ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

韓国はどう向かうか

2006年05月31日 11時05分40秒 | Weblog

 それに忙殺もいいところで、他のことは何もできない。よわったものだ。

 韓国メディアについて原稿を書かないといけないが、文献だけは集めたが、読み込みが一切できていない。締め切りがいよいよ迫ってきた。

 その韓国は今日が統一地方選。広域都市や道知事関連の14選挙区のハンナラ党の優勢は変わらない感じだ。ということは次期大統領選挙での優勢はハンナラ党ということになる。

 ただイ・フェチャン候補の優勢が投票前夜から1夜でひっくり返った2003年大統領選の記憶が新しい。韓国は激しく動く社会だから、何がおきるかわからない。ソウル滞在が長い大手紙の元特派員は「3か月で変わる韓国」と激しい動きの韓国社会を分析して話してくれたが、日本は既得権層の安泰はいつまでも変わらないのと対極的。ただ門閥社会は依然としてその牙城は崩れない。

 韓国の知人に聞くと、金大中前大統領の北訪問は実現しそうだという。しかし2000年6月の南北共同宣言のときとは異なるようだ。

 北は膠着状態にあるアメリカとの関係が打開したい。ところ金前大統領の再訪で効果が見られるとは考えていないという見方があるのだそうだ。大きな政治的な閉塞状態ー北にしても、南にしてもだーの打開には結びつかないとの観測が大方だという。

 やはり大きな影響力はアメリカの対朝鮮半島政策なのだ。拉致問題の取り組みがブッシュ大統領の対北政策と合致してきたわけで、そういう意味では共和国の譲歩を迫ることで解決に一歩進むのか。世論政治は大衆的民主主義の基本。過去の日本の拉致問題に自覚しつつ、現在の拉致問題を考えたい。ただ共和国はポスト小泉、ポストブッシュを見据えているから、それなら韓国にはどうした視線を送っているのか。南北鉄道試運転の中止はこの統一地方選にも影響しているだろう。午後6時くらいには投票率のだいたいの線が出てくる。どうなるか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

興味ある本について

2006年05月30日 13時25分23秒 | Weblog
本田哲郎『釜ケ崎と福音』が書評に出ていたが、この本田さんの聖書解釈は面白い。

 朝日の見出しでは「『貧困と差別』のイエス像」となっていたが、宗教でこの2つの社会問題と無縁なものなど、民衆宗教ではない。だいたい宗教の救いが特権階級であったり、知的階級であったりするはずがない。それは既得権園の擁護運動にすぎない。

 だから世界宗教のキリスト教も仏教も最底辺に生きる人を救わなでいたならとうに姿を消しているだろう。ゴータタマ・シッダルータはたしかにクシャトリア階級の出身とされたが、カースト制度に反対し、自ら無一物として修行し人だ。ブッダの身分解放の営みがあるからアウトカーストの苦しみで生きてきた人々に支持されてもきた。アンベドガルが仏教徒であった理由は仏教に見出される。

 そういう意味で本書で語られるキリスト像は何ら驚くべきではないのかもしれない。彼は貧しい人とともに歩んだ高貴な人物ではなく、とことん貧しくへりくだりを示す余裕などこれっぽっちもなく、食い意地の張った酒飲みで、ヘブライ語も読めない無学の徒で、当時の最も賤業であった「石切」の仕事に従事したと朝日読書欄評者(斉藤美奈子)はいう。受胎告知を受けたマリアは律法に背いた父がわからぬ子を身ごもった罪深い女だったという。だからこそ「心の貧しきものは幸い」であり、苦悩と対立の陣しえを生きたから世間では逆説の教えを説く。

 かつて本田訳の新薬聖書『小さくされた人々のための福音』に衝撃を受けた評者はいう。私がこの本田の書をまだ読んでいない。是非読みたい。93年から釜ケ崎で労働者と闘うフランシスコ会の神父である著者の聖書解釈と実践の書がこの本であるように思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バザーと女性 

2006年05月29日 20時00分31秒 | Weblog
女性はどうしてバザーが好きなのか、男性が理解できない奥深いなぞの1つだ。

この間も「バザーがある。正午で終わる」と電話で呼び出され、アッシー君を務めた。規模の大きいバザーだった。安い。しかしこんな値段をつけていて、この福祉施設は何の足しのもならないのではないか、と思ったが、買う側は「その協力のため買うんです」というからよくわからない。

さらに無料でもらえる品物があり、ビニール何袋もつめて帰る人がいる。自転車に積む人、自動車に積み込む人まである。無料なら、これは施設に何の貢献もしていないではないかーとますますわからなくなった。

生活感覚ばかりではなく、備蓄するのではないかと思う。買い込んできて、ひとまず廊下においておいて、いつか使うようだ。バザーは冬ごもり前の動物のように、厳冬を越すため脂肪分をためる過食と似ている。

将来にそなえるのにいつもアンテナを尖らせているのは女性であり、男性は消費のことしか考えていない。ジェンダーフリーの観点からすると、これも社会的性の役割か。しかし、そうは断定できないだろう。女性特有の生理的な感覚からくる行動ではないかと思うのだが。

それにしても2日間もバザーに通ったおかげで、コーヒーパックが10円もしない値段で飲めた。「助かった!」。これも消費型男性という古いタイプの私の言い分か。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二律背反について

2006年05月27日 11時29分41秒 | Weblog
1つのことに集中すると、ほかが見えなくなるー。これは人間の最大の欠陥だろう。

「それは未熟だからだ」という反応が返ってくるかもしれない。しかし、意外と見過ごしている普遍的なことがらだ。小泉さんの任期切れまであと4か月。この小泉さんにしたってそうした集中型健忘症から免れない。

念願の「行革推進法」が成立をみた。最近首相は法案成立の意欲薄いとの論評を書いた新聞もあった。共謀罪案は後半国会での混乱を避け強行採決は見送られた。あと念願の法案とは何なのか。教育基本法「改正」と、国民投票法の2法案である。その雲行きは民主党次第である。民主党案が出ているが、強行に反対すれば、無理にまで通すことはすまいーとの見方もあるが、

この「穏健」ぶりはどうしてか。筆者が大胆に予想しよう。最大の関心事の1つは、小泉さんにとっての後継総裁の道をひくことだ。無論、福田さんではなく、安倍さんである。そのための作戦がどうやられるか知らないが、ぼつぼつリップ戦争が始まっている。いまや政敵になった福田さんへのルートはつけるはずがない。

もう1つは靖国参拝である。巷では8月15日に参拝するのではーとの味方がもっともである。「奇人、変人」である小泉さんは、東アジアの国々が何を言おうと、我が「信念」を貫く。もし8・15参拝を実現すればどうなる。小泉さんが就任当初の公約を最後に果たしたことになるが、一方では安倍さんは中国、韓国の非難の嵐のなかで就任することになる。

この二律背反が最大の悩みではないのかーと予想する。老獪な政治家はこの二律背反的難題を突破する。集中型健忘症はそれが矛盾とは映らないからである。しかし、ここが怖い。

人間の脳や行動様式から失敗の原因をさぐる「失敗学」という学問があるが、なんのための学問か。失敗をしないためである。小泉さんの集中型健忘症は我々とは違い政治権力をもつだけに、あまりにも影響が大きい。「失敗学」ならぬ「失敗」を学んできた我々は限りなく心配な政局の雲行きだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルドックに似る

2006年05月24日 19時40分42秒 | Weblog
 夕方に帰ることなどめったにないのだが、今日は大阪で出版に関してデザイナーと打ち合わせて午後5時半ごろ近鉄の駅で降りた。久しぶりに天候に恵まれて5月の風が気持ちよかった。ゆっくりと坂道を登り自宅まで歩いた。

 途中、ブルドック2匹が主人に連れられ夕方の散歩とシャレ込んでいた。シャレ込むといっても、日課なのかもしれないが、飼い主の顔を見て驚いた。連れているブルドックにそっくりではないか(失礼な!)。

 犬の顔に飼い主が似るとか誰か言ったのを覚えているが、これほどよく似た飼い主はそういまい。ただこれは飼い主をけなしているのではなく、飼い主がペットの犬に似るのは、それだけ愛情が深いということなのだ。

 ブルドックの顔の動き飼い主の顔の動きが同じであると、顔の相が似てくるのは当然だ。夫婦がよく似た顔になると言われるのは、同じように笑い、同じように泣くから、顔の筋肉のつき方も同じようになる。よって顔が似てくるというわけだ。それだけ仲がいいことになる。

 ブルドックに似たこの飼い主はブルドックが悲しいとき、楽しいとき、同じような相好で過ごしてきたに違いない。なんという愛犬家なことか。

 この時刻は犬の散歩をする人が多い。5人も出会ったが、不思議と顔が似ているように思ったのはどうしてだろうか。しかしあのご主人ほどの人はいなか
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビの抗議敬遠体質は出版にも

2006年05月24日 00時06分51秒 | Weblog
 肖像権の問題は編集段階で悩ますものの1つだが、平和行進やデモ行進の写真についても本人の承諾をえないといけないーというのが編集の基本的な考え方のようだが、どうも腑に落ちない。

 本そのものが平和行進を攻撃するものであるとか、デモしている人を攻撃するという反対の立場ならいざ知らず、その行進などを支持する編集でどうして同意がいるのか本当によくわからない。

 なんための行進、デモなのかーという感がする。デモ側が、行進する側が求めているのではない。編集する側が求めているのである。これは逆転している。求める側は問題になるとダメだと思うからだが、テレビ局が視聴者の抗議を嫌い、抗議がくるコメンテーターは出さなくなる。「なんという弱腰」と思ったが、出版も同様ではないのか。

 その「弱腰」は民衆を信頼していないことなのだ。法治主義の正体をよくあらわしてもいる。権力の行使は法治主義によるが、それをどうして運動側が追認して「支配下」に置かれ、唯々諾々としているのか。全てが法治主義のもと権力に収斂していっている。権力を嫌うのでばない。否定するのではない。「発信力」が弱まる、そがれることを意味しているのだ。爆発した表現世界は平板化した法治主義社会にはない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サイードについて

2006年05月23日 09時03分35秒 | Weblog
エドワード・サイードに関して26日にシンポがあるので本を読んでいる。彼にとって決定的だったのが第3次中東戦争であったが、彼は民族主義者でもなく、反イスラエル主義者でもなかった。民族的アイデンティーを固執したわけではない。

 彼の墓がパレスチナにはない。また大富豪であった父は自宅をもつことを生涯しなかった。父ー息子という思想的継続は世界性ということ辿り着いたのだと思う。つまりパレスチナの迫害があったからこそ、民族性に固執したのではなく、世界的な開けを求めたといえるだろう。

 彼の著作をまだ十分に読んでいないが、『オリエンタリズム』はパレスチナ体験が根幹にあるし、同様に『パレスチナ問題』もそうだ。英米文学だけに限らず、グラム巣などの思想家を読みこなしていることに驚く。要は問題意識の深さくる意志力だ。今の時代に私は学ぶことが求められている英知をサイードに学ぶ。

 彼ほど命の危険性にさらられた知識人はいない。ノム・チョムスキーはそのことを強調していたが、彼はそうした危険を避けようとしなかったところに誰も真似できない強靭さを感じる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太陽政策支持が民団ー総連の合意の底流

2006年05月22日 10時29分00秒 | Weblog
 民団と総連のはじめての共闘では不協和音が一方であることは聞いていたが、新潟民団は新潟総連と同じテーブルに登ることは拒否したニュースが流れた。また韓統連とはどうなっているのかーとも思う。しかし歴史的和解であることはたしかで、実はそれだけ南北で和解が進んでいるのと、民団が現政権を支持したということなのだと私は受け取る。

 というのはこれまでの金大中政権についてもそうだったが、韓国の保守野党支持が民団執行部と聞いていたから、要は金大中政権を支持しているように見えてもそうではないのだーということをよく耳にした。ノ・ムヒョン政権も同様だったのだが、民団改革派が中央団長になり流れがはっきりした。総連とのスクラムとは、結局、太陽政策を推進するということなのだ。ただ次期大統領選挙の情勢では両者に亀裂が入ることは十分間がられる不安定要因があるこのも事実だ。

 そこで日本の執行部である。現体制は太陽政策には消極的支持である。次政権は福田さんか安倍さんかで路線がわかれる。そういう意味では重要な次期総裁選びになることはたしかだろう。その1つの方向性を指し示す材料が今回の民団―総連の合意ということだろう。意外と時代を象徴しているように思うのだ。

 さらに重要なのは歴史認識問題だ。靖国での共同歩調も予想される(「東京新聞」5月17日朝刊)-との報道があるように、歴史認識で両団体が問題点をあぶりだせば、日本の戦前史観からの継続した考え方は現政権では克服されておらず、両者が過去史の克服をスクラムを組めば大きいいと思う。その指摘を真摯に受け止めることが次期政権で実現させねばならない課題としてあるというのが両者の和解を受け止める日本の現状でもあると考えるのだが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恨(ハン)の碑が問うもの

2006年05月21日 00時35分58秒 | Weblog
コラム「風」 恨(ハン)の碑:川瀬俊治



沖縄県読谷村に建てられた「恨の碑」の除幕式を取材した。13日のことだ。その日は30度をこえるカンカン照りの夏日で、敷き詰められた白い石と碑の黒びかりがコントラストをなし、白黒をはっきりさせるいかにも南国であることを演出した。

▼碑の作者は読谷村在住の彫刻家金城実さん。朝鮮人青年が官憲に引っ張られるが、その姿は堂々として、連行する官憲が何かに怯えている姿がレリーフ作品として描かれている。青年の足を母が引っ張る。必死の思いが表情からもわかる。

▼金城さんによれば作品は1・6メートルほどからの視点でどう映るかを考えて約40度傾けられている。朝鮮人青年の肩と顎が視界に飛び込み、強い意志力がみなぎる表情が浮き出るのは40度の傾斜のためだ。彫刻家でしかわからない演出なのだ。

▼除幕式後の懇親会で長年沖縄での朝鮮人強制連行の歴史を研究されてきた方から「朝鮮人で軍夫でない一般の労働者のことも思いをはせないといけない」と提起された。それは連行時のみに視点を集中させずに近代の朝鮮と日本の歴史を見つめなおそうという提起だったと私は思った。

▼近代史全体から個別の歴史をみることは重要だ。なぜなら大枠をとらえることで、長いスタンスで将来を見つめることができるからだ。たとえば戦後史はサンフランシスコ講和条約体制が大きな枠組みだし、9・11同時多発「テロ」以降も大きな時代の曲がり角だろう。

▼沖縄に連行されて九死に一生を得た姜仁昌さん(86歳)が韓国からこられ涙をぬぐわれた。その胸中はいかばかりかと思う。同胞が犠牲となり帰国できた人はごく少数だったからだ。碑を建立された沖縄の人々の尽力が、姜さんの思いを受け止める人たちをこれから生み出すであろう。碑は物言わぬが、物言う人を生み出す。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「散髪せずともいいでっせ」でこける

2006年05月19日 11時44分30秒 | Weblog
世の中は真反対のことがしばしばあるもので、結婚式場の窓口で対応にあたる職員がなかなか結婚しないとか、「一切無一物」を説く坊さんが守銭奴であったりすることはよく遭遇する。今日も久しぶりに出会った。

「久しぶり」とは、その店には4、5か月ぶりだからである。というのは大阪の理髪店の大将のことだ。その大将は見事なほど頭髪がない。ひらたくいえば「つるっぱげ」である。

今日の会話。

「ところでマスターはどれくらいの割りで散髪するんですか」
「いや、自分でかみそりあてるくらいで、散髪は行きませんでー」

これは詐欺やないか。大将は散髪せず、私は2か月に1度は行かないとダメ。理髪業で生計を立てる方が理髪に行かないとは、これいかに。

だいたい今は1000円で理髪できる店があるが、やはり荒い。この大将の店は腕がたつから、何か人前で話さなさないといけないなどの用事ができたときは前もって行くことにしている。今日は大将がどうも機嫌がよさそうなので、ついタブーの領域に踏み込んだ。

すると予想したとおり、「私は行っていません」ときた。

しかしその負い目があるから腕を磨いてきたとも言えるが、考えてみれば。理髪店の大将が散髪に行こうと行こまいと、これはその人の「先権事項」。尋ねる方がおかしいのかもしれない。

こうした余計なことを聞くはめになったのは、日曜日の集会(済州島4・3事件シンポ)で司会をしないといけなくなったからだ。額の三日月キズはなかなかとれないのに、恥ずかしい気持ちは心の奥底である。だいたい60近いおっさんで額にキズした人とはケガ以来出会ったことがない。すねにキズを持つ人は多いが(外見からはわからない!)、おでこに絆創膏を張り歩いている人はあまりいない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民団と総連の対立解消

2006年05月18日 11時04分48秒 | Weblog
朝鮮総連と民団が和解した。民団の新団長が改革派だから実現できた「快挙」だが、真っ向から対立する参政権問題はどうなるのかーが最大の関心事だ。

しかし合意文を読むと、合意できる部分を徐々に固めていき方式で、現状では最大限の文章だろう。参政権問題を大胆に予測すると、総連は本国が認めれば参政権に了承のサインを出すだろう。その道しか合意からの進展はないからだ。

 在日団体が本国志向から変化をとげてきたのは朴日立就職裁判からだから、もう30余年経過している。つまり定住化から「帰国本流」の在日のあり方が変化してきたのである。さらに80年代に入り、国際人権諸条約を日本が締結、これまで無権利状態であった在日の条件が徐々に緩和されてきた。定住化は弱まることはなく、参政権が残る大きな課題。

ただ民団の本国、韓国は2005年から定住外国人の参政権を認めている。だから日本もーということになるのだが、北へのバッシングがあり、人権擁護法案ですら「国籍条項」を入れることを自民は主張しているほどだから、参政権は簡単ではない。

 総連が拉致問題での関与は一切認めていなし。認めることはないだろう。組織的に関与したとは思われないが、やはり態度は明確にしないとだめだろう。この拉致問題での対応の違いを識者はあげていたが、しかしこの問題は権益問題に比べれば背後に引いた問題だろう。両者の見解の違いで対立するのは混乱するから、これでの話し合いはなされないだろう。

 しかし朝連から分裂して半世紀以上たつ。分断の象徴でもあった両組織は本国の南北融和で変化してきた。2000年6月15日の南北首脳の宣言文の存在は大きい。あの時から歴史は1つの曲がり角をこえたと判断していいだろう。

「韓国の親北政権の固定化」を今回の合意のねらいと指摘する人がいるが、反北で韓国や在日が貫く時代ではない。日本人は朝鮮半島の南北融和、交流をなぜ支援しないのか、それがわからない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疑う人と疑われる人

2006年05月17日 22時20分12秒 | Weblog
午後7時半、印刷所を出てJR駅へ。すると「切符失った」というおじさんが「どこからですか」との駅員の問いに、「天6」ときた。「ええー」とは駅員。「天6」は地下鉄だからだ。

 大体乗った駅名はしっかり覚えないとあやしまれる。多分このおじさん「天満橋」の間違いだろうが、「天6」はおかしい。

「おかしい」といえば、うどん屋のおばさん。好物の「あんかけうどん」を食べたのだが、一人で店をきりもりしている気丈夫な女将、炊事場で食器を洗いながら、私の方をチラチラと見る。

お客は私一人。食器洗いしている間に「食い逃げ」をするように見えるのかねえ。チラチラという視線がたまらなく疑いの様子が見て取れる。どういうことか。かなわんなあ。

 ここのうどんはうまいのだが、チラチラはかなわない。

 急いでJRに飛び乗ったら、えらいすいている。女性専用車両だった。午後9時までだそうだ。知らなかった。すぐ隣の車両に移ったが、かなわんなあ。へんなおっさんに見られるのが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぶたねずみの主から

2006年05月16日 10時44分05秒 | Weblog
 11日に沖縄の新聞社を訪れる機会があったが、沖縄でもそうだが、大阪でも同じ。あれだけ静謐な状況で収入を出せるのかという貧乏症からの疑問。

 私はコマねずみならぬ、ぶたねずみのごとく働かないと食べてはいけない。静寂とかは関係ない社会で棲んでいる。

 喧騒なはずの新聞社内のあの静寂、静謐ぶりには舌を巻く。正直言って、「あれで飯食えんのか」と思ってしまう。

 ここ10年で喧騒から静謐時代に新聞社は突入した。大阪産経は最後の喧騒時代を生きていたが、昨年大阪南に移った。喧騒時代はこれで終焉を迎えた。つまりこの終焉は新聞社が喧騒状態の放置=財政難から脱したことを意味する。

 しかし喧騒は「切った張った」の代名詞である。ここは新聞社のキーワードだ。

 私が20年前に新聞社から出版社に移りびっくりしたのは、あまりもの静謐さだった。新聞社も出版社並みになったということか。

 この環境の変化は大きい。思考に影響を与える。どう変化するのか。静謐時代の終焉は社会部全盛の終わりを意味しないか。なぜなら「切った張った」が遠ざけられるからだ。

 ただ私はぶたずみのように働かないと生きていけない。静謐とは関係ない世界でしか生きられないのか。エマヌエル・カントは毎朝決まった時間に散歩し食事をした。散歩コースも決まっていた。規則正しい、それこそ静謐な思索の生活を続けた。憧れる、カントの人生を!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

70歳すぎても座り込み抗議闘争ー沖縄に学べ

2006年05月15日 10時45分05秒 | Weblog
沖縄に仕事でいたが、普天間基地移設合意の件で、その「闇討ち」合意のショックは想像をこえるショックだと同時に、住民運動のこれまでの自信があるのに驚いた。

名護市長は公約をやぶり、沖縄県知事は『揺いでいません』と言い残して東京に行って合意署名をするーというのが「闇討ち」合意という意味だが(有権者、住民にとってという意味で)、これまでの運動の自信というか闘いの軌跡というか、「そうわいかん」というファイトが高齢の方にも漲っていたのには感動しました。

私がよく知る70歳をこえた方は3日間、座り込みをして抗議の意志を表したというから本当に驚きだ。日本で70歳をこえた人が自らが住む地の将来をあんじて座り込み3日間もすることがあるだろうか。市民運動や官制運動では70歳といえば、奥の院にいるのではないか。それが最前線で座り込みをして連日奔走する人などめったにお目にかからない。この違いは何なのか。運動で補助金などでるわけではない。市民のカンパと持ち出しである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の心の奥底がわかる会話

2006年05月14日 23時02分01秒 | Weblog
電車で隣のサラーリーマンの会話から。
20才ほど年下と思われる男性に対して50才前後の中年男性がやたらに敬語を連発した会話をしていた。実に奇妙だ。

というのはその20才ほど年下の男性が「そうなんだよな」「まともに対応できないよ」と、実に横柄なのである。

古い人間かもしれないが、人間の力でどうしようもない(変えることができない)領域ではそれに従うしかないと硬く信じている。その1つが、この世に自分より早く現われた人に対する敬意は基本的に守るべきだと思う(先輩の言葉に忠誠を誓い、反対意見を述べないという意味ではない)。

それが20才も年下の人間がえらそうな口を聞いている姿は不自然だ。

私にはよくわからないコンピューターの話で、若い方が知識が豊富なようだ。そのことが逆転した会話になったのかわからないが、

「どうなんです。その方針は」
「忙しいから、ほおっておるよ。まともに対応できなからね」
「そうですか」

ざっとこん調子である。年下の人間に敬語を使い、相手はぞんざいではないが、言葉での支配をにおわせた会話の運びに、私もこれまで何度もお付き合いしてきたから、その50台の中年男性の気持ちは痛いほどよくわかる。

私の場合、若造への敬語を使わねばならない関係で、その距離は埋まることはいまだない。しかしそれはそれでいい。その人とはそう会うわけではないから。当のサラリーマンは辛かろう。心の中で「何ぬかしてるのか」と唾を吐いているに違いない。大人だから平穏を装っているのだから頭が下がる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする