ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

いまこそ該当労組は派遣労働者と共闘を:川瀬俊治

2008年12月28日 22時38分24秒 | Weblog
 派遣労働者の突然の解雇に対して抗議行動が伝えられているが、不思議ではないか。親会社の労組が共闘を組む指令で一斉に立ち上がる報道は聞いたことがない。

 派遣きりの企業に対して労組の支援は聞くが(「派遣法の抜本改正をめざす12・4日比谷集会」など)、共闘を組む戦う当該労組の話は聞かない。ここが最大の課題でもあり、また当然ではないか。またメディアでこの視点を打ち出す論説を聞いたことがない。「内部留保があるはずだ」と経営陣の姿勢を当だけに終始していてる場合ではない。緊急ワークシェアリングを訴える論説(毎日新聞28日社説)はある。さらに一歩進める共闘が実現することを願う。
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日曜読書欄簡単レビュー

2008年12月28日 10時24分32秒 | Weblog
 恒例の日曜新聞簡単レビューから。毎日は本を紹介しておりほど再録してここで取り上げる。朝日は注目の作家5人の特集。日経は回顧もので、経済書ベスト10を紹介している。

 坪内稔典『カバに会う』(岩波書店、1680円)ー毎日ーは全国の動物園のカバめぐりのエッセー。俳人である著者は還暦記念にカバめぐりをはじめ、全国一覧表まで本書で書いている。なぜカバめぐりを始めたか。還暦記念はともかく、おもしろがりあの精神からだ。正岡子規の研究者にして同じ愛媛県生まれ。子規は結核に倒れたが病床にあっても生きることを楽しんだ。その精神が著者にも息づいていると評者(小島ゆかり)はいう。と最長老のカバは推定50歳をこえている。そのカバを著者は詠む。

 桜散るあなたも河馬になりなさい
 水中の河馬が燃えます牡丹雪
 横ずわりして水中の秋の河馬

など。本書を紹介した文にこうある。「気分が沈滞すると言葉も元気を失う。感性とか思考とかも鈍る。いつのころからか、そのように考えるようになった私は、意図して自分の気分を刺激し、わくわく感を醸そうとした」。そして気分がわくわくするのは過剰なまでに何かを愛することであり、一般的にあまり高い評価がないものーだそうだ。おもしろい発見の書でもある。

 毎日の読書欄は4つの小説を紹介している。桐野夏生『女神記』(角川書店、1470円)、川上弘美『どこらか行っても遠い町』(新潮社、1575円)、佐野洋子『天使のとき』(朝日新聞出版、1575円)、『シヅコさん』(新潮社、1470円)』である。すべて女性。これはもう偶然ではない。女性が日本文学の担い手物語っている。桐野は『古事記』のうちのイザナミの話。神話を下敷きにして物語を書いた。「心の原型を書くために神話を利用する、という意図が小説でなければ書けない成果を生んだ。女神は恐ろしいが、妥協なくこれを書ききった作者も強いと思った」(評者池澤夏樹)と評する。

 川上弘美の作品はいうまでもなくこれまでの川上ワールドなのだが、「新しいかたちの都市小説」と評者(湯川豊)はいう。地下鉄、私鉄でも20分ほどでいえkる商店街が舞台の11短編からなる作品集。大都会のどこにでもありそうながら均一でない孤独でいきる人々が主人公。評者は本書の紹介の最後に登場人物が読者の記憶に生き続けること、それが小説であるという著者のつぶやきを聞くと書く。

 佐野洋子の『シズコさん』は実母に対する憎しみと愛をテーマとした作品。この作家の作品を読んでいないので、評者(堀江敏幸)の言を引用する。「(長い憎悪が母が母でなくなった老いに直面してー引用者)母親を前に、想像もつかなかった和解の糸口を見いだす。人は、なにかに気づ いたとき、気づかなかった時間の長さを思って、うつむきたくなる。なぜもっと早くそうしなかったのかと悔やむ。しかし、その長さだけが、気づきの重さを保証してくれるものだ。気づかないときには、、気づくという言葉さえ存在しない。母としてではなく人として嫌いだったと言い切れるほどの嫌悪が愛と共存しうることを『シズコさん』はみごとに描ききっていた」。同じくテーマを『天使のとき』は童話のかたちで描いた。15年前に書かれた作品。大きな痛みが読者につき刺さる作品という。詳細はぜひ本作品の世界へ。

 毎日は杉原泰雄『憲法と資本主義』(勁草書房、5985円)を紹介している。市民憲法が求めた資本主義がテーマ。憲法と資本主義を架橋した学際的研究。

 日経は2008年の回顧「私の3冊」など特集。朝日は注目作家5人を評者が選んでいる。日経では「経済図書ベスト10」を33人の評者からアンケート。堂目卓生『アダム・スミス』(中央公論新社、880円)、白川方明『現代の金融政策』(日本経済出版社、6000円)、ロバート・B・ライシュ『暴走する資本主義』(東洋経済新報社、2000円)、斎藤修『比較経済発展論』(岩波書店、5200円)、ジル・ドスタレーン『ケインズの闘い』(藤原書店、5600円)、竹森俊平『資本主義は嫌いですか』(日本経済新聞出版社、1800円)ーで最後の2書は同数で5位。1i位はだんとつ。朝日の注目作家は5人の評者があげた。池上永一、岩井三四二、永瀬隼介、宮下奈都、東山彰良、中田永一、山崎ナオコーラ、道尾秀介など16人があげられている。
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コラム「風」厳寒の師走に思う

2008年12月27日 01時02分47秒 | Weblog
 一気に真冬が到来した。もみの木に横殴りの雪が降りかかる光景を見ながら昼食をした。ちょうど午後2時ごろだ。場所は伊賀の郷。「今年初めての雪です」と店の方の弁だった。

▼京都でも金閣寺の屋根に積雪をみた。各地で雪便りが寄せられたが、昨日、韓国の友人から電話があり、「ノム チュアヨ(ものすごく寒い)」と零下10度くらいのソウルの様子を電話できたところだ。「明日から寒くなる」と覚悟していたところだ。

▼「冬は朝鮮半島から天候がやってくる」とは作家司馬遼太郎さんのことばだと、たしか記憶しているが、「西高東低」の冬型の布陣は、今年もやはりそのとおりだった。

▼日本型情緒も目を楽しませる程度の雪なら「美」を生むが、26日の北海道のような激しい雪なら、情緒どころではなくなる。ところが雪が降り止むと、あたり一面の雪景色に心が鎮まるのだから、人間の心のあり様(よう)も面白い。

▼今年も残すところ4日。急に金融恐慌がやってきたように思えるが、今年4月刊行の本山美彦さんの『金融権力』(岩波新書)によれば、M&A(企業の買収・合併)ブームの終焉から、サブライムローン問題からの金融恐慌を予想していた(27ページ)。どうした手を打ったのか。非正規労働者をこの厳寒の師走に放り出してしまった。労働を提供するだけで、企業が減産体制に入ると、いとも簡単に切り捨てる。高収益時代に蓄えた企業備蓄は決して非正規労働者の福利に反映させない。

▼政府の失業対策も「自立」「自己責任」路線で極端に痩せ細ってきた。骨太の福祉社会にいまこそ移さねばならない時だ。


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メディア(AMラジオ)ーこの一年

2008年12月23日 22時06分31秒 | Weblog
 メディアのなかでもAMラジオについてこの1年で取り上げる。ラジオが照射するメディアの再生というところか

 最近ラジオの面白さは3人のコラボレーションが面白いと思うようになった。その代表格が毎日放送の午後3時45分から5時すぎまでの「ノムラでノムラ」の月曜日と、午前5時50分から始まる「三上公也の情報アサイチ!」だ。「この1年」でAMラジオを取り上げるのは、テレビがあまりにも面白くないからか。というより影響力が大きすぎて返って嫌味を覚えるからか(これは個人的感情!)。
 
「ノムラでノムラ」は月曜日から木曜日までの帯で一番面白いと思うのは月曜日の桂南光さん、高井美紀アナウンサーの3人のときが出色。野村啓司アナウンサーと桂南光さんの息がよくあうが、2人の少々脱線気味を話に手綱を締めるのが高井アナウンサー。というより高井アナウンサーの手の平で2人が踊っている感じ。

 ラジオのよさは等身大の姿が電波に乗ることだ。プライベートな話も時には出る。テレビではまず出ない。そのぎりぎり公開のプライバシー披露が出るのもこの月曜日のよさ。まことに息があう3人だ。裃(かみしも)を着たようなメディアはもう飽きられている。だからよけいに新鮮味があるのかもしれない。

 朝早くから仕事をしている関係からカーラジオを聞く機会が多い。朝の番組で固定してしまったのが「三上公也の情報アサイチ!」。電波メデイアの多くがバラエティー化している。そうした中で「情報」を伝えるこの番組は珍しいくらいの存在。番組を聞いていると、三上アナウンサーは午前2時に起床して番組に備えるという。神戸の情報が主流だが、他府県で聞いているリスナーに意外と違和感がない。

 浅井千華子さん、赤崎加林さんが交代で出る。男性陣のもう一人は西條遊児さん。午前7時すぎに登場する。なぜ7時すぎなのかわからない。3人のコラボレーションがいい。西條さんといえば漫談家西條凡児さんの長男。遊児・笑児のコンビで兄弟漫才をしていたことを覚えておられる方もおられるだろう。その遊児さんがこの3人では一番の長老。それぞれの年齢差が話しの幅を広げている。

それと大事だと思うのは、遊児さんも浅井さんも取材して情報を伝えていることだ。これがなかなかの出来だ。コメンテーターが座り情報をはじめから色分けしているテレビの傲慢さはない。普段着の神戸で生きる庶民の視点が充溢している。テレビよラジオに学べ!
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日曜新聞簡単レビュー

2008年12月21日 10時26分43秒 | Weblog
朝鮮史の書評でこれだけの賛辞を受けた書を知らない。朝鮮哲学の研究者である小倉紀蔵による慎蒼宇『植民地朝鮮の警察と民衆世界 1894ー1919』(有志社、6200円)ー読売ーの評価である。筆者も植民地地統治下までの在日朝鮮人地域史を書いたことがあるが、小倉が本書で指摘するように「イデオロギー的関心」が強すぎて在日朝鮮人民衆史には程遠いものになったと反省しているのだが、それは本書で追求された点が欠けていたからだ。朝鮮人民衆が長い間育ててきた民衆の権力懐柔策というべき力強さが出ていなかったからだ。その核心部分は後述するが、権力懐柔とは概念が上滑りしてはいけないが、要するに民衆を庇護する権力構造を育てることだ。それを小倉は「徳治的」という用語で説明している。つまり儒教の仁政という概念を軸として植民地支配での武断的支配とは異なる「武力や厳しい統制をなるべく回避し、文治的な教導を柱にして、民衆の生活諸慣習に対して比較的寛容であった」という実際の中身であった。この視点を押さえて筆者の在日朝鮮人地域史を捉え直すと随分と風景が変わってきたに違いない。小倉がいうように日本の植民地支配は徳治的政治文化の破壊であったからだ。その日本に渡らざるをえなかった朝鮮人は驚いたであろう。日本警察や官吏の冷徹さを。弾圧を。そうした朝鮮史の組み直しが求められているともいえる。しかしどうして徳治警察の諸行を文献的に裏付けるのか。至難の技ではないか。民衆史により接近すればするほど困難が待ち受ける。本書を読んでいないので筆者にはわからないが、「イデオロギー的関心」をこえて朝鮮人の誇れる民衆文化、政治を発掘していく著者による記念碑的研究書にまずは慶事を述べたい。著者は三〇代後半の大学講師。

 慎の書が民衆と権力というテーマであるとすれば、権力と諜報というテーマの本がティム・ワイナー『CIA秘録 上下』(文芸春秋社、各1875円)ー日経ーである。村田晃嗣が書評を書いている。本書の著者はニューヨク・タイムス記者。情報公開法に基ずく膨大な史料と10数人の元CIA長官ら300人以上の関係者のインタビューによるCIAのスパイ映画もどきの秘密のベールをはぎとっていくジャーナリストが結実させた権力監視の書といえる。評者村田は「CIAの秘密のベールが1枚ずつ剥ぎ取られていく」と書いている。日本の公安警察ではどうなのか。情報公開法は日本の場合、実に軟弱であり、とても本書のような書を書けないところに、ある意味では権力の脆弱さがあるのだが、本書により現れたCIAの姿を日本人が読める皮肉さにたじろがねばならないだろ
う。はたして日本はとの問いである。

 皮肉さという意味では水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、一八〇〇円)ー日経ーが日本語の「位置」を全世界的視野の中で考察して非英語の奇跡をあぶりだす。帰国子女である著者は日本の近代文学を再発見した体験をもつ作家だが、本書ではモンゴル語、ポーランド語、フランス語の現状を語り、万葉仮名以来の日本語の書き言葉の歴史をたどる。評者リービ英雄は非英語として史上初めて誕生した漱石らの近代文学にたどりつく。著者水村によれば中国語に対峙して生まれた日本語がそれまで現地語であったのが、英語という普遍語に肩を並べる非英語世界である日本語の文学を生んだというのだ。国語生まれた変わった。漱石らの時代にはもう戻れない。インターネットにより英語の支配力は日本語の力はそがれていっている。非英語の奇跡の行方を自覚せよとのメッセージを本書から受け取った評者は「水村氏の『憂国』は英語を母語としない、実は人類の大多数の読み手と書き手通じるだろう」と結んでいる。

 若宮啓文『闘う社説 朝日新聞論説委員室2000日の記録』(講談社、1500円)ー読売ーは少し手前みそ過ぎる感を受けたのだが。読売の渡辺恒雄主筆とのエール交換が本書に収められ、評者である政治学者の御厨貴が高く評価している点だ。たしかに若宮ー渡辺対談(「論座」)は歴史に残る読み物となるだろうが、一読者にとってはいくつもなぞが残るからだ。はたして言論の共闘がいいのかという疑問なのだ。言論の自由への弾圧、人権弾圧などで一斉に批判的報道が期せずしておこることはあるが、政治問題、宗教問題での論調違った新聞が共闘を一夜にしてなすというのはキツネに包まれた感が抜けないのだ。ただ本書でたどる言論の軌跡は他紙を意識して書かれたことがわかる。
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コンピューターの故障

2008年12月20日 23時43分29秒 | Weblog
機械がとうとうこわれた。コンピューターである。

4年間使ったことになる。当時5万円ほどだったから、まあ安いものか。

ある団体が財政削減でフロアーを追われ、不要になったコンピューターを1000円で買い、いまそれを使っているが、これでもいいが何かと不便なことが多く、新たな機械を物色中。

しかし機械本体をもちこの間、地下鉄、近鉄を乗り換えして、膝が痛くなったり、腕に痛みが走ったり、腰に痛みを覚えたり、どうも年齢を感じるから恐ろしい。

未曾有の不況で、歳末商戦も心なしか勢いがない。この数ヶ月で随分様相が変わった。景気などすぐ悪くなるものだ。さて新たな機械をどうするか。購入するか。この払い下げで我慢するか。二者択一だ。
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編集局からの手紙「金融恐慌で改革に火がついた」

2008年12月16日 18時44分00秒 | Weblog

とりわけ自動車産業への打撃はすさまじく、車種別では大型車はほとんど売れない。小型車だけがわずかに売上げているにすぎない。デラックス車セールスのコマーシャルがお茶の間に流れていたのはこの一年前ではなかったか。経営者はいまの事態をまるで予想していなかったのか。

昨日夜、関西の平和運動のネットワーク・関西共同共同の勉強会があり富山大教員の小倉利丸さんが現在の金融恐慌から脱出する道を模索する内容を話し70人が参加した。この危機こそライフスタイルの新たな創造を目指す文化革命というべき時代として消費型文明の極致であるグローバリズムから脱出する好機だと力説した。

小倉さんの講演で現実に世界で実施しているのは失業者対策だ。失業保険給付が4,5年間もある国があるというから、日本の「働かざるべきもの食うべからず」の追われた生活スタイルがいかに失業者を精神的に追い込んでいるかを痛感した。


4年、5年の保険給付の期間に大学に行って新たな技術も身に付けることもできるし、職業訓練所が充実しておればそこで技術もみにつけることができる。失業者が寒々とした世間の目線を受けるのはおかしい。そこから逆転していくには社会敵な受け皿が必要だろう。

その受け皿を築くには小倉さんが言うように文明感の大きな変革が必要だろう。そうでないと地球はもたない。資源は限りあるからだ。近代消費文明に支えられた資本主義はそろそろ限界にきていることをこの金融恐慌は示しているのではないか。
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ここらでいっぷく 師走はとかく気忙しい:川瀬俊治 

2008年12月11日 14時41分12秒 | Weblog
交差点で青なので車を左折して回ろうとすると、車の後ろを危うく信号無視した乗用車が通り過ぎた。当然ブレーキをかけた。危うく車後部が大破するところだった。

運転している人を見ると、どうも年配の方のようで、信号を見落としたようだ。車を道路わきによせながら止まる気配だったが、私が降りていって文句言ってもはじまらない。そのまま目的地へ。

しかし、赤信号を無視した車と衝突寸前というのは初めての経験だ。師走の気忙しさはなんともはや、かなわんのに、これで事故処理をしなくてはならないはめになれば気がめいる。免れただけましか。

その後は徒労というか無駄な労力を精一杯使うはめに。

コンピューターが壊れたのでその道の達人にお世話になり、5時間かけて修理をしていただい。いよいよ故障のコンピューターが復活する。ワクワク。

本体を家に持ち帰ったのはいいが、いくらやってもオンにならない。コンセントを入れたり、はずしたり。電源をもとから切ったりつなげたり。30分ほど悪戦苦闘した。仕方なく達人に電話を入れた。

「今日はありがとうございました。ところでスイッチが入りませんが」。

すると達人。「さっきまで、できたのだからできないはずはない」と冷たい返事。

さて、弱った。達人からも見放された。崖っぷち。するとたまたまのことだ。一生懸命に押している突起物下の別の突起物をなんの気なく押すと、電気がついた。つまりオンになりコンピューターが始動するではないか。なんともはや。押すところを間違っていた。ではさきほどまで押し続けていたスイッチに似たものは何なのか。ややこしい。8年前の製品だからか。

「押しがたらんのでは」とも達人に言われたので、5分ほど汗をかくほど力を入れて押していた私が恥ずかしい。もしコンピューターのことをよくを知る人が影から見ていたら、思わず大声で笑い出すだろう。なさけない。

この話におちがつく。オンになったコンピューターはある社会施設の払い下げ品。1000円で購入。ところがメールをするたびにその組織というか使い手だった人というか、その人の肩書きと名前が返信文にでる。メールは私のメールになっているのに、どうなっているのか。わからないことがおおすぎる。その人のメールもわかるから送ってみようか。まさか。びっくりするのでは。やめとこう。常識人ですから。

教訓! データーを完全に消去しないとだめ。元からたたなきゃダメ。


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編集局からの手紙「相似形」:川瀬俊治

2008年12月02日 00時04分52秒 | Weblog
2つのニュースに何の関連もない。1つ目のニュースは竹内まりやさんの歌のテーマがどこにでもあることを題材にしているという解説だった。2つ目のニュースでは、作家佐木隆三さんが「容疑者は別の世界の人とは思わず、われわれのまわりにいる普通の人だと思わねばならない」という趣旨の発言をしていた。

共通するのは「相似形」である。何気ない生活の中から音楽を創っていく。われわれと「相似形」のテーマなのだ。竹内さんの音楽だ。一方の「相似形」は悲劇を生んだ。でも、どうしてこうもあらわれる形が違うのか。竹内さんの音楽は聴く者を励ます、感動させる。一方は恐怖に陥れる。どうして対極の結果を生むのか。

しかし厚生省官僚の殺傷事件の容疑者は「相似形」でないのかもしれない。NHKニュースは「相似形」と解説したが、週刊誌は日本社会で排除しているグループ、団体と関連した情報を報じ始めている。「相似形」であるはずないと主張しているように思える。しかしそれでことが済むのだろうか。なぜ対極の「相似形」を生んだのか。このことこそ考えねばならない。

昨年評判になったジョック・ヤング『排除型社会』(洛北出版)では、「国民」の大多数に市民権を与える社会―包括型社会―から、排除が、労働、コミュニティー、犯罪予防に至るまで貫徹していく社会を論じた。それは犯罪被害に遭う境目がなくなる社会が登場することで、排除することで格差を求める社会が支配的になるからだという。今回の事件はジョック・ヤングが分析した排除が貫徹していく社会の扉を開いたような気がしてならない。
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12月1日はいろいろあったが無事すごす

2008年12月02日 00時04分25秒 | Weblog
 車を運転してサイドブレーキが甘く前の車に急接近してしまった。昼前のことだ。しかし車間距離を開けていたのがよかった。

 思わぬ人物から連絡を受けた。ところが携帯電話がこわれており通話が第一声だけ。仕方なく公衆電話に。それがなかなかない。

 修理に赴く暇がないというか、時間がない。壊れたままの携帯電話でいるわけにはゆかないのだが。当面使用しないといけない。こちらがかけていても途中で通話できなくなるのが困る。相手方に失礼をしてばかりになる。電池がないのではなく携帯電話本体が故障しているらしい。

 映画評を頼まれたが、これが弱ったことに。これから見るわけにもゆかない。時間もない。さてどうするか。〆切りまでわずか4日しかない。
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