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ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

 駅構内に本屋ができ、次ぎは古本屋か

2008年01月31日 10時51分43秒 | Weblog
 柿の葉寿司の店、コンビニ、本屋といった具合に。ホーム内に店ができだしたのはいつ頃からか。

阪急が書店を出して結構いけるようになるとアットいう間に増えた。六甲駅は大きな本屋がある。梅田駅の紀の国屋は別格だが。

京阪の丹波橋駅にはいつの間にか書店ができていた。書店は結構立地条件がいいようだ。

 ところが売店は乗降客が減ると、とたんになくなる。減らずとも違う店になる。売店がなくなると、これはもう何ともいえない寂寞感にかられる。

 店舗で本屋以外に目につくのがお菓子屋。売店もうどん屋もあるのに、さらにお菓子屋さんができて大分時間がたつのがJR鶴橋駅だ。

JR大阪駅は随分良くなったが、昔ながらの構内の喫茶店はなくなった。駅が衣替えすると店舗も変わる。最初にあげた近鉄八木駅は駅の建物の衣替えはないが、店舗が増えている。それだけ利用者が多いということか。

これから増えるものは何だろうか。ネットカフェ、コンビニなど。古本屋は意外といけるかもしれない。本屋がはやっているのだから古本屋もそうだ。
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ストリートミュージシャン論 「こぶくろ」はなぜ現れたか

2008年01月30日 00時56分21秒 | Weblog
音楽と文学は深く結びついている。日本の古典文学である和歌も俳句、連歌も声に出す、韻を含む。近代文学とて同様で、最近出た高橋英夫の『音楽が聞こえる』(筑摩書房)には作家、詩人と音楽の結びつきが書かれている。


本来、読書は個人が黙読するものではなく、声に出した集団(小集団)で一人が読み上げた。それが個々人が黙読するようになった。近代はその作法を生み出した。読者の誕生である。この流れを押さえて論究されたのが大澤真幸の『ナショナリズムの由来について』(講談社)。逆に読むと、作家、詩人が音楽を切り離された存在では本来ない。創作者はいてもたってもおられず、音楽を求めることになったのではないか。

ニーチェとワーグナーは有名だが、ドイツ音楽についても発言している(「善悪の悲願」)。「滅びゆく道徳世界ははるかに色あせる」とニーチェは音楽の魔力を述べている。高橋英夫の著では十人の詩人が出てくる。萩原朔太郎、北原白秋、中原中也、宮沢賢治、高村光太郎らだ。宮沢賢治はベートーヴェンの「皇帝」を聴いて霊的な雰囲気が漂い出したとある。凄まじい「音楽的デーモン」とある。ニーチェをどこか彷彿とさせる。賢治の情念は『春と修羅』に結晶する。

バッハの協奏曲を聴いた高村光太郎は世界を鳴らす感銘を受けたという。詩「ブランデンブルグ」はこうして誕生する。智恵子との「言葉なきうた」の境界をこえて「元素智恵子」を書くことになる。

現代作家では大江健三郎と武満徹との交流はよく知られている。武満の後期のピアノ曲を大江は高く評価している。音楽の純粋さ、透明さは、作家、詩人が追及するテーマと共鳴する。

音楽家と作家という逆の結びつきもある。決まってその作家は根源的なテーマを追及した作家である。社会的発言をしてきた作曲家高橋悠治はかなり前に出た本だが『カフカ 夜の時間』(晶文社)で書いている。病気療養中の病院のベットで読んだのはカフカであった。原語の意味まで探求する姿は作曲家がいかに根源に迫る存在かを示す。

作家五味康祐(1921-1980)のクラッシックの造詣は並々ならぬものがあったが、いまのネット配信の音楽をどう聴くだろうか。音楽に満ちた現代はいつもデジタルなのだ。しかしデジタル化の発達とは逆に、「いま、ここ」の共振を求める人たちを生み出してきていることはたしかだ。ストリートミュージシャンの出現はそれを意味する。そこから「こぶくろ」の2人が出た。時代をそう読む。

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2007年1月アクセス№3記事

2008年01月29日 07時28分22秒 | Weblog
韓国の人気俳優イ・ビョンフォンとは直接関係ないのに、彼と共演した俳優のことにふれただけなのに、その日のアクセスが400に迫る勢いだった。

さすがビョン様ということなのか。

釜山での結婚式ではイ・ビョンホンと本貫が同じ会社員の青年が参席していた。イ・ビョンまで同じ名前であった。男前かどうかは忘れたのは、あまり関心がなかったからだろう。しかし、俳優と縁の深い訪韓でもあった。

しかし韓国の人は面白い。結婚式の直前1時間前に司会者が「仕事だ」とキャンセルしてきたからだ。仕事は断るべきではないか。大あわてなのは司会を頼んだ新郎の方で、急遽、会社の同僚がピンチヒッターになった。かわいそうだ。新郎が。

結婚式後は自家用車に空き缶をつけて釜山を代表するリゾート地・海雲台まで飛ばした。邪魔をしなくていいのに、日本から来た日本人関係者2人が後部座席に座った。どこまでもあつかましい。
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不気味な時代の影 大阪府知事選でなぜ橋下徹さんは選ばれたのか

2008年01月28日 00時06分21秒 | Weblog
 大阪府知事選橋下徹さん当確は開票が始まって直後に出た。2位につける元大阪大大学院教授、熊谷貞俊さん(63)=民主、社民、国民新党推薦=とは開票率90パーセント段階(午後11時)でダブルスコアーに迫る勢いだ。この人気は何なのか。

 東京都知事に石原慎太郎さんが大量得票を取った時に、東京の友人に「大阪ではそうはいかんで」と投げかけると、「いや、 いや、同じや。大阪もそうなる」と冷静に分析した友人がいたが、いま彼の言葉を思い出している。右派で発言が過激で、だからこそ強烈なリーダーシップを求める有権者の声が集まるのか。「あと5ポイントの差だ」と熊谷陣営の友人は投票日前日語っていたが、ダブルスコアー(90パーセント開票現在)ではグーの音もでない。

 20世紀最大の政治学者の1人ハナン・アレントは「人間の条件」の中で「社会の画一主義はその社会に適合する行動を人々に求めて様々な規則を課す」「他者にぬきんでる傑出した成員、自発的活動は排除される」という趣旨のことを言っている。大阪だけ、あるいは奈良だけ流れが別だとはならない。

 安倍政権に「ノー」をつきつけた参議院選挙も考えれば1つの社会の画一主義の底流がある。しかしもっと大きな画一主義は、大阪、そして日本とも少々荒っぽかっても「強力なリーダーシップ」でブルトーザーのように荒蕪地をならしてくれる人のようだ。荒蕪地とは巨額赤字である。それに画一主義を推進するマスコミの寵児が候補者となれば、これは勝つ公算は極めて弱い。

 社会資本の充実を訴えた熊谷さんの主張はかき消された。当然社会資本の充実のために尽力する人は「冬の時代」を迎える。「巨額赤字を解消してくれ」「元気のない大阪を変えてくれ」。200万に迫る票の背後にその声を聞く。錦の御旗が「変わる大阪」「元気な大阪」だろう。ブルトーザーはもう明日から走るだろう。しかし、踏みつけられて黙っているわけにはゆかないだろう。少々の失言はかまわない、少々の犠牲はかまわないーでしか、大阪府の再建はないのか、元気の出る大阪はないのか。そんなことはないはずだ。新知事の舵取りにまずは注目したい。

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うどん狂想曲

2008年01月27日 09時26分14秒 | Weblog
 途中商店街を犬4匹連れて歩く人がいて、買い物客は「ウアー」とよけた。犬は獰猛ではないが、しかし人ごみでごったがえすのに、少し驚いた。犬は賢そうに買い主に従った歩き、まるで行進する犬部隊のようだった。

 駅に近づくにつれうどんが食べたくなり、駅に遠い方から物色。というのは駅から遠いほど値段が安いからだ(京橋駅で実証、体験ずみ)。しかし、いずれも200円。しかたなく駅前のうどん屋さんに。

 ここは清潔で味もよかった。ただきつねうどんを注文しているのに、天玉(天ぷらの衣を丸く固めたもの)の上にお汁をかけて出すので、「おばちゃん、きつねうどんでっせ」とクレーム。50代後半とおぼしきこのおばちゃん、パートで日が浅いらしい。「あーすいません」と、玉天からきつねに代えようとした、

 そこで一言。「おばちゃん、それでいい、いい。大丈夫」。

 おばちゃんは感謝、感謝。

 ここまではいい。食事最終局面に近い段階で天玉の衣がうどん出汁にひろがり一気に飲み干そうとした瞬間、鉢全体に広がった天玉の衣がいけなかったのか、あるいは七味をかけすぎたのか、気管支の方に入りそうになり、咳き込むこと咳き込むこと。

誤飲ならぬ、誤吸というのがあり、体力が弱る高齢者がそれで肺炎を起こすことがある。私はそういうことにはならなかったが、「あー、きつねうどんにしておけばよかった」と思うことしきり。後悔後にたたず。

汚い話だが、食べ終えた私は天満駅へ。頭上を走る外回り環状線の音に慌てて階段を駆け上がり間に合う「幸運」! これはよかったのが(年とって列車に間に合うため階段を走り抜けることは御法度だが)、車内で少し異変が。鼻腔に偲び込んでいた1筋のうどん切れ端が口腔に下りてきたのだ。さきほどのむせ返しの元凶か。なんともはや。しかたなくかみ砕いて胃の中ヘ。

 今度は咳込みはしなかったが、うどん一杯で大騒動なことに。
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音楽と文学

2008年01月26日 09時20分31秒 | Weblog
前書は詩と音楽は一つであるという著者の視点が貫かれた本だ。評者は音楽的詩論集と定義する。十人の詩人が出てくる。萩原朔太郎、北原白秋、中原中也、宮沢賢治、高村光太郎らだ。宮沢賢治はベートーヴェンの「皇帝」を聴いて霊的な雰囲気が漂い出した。凄まじい「音楽的デーモン」とある。その情念は『春と修羅』に結晶する。バッハの協奏曲を聴いた高村光太郎は世界を鳴らす感銘を受けたという。詩「ブランデンブルグ」はこうして誕生する。智恵子との「言葉なきうた」の境界をこえて「元素智恵子」を書くことになる。評者は「大詩人たちを大詩人たらしめてたのは『音楽』への愛だったと、読み終えて気づいた」と書く。

現代にあってはどうか。問題はこういうことだ。創作という行為は近代に会っては個人の孤独な作業であり、そこで出会うのは最も純粋で透明なもの、音楽ということだろう。個人が向き合う形なきものには音楽と死者の面影だろうと私は思うが、その個々人の体内に飛び込むものが創作として噴出する、あるいは存在論、宗教として顕現するとみる。

後者の書は梅津時比古の『冬の旅 24の象徴の森へ』だが、これは結論的にカフカを対比させることになる。ジューベルトの「冬の旅」がいかに成立したかを梅津は解読する。「冬の旅」はドイツ・ロマン派の詩人、ヴィルヘルム・ミュラーの連作詩を作曲したもの。よく知られる「菩提樹」は死のいざないと、評者はいう。失恋した青年が冬の荒野をさまよう。「ここならやすらげるのに」と誘う。それが「菩提樹」のテーマ。だから菩提樹は死の象徴に外ならない。著者はこの青年は単に失恋しただけでなく、町の人々に失恋した疎外されたのだ。評者はこう書く。「シューベルトの『冬の旅』はミュラーの原詩の見事な解釈であり、不条理というほかない世界に絶望して死へ向かって歩き続ける『はずれ者』の姿を浮き彫りにする」。

著者が先駆者として尊敬する吉田秀和の見方を徹底して推し進めた果てに、正反対のシューベルト像を見出した。そのことは原点の西洋音楽全体の見方を変える可能性がある、と評者はいう。カフカの小説『城』を傍らにシューベルトの『冬の旅』を聴き、梅津の本を読むこと。著者が本書の中で展開していることだ。シューベルトはいまこそ再評価すべき現代的作曲家だというところに著者の並々ならぬ思いをくみ取る。先駆者吉田秀和の方法を徹底させて逆の結論が導き出されるところに興味を覚える。音楽の思想的部分を解く本といえる。

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2007年1月アクセス№2記事

2008年01月25日 22時32分41秒 | Weblog
 今日は12月4日に亡くなられた池田正枝さんの妹さん宅に計8人でお悔やみに行った。

 今冬一番の寒さ。

 粉雪が舞い散るあいにくの天候。近鉄学園前駅に集まり、妹さん宅まで急いだ。天理の夜間中学の先生や大阪から池田さんから文章を書くことをすすめられた77歳の在日朝鮮人女性も来られた。

 車で40分ほどで着いたが、妹さん宅には池田さんの遺影と遺骨が祭壇に安置されていた。

 いつも腰を前屈みにして歩いておられたのを思い出した。手押し車にはたくさんの資料を携えておられた。その姿はもう見られない。突然の訃報になんとか参拝したかった8人。もの言わぬ池田さんの遺影に手を合わした。

 妹さんは9つ下だとおっしゃる。体調をくずされていることもあったが、数少ない言葉で「もっと元気でいてほしかった」とつぶやかれたことが、無念さを十分語られてもいた。

 祭壇の横には池田さんの著書『二つのウリナラ』がおかれていた。その著作の手伝いができたことが編集者としてせめてもの救いだ。

 偲ぶ会は3月にやれそうだ。
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疾走する方が寒くない?

2008年01月24日 16時08分04秒 | Weblog
 私の前を走る単車。交差点で信号待ちのとき、ハンドルを握る男性に異変が。

 さかんに体を震わしているのだ。どう観ても寒さに震えているように見える。

 かと言って、薄着ではない。厚めジャンパーも着込んでいる。赤信号の間、2-3分。その振るえは止まらない。

 青信号。

 意を決したのか、スタートよろしく、アクセルを踏み込み走り去ったが、その時は振るえから解放されたようで、前方に投げ出されるように前かがみになり疾走していった。

 よほどの寒気なのか。しかし疾走する方がもっと応えるはずだが。そんな物理的解釈はヤボというものなのか。小雪舞い、アスハルト道路を低く巻くように粉雪がたたきつける光景がしばし続いた。
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テレビ・ジャックで画一化―23日の東京の雪が炙り出す報道の姿

2008年01月24日 00時03分31秒 | Weblog
▼コラム子が住む奈良も月曜日は2年ぶりの雪で、山間部は積雪10センチを記録した。別段大騒ぎされるわけではない。しかし、東京は別だ。

▼「犬が人を噛めばニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」。ニュースの大原則。常識を覆すほどニュース価値が高い。地球温暖化のご時世、それが暖冬ならず厳冬の象徴として雪に見舞われる、それも東京という日本の首都がーというのがニュースが大きく取り上げられた要因だ。

▼しかしテレビはすぐジャックされることに、ほとほとあきれる。東京キー局ジャックである。関西の自主制作がどれほどのパーセントを占めるのか。コメンテターもジャックされる。メディアの均一化は恐ろしい。

▼新聞は現場主義だから地元主義は地域に張りつかないと記事化できないが、全国紙の通信部、支局からの撤退が顕著だ。新聞の危機だそうだ。いや、言論の危機ではないのか。ますます一極化していく。

▼東京基準でものごとが進む。沖縄の教科書検定での日本軍による「集団自決」強制削除の問題。検定意見撤回の運動は11万6000人の大会参加者、沖縄全市町村の議決を受けて粘り強い運動が続けられている。一時は全国化されてニュースとなったが、昨年12月26日の文科省の「関与」記述の幕引きで、もう終結したような錯覚をうける。

▼東京まで揺さぶる運動でないとなかなか取り上げられない。何もないのではないが認知されにくい。結論は全国に広げることしかないが、それは至難のワザだ。

▼1961年から高知・長浜の被差別の主婦たちにより始まった教科書無償闘争は全国化した。カギは生存権にかかわる懸命の運動ということなのだ。余談だが、文学や哲学の営みは全国など関係ない。おのれが勝負だからだ。広げる必要もない。コツコツ地道に。  

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「貧乏人ほど気を遣う」

2008年01月23日 13時44分45秒 | Weblog
「貧乏人ほど気を遣う」という「貧乏人」という言葉に染みついた卑下感(これはどちらの側にもあるー貧乏、富裕どちらもということ)があるから、なるべく使いたくないのだが、ここではどうしても実情をわかりやすく示すため使う。

 われわれ経済的にそれほど豊かでないものは、何か日々世話になると、あるいは何かしていただくと、「これは大変な世話になった。早くお返しをしないといけない」と懸命に思い、実行するものだ。

「こんなに目をかけていただいてすまないことだ」とする上下関係がそこにはいつの間にか忍び込んでいる。「すまないことだ」という感覚は、太陽があたらずしぼんでいた草花が陽が照ることで新芽がでるように、「あー申し訳ない」となる。倍ほどお返しをしてしまわないと気がすまない。

 ところが「申し訳ない」としてお返しを受けた側は、とりたてて何とも思っていない。当然のことだ。「申し訳ない」など思わないし、いつもそうしたお返しを受けているから、鈍感になっている。

 その結果、立場の弱い側は「申し訳ない」とお返しすることで満足し、もらう側はもらうことで一定満足するという実にいびつな関係が築かれる。

 生活保護の打ち切り餓死者がでたり悲惨なニュースを聞くが、立場の強い側=役人は、「そんなに困っているとは思わなかった」というコメントを必ずする。金持ちがもらうことに慣れているのと同じ原則なのだ。

「お返し」する意識は、その人間関係、社会関係を維持したいからするのであり、生保打ち切りを告げられる人は、「それでは何とか仕事を探してみます」と打ち切りに同意する。役所との関係をそのまま継続したいから打ち切りに同意するのだ。その心情がわからないのが役人であり、事件がおこり例の言葉を出す。「そんなに困っているなとは思わなかった」。

 金持ちはどんどん金をため、貧しい側は「すまない」と思い、つまり「すまない」と思うから現行の関係を懸命に維持しようとするのだ。これではいけない。声をあげないと。ところがその声の上げ方に熟知していない。なんだか自分のことを思い描いて書いているようだ。


しかし、問題はこれからなのだ。貧しいながらもお返しする意識(これは賛意を送っているのではない)どころではなくなると、富裕層の側は「何だ! 恩義もへたくれもないのか」となり、不平等な関係が露骨にあらわれる。

 演繹すると、立場の強い側に異議申し立てをすると、「何ということか」といっそう敵意をあらわにする。なぜなら、最初から対等な関係ではないからだ。つまり「申し訳ない」と思い、必要以上にお返しをする、気を遣うのは、不平等、不自由の関係の堅持と思うことから始めよう。そうすると、帰結するのだ。「礼儀もわきまえない」という批判が。その発言は社会的正当性をもっているから、投げかけられた側は負のレッテルを貼られる。

 野宿者に対する住民登録を抹消しようとすることに「もっともだ」とエールを送るテレビのコメンテーターなどこうした根本的な構造を知らない。なさけない。役人も、役人。なさけない。最低の生存権がわからないのか。

 それにしても儒教倫理がわたしに染みついているようだ。
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ヤン・パトチカ『歴史哲学についての異端的論考』について

2008年01月21日 11時18分01秒 | Weblog
 ヤン・パトチカは「チェコの春」以後の知識人の闘いで知られる哲学者だ。

 このたびみすず書房から『歴史哲学についての異端的論考』(4830円)として出た。

 チェコスロバキアのプ「プラハの春」は1968年のこと。民主化の声はソ連軍の戦車侵攻によりつぶされたが、以降の人権弾圧に立ち上がった人たちが「憲章77」という文章を出す。中心にいたのが反体制作家でのちに大統領となすハヴェル。彼にこわれてスポークマンになったのがパトチカだ。

 パトチカはフッサールやハイデッカーの哲学を継承しながら独自の現象学を展開したとある。毎日新聞日曜日の書評評者は「異端的」哲学と書いているが、どこが「異端的」なのかは限りではわからない。

 ただ現象学展開が異端ではなく社会主義体制で非共産党員として信念を貫いたからなのか。詳しくは本書で。自らを放棄しうる生の在り方に絶対的自由を認めたのがパトチカだ。それが「憲章77」を出すことにより事実上命を縮めたことが何よりも哲学的実践であったといえる。ヤン・パトチカ『歴史哲学についての異端的論考』を図書館に入れば是非読みたい。

 パトチカは「犠牲」「自己放棄」という概念にたどり着いている。デリダへの影響を与えたことでも知られる。毎日新聞での評者は「憲章77」で事実上命を縮めたことを解説して「いまの日本でこのように高潔に行動できる知識人がどれほどいることか」と書いている。知識人の実勢がこれほど希薄な時代はない。なぜならあらゆることが「暖簾に…」であるからだ。

 抵抗する人はメディアに登場しない。いつも見るのは、保守のゴリゴリ頑迷固陋ともいえる人が「テレビジャック」をしている。視聴者が変わらないと、テレビの側も変わらない。
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ネット新聞を始めて直面する精神的危機

2008年01月20日 01時11分29秒 | Weblog
 それまでは書くことへのフラストレーションがたまり、新聞社に記事を売り込み、毎年、文化面で記事を書いていた。2004年12月に毎日新聞文化面で韓国の識字運動について書いてから、2005年にネット新聞を出し始め、「どうしても書きたい」とのフラストレーションから解放された。そのことが新聞社に持ち込みまでして原稿を書こうとは思わなくなった。

 私の新聞社の友人はこれまで「また持ち込みできよった」と、はた迷惑な感じをもっただろうが、彼らはそれらから解放されたことになる。しかし、この状況をどう考えればいいのか。

 日々フラストレーションを解放さすことはどういう事態を生んだのか。凝縮したものを生み出す精神的馬力をそいでしまうのかもしれない。ネットでの発表が日々あり、日々精神的馬力を拡散しているということなのか。

 ここらでテーマを限定して集中する状況がきたのかもしれない。日々発散の反発が自分の中に起きてきているからだ。日々発散するものと、精神的馬力でもって臨まねばならないものを分ける必要があるようだ。

 政治的不満もそうだ。これはたしか。日々解消さすことが政権運営では重要。日本人が様々な権利侵害の事態になっても、怒ることをしないのは、日々の発散機能が働いているためか。

日々の発散は生活がベースにある。その生活がこんなに困窮してきてもおとなしい。なぜなのか。日々の不満を吸収する対抗勢力が不在だからか。

 多分、現代人は個々バラバラになってしまい、集団的行為の必要性を感じなくなってしまったことにある。「分衆」ということば生れて久しい。ネットの隆盛はその象徴だ。バラバラの個人はバラバラの考えで一本化されることはない。それはそれでいいのではないか。それでなおかつラディカルであるにはどういうことなのか。アナクロニズムにならず考えたい。
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スケスケ、ギスギスでは

2008年01月19日 15時50分26秒 | Weblog
▼しかしスポーツにしても学術にしても東高西低の傾向は顕著だ。知事選が始まった大阪は、戦前、「東洋のマンチェスター」と呼ばれ、人口も東京より多かった時期がある。西高東低であった。

▼考えてみれば新聞も大阪発祥の社が有力紙になっている。朝日、毎日、産経が大阪生れだ。いまは東京の影響力が強く、人事は東京発が主流を決めるといわれる。東京本社に人員が流れ大阪本社の記者職が定員割れの社もあるほどだ。言論は現場が大事だから、距離が500キロ離れた上での発想では齟齬感がでてくるだろう。しかしとにかく情報と、さらに人事、経営までもが東京一極集中である。

▼大阪の株式の商い高はかつて全国一であったが、いまは10パーセント台に甘んじている。阪神淡路大震災から13年。被害企業で東京に移った会社もある。関西の地盤沈下と言われて久しい。

▼法人税など徴収額が増えないから役所は四苦八苦して予算をたて、職員のたるみをマスコミといっしょになって告発する。職場がそれでうまくいっているのかどうか、外部からではわからない。膨大な赤字の中でも大阪府は1000億円近い予算で宅地開発など大型プロジェクトを展開している。これらを「見直す」「白紙を」と去る10日告示された大阪府知事選の候補者が言うが、どこかで「ほんまかいな」とつぶやいてしまう。公約とおり断行できるのかどうか。

▼大阪はスケスケになり、ギスギスするというイメージが浮かんでくる。どの候補に託したら地盤沈下の現状を変えられるか。財政再建は簡単ではない。じっくり候補者の公約に耳を傾けてやらないと、にっちもさっちもいかなくなる財政状況へ加速することも考えられる。しかしそれにしても借金を増やした現知事の罪は大きい。

▼コラム子は投票率の高低が命運をになうと思う。昨年の参議院選挙もそうだった。投票率が高くなると何かが変わるが、さて大阪府知事選はどうか。投票日の27日まであと1週間、残すところわずか。選挙戦の後半、これからどう動くのか。
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阪神・淡路大地震から13年

2008年01月17日 22時58分58秒 | Weblog
(写真はイメージ:片山通夫)
 粉塵が舞い、三宮駅前のビルは大きく傾いていた。三宮近くに住む友人にはけがもなく元気でいたが、私がかつて住んでいた芦屋の町の被害は甚大であった。JR芦屋駅からは阪急芦屋川駅沿線周辺は多くの木造家屋が見る影もなく崩れていた。

 公園で避難生活をする先輩を訪ねたのはそれから2週間ほどしてからだ。その方はまだ「仮説住宅」で住む。

先輩を訪ねる足で兵庫区の高校にも歩を向けた。校舎の継ぎ目が1メートルほどあき、グランドは活断層の裂け目なのか、隆起している部分との段差がはっきりしていた。校舎は避難所になっていた。

13年目をむかえた1・17。こんなに復興したのかという思いと同時に、失ったものの大きさにたじろぐ。はたして失ったものを見据えて癒されることがあるだろか。今日の毎日新聞は被災地のモニュメントの地図を示し「希望新聞」と名付けた4ページの特集を組んでいた。13年を思い出させる。

13年の歳月でどれだけ地震予知が進んだのか。速報体制は充実したが、予知は一向に進まない。13年間で幾たびかの震災に襲われてきた。防災グッズなどの手持ちの準備で自己防衛するしかない。

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 大澤真幸『ナショナリズムの由来』について

2008年01月17日 10時26分48秒 | Weblog
 860ページに及ぶ大作を読み通そうと決意して読み始めて、やっと250ページのところまできたところで図書館に電話をしたら「予約が入っており今日返してください」という。

人気の本はいつもそうだ。予約が満杯なのだ。大澤さんの本も5人まってやっと12月末に手にしたと思ったら、途中で手放すことに。

 次回まで待つとすると、また2-3月あとになる。こういう人気の本は複数冊図書館で購入しないものかと思う。しかし予算の関係でそうはいかないのだろう。

 大澤さんはベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』に依拠して論理を展開している。ということは、アンダーソンの本はナショナリズムを論ずるのに古典として読みこなさないといけない作品なのだ。ところが「マルチチュード」の概念を打ち出したネグリには批判的だ。

国民国家の枠組みができる前のことを大澤さんが書いているが、アラビア人の大使がトルコで見出されたという。つまり国民国家成立前の排除と成立後の排除形態は異なるのだ。それが250ページまで読んでの発見である。

それと「読者の誕生」も面白かった。沈黙して黙読する読者の成立は近代に誕生したというのだ。これからというところで手放さないといけない。なにしろ5000円の本はそうそう買うこtができない。
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