ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

普天間米海兵隊基地問題4

2009年12月29日 10時16分36秒 | Weblog
 いま、興味もあって韓国の新聞社の社史を読んでいるが、日本の社史と大いなる相違に気付いた。1つのプロジェクトにかかわり社員の個人名がでてくることだ。

 日本の社史はたしかに経営陣の名前はひんぱんにでてくるが、韓国の社史のように個人の担当者名が出てくることはない。社史といえどもも韓国人の個性をよく示している。日韓の差は歴然としてある。

 普天間米海兵隊基地移転問題では、アメリカと日本側の反応の違いが頻繁に報じられる。日本は曖昧であり、アメリカは明確だということ。そこに日米の意識の差がある。「私を信じて」とオバマ大統領に日米首脳会談で言った鳩山首相の弁は、「なんとかします」という曖昧な表現だが、アメリカ側はそうは受け取らない。日本の守旧派は鳩山発言を「国際信義にもとる」と攻める。しかし、アメリカ側が政権交代した日本に理解を寄せないというわけではない。

26日の鳩山首相の民放ラジオでの発言。「2010年5月までには決める」。あと5ヶ月という猶予があるというわけだ。その結論が沖縄の人をがっかりさせるのかどうか。来年の5月というのはかなり政治日程を読み込んでの発言ともいえる。

1月30日には東京で移設問題にからむ集会がある。これまでは教科書問題での集会で同時期に開かれてきた集会は、今回は普天間基地問題だ。沖縄と本州の温度差は民主連立政権の試行錯誤で相当薄まった。沖縄の民意を代表する仲井眞沖縄知事は「県外」の言葉を出している。沖縄の民意をどうか生かして5月を迎えてほしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜

2009年12月27日 11時40分56秒 | Weblog
 今年最後の日曜新聞読書欄簡単レビューです。以下敬称略。渡辺豪『国策のまちおこし 嘉手納からの報告』(凱風社、一六八〇円)ー毎日ーは、嘉手納町長の宮城篤実さんの自治体運営の姿を描いた。国策を逆手にとり、まちおこしを行ったのだが、そういえば読谷村もそうだ。というより山内村長時代にアメリカに掛け合い米軍が使用する読谷飛行場を取り戻した。村役場がそこに建つ。国策を逆手にとったのではないが、沖縄の自治体は米軍との関係の中で自治を存分に発揮しないといけない状況にある。宮城町長の講演を町の文化センターで聞いたことがあるが、哲学者のような風貌の人だった。騒音被害などの米軍基地被害に対峙して町の六割以上を基地に接収されている状況を打開すべき奮闘されている。二〇〇億の巨額をどう役立て住民の生存権を守る営みをされたか、本書がその姿を示してくれる。『沖縄タイムス』で80回連載されたものがベースになっている。

 同じく毎日では、やがて100歳印とどこうかという高齢でも医者として現役で医療活動をする日野原重明がさきほど他界した森繁久彌に関係した本3冊をあげている。そのうちの1冊がレオ・バスカーリア『葉ッパノフレディーいのちの旅』(童話屋、1575円)。米国の哲学者の著者が子どもたちに死の意味を教える内容。葉っぱのフレディーが四季をへて土に帰る物語98年には日本でベストセラーになった。その後長男を失った森繁久彌は土に帰り新たないのちを育む地面フレディーから「いのちは循環する」ことを知り、長男の死という悲しみをのりこえ精一杯生きる勇気を得たという。日野原はこの一冊を最初にあげている。

折口信夫の旅の追体験をした書が芳賀日出雄『折口信夫と古代を旅行く』(慶応義塾大学出版会、三三六〇円)ー毎日ー。民俗学は旅により発見されるのかもしれない。折口はまれびとを古代研究の要として発見したが、その発見の背後に旅する折口がいた。その追体験はビジュアル折口学の案内書ともなっている。「神と人とのドラマをあざやかに目に灼きつける」と評者持田叙子は書いている。

読売も産経も朝日も「今年の3冊」特集だが、産経では早稲田大学の石原知秋が文学の危機について書いている。石原が『新潮』最新号の2つの対談特集についてふれ、平野啓一郎と東浩紀の「情報革命期の純文学」を主に論じている。自己プロデゥースしなければいまの危機は越えられないと説き、平野ー東は自覚的と評価する。もうひとつの大江健三郎と古井由吉対談では、「文学の外へ開かれていない」と評し、作家の自己プロデゥース能力を説く。文学が隆盛時は外に開かれずとも自足していたが、いまは時代が違うという。夏目漱石が『虞美人草』での道徳的テーマでの設定失敗から、自らの哲学を封印したと紹介している。商業主義は大作家をして外に開かせたというわけだ。
ただ石原が自己プロデゥース能力を具体的に書いていないから読者にはよくわからない嫌いがある。

読売の今年の3冊では女優の小泉今日子が青春にからむ3冊をあげている。宮下奈都子『よろこびの歌』(実業之日本社、1300円)、吉田修一『横道世之介』(毎日新聞社、1600円)、梯久美子『昭和二十年夏、僕は兵士だった』(角川書店、1700円)。最後の書は青春時代に兵士だった各界著名人へのインタビューだ。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2008年12月アクセス№1コラム「風」厳寒の師走に思う

2009年12月26日 23時10分51秒 | Weblog
 一気に真冬が到来した。もみの木に横殴りの雪が降りかかる光景を見ながら昼食をした。ちょうど午後2時ごろだ。場所は伊賀の郷。「今年初めての雪です」と店の方の弁だった。

▼京都でも金閣寺の屋根に積雪をみた。各地で雪便りが寄せられたが、昨日、韓国の友人から電話があり、「ノム チュアヨ(ものすごく寒い)」と零下10度くらいのソウルの様子を電話できたところだ。「明日から寒くなる」と覚悟していたところだ。

▼「冬は朝鮮半島から天候がやってくる」とは作家司馬遼太郎さんのことばだと、たしか記憶しているが、「西高東低」の冬型の布陣は、今年もやはりそのとおりだった。

▼日本型情緒も目を楽しませる程度の雪なら「美」を生むが、26日の北海道のような激しい雪なら、情緒どころではなくなる。ところが雪が降り止むと、あたり一面の雪景色に心が鎮まるのだから、人間の心のあり様(よう)も面白い。

▼今年も残すところ4日。急に金融恐慌がやってきたように思えるが、今年4月刊行の本山美彦さんの『金融権力』(岩波新書)によれば、M&A(企業の買収・合併)ブームの終焉から、サブライムローン問題からの金融恐慌を予想していた(27ページ)。どうした手を打ったのか。非正規労働者をこの厳寒の師走に放り出してしまった。労働を提供するだけで、企業が減産体制に入ると、いとも簡単に切り捨てる。高収益時代に蓄えた企業備蓄は決して非正規労働者の福利に反映させない。

▼政府の失業対策も「自立」「自己責任」路線で極端に痩せ細ってきた。骨太の福祉社会にいまこそ移さねばならない時だ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異なる文化圏

2009年12月25日 12時19分23秒 | Weblog
 本の販促活動をしていると、それに集中しないといけないので、ほかのことをやれといえばとてもできない。そういうものだ。いまは小休止だ。

 翻訳もそうだ。これこそ集中しないと、とてもできない。日常と異なる文化圏にどっぷり浸からないといけない。それが鉄則だ。

 一回で日本語翻訳で原稿用紙10枚分やるというのは、至難の業だ。達人ならできるが、私はそうではない。読み飛ばすならできるが、翻訳はそういうものではない。これを韓国語に翻訳となると数倍かかる。

 しかし、相手との約束もあるので、急がないといけない。ただ日常的な意識でやれる段階でしか翻訳は引き受けたらいけなのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム「風」 普天間米軍基地問題で問われていること 3

2009年12月20日 15時03分50秒 | Weblog
 現実主義は、利用する人は価値がなくなれば、去る。そういうものだーという人間観を生む。なんとも味気ない。世の中の「こま」はたしかにそうした部分で動いているところが強い。しかし、それでは人は動かせないし、動かない部分をもつ。

▼だから、動かせる、動かす部分の心的風景として人間くささがでる。そこにイデアとかイデオロギーがでっかと座る。「唯幻」論とか、「幻想」論とかの概念で日本人の精神構造に迫ったのが岸田秀だが、岸田自身もその「幻想」論が自身のありかたでもある。日本の保守的な原風景にこころ寄せている。最近の著作でもその傾向を知る。心の底で動かす部分を見つめる人だ。

▼時代を見るときに、沖縄の米軍基地問題は「何が動かしているのか」を見極めなければならない。鳩山首相を右往左往とみるのか、ねらいがあっての逡巡なのか、表面しかみないと、「何を決断力がない」となる。しかし「動かす」のは県外移設なのだ。福島社民党首は「わが意を得たり」と相好を崩す姿がよくテレビで映し出される。連合政権は鳩山さんの思惑の中にある。

▼何度も辺野古の海に出かけた。やっと願いが実現する日が来るのか。1879年の廃藩置県から皇民化を強いられ、沖縄戦では本土防衛の盾とされた。沖縄戦の悲惨さは言葉に窮する。戦後の天皇の沖縄メッセージ。集中する在日米軍基地。これらが積み重なった歴史から分岐点にある2010年にしたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

300字コラム 民族排外主義をどう克服すべきなのか

2009年12月19日 19時16分22秒 | Weblog
 民族排外主義をどう克服すべきなのか。それは今回の京都の朝鮮学校に対する「在特会」などの行動を多くの人が「とても看過できない」と声をあげることだ。19日の東京の集会、(「緊急報告会 民族差別を許すな! 京都朝鮮学校襲撃事件を問う」主催:平和力フォーラム/在日朝鮮人人権セミナー)22日の京都の集会(朝鮮学校への攻撃を許さない!12・22緊急集会―日本社会の排外主義を問う―22日(火)19:00~21:00(開場18:30)京都会館・会議場(075-771-6051)は大きなカギを握る。しかし、なぜこうした行為が突然出てきたのか。いやそうではない。1990年代半ばから顕著になった右傾化の流れが、ついに小泉―安倍政権で磐石の土台を築いた。法律の制定や改悪などだ。そして、右ウイングへの「コンセンサス」は公然と外国人排除、朝鮮人排除を標榜する人たちを顕在化させた。おまけに08年の大恐慌により、若者の正規職就職がなかなか見つからない、あるいは格差社会がどんどん拡大するという状況を堅固にした。社会構造への不満、経済的不満が社会の底流に充満するようになった。その不満を解決できないでいることが、より社会で弱い立場にある朝鮮人に向けられることになったということか。なんということか。今日の東京集会、そして22日の京都集会は解決、克服の道筋を示すだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本の行商も気合だ!!

2009年12月18日 09時29分28秒 | Weblog
 本の行商のためリュックに本を詰め込んで大阪、奈良と出かけるが、最近は不振。そのまま帰宅することが多くなってきた。おかげで今日起きると腰が痛い。腰痛再発か?

 しかし、本の行商が急に成績があがらなくなったのは、私の心構えのせい。「だいたいこのへんでいいか」とブレーキを踏んで、少しほかのことにシフトしてきたから、気合が入らない。要は気合の問題。気合の欠如が最大の理由。

 本の在庫は60冊台だから、「もういいわ」と自己診断してしまっている。すると売るほうに覇気がなくなる。オーラが消える。

 しかしほかの仕事もたまり、夜間中学の本もラストスパートだから、行商に気が回らないということもある。リュックに本を詰め込みはするが、「あっ、その方なら必要だろう」など思い浮かぶことすらなくなった。気合不足なのだ。

 もう一度エンジンをかけることにするか。それにしても今日は寒いし、腰も痛む。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

編集局からの手紙 民族排外主義の再来はごめんだ

2009年12月15日 00時17分45秒 | Weblog
 極右の排外主義が顕在化している。かつて1929年の大恐慌で在日朝鮮人への排斥が吹き荒れた時代に似ているのかもしれない。社会の底流にある不満を排外主義が吸収する。その図式は変わらないのか。

 人間の行動パターンはよく似たことを繰り返す。現象学学者山崎カヲルさんが10年以上も前に書いた「異者の表象」という論文では、人間は自―他の関係は理論的に100パーセント理解可能な関係として築かれ、理解できないものは、当然、表象化できないのだが、これを描く場合、意外と簡単な操作で造詣する。

 これまでの文化コードに少し変形させた像が描かれる。ただしそれはいずれも過剰―過少、極大―極少の像を取り結ぶというのだ。典型的な例は宇宙人である。想像上の宇宙人は頭が極大であり、それに対して手足が極少なのだ。多くの宇宙人像がそれだ。それは自―他の100パーセント理解可能の範疇に入らないから、描くことができない対象をそのように描くのだ。

 社会から排除した集団、人間、集落など、人間が描く像は、暴力の過剰、金銭欲の過剰、命の重さの過少などとして像が取り結ばれることが多々ある。実際は、それはまったくの虚像なのだが、差別・排除する人たちはその像に取り付かれる。残念ながら繰り返して人類の歴史に刻まれてきた。朝鮮(北朝鮮)を恐ろしいとうぞぶく人がいるが、本当にそうなのか。やはり排除からくる過剰、それも暴力の過剰として見る意識がそこにあるように思える。

 社会の危機のときに生ずる排外主義は、内を守る意識が発火点としてあるが、しかし、内―外を峻別できる時代ではない。グローバル社会は世界に浸透しているのであり、民族排外主義で危機を克服できるものでもない。危機を克服する道筋は、人間の尊厳を取り戻す道程、行動にあることは明らかなのだ。1929年事後の再来だけは招いてはならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜新聞読書欄簡単レビュー:川瀬俊治

2009年12月13日 10時01分29秒 | Weblog
 今回の日曜新聞読書欄簡単レビューは、ジャーナリスト、文学者の作品など紹介する。

 まずジャーナリストの作品から紹介すると、大熊一夫『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』(岩波書店、2520円)-朝日―は、著者長年のテーマの中で生まれた作品。大熊が精神病院からのルポをして相当の時間が経過したが、どれだけ日本の精神病院の体制が変わったのか、をあぶりだす本にもなっている。大熊の『ルポ精神病棟』は朝日新聞記者時代に書かれたものだ。それからフリーとなりその追求は、人間の尊厳の回復がテーマのベースにある。イタリアが精神病棟を廃止する運動を始めたのが1960年代。20世紀末になりすべての精神病棟が閉じられた。「そんなことでいいのか」というのは日本の反応だが、評者柄谷行人は「精神病院でも病人が治療するわけではない。大切なのは、たとえ病気がなおらなくても、彼らが一般社会で生きていける環境を作り出すことである」と評して、大熊が紹介しているイタリアの精神科医フランコ・バザーリアについてふれている。日本は世界保健機構の委嘱を受けたイギリスの医師デービット・クラークの来日しての「勧告」-精神病棟を減らすようにーを無視、経済先進国では精神病棟が格段に多い国のままである。

 ヴィクター・セベスチェン『東欧革命1989』(白水社、4000円)-日経―は、今年ベルリンの壁が崩れて20年になるが、東欧6カ国の崩壊がどうして進んだのか、なぜ1989年だったのかにいての歴史はあまり知られておらず、本書で初めて知る事実も多い。著者はハンガリー生まれのジャーナリスト。各地の情報を取材、革命後も関係者からの証言を本書におさめている。カギを握ったのがソ連のゴルバチョフ大統領の出現。東欧への軍事力行使を否定し、東欧各国の自助努力による変革を迫り、各地の小さなうねりが東欧共産圏6カ国の崩壊につながった。民主改革の主人公に躍り出るポーランドのワレサなどが描かれている。評者池田元博日経編集委員。

 文学作品ではガブリエル・ガルシア・マルケス『生きて、語り伝える』(新潮社、3600円)ー日経ーは、あの『100年の孤独』のガルシア・マルケスの作品である。評者の野谷文昭はルポルタージュの可能性といった文学論が聞けるのではないかーとも評するのだが、それはガルシア・マルケスの半生を描いた作品だからだ。貧しい少年時代を再現し、学生時代に遭遇した首都ボゴタでの暴動、迷信や伝説を信じていた祖母の語り。それらは集合性を帯びた「私」の声がかもし出す世界なのだ。アーカイックな世界を作品で試みたともいえる。物語的誇張法がユーモアをもたらす。運を求めて移住を繰り返す両親と11人の子どもたち。しかし悲劇性の表記は「人はそれぞれに、自分の痛みに応じて数字を水増ししてしまう」という。共同体の声は祖父から父に伝わるが、ガルシア・マルケスの子らには伝わっているとは語っていないーと評者はいう。だからこそ過去の輝きが増す。

 中村稔『中原中也私論』(思潮社、2940円)ー毎日ーは「画期的な中原中也論」(評者三浦雅士)という。小林秀雄の評価を覆すのだ。また有名な小林の「Xへの手紙」が中原であることも示唆している。「ホラホラ、これが僕の骨だ」から始まる詩「骨」はもう1人の自己を見ている作品だというのだ。また倦怠は死と同様のものだった。生前未発表の「曇つた秋」を三浦は「(末尾の詩を)この文脈で読むと、殴られたような衝撃を覚える」と書く。自己の実在に疑いをもつのが中也なのだと。自己の死からの蘇りの詩が「一つのメルヘン」だとも書く。小林と中也は相似形だからこそ自我の核心でわかりあえたし自己嫌悪の対象にもなった。大岡昌平との関係を論じた部分も圧巻だと三浦は言う。それは大岡の中也の誤解を指摘しているからだという。著者中村は宮沢賢治像を一変した評論家にして詩人。80歳を越えてのこの作品に三浦はその若々しい仕事に感嘆している。
 
 毎日は「2009年 この3冊」の特集をしている。その中で3人の評者からあげられた作品は石川九楊『近代書史』(名古屋大学出版会、1万8900円)。企業家、文化人の書から性癖、人となりまでわかる本書は、全77章が推理小説のようにサスペンスに富むと書く(池内紀)。張競は独自の文化論だとも評価している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

300字コラム 朝鮮学校前での罵声、攻撃をどう考えればいいのか

2009年12月13日 00時10分49秒 | Weblog
 フランスの哲学者ドウルーズは二項対立の図式に留まらず、対立のおおもとのところを探求する哲学「差異と特異性」を説いた。2日前、東京にいて友人宅で「在特会」というグループが京都朝鮮第一初級学校前で民族教育や在日朝鮮人、朝鮮総連に罵声を浴びせる映像を観た(U―チュウブ)。抗議の理由はよく理解できない。しかしその罵声や朝鮮民族の否定、侮辱は言葉に窮する。信じられないというのが正直な感想である。友人から送られて来たメールでは、これまで隠れて朝鮮民族への攻撃が公然と行なわれる事態になったと、慄然としている。文頭で述べたドウルーズの指摘からすれば、朝鮮民族への対立軸にこの攻撃があるのではなく、日本社会に彼らの主張を公然化させる土壌が形成されていると見たほうがいい。なんという時代なのか。なんという行為なのか。騒ぎに恐怖をいだいた学校の子どもたちは泣き出したという。とても黙視してはおれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

300字コラム 迷走ではなく産みの苦しみ

2009年12月05日 09時14分40秒 | Weblog
 普天間米海兵隊基地移設問題は歴史的な歩みをみせるかもしれない。これは希望的観測だが、沖縄にこれまで米軍基地を押し付けてきた局面を変化させるかもしれないからだ。1879年の廃藩置県以降、「南の守り」としてヤマトの軍事的拠点になり、1945年8月の敗戦以降は米軍基地をおしつけられてきた。とりわけ戦後の事態を深刻に受け止めなかったヤマト人には沖縄に対する徹底した軽視があった。民主党政権、社民党、国民新党連立3党はメデイアの「日米合意はどうする」「迷走する民主党政権」という攻撃に屈せず、どうかがんばってもらいたい。多少の日米摩擦は仕方がない。しかし、辺野古移転はまだ消えていない。ただ、今年中の決着はなくなった。(不定期で掲載します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行きはよいよい帰りは怖い 

2009年12月04日 11時09分29秒 | Weblog
本の行商で疲れるのは、行きはよいよい帰りは怖い のケースである。自宅から駅までくだり坂なので、15冊くらいはなんとかもてる。ダメな場合はバスに乗る。170円かかる。

 いざ売るとなって、ぼうずの時はこれ大変。帰りはバスもない。坂道をあがる。その際、10冊、20冊の本もち。いい年をしたおっさんがなさけないと頭をよぎるが仕方がない。20分あるく。

 もう少しゆとりが生活でもてないかと思うが、これがそうはいかない。この年になれば孫に囲まれたり、多少の財産でゆっくり暮らせる人もいるが、本当に私には縁がない。

 風が吹けば桶屋がもうかるという話しがあるが、本が売れないと、体が鍛えられるというのでは「しゃれ」にもならないに。それでも今日も本をどっさりとリュックに詰めて出かける。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする