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ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

うかつさとウロウロの関係は機械の故障にある

2007年06月28日 19時40分39秒 | Weblog
 そうとう原稿を書かないといけない感じだが、出版社の仕事はこれが手間がかかる。当然だ。当たり前。そんな簡単なことなどない。聞き書きだが、確認、確認で時間がとられる。これも当たり前。

 今日は仕上げた仕事を聞き取りをした方の家に持っていったが不在。その前にプリンターがこわれているのでメールで添付で送り別の場所で開いて印刷ーと考えて朝8時前から自宅を出て動いたが、別のところでパソコンを開いてみると、これがヤフーメールが届いていない。仕方なく自宅に帰り再度チャレンジするはめに。楽ではない。能率が悪い。

 根本はプリンターの故障にある。機械が故障したら身動きがとれず能率が悪くなるとは、なんともはやなさけない。

 例により生駒で道がわらず、ウロウロ。いつも間違う。おまけにその方は不在。そういうものだ。話が変わるが文京洙教授の本「在日朝鮮人問題の起源」は面白い。「起源」の近世までは従来の研究成果に依拠しているが、近代から現代の論考がいい。
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女性が多かったのは23日と同じ

2007年06月27日 09時05分23秒 | Weblog
 というのは23日の姜さんの講演で見かけた人が多数したからだ。おそろしい。

 私と3歳違うだけだが、えらい違い。比較するのはやめよう。

 話は難しい。なにせ東京大学の先生だから。「23日もきましたよ。今日もきましたが、話は難しい」。こうつぶやく女性が横に座っていたが、要は雰囲気なのだ。

 服部良一さんの講演はよかった。人柄が良く出ていた。誠実な人柄が。姜さんと服部さんの話に満足して今回は飲みに行かず帰った。考えれば火曜日は7時前から仕事しているのだから、年を考えればくたばっても仕方がない。9時半すぎて飲もうという気持ちはさすがになれなかった。

 人数的には400人は来ていたか。女性が多かったのは23日と同じだった。
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寄り道

2007年06月26日 17時08分24秒 | Weblog
 一辻間違って運転したのが悪かった。一辻間違うとこうも時間がかかるのかと思ったが、人生もよく似ている。

 曲がる角に妙齢の女性がいると、ついほだされて横道にそれる、曲がり角においしい寿司屋さんがあるとのれんをくぐりたくなる。

 こうした積み重ねが辻の一辻違いとなるのだが、時間はかかるが知らないことを知れるというメリットもある。知的存在である人間の能力はこうして開花するようだ。

 人生のスタートから、つまり生れた段階からも予想もしなかった寄り道しないといけない人生があるものだが、それはそれでいろいろ知る機会を得るというものだ。こうなると何が寄り道かわからない。つまり人生には寄り道はないということなのか。

 こうして抽象化するとなんとなく寄り道もいいものだと思うが、しかしこの日の30分うろうろはたまらない。そんなに悠長にしていていいものなのか。七時からは姜尚中さん、山内徳信さん、服部良一さんのシンポにいかないといけない。なさけない。
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対等であることーアメリカの北朝鮮の金融制裁を考える

2007年06月25日 22時37分01秒 | Weblog
 しかしそれは解決の道筋にはない。哀れさからの解決は必ず後々問題をおこす。哀れさは対等にみていないからだ。感情の上意下達がある。

しかし対等に見たいとしても解決の道筋が見い出せない時はどうするのか。

 相手の土俵にのることだ。土俵が別だから齟齬感が生れる。だから相手が求める解決をはかることだ。その方法しかない。それは当然相手もこちらの土俵に乗ってくることに他ならない。つまり共通の土俵の上で勝負するしかない。

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金融制裁の解決はまさしくこの見本である。アメリカドルの国際金融市場をバックに仕掛けた金融制裁は2年続いた。最終解決は国際金融市場の復帰を示唆したことで、北朝鮮はおれてきた。つまりロシアの銀行の口座の確認されたことで核施設の査察に応じる姿勢を見せた。

多国間の枠組みが東アジアでようやく具体化する。そういう意味では2007年は歴史的な年かもしれない。日本の右派勢力は怪訝な様子で今回の米朝直接対話を見ている。「拉致問題はどうなるのか」と。

共通の枠組みを急ぐべきだ。それは日朝正常化交渉であることは言うまでもない。北朝鮮が求める土俵は日本にも必要な土俵ではないのか。それは日朝正常化交渉であり、そこで拉致問題を協議すべきだ。6者協議の作業部会は必ず動き出す。
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パソコンを閉じようーの指摘

2007年06月24日 12時44分00秒 | Weblog
 10数年にわたり様々な雑誌や新聞の求めに応じて書いてきた文章をまとめた大冊だが、パソコンを切ることで書物が一層魅力化するということだろう。

 IBMが受け入れたことで一躍世界化した「オープンソース」の原則がある。ログラムは改編するものが無償で他人も利用できるようにした。1991年にフィンランドの若いプログラマーが創設したものだ。これを「オープンソース」と呼ぶ。IBMは「オープンソース」システムをとることで私有財産制度に挑戦するのかといったりされたが、内実はそうではない。思想的使命にかられたものではなかった。

 結論はそのままではマイクロソフトに勝てないとみたからだ。企業競争は寡占、独占の闘いなのだが、その中では、競合する他社による独占を妨害するため、パソコンは知の生産上、共有を積極的にすすめる。知の解放という面では大いなる貢献をしてきた。

 そうしたコラボレーションから巨大な力を市民が手にすることができる。そういった時代がやってくるかどうか。しかしネットは一律である。1つの支持系統により展開されている。これに対して個人の心の内奥に応答するのは紙メディアということだろうか。そのことがパソコンを閉じるという野崎さんの表現になっあとみる。

 こうしてパソコンをたたいていることで情念は「カラカラ」になっえいくのがわかる。それはなぜなのか。電子メディアの解放性が精神の拡散を招くのか。情報と精神は重要なテーマになってくるだろう。
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「あんた、ええ話が1つもないなー」

2007年06月23日 08時49分45秒 | Weblog

今年に入り依頼された仕事が体(てい)良く断られた。かなり肉体的にきつい仕事だったが、断る側の見え見えの言い訳で、そのことがよくわかる。そのことを知ったから、たまりにたまったわけ。「あんた、ええ話が1つもないな」となったようだ。

しかし、考えてみれば「あんた、ええ話が1つもないな」とはきつい生活者からの一撃である。まあ、待てばなんとかの日和ありではないか。しかし、「ええ話」などそうそうあるものではない。うだ・しげきさん主演の映画がカンヌ映画祭で賞をとったくらいしかない。

「もうじき来るわ」と待っていてもだめで、結局は社会的認知ということだろう。それが世の中。うださんが主演俳優とわかると態度を変えて見え見えの利用主義者もでてきたというから、社会的認知とは恐ろしい。両面で。認知されることで仕事が増えるということもあるが、認知されないと存在しないということなのだ。ここが恐ろしい。

「おてんとさん」が見てるーとは認知されているということで、本当は社会的認知とは倫理的規範であったものだ。それが商業主義的規範に変化したところに二重性が生れる。要は倫理的規範と格闘することで十分社会的認知を達成している。だから思うような仕事がこなくてもあまり関係ない。ただ周辺が経済的ヘコミで迷惑するが。
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男と女

2007年06月22日 09時43分41秒 | Weblog
 経験から言うと、どうも男はもったいぶって本当のことを語りたがらないが、女は直球で話す人が多い。

 ええかっこしいーもいるにはいるが、しかし私の経験則でそう感じる。この間、インタビューした解放運動の支部活動家もそうだし、固有名詞をだしてもいいだろうが、女優の新屋英子さんもそうだ。何もかもあけすけに話されて、その結果、『女優新屋英子』という本ができた。

 ええかっこされていたら本はできなかった。

 その点、男性はなかなかホンネを語りたがらない。どこかしゃべらないところがある。これでは困るのだが、よく出合う事態だ。

 男と女の生理的違いか。そうでない。男性でも腹の底を見せる人も知る。この人は信頼に値する。だいたい私の価値観はそんなところにある。案外単純だ。

 女のあけすけさは何かを濾過して生れるものだが、男もそうだろう。もったいぶるのはそこの部分、つまり語ろうとしない部分が未消化だからだ。濾過していないからだ。
 さてさて、自分はどうか。振り返ると何もないことがわかってきた。「だから、もういい」と思うようになってきた。ストレートでいくしかない。もったいぶっている場合ではない。
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迷惑なこと

2007年06月20日 13時38分35秒 | Weblog
 横の人が携帯電話をかけていたからだ。するとその携帯電話の主はすぐやめ、今度は移動した人2人のおしゃべりがやかましいこと、やかましいこと。

 勝手なもんだーとしばし目をつぶる。すると少し寝てしまい大阪駅、隣の2人はいなかった。迷惑は目をつぶるといいのか。なんとも迷惑な。
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絶好のチャンスにー旧来の思考はダメ

2007年06月20日 13時28分54秒 | Weblog
 安倍さんとしては改革の旗印を鮮明にしたいから「かけ」に出たが、支障が方々で出ている。12日伸びることで経費が加算される。台所事情がいいところはいいが、貧乏所帯は相当の財政圧迫だ。

 この17日に友人が出る選挙区の事務所開きに行ったが、出席の国会議員はもう12日延長を読んでいるようで、「時間が伸びそれだけ活動できる」とハッパをかけていた。立候補声明が遅かった友人にはもっけの幸いだ。チャンスに変えられる。

 選挙区の中で1地域での手伝いは必然的。苦にもならない。12日延長の「かけ」はいまのところ追い風になっている。

 追い風とは自分が仕掛けなくても相手が塩を送ってくれることだ。政治の季節は駆け引きも重要だが、タイミングがポイントになる。さてどうなるか。もう右派政権には辟易している。旧来型の思考だからだ。競争原理主義、冷戦思考など。打つ手がよくない。

 年金問題は民主党党首は「またか」と最初乗り気でなかったと聞く。それが絶好のタイミングとなった。前の参議院選挙も年金だったが、今回は政権政党には逆風。だから打つ手、打つ手が有効ではない。メディアは完全に与党の土俵に乗っていない。衆議院選挙の「小泉劇場」とは明らかに異なる。

 友人ははにかみやさんで、出席の国会議員から「もうテレ笑いはだめ。候補者としてあつかましく」と檄を飛ばされていたが、これが古い考え。そのてれ笑いがいいのだ。

 旧来思考に汚染されてはいけないはずなのに。滋賀県知事選挙はなぜ勝ったのか。候補者の個性と既成政党にない発想が先行したからだ。要は無党派層なのだ。手垢にまみれた旧来パターンには嫌悪感をもつのが無党派層。勝敗の鍵はどこまで個性を出せるかだ。巨大組合が背後についていないし、市民感覚だけが頼りなのだ。
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息を呑むことをいつからやめられるのか

2007年06月16日 13時53分32秒 | Weblog
 権利が不当に失われていることーこれが戦後の解放運動をリードした浅田理論の根幹にある。

 しかし私がいま思うのは、正義の範疇にも入らないし、権利獲得とはほど遠い感情である怪物がこころを領していることについてである。

「それをいっちゃおしまいよ」と息を呑み続ける生活がそれだ。

世界のどの国であろうとも、「人は生まれながらにして平等で自由な尊厳をもって生まれる」という文言を掲げない憲法と無縁な国はおそらくない。しかしながら、差別による離反があるし、葛藤が渦巻いている。

「差別だ」と言えることは、まだスッキリするのかもしれない。

しかしある事柄を言ってしまえば、人間関係が決定的なほころびを生み出してしまうーという境目を絶えず意識しないといけない。ここに現代の差別問題の1つの特徴があるように思う。

 ことばのつむぐ世界に生きる人間が、それとは真反対の「それを言わないで我慢する」ことほど残酷なことはないだろう。

 表面的には差別は見えないし、何事もないように見える。しかし「それをいっちゃおしまいよ」と不文律を知悉している。だからこそ日々の生活は何事もないように見えるのであり、境界線を我慢して歩くことで、見過ぎ世過ぎ、生きていくことで、外側からは「なにごともなかった」ように見えるのだ。
 
 ことばを駆使するのが人間の特性だが、それを無残にも、黙らしてしまうことこそ差別の非人間的冷酷さがある。どう「それをいっちゃおしまいよ」を克服していけば良いのか。どこに出口を見つけるべきか。未来に投げかけた設問だけに現在を先取りしているのである。

 「それをいっちゃおしまいよ」とは単刀直入に差別を指摘することで、人間関係が崩れるーだから息を呑むのだ。

 この差別の悪循環を克服しどう未来をたぐり寄せられるのか。現在を生きる人間が未来を越えることは至難の業であることを知りながら。

 「それをいっちゃおしまいよ」を抱える生活は、実は生活の中でヒビ割れを生じさせる。、生活が荒れてくるとか、どこか乱暴に見えるとか、規律が乱れがちだとかーといった類である。いまを生きるものは、いまに沈潜する。だから未来を先取りして立ち塞がるものを乗り越えられないから、生活の乱れをどこかに生む。

そうだ。その乱れが見えてくる差別の姿なのかもしれないが、しかし差別の結果でしかない。それを他者は被差別者の非難として具体的にあげるのだが、見当違いもはなはだしい。

 乗り越える道は「それをいっちゃおしまいよ」の次元を超える生き方でしか論理的にも乗り越える道はない。次元が異なる現在と未来のせめぎあいは永遠に歩み寄ることなどないのだ。「次元を超える生き方」はぬきんでる道に歩むことであり、それは文武でも経済、政治活動でもある。非常にしんどいがその「白道」しかない。

 しかしそれは英雄主義ではないのか。99パーセントは断念する。するとどうなるか。営々の地道に、コツコツ生きるしかない。その生き方は差別に負けたのではない。次元の違う悩みを昇華した力強い生き方だろう。寡黙で、頑固で。

 両極端な生き方であるところに、差別の残酷さがある。なぜなら人間は両極端ではないからだ。「それをいっちゃおしまいよ」ではなく、何でもいえることは人間の基本にある。それがいつ実現できるのか。私の前に存在する差し迫った、でも実現は遠い問題である。

※ 人間を信じて進むのが解放運動だろう。もろに差別の場面に出会う体験をしても、その差別実相を克服する営みは人間を変える困難さを持つ。しかしそれゆえに人間を信じていくしかない。どう人間を取り巻く外側の条件を変えるのかも問われるー2007年6月16日
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桂枝雀さんの芸の品位

2007年06月16日 10時55分50秒 | Weblog
桂枝雀さんが亡くなり8年たつ。彼の芸はたしかに理論化されていた。

 いくら高座で派手な動きをしても座布団から体を離さないことを原則としてきた。話芸は「緊張の緩和」をもととしていた(緊張と緩和ではない)。嬉しいから自然とジェスシャーが出るのであり、受けをねらうものではないことも。

 高座という座布団1枚四方の伝統芸を生み出したのは日本の落語くらいだろう。この限られた空間の中で最大限できることは何かと徹底して考え、挑戦した人は、枝雀さんをおいてほかにない。

 話芸だから、話だけに集中するから、座布団1枚の空間をどう生かすかということはあまり考えない。話芸の場を考え抜いた彼のすごさ。この真面目さに頭が下がる。

 枝雀さんの遺産は落語だけではない。日本という限られた空間の中で最大限何ができるのかー枝雀さんのように考えぬく、そして世間に打って出ることが求められていると思う。

 枝雀さんはやはり落語の革命児だろう。落語という芸を深め、限界を破ったからだ。よく3人の枝雀がいると高座の自分を語ったものだが、それは人間としての矜持であり、世間に顔を向ける自分への点検だろう。そこにはお客さんに対する関係を知悉していた。だから理論家であろうと嫌な感じを受けない。高飛車な芸は嫌悪感を観客にまき散らす。

 枝雀さんの芸は当然洗練されたものに磨かれていく。ことばを変えれば品位が高くなる。当然のことだ。彼が年をとり高座に座っているだけでお客さんから喝采を浴びる芸を見据えていた。これはもう芸と呼ぶのか。

 枝雀さんの品のある芸をもっと長く聞きくたかった、見たかった。落語ファンの追慕は強い。
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エキストラ後日談またまた

2007年06月15日 08時40分51秒 | Weblog
「かわやん、鶴橋駅の広告看板写真出てまっせ」

 なんと親切な人がおられるものだろうか。その看板を撮した看板をメールでお送りいただいた。たしかに撮っている。通り過ぎればよくわからないのに…と思うと、人間の関心は持ちようにより発見できるものだと痛感した。

 そんなことより、あの雑然とした撮影現場が、構図的にも、色彩的にもうまくまとまるものだと写真を見て感心した。友人も出演しているが、後ろ姿だけ。

「出てまっせ。しかし尻目立ちますわ」

と電話すると「よかった」とのこと。

 そういえばうださんの映画もカメラ監督は「河瀬監督の作品をやらせてください」と志願された実力派の方だとか。そう聞いた。カメラワークは大きい。

 広告看板の主役はやはり先輩の詩人。呵々大笑のシーンを演じている。写真中央で大きく笑って広告に収まっている。目立つはこの方は。どこまでいっても。
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とても想像できない葛藤

2007年06月14日 20時14分50秒 | Weblog
 犬塚さんの取材についてうだしげきさんの自宅まで押しかけた。

 取材は1時間半にも及び、そばで映画の苦労話を聞いていたが、世間の価値観の変動がよくわかると同時に、彼の演技での努力を改めて知った。

 テレビ取材は増えた。「いつやんにゃ」と聞いても本人は一向にお構いなし。

 だから私はうださんのテレビも河瀬監督のテレビ出演も観たことがない。

 演技については極限まで肉体をいじめたようだ。いじめるというのは表現は良くないが、疲労してクタクタの場面ではその前に全速力で走ったという。また監督をオーケーが出るまで何十回もエヌジーを出されてやっと、というシーンもあったという。

 詳しい話は犬塚さんの映写室を読んでいただきたいが、表面的につきあっていたのでは何一つわからないことを痛感した。要は掘り下げよ、人間の対話をということだ。

 話は変わる。うださんの「取材」の翌日、14日午前中はある被差別出身の女性の話を聞いた。人権文化センターの一室で約2時間半。表面からは何一つわからない差別の姿にその方の痛苦の体験を語るなかで流された涙にうたれてついもらい泣きをしてしまい、平静を装うのに苦労した。

 詳しくは書けないが、拒絶する、排除する差別の実相は、何により支えられているのか。恐ろしい日本の現実である。
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演劇パワー

2007年06月13日 07時47分05秒 | Weblog
日曜日の移住連の集会(東京)のことだ。前日7つの分科会に別れた論議の報告の場面で、ある分科会担当者がコント形式で発表した。

「昨日の議論は白熱しましたね」
「そうです。この議論を再現できませんか」

という具合に2人の掛け合いから始まり、やがて発表者個々が内容を報告。その演出は見事だった。演劇を学生時代にしているか、いましている人の発想がないとできない。掛け合いが男女であった点も重要だろう。性の違いで焦点を深める、より鮮明化さす。

劇的空間の出現で焦点がはっきりしてわれわれには問題点をより訴えることになった。普通に壇上にあがり報告していたら印象に残らない。

つまりわれわれは物語的、演劇的空間を欲する精神をもっている、だから拒否感をもたない。ここが重要だ。物語的空間をどう創りだすか。重要なテーマだ。報告でも劇的なイメージを打ち出した人はより印象を与えた。平板さから免れたからだ。移住連の集会の大きな教訓だ。
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2006年6月アクセス数上位記事

2007年06月12日 16時38分28秒 | Weblog
 フランスの哲学者ピエール・ロザンヴァロンの『連帯の新たなる哲学』(勁草書房、3465円)は「不幸が特定の人びとに偏らない社会」を目指す社会参加を見つめる本だ。

 本書のねらいは市場と福祉領域の分断をゆるやかに架橋することにある。というのは市場原理主義社会は市場効率追求の社会から排除された人を強固に生み出しているからだ。著者はこの現実を直視しているのだ。

「情報技術と生命技術の発展に伴い、リスクの偶然性が低下すると、保険による連帯の根拠は失われる。そこには、隣人の不幸を自分にも起こりえた不幸だと捉える契機はもうない」と2日の朝日新聞の読書欄で評者山下範久はコメントしている。

 市場からの排除は福祉の領域に隔離され人たちを生むと。等しく、そして個別の条件に応じて支援を拡大することができるか。この困難な取り組み普遍的な自由と平等の実現という課題を福祉の視点から追求することにある。

「福祉国家の能動化」という議論の中心は、自由と平等という人類が求めてきた二律背反への克服の道筋があるということ。福祉の場から照らし出されるのだ。ここに興味を引かれるのは私だけではないだろう。アマルティア・センのケイパビリティ(潜在能力)の考え方にも通じるとも評者に紹介されている。

 フランス哲学が具体的な実践課題に答えようとしている本だ。
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