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ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

2008年5月アクセス№1記事 小指の思い出ではなく、突き指の思い出

2011年05月31日 23時53分07秒 | Weblog
 久保田は最近たよりない。2ランホームランを打たれて万事休すだ。

油断をしていいたらいつの間にかぜーゲーム差は詰め寄られる。

野球が好きで中学時代は野球部に入っていたが、野球は好きだが練習が嫌いだから長く続かない。日曜日まで練習するし、雨のときは校舎の廊下を走るんだから、練習は半端じゃない。半年でケツを割って(退部の意味)しまった。

以降はバレーボール部。しかしこのバレー部、対外試合で一度も勝ったことがないのだから、徹底している。そのキャプテンをしていたのだから、たいしたもんだ。何がたしたもんなのかわからないが。

今年2月に中学時代の同窓会が京都であり、40年ぶりに旧友と会ったが、一人の女性節が少しはれて太くなった中指を立てて、「川瀬君、この指なぜ節が太くなっているか知っている」と尋ねられて、答えられるはずがない。「わかりません」。

すると彼女は「川瀬君のサーブがあたり突き指したんや。それがいまもこのとおり、節が太くなってしまい…」といたずらげにたたみかけた。「小指の思い出は色気あるが、突き指の思い出はなんともはや…」ということでオチを出してこの話は終ったが。

突き指の指を見て私を思い出すとは、何とも罪作りなことか。傲慢です。突き指をさした私は。そんなこととはつゆ知らず社会正義を振りかざして……。
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2009年5月アクセス№1記事 韓国映画チェイサー(追撃者)から考える映画の楽しみ方:川瀬俊治

2011年05月31日 23時49分17秒 | Weblog
韓国映画チェイサー(追撃者)が1日から公開されている。映画評論家西脇英夫さんが『キネマ旬報』最新号で映画評を載せている。これが私が書いた映画評http://blog.goo.ne.jp/kawase1947/e/9716aa54d94963a2246bf698639f38f7とは対照的な視点ともいえる。映画は本当に鑑賞者によりそれぞれ異なる点が面白い。

 私の映画評では、どうも形而上的視点から見た点が目立つ。それと韓国で見て、下敷きとなった実際の殺人事件について調べて書いた点が特徴。『月刊朝鮮』の記事ではいくらネットといえども公開できない犯人の個人的問題まで書かれていたことも知り、さらに韓国で出された単行本をさぐることまでして書いたものだ。ちなみにこの本は絶版で手に入らず国会図書館まで足を運び調べて書いた。

 さらに韓国社会が本当に死刑が廃止されているのかも視野に入れた。結論的に述べると、法制度上は死刑が廃止されてはいない。死刑を行政府が執行を認めないのだ。2007年大統領選挙では李明博候補は廃止に反対の立場であることも知った。

 そして、映画を韓国で再度観て、キーワードが神と救いであると確信して映画評を書いた。それが文頭で紹介した私の映画評だった。殺害される女性の子どもが映画後半出てくるが、その子がカギではないか。救いを希求する2人(主人公と女の子)のように感じてラストシーンを観た。その映画評が間違いであるかどうかは、個々人で感想があろう。

 西脇さんの映画評(「強靭な監督の演出にただただ感心する。韓国犯罪サスペンス映画の大傑作」)は多くの映画を観てこられた方だから書けるものといえよう。私の韓国語の実力のレベルの低さ知った。西脇さんの解説で主人公が最後まで犯人と思わず「デリヘル嬢専門の転売業者」と思い込んでいたとの解説で出会ったからだ。西脇さんの解説でやっとわかったというおそまつさだ。

西脇さんの評でわが意を得たりと思ったのは、金銭欲にかられて懸命に女を探す映画の基調が、逆に形而上的世界を描くことになったのだと感じたことだ。地獄を徹底して説くことで仏教の救いを説いたこと、イエスの罪の贖いは罪びとの自身の自覚を促すことで救いを説くキリスト教。これらの宗教的構図は現世の物質的世界の醜さを徹底して暴くことにある。物質的世界の執着を追い込むことは、逆に当人に自覚させることにある。映画の主人公の物欲はその導入として救いを描こうとしているのではないか。西脇さんの映画評で私の映画評の方向はそう間違いではなかったと思った。

映画の面白さは、個々人の世界観でいかようにも解釈できることだ。1つの解釈しかできない映画ほど面白くないものはない。人権啓発映画が面白くない理由はそこにある。多様な解釈が出来る人権啓発映画が出てくることを期待したいのだが。
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2010年5月アクセス№1記事 NHKニュースがはからずも露呈した沖縄の視点

2011年05月31日 23時40分27秒 | Weblog
 メデイア・ウオッチングのコーナになるかもしれないが、今日の夜9時からのNHKのニュース総合テレビを聞いてびっくりした(私はテレビは機能せずラジオに入るNHKニュースを聞く)。

 キャスターの男性が「基地問題解決で何が重要か」と、自らに課した設問で、1つは指導者のリーダーシップ、もう1つは国民が基地問題に関心をもつこと、をあげた。

 少し待ってほしい。なぜ沖縄が置かれてきた歴史、差別性をあげないのか。なぜ沖縄の問題を中心にして発想しないのか。担当キャスターが独自の視点を解説するのがNHK9時のニュースの売りらしいが、問題の核心をはずすような解説には驚いた。

 万事がそうだ。沖縄が置かれてきた二重性をとりあげようとしないのか。平和憲法の埒外におかれた米軍支配にあった本土復帰までの期間。本土の海兵隊基地反対から、「では沖縄へ」ではないが、結果的に沖縄に集中させてきた経緯。こうした沖縄が置かれてきた姿をまず基地問題解決の中心にすえねばならない。

最も影響力が大きいのがNHKのキャスターだろう。しかしおそまつすぎる。ほかのメディアも同様の視点で鳩山さんの後押しをすべきだった。

 4月25日の沖縄の県民集会の翌朝、『琉球新報』の1面コラムは「鳩山さんを応援したい」というニュアンスで結ぶコラムを書いた。ここにいたっても「県外移設」を主張し続けていたからだ。

 本土メディアにはない視点である。本土メディアには沖縄の視点が抜けている。これは言いすぎかもしれない。浮上ない。4日夜のNHKのニュースキャスターの解説を聞いて、思わずラジオに耳をあてた。「この視点でいいのか。ほんとうかよ」と。


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メディア・ウオッチング 誤報から学ぶこと

2011年05月31日 23時38分05秒 | Weblog
 東電の社長人事予測で1面頭を張った読売は完全な誤報を出してしまった。

▼訂正を1面で出したのはいいが、「ワンポイントでの社長登用の案もあった」と誤報の趣旨弁明がすっきりしなかった。2面でその趣旨の記事が載った。

 ▼ただ果敢に「抜き」で勝負することはいい。そうでないと新聞の力が衰える。石橋をたたいてニュース報道するのも大事だが、一か八かがないとダメだろう。ただその対象は一か八かしていい対象でないといけない。人事案件はその一か八かしていいものだ。

 ▼定例記者会見で急ごしらえの記者が派遣されると、記者クラブでは質問してはならないと空気が教える「おきて」を破るから、面白い記事が出る。福田元首相の辞任会見の時に気色ばんだ首相の答弁を引き出したのは助っ人記者だったと聞いた。そういうものなのだ。取材相手と「談合」してはならない。

 ▼最近は大手マスコミが書かないといけない記事を書かないから、わたしなどは怒りよりも、「じゃー、わたしが書こう」と動機が生まれる。大手マスコミの沈黙する分野を補うところがないと、ジャーナリズムは沈黙してしまう。まだそこまで日本の言論状況は枯渇していない。




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メディア・ウオッチング 誤報から学ぶこと:川瀬俊治 (05/31)
[ 2011/05/31 21:29 ] 川瀬俊治 | TB(-) | CM(-)

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日曜日新聞紙読書欄簡単レビュー

2011年05月11日 07時26分46秒 | Weblog
 日経の特集で佐藤卓己が評者で「震災とソーシャルメディア」としてまとめて書いている。

 阪神・淡路大震災から15年間の情報行動の変化をまとめたのが橋元良明『メディアと日本人』(岩波新書)だ。ウェブ上での利用は「たこ壷」的で若者の多くが「私生活中心主義」が広まっていることを説く。ツイッターの流行もその文脈から理解できるようだ。

 このネイテイブな状況は決して悲観的ではないとの観点から書いたのが、遠藤諭『ソーシャルネイティブの時代』(アスキー新書)だ。佐々木俊尚『キュレーションの時代』(ちくま新書)は「ひけらかしの記号消費はシンプルな機能消費に戻り、新たな社会との接続と承認を補強する「つながりう消費」が生まれている」と評者は佐々木の本をまとめている。ソーシャルメディアとしての役割を震災復興で明らかになるというのだ。私生活空間の充実はソーシャルな広がりを志向してこそ充実されるという傾向は普遍的なものに違いない。

 北村文『英語は女を救うのか』(筑摩書房、1575円)ー朝日ーは英語取得での教室などのコマーシャルメッセージからジェンダー格差を読みとり36人の女性にインタビューしたのがこの本だ。男性向けの広告と女性向け広告は異なる。実用性の男性に比較して女性は「欲望が抑圧の装置に転じてしまうような社会的矛盾が反映されている」と評者斉藤環はまとめている。



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日曜日新聞紙読書欄簡単レビュー

2011年05月09日 22時38分57秒 | Weblog
今週は地震と原発に関して読書欄で日経が紹介していた本など取り上げたい。

 音楽が持つ普遍性を象徴することばが「国境」を越える、である。しかしそれは単純にはいえない。よほど文化圏が重ならないと普遍的に流布することはない。たしかにアンデス先住民の音楽を口ずさむことはあるが、その前提として当該地域の文化流入がなんらかのかたちであった背景がある。小村公次『徹底検証・日本の軍歌』(学習の友社、2520円)ー朝日ーは、軍歌に焦点をあてた作品で、「戦争の時代と音楽」というサブタイトルがついている。劈頭からの視点を展開すれば、軍歌がいまも歌われるのは、文化的重層性をもつからだといえる。書評では(評者上丸洋一)、「軍歌の戦後」が主に紹介されている。紹介文が短いのでよくわからないところがあるが、私が知りたいのは、戦前の日本の旧植民地、占領地でいまも思い出し歌われる軍歌をこの書は論じているのかということだが、書評にはふれられていないから、実際に読まないとわからない。「南国土佐を後にして」が四国混声舞台の舞台歌だった紹介されている。右翼の軍歌をスピーカの音量いっぱいにして流す方法が70年代以降だという。今回初めて知った。

 朝日が読者参加の「よみたい古典」というコーナーを載せている。今回は「カラマーゾフの兄弟」(上)だ。それも「佐藤優さんと読む」とある。ただ紙面のスペースが少なすぎる。いま山城むつみ『ドストエフスキー』 を読んでいるところだから、注目した。読者の声がどれだけ届けられるのかがこの企画の生命線。読者参加の読書欄という発想はこれまでなかっただけに、面白いというか、新たな発想で切り開く新聞の活用の仕方を指し示すコーナーでもある。古典中の古典だと佐藤はいう。「複数だが、首尾一貫した、時代状況により別の読み方ができる」ものが古典と定義している。3・11以降の時代変化から、われわれは「カラマーゾフの兄弟」に新たな出会いがあるのか。

日経は「今を読み解く」で「地震と原発を巡る問題点」を特集している。滝順一編集委員がまとめているが、その方法論は歴史的解読だ。つまりいまの福島第1原発事故の問題点をさぐるには、過去の原発事故と地震の経験を分析することで鮮明化する。文章のわかいりやすさは、歴史性が中心に位置付けられているからだ。滝編集委員は2007年の中越沖地震であらわれた現象を中心に紹介する。まず当時の安倍首相がすぐさまヘリで現場に降り立ったことをあげる。政治的手法は政権交代しても同様だった。非難の声は同じように起きた。ここで滝編集委員が述べている「4年前に新潟で起きた「原発震災」の記録を改めて読むと、原発と地震を巡る様々な問題点がほぼ出尽くしていることがわかる」の指摘は重要だ。耐震性安全性チェックの甘さをまず指摘する。大きな地震の想定を専門家から指摘されながら、怠った。これは1977年の柏崎・刈羽1号機の耐震性審査にかかわる事例と30年後の2006年原子炉の安全指針見直しをめぐる地震学者の辞任という歴史的事実が重なることに戦慄さえ覚える。77年では活断層の最新知見が反映されていないことに対して抗議し辞任した地震学者松田時彦東大地震研究所助教授(当時)の事例、06年は石橋勝彦神戸大教授の改定内容を不満として辞任した事例だ。「安全審査に巣くう問題の根深さ」がそこにある。「怠る」のはなぜ生まれたか。電力会社、政府規制当局者、一部の学者が「原発推進の国策の下で結び合い、現状を追認する。しかもだれかが決定的な判断をくだすことは巧妙に避ける」(滝編集委員)とずばり指摘する。本の紹介は柏崎・刈羽原発の被災をレポートした新潟日報特別取材班『原発と地震』(講談社、2009年)は建設計画から事実を追っている。先に紹介した77年の辞任劇をこの書で知る。吉岡斉『原発と日本の未来』(岩波書店、2011年)では、もはや推進派、反対派2項対立の時代ではないと説き、脱原発も含め多様な価値観を反映した「第3の道」を示す書として紹介している。朝日新聞出版局が95年の旧著に福島第1原発事故の解説と図版を付け加えて『新版 原発のどこが危険か』を先ほど出した。非常用発電機の起動失敗で生じた全電源喪失について米ロ原発の事例を引いていたところに先見性をもつと紹介している。ジェームズ・R・チャイルズ『最悪の事故が起きるまで人は何をしていたのか』(草思社、2006年)は原子炉の安全性を考えるのに有用な指摘がある。人は何をしていたのか。わたしにかかわる重要な提起が本書にあるようだ。

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福留範昭さんを偲ぶ

2011年05月07日 23時25分14秒 | Weblog
強制動員真相究明ネットワークがニュース4号をだし、昨年5月5日に死去された前事務局長福留範昭さんの追悼文を掲載した。その中で「福留範昭さんはもうおられない。が、」と題して書いた文を転載します。


 「福留範昭さんはもうおられない。が、」                                      川瀬俊治(事務局員)

  悲劇はいつも突然やってくる。想像だにしていないからだ。強制動員真相究明ネットワーク事務局長福留範昭さんが5月5日未明、急性心不全で亡くなられたのもそうだ。とても信じられない。まだ60歳で、仕事に一番あぶらがのられていた。

 九州に行くと必ずお会いして話し込んだ。昨年6月、北九州で開かれた日韓の歴史研究交流でも下準備をされ、成功に導かれた。その仕事ぶりに、参加した私はそばから敬服して見ていた。韓国語がよくできて、うらやましい限りだった。10年間韓国で研究生活をされ韓国啓明大での日本語教員を務められた。崔吉城さんの『韓国のシャーマン』(国文社、1984年)を翻訳された韓国宗教研究のエキスパートでもあったが、そのことはおくびにも出されなかった。

 昨年10月の沖浦和光先生を中心として大学同教の研修で博多に行き、時間を惜しんで博多でお会いした。それが最後になる。昼食とコーヒーを飲み、「九州に来たんだから」とごちそうを供された。

研究者としての福留さんは知らない。ただ22、3年ほど前に解放出版社の仕事もあり広島修道大学を沖浦先生らと訪れたことがある。共同研究室に通されて江嶋修作さんにはお会いして、そのあと広島の三良坂に学生たちとごいっしょした。ちょうど、いまの時期だ。その時に福留さんがおられたかは定かではない。

研究者生活のあと広島での日韓の市民運動体の交流の要としても活躍された。私が知る解放運動のメンバーを知っておられ、親近感がいっそう増した。

 昨年、韓国の市民運動を紹介する『ろうそくデモを越えて 韓国社会はどこに行くのか』(東方出版)という本を文京洙立命館大学教授と企画し、福留さんから「韓国における過去の清算」という原稿をいただいた。共同執筆者として何度かメールや電話でやりとした。原稿は簡潔にまとめられ、文劈頭に文章全体をまとめる簡単な紹介文も福留さんに書いていただいた。この短い文は長らく韓国におられ、そして戦後補償問題に慧眼をおもちでないと草せない。何よりも韓国人の心を知らないと書けない一文だった。本当は編者が担当すべき文だったが、代行していただいて本当によかった。

今年8月に博多の花房さん宅で日本軍慰安婦問題取り組みの拡大全国会議があり私も参加した。会議が始まる前に小林さんらと福留さん宅にお悔やみに赴いた。急な坂道を登ると木々に囲まれたマンションがあり、その1室に福留さんの遺影がおかれていた。なぜか、この部屋は鳥たちの声がよく聞こえるのでは、という思いにとらわれた。緑深い木立に囲まれた住まいということだけで沸き上がった思いではなく、窓外から聞こえる鳥たちのさえずりが福留さんのあの少し上顎をあげはにかみながら笑う姿に重なったからだ。それは不遜でもなく自然に心を領した面影の再現だったと思う。

遺影は相当前の写真だと思ったが、4,5年前のものだと、妻の福留留美さんがおっしゃった。弔慰に訪れたメンバーは一様に驚いた。いや、そうではない。福留さんはそれだけ若くして逝かれたのだ。5月5日はなんという残酷な日だったのか。

灼熱の真夏の1日が、ここではウソのように別世界を形創っていた。さぞかし福留さんが気に入られ、終(つい)の住みかと考えられていただろうにと、あらためて無念さを感じざるをえなかった。

悲しみを越えることなど愛情く思う人ほど無理なことだと思う。しかし、その亡き人の生き方を、願い、思いを、自身の中に取り入れることができれば、少しは悲しみが癒される。親しいものとの、方々との別れを繰り返してきた私がたどり着いた心の諸相だ。しかし、もろもろの心の相は、ときとして悲しみに打ちひしがれることもあるし、酒量が増すこともある。しかし福留さんは確実に未来を見据えておられたから、凡夫のわれわれにはその思いをともに追走することができる。先達を追慕するだけではなく、歩を先に進めることが、いまとなってはわれわれがあたうかぎりできる福留さんへの最大のメッセージ
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