ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

日曜日新聞読書欄簡単レビュー:川瀬俊治

2011年08月29日 18時10分09秒 | Weblog
 今週は論考を中心にみてみよう。上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究』(岩波書店、2940円)ー毎日ーから。

 上丸のこの書によれば当初は寛容性があったという。『諸君!』に日本の戦争に対する侵略戦争論が掲載され、『正論』には昭和天皇退位論が載ったという。とても信じられないが上丸はそこに多様性と柔軟性を見ているが、靖国神社のA級戦犯合祀問題をきっかけに右に傾く。というより「硬直化」する。
 ただ私が思うのは「右」の論が硬直化する理由には2つあると考える。1つはそれだけ追い込まれているということと、もう1つは社会全体の硬直化である。社会全体に柔軟性が欠け出すことで「右」論陣も微妙に影響を受ける。保守のオピニオン誌の硬直化は簡単に見過ごすことはできないのである。『諸君!』は2009年に廃刊となった。「堕落の果て」と著者は手厳しいが、それだけで済ますわけにはゆかないだろう。

 トーランド『秘儀なきキリスト教』(法政大学出版局、5040円)ー毎日ーは、理性によるキリスト教理解の本だ、いわゆる理神論を著者は論じる。秘儀なきキリスト教とは、理性理解が及ぶものだ。秘儀を合理的に説明するということなのだ。釈迦は神秘的な超常現象はかかわるなと言った。それは惑わされるなということであり、理性が及ぶ範囲で物事を考えよと言ったと私は解釈しているが、トーランドの理神論を縦横に論じたこの本ではどうキリスト教をみているのか。興味つきない。
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今月のアクセスNo1記事 誠実さが涙をはらう

2011年08月29日 15時59分57秒 | Weblog

 お盆の関係でもないが、「誠実さが涙をはらう」が8月No1記事だった。2006年の記事だ。歌手の三波春夫さんのことだ。先日の産経新聞コラムでもテレビプロヂューサーで有名な方が地方興行のような催しをプロデュースすることになったのだが、幕がひけて暴力団関係者と思われる人に会う場面になると、「私は一切付き合いません」とさっさと帰ったのが三波さんだと紹介していた。以下の文の評価には誤りがなかった三波さんのエピソードでもある。

 誠実さが涙をはらう 

 涙は自分が流すのではなく、心を領している人が流すものだーという少々神秘的な解読方法がある。

▼たしかに亡き人を悔やみ続けることは、それだけ涙を流すとだが、涙を流す当人が流しているのではなく、亡き人の思いが流さすーそうした解釈も可能にさせる。

▼もし親不孝をし続けて、その人の母親が急逝したとするなら、その人は自分のふがいなさに気づけば悔やみ続けるだろう。しかしその涙は、母親のくやしさの思いなのだ。また夭逝した子どもをもつ親の涙は、その子のくやしさの涙なのだーということになる。

▼作家森村誠一さんが歌手の三波春夫さんを論じて「三波さん光源体だった」と評してしいる。三波さんはどんなに自身が苦境にあっても光輝き、周辺の人を励ました、明るくしたというのである。たしかに三波さんはいつも明るかった。

▼「ちゃんちきおけさ」が悲しい挫折の歌である聞くと、意外に思う人が多いだろう。三波さんが歌うから明るかったのだ。その三波さんは悔やみ続けることはなかったのか、とふと思った。

▼おそらくこういう解釈ができるだろう。「お客様は神様です」と言った人だ。誠実に人々に対応した方に違いない。実は誠実さが涙を流さない最大の方法なのかもしれもしれない。人に誠実でり続ければ、何か不幸なことがあったとしても、その人の涙により自身の頬をぬらすことはないだろう。

▼ただ夭折し子どもの体験をもっておられれば、その亡くなられた子どもの無念さが涙となりあふれたのではないか。いくら三波さんといえども。しかしその体験から無縁であったことが、ずっと光源体であり続けたのだろう。

▼娘さんが日曜日のFM放送、「日曜喫茶室」に出ておられたことがあったが、その見事な弁舌に驚いた。敬語の使い方、話のまとめ方、超一流と思った。三波さんという光源体のそばにいるとこうした成長をするものなのか、とえらく感心したものだ。

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急に肌寒くなる

2011年08月21日 12時26分10秒 | Weblog
 真夏は過ぎたのか、朝は肌寒く感じた。

 それに雨が降ったので、日中も過ごしやすかった。20度台の気温だろう。

 東大阪市荒本の大阪府立中央図書館に行く。だいたい期限内に本が読みきれないし、さらに借りたい本はリクエストがすでにあり、なかなか読めない。佐々木中さんの本はどれだけ予約がかかっているのか。『夜戦と永遠』という本だ。3け月たつがまだだめ。

 私は図書館をはしごする。地元奈良の図書館にない場合は別の図書館で借りる。私のような方が予約する人がいるのかもしれない。集中する。

  鄭 敬謨さんの自伝『歴史の不寝番―「亡命」韓国人の回想録』(藤原書店)は30ページ読み出したところで、予約が入り返却。読みたい本は買わないといけないのかもしれない。訳は息子さんの鄭 剛憲さんだ。
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日本軍「慰安婦」問題で集会相次ぐ

2011年08月20日 14時04分53秒 | Weblog

 先月31日の「金学順さんの証言から20年」を記念した集会は多くの参加者をえて盛会であった。

 集会はビデオ作家金稔万(キンインマン)さんがまとめた金学順さんの証言の記録作品(一七分)の上映のほか、この日に向けて刊行された『20年間の水曜日 -日本軍「慰安婦」ハルモニが叫ぶゆるぎない希望』(東方出版)の著者、韓国挺身隊問題対策協議会常任代表尹美香(ユンミヒャン)さんが記念講演したほか、現状分析と今後の運動の課題を探るシンポがもたれ、大阪大学の藤目ゆき教授、『二〇年間の水曜日』の訳者梁澄子(ヤン・チンジャ)さんが「粘り強い運動で現状の打開を」と指摘した。

 8月10日は韓国の日本大使館前で解決を訴えて毎週行われている「水曜デモ」の世界同一行動デーで、大阪の集会では大阪市役所横広場に約一五〇人が参加した、12日から15日まで4日間にわたり第10回日本軍「慰安婦」問題その模様の一端はすでにふれた。

 8月12日から15日まで、アジア連帯会議が韓国ソウルで開かれ、韓国、日本、フィリピン、アメリカなど九か国一五〇人が参加した。、▼日本政府の公式謝罪と賠償のための立法制定のため地方議会・国会への働きかけを行う▼12月14日1000回目の水曜デモを記念して「平和の碑」を建設する▼「戦争と女性の人権博物館」建設するーなど決めた。
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やっと帰宅 身分証明は複数の書類がいるとは

2011年08月18日 22時40分18秒 | Weblog
 朝7時に出ていま帰宅した。奈良県南部の五条と十津川村の取材を終えた。ほか仕事があるのによく引く受けたものだ。

 レンタカーを借りたのだが、意外と軽自動車が安い。しかしお盆休みがまだ関係あるのか、あるレンタカー会社は軽トラックしかない。昨日は仕方がないので予約したが、そこで出された条件には驚いた。

 現金支払いでの領収書を出すには、運転免許証以外に、健康保険証かパスポートを示さないとダメだというのだ。

 どういうことなのか。そんなに個人の「身分」を証明するには必要な書類がいるのか。ここは外国か!外国でもパスポート以外に書類を求められたことはない。

 結局このレンターカー会社とはキャンセルして「問い正す」ことはなくなったが、恐ろしい時代だ。その会社は何を恐れているのか。なぜそこまで調べ上げるのか。保障を求めるのか。わからない。えらい時代になったものだ。

 午後は「谷瀬のつり橋」近くまで行ったが、帰りは意外と車が多かった。都会とは5,6度は低かった。この取材とドライブを夏のバカンス代わりと受け取りたいが、とてもとてもそんな余裕はなかった。アクセルを踏む右足と腰が痛くなり、帰宅後やらねばならない仕事はできなかった。
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すごいのを見た

2011年08月16日 11時36分38秒 | Weblog
 単車を片手で運転して携帯電話をかけて走る男性だ。それも利き腕が右手なので、右手はハンドルから離せない。そこで左手は携帯電話をもつことに使い、電話口を右耳にあてて話しながら交差点を通り過ぎた。

 携帯電話をもつ左手の行き先がなぜ右耳なのか。普段の癖だろうが、ちょうど顔の前で左腕が交差するかたちだ。

 この曲芸まがいの運転でこの先大丈夫かと目をやる間もなく、アッという間に通り過ぎた。すごい。いつ危ないことに気づくのか。

 危険性に気づくのは、取り返しつかない事態に直面したときでは遅いが、それはあまりにもなさけない。
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祈りをめぐる小説から

2011年08月15日 07時31分37秒 | Weblog

 祈りとは何かを小説家した作品が大阪日日に紹介されていた。

森沢明夫『虹の岬の喫茶店』(幻冬社、1575円)だ。「岬カフェ」を営む初老の悦子は亡き夫が描いた1枚の虹の絵を具体化する。それが夫が見せたかった夕空にかかる虹なのだ。店の窓から見るそのためだけに店を建てた。

祈りとは何か。実は形而上なるものではなく生きることを切り開くことにあることをこの小説では教えている。形のないものを求めることは祈る主体であるその人間に具象化を迫るからだ。

「岬カフェ」に泥棒に入る包丁研(と)ぎの男は妻子とも別れた中で悦子に諭される。再出発を祝う研ぎ石を悦子にプレゼントされる。祈りはこの男に眠っていたが、悦子のプレゼントで気づく。研師をやることが男の天性であることを。

「祈りは悲しみを越える」と新聞の見出しにあるが、そうではなく「祈りは孤独を救う」ことになるのだ。つまり祈りは自分のために祈るのではなく、他人のために祈るのだ。評者は杉本真維子。

祈りは人間の本性ともなる。はたしてほかの生物で祈りを営むものがあるのか。
 
 祈る主体は宗教的には祈らしていただくと、主体が受け身化する。受け身としての存在が実は強きものから弱きものに逆転した位置に滑り込ませる。自分の危機の救いを求めるものだが、危機に陥る主体は受身的主体である。祈りはいかなる場合も人間の受動性から抜け出ない。

 それが他人のために祈ることになるのは受け身のままでの祈りの推移は活動的=能動化しないからだ。

 祈ることで他者と出会う。孤独から抜け出ていくことで、自己は解体されるのだ。




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日曜日新聞紙読書欄簡単レビュー

2011年08月14日 09時21分34秒 | Weblog
 日曜日新聞紙読書欄簡単レビューです。毎日の書評欄から小説をとりあげよう。

 昨日のことだ。韓国の友人からメールが入り、私が出版社に紹介した韓国人作家の小説が日本語での刊行になったという。韓国的なる感性が突き破り欧米にも、とりわけフランスでは韓国人作家では最も知られた作家でもある。今日紹介するアニカ・トールはスウェーデンの作家なのだが、『わたしの中の遠い夏』(新宿書房、2310円)ー毎日ーでは評者江国(旧字の国)香織が「アニタ・トールの文章は読んで小気味いい。小説の文章というものは、理性的であって初めて誌的にもなり得るのだ」と評されている。韓国のこの作家にもいえることだ。理性的であることが初老の夫婦の日常生活の会話、内面を描くことになるのだ。小説は大説ではない。その典型がこの小説ではないのか。初老の夫婦が若かりし時代に知り合い共同生活を送ったカメラ青年だった男性の死を新聞で知る。恋情があったというわけではないが、妻がその共同生活の場を訪れる。夫は怪しむ。過去の記憶、真実、光と影が回想の中で甦る。過去と現在の往来が鮮やかに描かれるのだ。若い時代の夢は遠くにあり残された時間のいまも炙り出す。この静かな小説に人間を「大説」でなく描ける小説の典型があるのかもしれない。

 毎日の「この人・この3冊」では北杜夫「どくとるマンボウ青春期」「青年茂吉」「楡家の人びと」を鎌田浩毅が紹介している。精神科医の北の小説を文系の小説家とは違う趣で読んだものだが、鎌田は「文理融合」とあげている。
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Tシャツ販売

2011年08月13日 23時53分45秒 | Weblog
Tシャツの販売を裁判闘争で役に立てたいとのこと。

 3,4年前の残ったTシャツが3,40枚出てきたので運動体に寄付したが、さて売れるか。

 販売はそんなに簡単ではない。そのことは十分承知している。

 さて、残ったTシャツは役に立つのか。

 てっり早い資金稼ぎはないものか。なかなかいい案が浮かばない。
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水曜デモと報道

2011年08月11日 14時07分05秒 | Weblog
昨日は日本軍「慰安婦」問題の解決を目指す水曜デモ。それも世界同一行動デー。大阪市役所南側広場に集まりデモに参加したが、これが翌日、つまり今日の新聞には一切報じられてはいなかった。

 昔は「なんという新聞か」と落胆の色を表したものだが、いまは違う。メールなどで参加者の声が飛び交う。このことでデモ関連では関係者は満足してしまいがち。

 これが問題なのだ。

 ネット社会になり公論化されるようになったのが、公共性である。ハーバード大学のサンデル教授の本がベストセラーになったのも、公共性が求められた社会的背景がある。

 NHKは授業の創造性という視点からスポットをあてた結果、公開授業シリーズがサンデル教授の授業以後ETVで定番化した。しかし根底にあるのは公共性なのだ。そこをつく番組制作もあってもいいだろう。

 「これが問題だ」といま指摘したのは、その公共性を矮小化しがちなのがネットのやりとりではないのかという指摘なのだ。公共財として大きな価値をもつ新聞が報じないことへの落胆は、新聞不信に結びつき、さらに新聞の軽視にたどりつく。一方ではネットで飛び交う情報が一定の知的、感情的な満足を得たようになる。

 社会全体ではそう大きくない勢力が、ネット世界では大きく幅をきかす。いわゆるネット右翼の存在がそうだ。ネット社会と実社会は大きな開きがある。そのわなに運動体がはまっていいはずはない。

 あくまでも公共財に迫る営みが大事なのだ。水曜デモの報道をめぐりそう感じた。迫る営みで不足しているのは論考への進入である。どんどん多面的に論じていくことだ。運動的努力は精一杯しているのだから。論者を発掘することが求められている。
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「おじいちゃんなってください」

2011年08月06日 11時06分36秒 | Weblog
 大阪市内のショッピングモールを歩いていると、椅子に腰掛けていた少年2人が、私をみるなりやおら立ち上がり、「おじいちゃんになってくれますか」と頼むではないか。

「おじいちゃん?」



 私はこの年になるまで「親父」と呼ばれることもなく、また「おじいちゃん」と呼ばれることもなかった。当然である。子どもがいないからだ。それが「親父」を飛び越えていっぺんに「おじいちゃん」になったのだ。

 ただ私は「お父さん」と呼ばれるのならまだしも、「おじいちゃん」と呼ばれるのは心外である。しかしだ。外見、白髪まじりで、肌のつやもなく、とぼとぼ歩く姿は、この「おじいちゃんなら気軽に聞いてくれそうだ」と2人の子どもは判断したのだろう。威風堂々とした「おじいちゃん」なら威圧され声もかけられないだとう。私は喜んでいいのか、悲しんでいいのか。子どもは正直なことだけはたしかだ。

「それで何で?」

 こう尋ねると、2人の子どものうち大きい方の子どもー小学校3、年生くらいーが、「すっぽんを買いたいので、おじいちゃんになってくれ」と打ち明けた。通路奥に動物を売るショップが見えた。たしかめたわけではないが、いまは子ども1人では動物が買えないらしい。それにしても、管理というか、行動の締め付けがきつくなったものだ。それくらい自由に買わしてやればいいのに、とも思う。

「おじいちゃんになってほしい。すっぽんがほしい」とたたみかけた。大きい方の子の後ろに控えた小学1年くらいの子がお兄ちゃん?の肩越しに口を挟んだ一生懸命さが目に出ていた。

 まさか子どもを出汁にした新種の詐欺ではないだろう。すっぽん代を巻き上げるという破天荒「犯罪」など考えられない。

 様子が掴めない私は「私はあなたたちのおじいちゃんではないからそれはできないよ」とにべもなく断った。もし「おじちゃん」ではなく、「お父さん」、あるいは「お兄さん」と呼びかけられても断っただろう。人ごみの中のたった2、3分の会話である。

 子どもたちは人が行きかうショッピングモールの通路横の椅子にまた座りなおしていた。新たな「おじいちゃん」をさがす姿を遠くで見ていると、かわいそうになったことはたしかだ。その後あの子らはどう活路を見出したかは知らない。
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