾は、第二次世界大戦で使われた銃器や爆弾の火薬の量と説明して、学生たちに目を閉じさせます。今現存している核兵器の火薬分のBB弾を流し始めると、いっこうに終わらないのです。音を使って効果的に、現存する核兵器のイメージを伝えていると思いました。彼女はまた"The Last Atomic bonb"というドキュメンタリー映画も共同製作もしています。彼女もまた被爆者ではありませんが、核兵器の恐ろしさを伝えています。原爆体験そのものは体験者とともにありますが、継承できるメッセーはあると思っています。

―ところでいまは関西で仕事をしておられるのですね。
国本 下船後、会社を辞めて、神戸の長田区にあるNPOに転職をしました。長田区は、人口の約一割が外国人と言われています。私たちは、多文化な背景を持つ子どもたちを集め、彼らに映像の作り方を教えています。子どもたちがビデオカメラを持って、まちの中の多文化な取り組みをレポートしながら、いろいろな人と出会う機会を作っています。いつか、子どもたちがもやもやした気持ちを、映像という道具を使って、社会に発信できたらいいなと思いながら活動しています。いまの映像を撮り始めたところなのは、神戸・長田の朝鮮学校です。どのように長田に在日コリアンの方が住むようになったのか。そして阪神教育闘争の歴史をふまえつつ、今の朝鮮学校をとらえていきたいと思っています。

 また各地で「ヒバクシャとボクの旅」の上映会が開かれれば、そこに出かけていきます。見ていただき、感想をいただくことが、一番勉強になります。これまで、上映会場での出会いから、勉強会を企画したり、映画監督や大学教授と対談をしたりと、いろいろなつながりが広がっています。
【参照】長田の子どもたちが発信する「わぃわぃTV」ホームページ http://www.tcc117.org/yytv/

―国本さんは被爆証言を聞いた人が何もしなければそこで途切れる、とナレーションで最後に述べています。そして被爆者とぼくの旅はいまも続いていると結んでいます。今後の作品を期待しています。

国本 「被爆証言の継承」はこれからも自分なりに取り組んでいきたいテーマとなっています。これからもドキュメンタリーを作っていきたいと思います。また今一緒に活動をしているベトナムの子どもたちとも、いい映像を作って、社会に発信していきたいと思っています。


※ 「ヒバクシャとボクの旅」上映会
非核の政府を求める兵庫の会 市民学集会
日時: 12月17日(金)18:30〜20:30
会場: 神戸市勤労会館404
お問い合わせは、事務局 電話 078-393-1833
e-mail shin-ok@doc-net.or.jpまで

「ヒバクシャとボクの旅」「フラッシュオブホープ」
2枚組DVD販売中
お問い合わせは、ピースボート事務局
http://ameblo.jp/hibakushaglobal/
映画の連絡先 〒169-0075 東京都新宿区高田馬場3-13-1-B1
Tel:03-3363-7561/Fax:03-3363-7562
料金¥3000(上映権付き¥30000)

「ヒバクシャとボクの旅」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=NBIZ4cTYS5o

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夜間中学の集会

2010年12月12日 09時13分15秒 | Weblog
11月の奈良の夜間中学の集会が今日の奈良版で掲載された。2週間もたまっていた記事だ。「いつ開かれたわからない」と記事を読んだ家族が尋ねてきたが、記事が遅れた場合は「このほど}と書くのである。
 
 どう財政危機の中で学ぶ権利を守るのか。熱い議論が闘わされた。その中身はだいたい詳しい記事でわかった。

 今後の展望なり運動の組み立ては載っていなかったが、集会を準備した人たちには当然もっているわけで、改めてさらに突っ込んだ記事を読みたいし、また直接聞いてみたい。

 大阪での運動もそうだが、もし財政健全化が進み、それでカットされた部分が復活するということなら、それでいいのではないだろう。財政問題を跳ね返すのが、学ぶ権利の保障であろう。行政が死守すべきものだ。そこに本末転倒があると、状況は変わらない。

 本末転倒している行政部分が何か。人権行政の脆弱さだろう。それだけの位置しかないのかと思わせる。その弱さは政治の目標がどこにあるか不確かだからだ。『荒廃する世界のなかで』という トニー・ジャット の本が出た。訳者は森本醇。社会民主主義の未来を語る本だ。 民主党の右往左往に渇を入れてほしい。ほかの野党が。
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日本軍「慰安婦」被害告発した金学順さんの証言1991・8・14から20年だ

2010年12月10日 13時17分36秒 | Weblog

2000年12月の日本軍「慰安婦」制度を裁いた国際法廷から10年を考えるシンポが東京で開かれ、東京外国語大学の会場には500人が参加した。

 パネラーの一人の韓国ものユンさんが最後に語っていたことで印象深いのは、2011年がこの蛮行制度を告発した韓国の金学順(キムハクスン)さんの証言から20年を迎えるという指摘だった。

 1991年8月14日に被害者であることを名乗り出ることで日韓間の大きな歴史清算の課題を突きつけたことだ。「この8月14日には何らかの進展を見せて金学順さんの証言のこの日を記念ある日にしたい」という趣旨の発言をユンさんはした。

 そうだ。日本の運動は11月25日国会に60万以上の問題解決を求める署名を提出した。すごい数字だ。さらに進めるべく取り組みを2011年展開すると関西の運動リーダーが壇上で宣言した。どうか金学順さんの証言から20年目の2011年こそ、日本軍「慰安婦」問題の公式謝罪、賠償、名誉回復の年にするため、何らかの法的制度の創設を求めたい。

 民主党は野党時代に何度も解決をめざす法案を提出していたではないのか。どうなったと攻めるよりも、具体化に向けて進まねばならない。

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日曜日新聞読書欄簡単レビュー

2010年12月09日 13時32分23秒 | Weblog

 5日は午前9時に入らねばならない女性国際戦犯法廷から10年・国際シンポジュウムが東京外国語大学であるため、現時点で多くの新聞の書評欄を紹介できない。

 読売新聞が哲学者森有正の生き方を描いた片山恭一『どこに向かって死ぬか 森有正と生きまどう私たち』(NHK出版、1600円)を書評欄で取り上げている。評者は野家啓一。森の著作は大半読んだ書評欄を紹介者である筆者だが、そのときに同時に読んでいたのがキルケゴール、親鸞、ドストエフスキーである。森との共通性はどこにあるのか。それは孤独さの徹底と生の根源を見つめる真摯な生き方だと思う。東大での職を辞し家族を捨ててパリにわたり自身を見つめた。別にパリに赴かずとも自身を見つめられるではないのでは、と思うが、パリで「自己を発病してしまった」と片山は書く。それだけではわからないが、一人になることで自己と否応なく出会うことになったのだ。たしかパスカルに関する著作は大作だが、孤独のなかでこそパスカルの『パンセ』も含めて西洋哲学の真髄を描けたのだと思う。片山は森の中心概念である「感覚」と「経験」について書いているが、この2つの概念は実は自己の確たる生を導くものであったことが森の著作からわかる。同じくパリに来て小説が創造できるようになった作家が辻邦夫だったが、どこに共通性があるのか。それは絶対なるものを見据える生き方からくる文章の瑞々しさだ。森の著作はいまでも講談社新書で読めると思う。徹底した思索は没後25年へてもメッセージを送り続けるのだ。

 黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社、2400円)も読売が書評した。堺は大逆事件と大杉栄の関東大震災時の虐殺という2つの事件を生き抜いた社会主義者だ。獄中にあるなどしてたまたま生きることができたという歴史の皮肉さを体言した思想家でもある。創立大会について書いて文を読んだ記憶があるが、1910年から8年3か月「売文社」で活動した内容が本書の中心にある。「売文社」の中身はほとんど知られていないが黒岩は「文才と笑いに賭けた」と紹介している。愛妻家であった堺、幸徳や大杉をどれだけ信頼したか、「楽天囚人」と称した堺ーなど紹介している。「冬の時代」をどう生きたか。堺の生き方から現代の生きるヒントを先月他界した黒岩はまとめて遺してくれたことに感謝したい。

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橋下大阪府知事が大阪市長選出馬? 2

2010年12月07日 08時46分53秒 | Weblog

 メデイアでは知事候補として読売テレビに出ているキャスターの名前まで出していたが、これはメデイア権力以外にない。寒気すら覚える。

 テレビは見ないからあまりわからないが、番組で露呈するのは仲間うちでの「談合的」会話だ。嫌気がさす。それが公権力を握るとなると、もうテレビ族という「特権階級」としか言いようがない。

 今回の橋下知事の大阪市長選転出で、もし報道で特定の名前が出たキャスターが出るなら、テレビ番組での「仲間」が出てくるとなる。背筋が寒くなる。

 大阪市民、大阪府民のやることだから、他府県民の私がいちいち口出すことではないが、テレビは大きな力をもつ。それが一定の意見を持った人しか出ないから、一定の人の発言が力をもつということになる。

 有権者がそれでいいと思うなら仕方がないのかもしれないが、もっとメデイアリテラシーを磨く必要がある。

 それにしても一年前ほどからこの構図を運動圏から聞いていたが、何もできないでいるとしか考えられない姿に、こちらの方も背筋が寒くなる。批判はいいが、こちらの側はどうなのか。それが問題なのだ。批判していて済むことではない。

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橋下大阪府知事が大阪市長選出馬? 

2010年12月06日 16時04分31秒 | Weblog
橋下大阪府知事が大阪市長選出馬? こうした動向は以前からうわさされていたが、「出馬を否定しない」とのニュアンスの会見での発言が飛び出し、うわさの域から一歩進んだ感じだ。

 地域政党・大阪維新の会が「大阪都」構想から大阪府、大阪市とも制圧するということで、橋下知事の大阪市長選出馬の「正当性」が出てきたというわけだ。

 では知事選はだれなのか。以前からのうわさはテレビキャスターとの声が知事の大阪市長選出馬と抱き合わせでうわさで流れていたが、「ほんまかいなあ」と首をかしげれる。
 
 わざわざジャーナリズムの世界で仕事をこなしている人が赤字財政再建の当事者になるなど損なことだ。

 平松大阪市長は「いちいち反応してられない」とのコメントがニュースで流れていたが、正しい反応だ。海のものとも山のものともわからない選挙情報に右往左往する必要もないだろう。
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砲撃以後の共和国情報の読み方

2010年12月02日 10時31分21秒 | Weblog
韓国で共和国での粛正が300人が出たと聞いた一方、あるジャーナリストに尋ねると「そういう情報はほとんどあてにならいない」と一笑された。共和国の情報はほとんど裏が取れないからあてにならい。

ということは日本の週刊誌で報じた今回の砲撃事件(11・23事態)以後出てきた情報はほとんどあてにならいない。

11・23事態を報じた新聞で一番解説で光っていたのが読売の11月24日朝刊の解説記事だった。「軍事施設攻撃をさけた」と書かれ今回の事態の意図を書いたが、被害の実態があきらかになると、軍事施設も被害を受けていた。

つまり一番信頼していた解説記事が翌日の段階で信頼できなくなったのだ。

11月30日の韓国の「文化日報」トップ記事は李明博政権は「北のレジム(体制)変換まで見越した方針をたてる」との内容で報じたが、日本の「朝日新聞」夕刊は外交電文の暴露をネットが行い、韓米中間のやりとりが明らかになったーと報じた。

中国大使は共和国の存続と緩衝地帯としての役割に疑問をもっており、韓米管理でポスト共和国にあたるのが一番だとのやりとりがなされたーといった内容の報道だったが、「文化日報」はこれらの情報を加味して青瓦台の共和国方針を書いたのではないのかと感じた。

共和国の情報は、①まず疑ってかかれ。週刊誌は言うに及ばす、新聞ですら②アメリカの動向なくして先は読めない。アメリカ情報を丹念に調べることーということが言える。

いずれにしろいい加減は情報にまどわされずにいることだ。韓国住民は戦争は2度と起こしたくない。共和国は戦争になれが自国―金正日体制が滅びることは十分知っている。ただ世襲をなんとかやり遂げたいと考えている。「世襲での軍事手柄の神話づくり」という指摘はあたっているように思える。

いたって平穏は韓国市民と会い安心したが、日本は米に付くことでしか何もできないのかと思うと心がしぼむ。
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