不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

「日本軍の軍命」は最後まで拒否ー史実を検証せず 検定審

2007年12月29日 09時36分42秒 | Weblog
コラム「風」歴史に禍根を残す「日本軍関与」検定訂正承認:川瀬俊治

高校歴史教科書、沖縄戦・集団自決(強制集団死)問題での「日本軍の強制」削除検定は、「日本軍の強制」に落ち着いた。この文科省方針を「政治的」失態とする読売の社説から、検定制度そのものを見直せとする毎日の社説まで新聞論調の振幅は大きい。しかし、……。

結論は「日本軍の強制」は断固として認めなかったのである。「日本軍の関与」だから「評価できる」となるのだろうか。読売社説などは「関与」すら否定的評価なのだが。

ここで原点にもどりたい。歴史は解釈の前に事実に関する検証がある。つまり具体的な事実があるのかどうかの基礎の基礎の作業が求められる。それを終えて、今回の場合なら「軍命」がなかったと結づけるならいい。そうではない。

沖縄の新聞が伝えるところでは、「集団自決」の現場にいながら命拾いをした多くの体験者らがこれまで「軍の強制」を証言してきた。その事実を検定審が一つ一つ丹念に検証した形跡はない」「検定審の意見聴取に対して大城将保氏(沖縄県史編集委員)は「直接命令を下した指揮官名まで判明している事例も少なくない」と指摘している」(琉球新報社説)とある。

さらに沖縄タイムスの一般記事ではより具体的だ。ある執筆者の弁としてこうある。当初訂正した「日本軍は…集団自害と殺しあいを強制した」との記述で調査官の指摘があり、「日本軍が…集団自害と殺しあいを誘導し、強制した」と再申請。 「しかし、この記述も認められず、同社はいったん申請の取り下げを検討した。その後、調査官が「(申請の)不承認はあり得ない」として再々申請を強く求めたため、「日本軍」の主語を削除した」と報じている。 さらに「体験者の証言を掲載した「囲み」で、「集団自決」について「軍から命令が出たとの知らせがあり」との記述を加えて申請したが、差し戻された」という事例も紹介されている。
 人は具体的な事実を知ることにより認識が変わる。沖縄の新聞の報道にふれなかったら「「集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因」と読める内容」「「軍の強制」を認めなかった検定意見を撤回しなかったものの、内容を事実上修正する結果となった」(朝日新聞)という論調に満足して、「これでよかった」となってしまう。
 具体的な事実すら検証せず「軍の関与」までは譲った検定とは何なのか。沖縄が動かした全国の世論により検定意見は「関与」までは改められた。しかし「軍命」は採用しない。琉球新報社説は、沖縄戦研究の積み重ねを無視するに至った理由は、不透明であり、検定審はその説明責任を尽くすべきと主張している。史実をあいまいにすることで生じる認識は、戦争の実相に対するあいまいさに直結する。あいまいにしなければならないのはなぜか。このままなら後世に禍根を残すとまで書く言論(琉球新報)は、本土の新聞との歴史への向き合い方の差をこれほど示す文章はない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年12月№3アクセス記事

2007年12月29日 08時11分11秒 | Weblog
高潔であることー池田正枝さんの死

Weblog / 2006年12月23日 09時12分22秒

 植民地下の朝鮮で教員をし、教え子を「女子挺身隊」に送ったことの意味を問い続けた池田正枝さんが亡くなられた。突然の訃報にある女性は大粒の涙を流した。他人様の死がこれほど人の心を揺さぶるものなのか。

▼あるジャーナリストは孤独死であった彼女の情報を求め居住地である生駒市、親戚がおられる関西の地を探された。年末の業務がある多忙な一日をさき、彼女の最期をどうしても追わずにおれない何かがあったに違いない。

▼高潔とは、高く清いことだ。それは字義どおりのことだが、人をして高潔にするには、ある生き方の芯がにじみ出ることだ。それは徹底して弱者であること、貧しくあること、そしてもの言わぬ存在とともにあることーが三つの柱はいかなる高潔の人でも備える「徳」である。

▼晩年親しかったコラム子は、池田さんの虚弱であった少女時代、不遇であった男性との出会いーという、こども時代と大人の体験の双璧が、まるで宗教的体験のように感じてしまうのはどうしてか。

▼とりわけ後者の一端は著書『二つのウリナラ』に書かれている。出兵した兵士が留守家族の世話のため急いで「結婚」。無事帰還すると「もう用はない」と離縁されたことを指す。「こんな腹立たしいことを…」と質問を向けると、池田さんは「一つも憎んでいません。そのことが私の今の生き方を生み出してくれたのですから」と答えられた。

▼もの言わぬ存在とともにあることとは、死者とともにあることだ。沈黙する過去とともにあることだ。口癖のように、よく「もうじき死にます」と言われた。それはご自分の死のことだけではなく、「私は死者とともに生きている」という意味であった。またつぎつぎと過去の闇に消えていく歴史に話しかけることでもあった。

▼人は何によって生きるのか。無論パンではない。しかしパンは必要である。教員を50歳で辞した池田さんは最低限度の生活の糧で、なおかつあらゆる市民運動にカンパされ、そして市民運動に参加された。日本の植民地支配を正す「加害」の当事者としての証言、そして教え子への謝罪。これは池田さんにとっていの一番になさねばならなかったことだ。「」教育、障害児教育、野宿者支援運動、アムネスティー運動、韓国民主化運動支援…。

▼華やかな舞台にたつことなく、だからこそ弱者の立場を貫いた池田さん。今月8日に発見された死は、誰よりも強く知人らにその生き方を追慕されている。享年84。合掌
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偶然と因縁

2007年12月28日 23時59分02秒 | Weblog
家族があやまってふれて本の山が崩れ、探していた本が出てきた。

 恐縮していたが、わたしはほくそえんだ。人生ではそういうことがままある。

 沖縄で彫刻家の金城実さん宅を出てバスに乗った。そのとき親鸞の「教行信証」解釈の本を借りて、車中で読んでいた。すると、その本を金城さんに買うてほしいと持っていた人がバスに乗ってきてわたしの後ろに座ったのだ。。

「おい、おい、○君では」

と1年ぶりの再会を喜んだが、わたしがもつ本を見て、「どうしたん…」と質問。そこでこの本が彼が金城さんに薦めてわたしが借りていることがわかったという次第。

 本の山が崩れて探していた本が見つかったり、本の販売をした人とバスで出会ったりするのは、因縁ではなく、偶然でしかない。偶然をいろいろ解釈する。それが人間なのかもしれない。いろいろと意味を見出す動物だからだ。

 しかし本が山と積まれる状態は、意味を見出せないからあるのである。意味がないところからこそ意味が生れることに気づいた日ということか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

億単位と数万単位の現実

2007年12月27日 23時38分18秒 | Weblog
経済的な差というのはいかんともしがたい。26日は夜、在日コリアンの実業家と会ったが、事業における億単位の投資を語っていた。一方、当方はこの数日起きたことでわずかな金顎で「えらい損した」とカッカしたのだからなさけない。

 要は、それだけ大変だということ、いや、それが現実なのだが、この状況から脱しないと思いつつ、日銭稼ぐ発想から抜けられない。「まとまったものを書けよ」と25日京都で開いたジャナリストネットの会議でいわれたが、そろそろ、そうしようと思いつつ、日々流されている。

 考えてみれば、大学のコマ数が5コマでやっと200万の年収だから、それは大変だ。1年契約で基本的には来年はわからない。それでも生きていけるもので、マザー・テレサが言ったことだが、「人が不幸なのは貧しいのではなく、誰からも相手にされない孤独にある」ということ。そういう意味では経済的側面ばかり目を奪われていると人間の見方が矮小化される。いかん、いかん。

 沖縄の教科書問題が決着した。11月末にインタビューした2人の方はどういう感想なのか。文科省に交渉に行かれて文科省で方針を聞かれたと思うのだが、どうした感想か聞いてみたい。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無常の解釈

2007年12月26日 14時24分15秒 | Weblog
 25日は近鉄榛原駅前で昼食をとっていた。

 お客さんの会話のレベルが高いので驚いた。

「このごろテレビつけると事件ばかりですね」
「何もないという日はないですよ」

 こう続いて、次ぎの会話には聞き耳を思わず立てた。

「悲しいことばかりでしょう。無常というのはこのことですね。常にあらずでしょう」
「そうです」
「常ならずだから無常なんですね。悲しいことが起こらない日がない」
]
50代後半の女性の会話である。

 鍋焼きうどんをすすりながらの会話。私はうどん定食だから、その女性の方が少し贅沢。その余裕のなせる技か。

 無常は常なるものはないという仏教の世界観からくるが、情緒的に解釈してしまうが、字義通りの解釈を市井の主婦がするとは、実にレベルの高い会話なこと。

 冬の風に「うどん店」の旗が揺れ、店を出ると人ひとり通らない閑散とした駅裏である。

 食事を済ませたら、八木まで出て京都へ。高の原から熟睡。そういえば今日は朝5時半に起きて、6時前に家を出た。宇陀市役所から車で20分ほど離れたふるさとセンターで仕事して全力投球だったので疲れたのか。

 京都では2箇所、仕事で回り、帰宅は午後11時。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年12月№2アクセス記事

2007年12月25日 23時05分54秒 | Weblog
機械嫌いというのは、実は浪費を防いでいる。

ささやかな体験だが、パチンコはタマを一個一個入れる時代はよくやったが、フィーバーする方式になり一度も店に入ったことがない。

何か絵柄が並ぶといいそうだが、その機械的な処理が理解できない。一個一個入れるのではなく、コンピューター制御でスロット方式になり、機械嫌いだから、パチンコ台から遠ざかってしまった。

だからパチンコに限っては浪費はない。よくあんな難しいことをすると熱心な人を見ると感心してしまう。何時間もやって飽きないのだから驚異的な機械好きだ。

なぜ機械を敬遠するのか。生理的にあわないからだ。だからドンドン時代遅れになる。

機械とは分析的なものだ。分析して仕上げる。その分析的な方法が嫌いなのだ。全体をつかむことが性に合う。少々カッコいいが。

分析的で、なおかつ全体的なことができる人が優れているのだろうが、めったにお目にかからない。科学者にして芸術家ということになる。時代はこの両方を併せ持つ人を求めているようだが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年12月№1アクセス記事

2007年12月24日 07時58分04秒 | Weblog
最近読んだ本から始める、

韓国ジャーナリズムの検証本でもある李成柱『国家を騙した科学者』(牧野出版、2300円)だ。昨年12月に浮上した韓国のソウル大・ファン教授ES細胞事件を検証した作品でもある。

論文捏造の背景に韓国社会の歪みを描くのだが、本では「ES細胞事件に見られた閉鎖性、自大性、強烈な“愛国主義”は科学をねじ曲げる大きな要因となった」と語る。イギリスの哲学者のことば「政治や社会だけではなく科学の世界も、民主主義の枠の中でこそ機能する」が引用されている。

ここで注目するのはイギリスの哲学者のことばだ。民主主義の相互批判、検証が必須であることを改めて示してもいる。

実はこの視点は解放運動と「」行政でもいえるだろう。大阪市の飛鳥会事件、奈良市の休職職員給与問題についても同様だ。飛鳥会事件のK被告、懲戒免職になった奈良市職員にだけ焦点化するのは方向を誤らす。その脱法性という点での一般性の追求で問題は解決しないからである。

まず民主主義の達成度の問題として受け止めたい。そうしないと奈良市の問題を報じたテレビドキンンタリーのように「差別といわれたらもう何もいえない」という行政マンのコメントの時点で番組が終わり、そこからは単なる「横暴さ」を指摘することだけで終ってしまうからだ。これはメデイアの問題報道としては欠陥を露呈してしまう。現実の差別性を追認するからである。

何が差別性かというと、問題のタブー性を「何もいえない」ことの証言報道で追認しているからである。一方の逸脱性、つまり利権の指弾という報道の正義性を充足したとしても、批判を浴びるのはそこにある。

民主主義の相互批判、検証がなされることなく推移したーという点は、問題のタブー性を打ち破れなかったことを意味するし、それは差別を利用―利用される関係という、つまりは現実の差別実態を克服できなかったことを意味する。大阪、奈良の事例で共通することだ。

民主主義の達成度としての運動、「」行政を考えるなら、「事件がおきた。はい、施策は打ち切り」となるなら、便乗行政以外にない。そこには「」行政の人権推進施策のビジョンはどこにいったかと思わせる。それこそ恩恵としての「」行政をはからずも証明する。

差別問題の指摘の大きな原則は当事者の告発である。それは揺がぬ原点である。告発をまって気がつくことが多々ある。どんな差別問題でもそうだ。そこで指摘された側の性向として「沈黙してしまう」部分がある。ショックだからだ。しかし、ここでまた差別の芽が残るか、あるいは解き放たれていくかの分岐される地点を確実にクリアーせねばならない。

つまり、そこで立ち止まること=沈黙うることは、指摘された側が対話をやめることであり、旧来の「怖い」意識=差別意識を残存さし、また一方、沈黙に順じて運動の側が利益誘導的「政治的発言」化を展開するなら「解放の良き日」から遠ざかることになる。

差別を指摘する差別問題の原点をどう公論化するかーなのだ。それが「」行政の歴史ではなかったのか、運動での歩みではなかったのか。会話がそこで成立たないなら、運動も行政も弱さを抱え持つ。

運動は今後どう公論化さしていくか、公論化に壁になっていたものは何かーを最大の課題にすべきだ。創立から84年にしてなお「弱い」のである。公論化が。何よりも差別実態から出ていることを再認識させた「事件」なのだ。

公論化は両者が論議することでスタートするが、状況はそう単純ではない。往々にして強力なことばで沈黙を強いる。京都の職員の不祥事では「選考雇用」として行政と共有していた用語が、「優先雇用」という用語にすり変わっている。メディアで登場するこの言葉支配に運動の側は沈黙してはならないだろう。自らの言葉で反撃せねばならない。辞職を考えた運動専従のある職員は「いまの事態をたてなおすことの使命は何よりも重い」と励まされたて現職にとどまったという。その歴史的使命を運動はいまになっているのである。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある出来事

2007年12月23日 17時26分31秒 | Weblog
 大阪府立中央図書館へ。荒本駅を下車して図書館に向かった。前を男女2人が歩いている。歩道に「ピカー」と光るものがある。10円が落ちているのに気づいた。

 前を歩く男女いづれかがその10円を拾うこのだと、てっきり思ったが、そのまま通り過ぎた。
 
 なんと贅沢な人間! 10円には目もくれない。

 いまの時代は1円、10円はそれほど重くないのか。それともかっこ悪い仕草でかがむのも気が引けるのか。10円は歩道に残った。

 ものが落ちている時代ではない。身ぐるみとられる時代だ。消えた年金がその象徴だ。しかしカッコよく生きたいというファッションの時代なおかもしれない。ただ前を歩く男女は私のように10円に気づかなかったのかもしれない。

 10円玉は歩道に残った。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西山太吉さんの講演会に90人

2007年12月22日 21時36分33秒 | Weblog
私は新大阪に出迎え、会場に入ったのは午後1時20分。開始まで40分。20人ほどの聴衆。前の講演では電話の問い合わせが相次いだが、今回はゼロ。おまけに雨だから「これは人は少ない」と思いきや、開始の2時には会場一杯に。

講演は90分に及んだ。日米軍事同盟の切り口は大変興味を覚えた。というより沖縄密約の歴史的分析から現状をとらえる視点は西山さん独自のものだ。

毎日を追われてこの間、大変な辛酸をなめてこられた。しかしその間の勉強ぶりはすごい。アメリカ政府が密約の存在を認める公文書を公開し、当時の外務官僚が密約を語っても、日本はいまもなお「密約はありません」と突っぱねている。

政府の姿勢がなさけないと思うが、政府がウソをつくほど西山さんの初志貫徹がくっきりと浮き立つ。

新大阪まで送る。途中混んでいて6時59分の新幹線に間に合うかと思ったが、15分前に到着した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラーメン店激戦地

2007年12月21日 00時03分32秒 | Weblog
 お目あてのラーメン店が10人ほど人待ちしていたから、少し南に下り最近開店した店でいつも人が列を作っている店に入った。

 ここでも5人待っていたが、かまわず並び、ほどなくして座席に着いた。

 若いカップルが多い。わたしのようなおじさんが来るところではない。ラーメン店といえば労働者の勲章である汗の臭いがムンムンするのが定番。それが若人向きで、汗の世界ではなく、愛を語るといえばこれは少々オーバーだが、空腹を満たすだけが目的ではないお客さんをターゲットにしているようだ。店内のつくりも、どこかのショットバーのような仕上げなのだ。思わず〈ラーメン店も変わったものだ〉とつぶやいた。

 店員が注文を取りに来る。それが驚いた。膝まずいて注文をとる。つまり座ったお客さんよりも頭の位置が低いのだ。

 ラーメン店でこんな店知らない。しかし新たな客さんを獲得しようとすれば
発想を変えねばならないのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

温度差どころではない

2007年12月17日 07時50分13秒 | Weblog
▼それを「温度差」と表現するのは少し無神経かもしれない。「温度」というなら一方を温めれば差がなくなる。事態はそういう単純なものではない。中央の論理は「国益」であり「国策」である。地方はとりわけその「国策」が外交・防衛となると意見をなかなか挟めない。「温度差」などではない。

▼仲井真弘多沖縄県知事は12月10日の就任1年目に先立つ記者会見で「普天間移設では政府は聞く耳をもたずところがあったが、何とか耳を傾けるところまできた」(「琉球新報」)と語っている。会見のこの発言の意味は意外と重い。

▼外交・防衛は国の専管事項とされ、地方が意見をする領域ではないとされる。その領域に踏み込む仲井真知事の苦渋がにじみ出たのが会見記事だ。「温度差」とはとても表現できない。次元の違いがある。中央と地方の立つ位置が違うからだ。

▼つまり地方から何か申し立ても、「何を言っているのですか」という次元を別にした中央の「国策」主義、「国益」主義がある。薬害に関わる厚生労働省官僚の無神経な「単純なるミス」発言は、「国策」「国益」にどっぷりつかった末の人間の醜悪さを露呈した。なぜ「国策」「国益」は次元を異にするのか。そして醜悪な人間を生み出すのか。そしてそれを「温度差」なる微温的言葉でメディアは報じるのか。抵抗する人をメディアはそろそろ真剣に報じるときが来ている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国大統領選挙№2

2007年12月16日 11時36分08秒 | Weblog
 昨晩はNHKラジオ午後10時からソウルから生中継で韓国大統領選挙分析をしていたが、分析は保守派候補当選を視野に納めた朝鮮半島、日韓関係についてまで及んでいた。

 結論的にはイ・ミョンンバク候補が当選し、ノ大統領時代の日韓関係より改善され、南北関係はノ大統領時代よりテンポが遅くなるが大きく変わるということはないという。

 韓国のリベラルと日本のリベラルとは異なるろと倉田教授がラジオで分析していた。それは韓国はリベラルになるほど民族主義的要素が高まるのに対して、日本はナショナリスムから離れるというのだ。そういう意味ではイ候補の支持の多さは日本とは概念が異なるリベラル離れということにあるのだ。

 19日まであと3日。確実に政権交代が近づいている。最近訪日した韓国運動圏の人も「与党は勝てない。・この5年で民主主義の内実を目指したい」と語っていた。覚悟はできているようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国大統領選挙

2007年12月14日 23時25分24秒 | Weblog
 立命館大学で記念講演した金大中前大統領は「与党候補と他の候補の一本化」に期待する発言をしていたが、その統一候補実現もなく、また若者層の政権交代期待感が根強いなど、五年前とは随分違っている。若者の保守回帰というものではなく、経済活性化を熱望しているようだ。

 金大中政権下に発足した国家人権委員会には取材をした理事もおられるが、任期があり、再任はないというから、新政権でどうした人が舵取りをするのかわからない。政権交代すればスタッフもゴロリと変わるのが韓国だ。

 とにかく今の経済政策への不満が強く、まさか政権交代するとは予想していなかったが、どうもその流れにあるようだ。ただ大きな国の方針が変わるわけではないだろう。南北関係の進展がトーンダウンするほか、過去史清算というノ大統領の独自施策は弱まるだろう。

 韓国通は「韓国は何がおきるかわからない」というのが定番。大統領選挙もなお未知数の部分は残るものの、これほど一人が優勢と伝えられると、韓国的衝撃は今回に大統領選挙では望むことが難しいようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

交付金と教科書問題

2007年12月13日 00時19分44秒 | Weblog
インタビュー記事を4本まとめねばならないが、時間がとれない。やっと2本目が完成するところだ。

 沖縄関連ではだいたい各1時間15分くらい聞いてきて、教科書問題で撤回さすことの困難さを知ったが、しかし県民の総意としての9.29県民大会の趣旨を貫徹させるのだからすごい。

 おりしも沖縄北部への交付金凍結が解除されるニュースが飛び込んできた。100億円だそうだ。譲歩する国という構図なのだが、教科書問題の頑迷固陋な姿を見ていると簡単でないことは十分に予想される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

義務と権利

2007年12月10日 22時59分52秒 | Weblog
 懸命にやっても元の木阿弥になることが人生に多い。懸命に稼いでも、まったく経済的に向上しないことも多い。だから懸命にならないことだというのは、これはおかしい。

 というよりも、幸せの尺度が金儲けではないし、社会的栄達ではない。マザー・テレサのことを少し読んだが、「最も貧しい者に仕えなさい」という神の啓示を得たというが、それはその心構えが強固に形成されたから聞こえたわけで、神秘主義でもなんでもない。

「最も貧しい者に仕えなさい」とは、愛すべき存在に対してこれは義務だと思う内発性があり、その行為をとおしてその相手が感謝など述べずとも、深い充実感に包まれることが自分に確信できることなのだ。

 これはできない。しかしその義務の発生は実は人間の権利を生むのだ。シモンヌ・ベイユは「義務の観念に権利の観念が対応する」と言っている。条義務の観念の志向するのは独裁者でもなければ、国家でもない。会社でもない。最も貧しき人たちに向けられることなのだ。
 
 これはイデオロギーではない。だからマザー・テレサはヒンズー教の聖地で看取りの施設を作り、ヒンズー教の様式で人々に接したのだ。これもできないことだ。主義では生身の人と接することはできない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする