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ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

2006年回顧 「同和」行政と部落解放運動の反芻

2006年12月30日 21時25分18秒 | Weblog
最近読んだ本から始める、

韓国ジャーナリズムの検証本でもある李成柱『国家を騙した科学者』(牧野出版、2300円)だ。昨年12月に浮上した韓国のソウル大・ファン教授ES細胞事件を検証した作品でもある。

論文捏造の背景に韓国社会の歪みを描くのだが、本では「ES細胞事件に見られた閉鎖性、自大性、強烈な“愛国主義”は科学をねじ曲げる大きな要因となった」と語る。イギリスの哲学者のことば「政治や社会だけではなく科学の世界も、民主主義の枠の中でこそ機能する」が引用されている。

ここで注目するのはイギリスの哲学者のことばだ。民主主義の相互批判、検証が必須であることを改めて示してもいる。

実はこの視点は解放運動と「」行政でもいえるだろう。大阪市の飛鳥会事件、奈良市の休職職員給与問題についても同様だ。飛鳥会事件のK被告、懲戒免職になった奈良市職員にだけ焦点化するのは方向を誤らす。その脱法性という点での一般性の追求で問題は解決しないからである。

まず民主主義の達成度の問題として受け止めたい。そうしないと奈良市の問題を報じたテレビドキンンタリーのように「差別といわれたらもう何もいえない」という行政マンのコメントの時点で番組が終わり、そこからは単なる「横暴さ」を指摘することだけで終ってしまうからだ。これはメデイアの問題報道としては欠陥を露呈してしまう。現実の差別性を追認するからである。

何が差別性かというと、問題のタブー性を「何もいえない」ことの証言報道で追認しているからである。一方の逸脱性、つまり利権の指弾という報道の正義性を充足したとしても、批判を浴びるのはそこにある。

民主主義の相互批判、検証がなされることなく推移したーという点は、問題のタブー性を打ち破れなかったことを意味するし、それは差別を利用―利用される関係という、つまりは現実の差別実態を克服できなかったことを意味する。大阪、奈良の事例で共通することだ。

民主主義の達成度としての運動、「」行政を考えるなら、「事件がおきた。はい、施策は打ち切り」となるなら、便乗行政以外にない。そこには「」行政の人権推進施策のビジョンはどこにいったかと思わせる。それこそ恩恵としての「」行政をはからずも証明する。

差別問題の指摘の大きな原則は当事者の告発である。それは揺がぬ原点である。告発をまって気がつくことが多々ある。どんな差別問題でもそうだ。そこで指摘された側の性向として「沈黙してしまう」部分がある。ショックだからだ。しかし、ここでまた差別の芽が残るか、あるいは解き放たれていくかの分岐される地点を確実にクリアーせねばならない。

つまり、そこで立ち止まること=沈黙うることは、指摘された側が対話をやめることであり、旧来の「怖い」意識=差別意識を残存さし、また一方、沈黙に順じて運動の側が利益誘導的「政治的発言」化を展開するなら「解放の良き日」から遠ざかることになる。

差別を指摘する差別問題の原点をどう公論化するかーなのだ。それが「」行政の歴史ではなかったのか、運動での歩みではなかったのか。会話がそこで成立たないなら、運動も行政も弱さを抱え持つ。

運動は今後どう公論化さしていくか、公論化に壁になっていたものは何かーを最大の課題にすべきだ。創立から84年にしてなお「弱い」のである。公論化が。何よりも差別実態から出ていることを再認識させた「事件」なのだ。

公論化は両者が論議することでスタートするが、状況はそう単純ではない。往々にして強力なことばで沈黙を強いる。京都の職員の不祥事では「選考雇用」として行政と共有していた用語が、「優先雇用」という用語にすり変わっている。メディアで登場するこの言葉支配に運動の側は沈黙してはならないだろう。自らの言葉で反撃せねばならない。辞職を考えた運動専従のある職員は「いまの事態をたてなおすことの使命は何よりも重い」と励まされたて現職にとどまったという。その歴史的使命を運動はいまになっているのである。


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3人だけの忘年会

2006年12月29日 20時51分15秒 | Weblog
 毎回、例会の案内をいただいている勉強会でいつも欠席なので、「せめて忘年会だけでもでよう」と京都三条の会場まで行ったら、なんと参加者は私を入れて3人。10人は来られるだろうと思ったが、予想外。それも4人分の料理を3人でたいらげるから、会費は相当な額になった。

しかしマイナスがあればプラスありで、これまでつきあいがありながら解放運動の中心にいる彼とはさしで話す機会がなかったが、その日はじっくりと話し込めた。

またもう一人はメディア関係者で、新聞社の組織的なこともよくわかった。相当完成した組織で、だからこそ官僚的にもなるのか、と頷いた。定年後の処遇もいろいろレールが敷かれていることが改めてわかった。

社会的関係があまり変わらないーというのが日本の社会なのだ、ということなのだ。二世議員が国の政治を左右しているのもうなずける。さらにこういう「世系」が日本の差別をいまも存続させていることにも思い至る。

メデイア関係者は「私の社ではいまのメディアで吹いている解放運動バッシングは一切紙面で展開していない」と胸を張った。相当の自信だ。どうした報道か知りたい。

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機械音痴はなぜ生れるか

2006年12月28日 01時23分58秒 | Weblog
機械嫌いというのは、実は浪費を防いでいる。

ささやかな体験だが、パチンコはタマを一個一個入れる時代はよくやったが、フィーバーする方式になり一度も店に入ったことがない。

何か絵柄が並ぶといいそうだが、その機械的な処理が理解できない。一個一個入れるのではなく、コンピューター制御でスロット方式になり、機械嫌いだから、パチンコ台から遠ざかってしまった。

だからパチンコに限っては浪費はない。よくあんな難しいことをすると熱心な人を見ると感心してしまう。何時間もやって飽きないのだから驚異的な機械好きだ。

なぜ機械を敬遠するのか。生理的にあわないからだ。だからドンドン時代遅れになる。

機械とは分析的なものだ。分析して仕上げる。その分析的な方法が嫌いなのだ。全体をつかむことが性に合う。少々カッコいいが。

分析的で、なおかつ全体的なことができる人が優れているのだろうが、めったにお目にかからない。科学者にして芸術家ということになる。時代はこの両方を併せ持つ人を求めているようだが。
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勘違い

2006年12月24日 18時57分42秒 | Weblog
ある女性と待ち合わせをして資料をもらうことにした。

駐車場を待ち合わせ場所にしてしばらくすると、彼女があらわれた。3年ぶりお会いする。私は一見目を疑った。どうも懐妊されておられる様子だったからだ。

ただ彼女はすでに2人のこどもがおられる。すると下の子とは7歳くらい歳が離れることになる。いずれにしても、めでたいことだ。

思わず出た。

「おめでたですか」

すると少し気色ばんで、彼女は、

「いいえ」

これは失礼した。

どうもこの2、3年で太られたのを、勘違いした。

はやとちりはいけない。お腹が出ているから懐妊と結びつけるのはいかがなものか。師走で忙しいといいわけができるはずもない。それも体型のことを言うのはよくない。滅多にそうした発言はしないし、女性の気にする一番のことだと承知している。それがお腹の様子からベビーがいると勘違いしたのは、これは申し訳ないことだ。

彼女の広い心でその場はギスギスすることなかったのは、私の人徳? ゆえか。
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高潔であることー池田正枝さんの死

2006年12月23日 09時12分22秒 | Weblog
 植民地下の朝鮮で教員をし、教え子を「女子挺身隊」に送ったことの意味を問い続けた池田正枝さんが亡くなられた。突然の訃報にある女性は大粒の涙を流した。他人様の死がこれほど人の心を揺さぶるものなのか。

▼あるジャーナリストは孤独死であった彼女の情報を求め居住地である生駒市、親戚がおられる関西の地を探された。年末の業務がある多忙な一日をさき、彼女の最期をどうしても追わずにおれない何かがあったに違いない。

▼高潔とは、高く清いことだ。それは字義どおりのことだが、人をして高潔にするには、ある生き方の芯がにじみ出ることだ。それは徹底して弱者であること、貧しくあること、そしてもの言わぬ存在とともにあることーが三つの柱はいかなる高潔の人でも備える「徳」である。

▼晩年親しかったコラム子は、池田さんの虚弱であった少女時代、不遇であった男性との出会いーという、こども時代と大人の体験の双璧が、まるで宗教的体験のように感じてしまうのはどうしてか。

▼とりわけ後者の一端は著書『二つのウリナラ』に書かれている。出兵した兵士が留守家族の世話のため急いで「結婚」。無事帰還すると「もう用はない」と離縁されたことを指す。「こんな腹立たしいことを…」と質問を向けると、池田さんは「一つも憎んでいません。そのことが私の今の生き方を生み出してくれたのですから」と答えられた。

▼もの言わぬ存在とともにあることとは、死者とともにあることだ。沈黙する過去とともにあることだ。口癖のように、よく「もうじき死にます」と言われた。それはご自分の死のことだけではなく、「私は死者とともに生きている」という意味であった。またつぎつぎと過去の闇に消えていく歴史に話しかけることでもあった。

▼人は何によって生きるのか。無論パンではない。しかしパンは必要である。教員を50歳で辞した池田さんは最低限度の生活の糧で、なおかつあらゆる市民運動にカンパされ、そして市民運動に参加された。日本の植民地支配を正す「加害」の当事者としての証言、そして教え子への謝罪。これは池田さんにとっていの一番になさねばならなかったことだ。「」教育、障害児教育、野宿者支援運動、アムネスティー運動、韓国民主化運動支援…。

▼華やかな舞台にたつことなく、だからこそ弱者の立場を貫いた池田さん。今月8日に発見された死は、誰よりも強く知人らにその生き方を追慕されている。享年84。合掌


(ジャーナリスト・ネット掲載)
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池田正枝さんの訃報

2006年12月20日 17時41分22秒 | Weblog
 「電話が通じない」ということで、車を走らせ東生駒のアパートまで行った。4階に池田さんの自宅がある。一度部屋にあげていただいたことがあるが、西側の窓からは生駒山がまじかに見える。役の行者の修行の場が生駒山の歴史始祖となっている。渡来人である役の行者ーこの1点で、日本人は朝鮮からきたーという論者であった池田さんにはこの地がえらく気に入られていた。だから最後まで離れることはなかった。

 4階まであがると、池田さんの部屋にチャイムを何度鳴らしても応答はなかった。がらんとした室内の雰囲気に「引越しをされたのか」と瞬間思った。とにかく周辺の隣人に聞いてみたが、これが不在の部屋が多く、やっと在宅の方に出会い
尋ねた。

「池田さんはどうされていますか」

「なくなりました」

「えっ!」
 
 言葉を失った。近々お話を聞く予定だったことなどどうでもいい。次元が違う話に戸惑い、「え、え」と出るだけで次の言葉が出なかった。

 「1週間くらい前でしょうか。葬式も済まされ、親戚の方でしょうか、荷物を整理されていかれました」

 なんというあっさりしたことなのか。池田さんは誰にも迷惑をかけたくないーと常々言われており、病が重くても入院されようとしなかったのか。見舞いなどで迷惑をかけると思われたのか。

 わたしは11月末に新聞の切り抜きをいただいていた。そこには何もかかれていないので安心していた。安心というとうそである。いついもと変わりなく池田さんが資料を提供されるという思いであり、変化や心配をその郵便物からは感じることはなかった。

 それが12月に入り体調をこわされたのか、この1週間電話が「使われていません」という事態がおきてきた。知人は心配しだしたのだが、お一人で住む方だからそれに応じた連絡体制をとらねばならないだろう。全然共同性がない。なんの手をとることもなくきた。それが今回の事態に遭遇させた根本原因だ。

 「生者はいつも悔やむのは誠実にその相手に向き合うことができないからだ」。かってこのブログで書いたが、今回もその事実を繰り返してしまった。
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霜が下りた。

2006年12月19日 12時29分20秒 | Weblog
朝七時ごろ薬師寺東側道路をとおり天理に急いだが、田畑は霜が下り、朝餉の煙が周辺に立っていた。今の冬に入り冬景色らしい冬景色をはじめて見た。

 薬師寺東側のの通りは随分走らないので、変化する建物を多く発見した。薬師寺から離れたとことだがパチンコ屋さんが建っていた。コンサートホールを思わす建物で、パチンコ屋さんも随分雰囲気が変わった感じがした。

 しかし、道路事情はそう改善されない。車の台数が減らないから仕方がないのだが、七時前ならまだ混んでいない。早起きは三文の得ということか。

 朝は気がせいているから、自損も含め物損事故を二回した経験をもつ。だから相当慎重に運転することを心がけている。今日で2006年の大学の講義は終わり。ヤレヤレ。
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「オーマイニュース」日本版の苦闘

2006年12月18日 14時30分45秒 | Weblog

17日の朝日新聞で「オーマイニュース」日本版の苦闘が伝えられていた。アクセス数の低下、市民記者の登録数の鈍化、記事出稿量の低下―などだ。

▼資本の側は2年は引き上げないだろうが、このままでは「商売」にはならない。だから予想される局面は簡単なものではない。

▼だいたい開始から4か月もたたないのにこんなことが起きるとはーとは思うが、しかし当初から織り込み済みではないか。ネットの匿名性と対決する心意気に賛辞を送るが、それにしても厳しい現実である。

▼開始前に知り合いのスタッフに電話をしたことがある。私は「絶対にメジャーメディアが追いかける特ダネを出さないとダメでしょう」と言ったが、彼も頷いていた。

▼ネットであろうと、紙、電波であろうと、ジャーナリズムである限りは特ダネがないとダメ。当ネットはささやかなのはだしたが、「これ!」というのは出していないが、「オーマイニュース」日本版にとっては死活問題だ。

▼そのための周辺環境作りは記者クラブという情報の寡占状態に風穴をあけられるかである。記者クラブによる排除システムの解体が「オーマイニュース」日本版が中心になりできるか。それはネットを読む民意の後押しがないと前にすすめない。

▼情報の中心から排除する「ギルド」を解体がないと、日本の情報の寡占化は止まないのだが、ネットも実は大手紙が充実する方向だから、とてもいくらヤフーが推進する「オーマイニュース」日本版といえども将来的には、質、良ともかなわないことになる。アメリカでは新聞社のネットが充実しているから、それを大手紙は指向するだろう。

▼情報の寡占化にどうチャレンジするかー。規模、資本力ともかなわないが、同じ目標をネットジャーナリズムはもつ。またぞろ寡占状態がふくらんだのではかなわない。新聞社系列の放送局、そしてネット新聞ーこれでは民主主義の生命線である意見の多様化は機能するはずない。

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「改正教育基本法」で露出するもの

2006年12月17日 09時17分24秒 | Weblog
巷の雑噺。「安倍さん、頼りないで」「あんまり、もたんのと違う」―。週刊誌もそのおぼつかなさを書き立てる。一方で「小泉さんとは違うで。再チャレンジなど打ち出しているから、格差社会是正は、やらはるで」。


▼後者の方は効果がまだ出ていない。格差社会はドンドン大きくなる。我が懐具合をのぞいてもわかる。問題は前者だ。「頼りない」と言っても、ドンドン法律は通っていくではないか。立法府の仕事は法律をつくることだから、別に驚くことはないが、安倍さんにとっては念願の「改正教育基本法」が15日参議院をとうとう通過した。

▼ぶちあけた話、この教育基本法「改訂」は日教組つぶしという話があっが、それは悲願として掲げた岸信介(1896-1987)元首相時代の話であり、日教組が今回反対闘争で効果が出たとは思えない。それよりは憲法を変える外堀を埋め、一番本丸に近い堀の水を抜いたと言えるだろう。

▼教育の憲法といわれるこの法律が簡単に変えられるわけではなく、立憲主義が教育現場で根付く役割を担ってきた。立憲主義とは個人が憲法を通じて国家に向き合うもので、そこには国家が個人を支配したり、党派が個人の思想を強制したりする弊害を除去してきた。憲法でもって個人は立つということだろう。

▼教育の場では何よりも戦前の国家支配の歴史的反省がある。だから歯止めをかける役目を負ったのが教育基本法であったが、今回の「改正教育基本法」は愛国心がうたわれ、個人よりも公が重んじられる。立憲主義のかたちが変わるかけだ。さらに必要な法令で実施されるととく(第18条)。

▼「必要な法令」で定めるとする規定がどれだけの弾圧を生んできたか、われわれはよく知っている。明治憲法下では言論の自由について別の法律で定める制限を設けた。それが1925年施行の治安維持法である。憲法規定は細かい細目は決めてはならないーというのが先進諸国の憲法の基本らしい。細かい規定は自由を狭めるからだ。教育の憲法である今回の法律がその原則を破った。改訂前の教育基本法ではなかったものだ。

▼われわれは法治国家に住んでいる。代議制民主主義のもと、こう易々と外堀を埋められ教育の憲法まで変えられる状況に、法律を作られたものに唯々諾々とするあり方から変える生き方を模索せねばならない。あまりにも受け身すぎ、あまりにも既得権益層に差配される社会でありすぎた。そのツケがいま起きている本丸落城のシナリオなら、あまりにも寂しいではないか。はたして攻勢に転じることができるのか。(ジャーナリスト・ネット コラム から)

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韓国言論の現在ー「新聞法」とは

2006年12月16日 09時09分34秒 | Weblog
韓国言論改革運動と「新聞法」     

はじめに


「韓国のメディアから何を思い浮べられますか?」と問われれば、多分、日本とは比べものにならないほどインターネット・メディアが社会的影響力をもつことと、もうひとつは盧武鉉(ノムヒョン)大統領と有力新聞との対立ではないだろうか。前者は盧武鉉政権誕生(二〇〇二年)に大きな影響を与えたことでも、「韓国のネット・メディア恐るべし」と世界に知らしめた。後者は日本の政治状況からは考えられないから、逆に強烈な印象を受ける。日本の首相が朝・毎・読の各紙を真っ正面から批判し、裁判までおこそうとするなど想像すらできない。
こうした韓国のメディア環境の突出性、つまり世界でも有数のインターネット・メデイアの発達と、大統領の言論批判のもとをたどっていくと、軍事独裁政権時代のメデイアの「負の遺産」が克服されているのかーという韓国がかかえる民主主義の課題にたどり着く。その答えは、なぜ日本にはない言論法「新聞法」(正式名「新聞などの自由と機能保障に関する法律」)が二〇〇五年七月に施行されるようになったのか、さらにさかのぼって一九八七年の「六月民主抗争」以降誕生した言論改革運動がなぜ展開されてきたかーの二つの問いを解明する作業が求められる。以下、提起したこの二つに答えたい。なお「新聞法」ならびに同時に施行された「言論仲裁法」(本稿ではふれず)が違憲の疑いがあるとして「朝鮮日報」「東亜日報」二大紙が憲法裁判所に訴え、今年六月二九日、一部違憲ながら大半を合憲の判決を下している。

 一 言論改革の課題を追う

その1 門閥支配


改めて問うが、民主主義の課題は何だろうか。現代的な福利概念である何人も基本的人権を有し、幸福を追求し相互に尊重し合う社会の実現を目指すことにある。これは韓国、日本とも同様である。しかし背負っている歴史的条件が違うから、当然課題は違う。その一つとしてメディアの問題が韓国では大きいのである。それは韓国語を直訳すると、言論社、つまり新聞社の問題が一つある。メディア政治といわれる現代だからなおさらのことだ。
では言論改革でどうしたことが課題になってきたのか。大きく四つに分けて以下説明する。一つは有力新聞で門閥(オ-ナー)が強大で、編集権を左右してきたことだ。今回「新聞法」が国会で審議される中で「新聞社の所有持ち分分散」案が市民運動体・言論改革市民連帯などから出されたのは、門閥支配を是正しないと報道の公共性を貫けないとする危機感が強かったからだ。言論改革市民連帯案では株式などの三〇パーセント所有制限を打ち出した。
ちなみに門閥一族の株式保有率は詳しくわからないが、「朝鮮日報」「東亜日報」とも門閥の力は絶大である。以下のようなエピソードはその姿を鮮明化する。九二年の大統領選挙のことだ。金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)、鄭周泳(チョン・ジュヨン)の三候補者が立った。この時に最も熱心に金泳三候補を応援したのは「朝鮮日報」で、鄭周泳(チョン・ジュヨン)候補は、「朝鮮日報」の取材を一切拒否、不買運動を始めたほどだ。金泳三候補が当選するが、当選後初めて会った人物が「朝鮮日報」の方一栄(パン・イリョン)会長であった。方会長は金泳三夫妻を私邸に招き晩餐をともにした。最高権力者を私邸に招請することは何よりも新聞権力の誇示でもある。部下は大統領まで自宅に呼ぶ方会長にどうして逆らえるだろうか。当然人事にも影響を及ぼす。

その2 -「世論の寡独占」

さらなる課題は論調が類似する保守系新聞三紙の全国紙占有率の高さである。「朝鮮日報」東亜日報」「中央日報」三紙が総計で全国紙の約七〇パーセントほど占める。これを「世論の寡独占」と呼ぶ。もっと多様な言論を保障しないと、民主主義確立のためにはよくないーというのが言論改革運動の主張の根幹にある。韓国民衆が保守系新聞を支持して購読しているのだから何の問題はないということにもなるが、この「世論の寡独占」がなぜ問題なのか、新聞の軍事政権下からの歩みをみないと、言論改革運動の主張を見誤る。その歴史はのちほど述べる。
「世論の寡独占」についてもう少し述べる。韓国広告主協会が二〇〇一年三月に発表した調査では、「朝鮮日報」東亜日報」「中央日報」三紙の市場占有率はそれぞれ二八・〇、二〇・六、二七・〇の各パーセントで、七五・六パーセントになる(キム・スンス『国民のための言論改革』〈二〇〇二年、世界社〉二四一ページ)。八八年に民主化運動で誕生した「ハンギョレ」(創刊当時は「ハンギョレ新聞」)は三・二、「京畿新聞」は四・〇パーセントだから、世論に対する影響力は比べものにならないことになる。また純利益もそれぞれ「朝鮮」「東亜」「中央」は、四二八億ウオン、一〇五億ウオン、六六億ウオンと巨大で、八八年に「ハンギョレ」の七億ウオンとは比較にならない(キム・スンス前掲書一四六ページ)。なお、韓国の新聞三紙の全国紙占有率は日本の四六パーセント、イギリス四四パーセント、ドイツ二四パーセントと比べても群を抜いている(「ハンギョレ」二〇〇一年七月一〇日)。これが大統領選挙などで特定保守候補を支持するのであるから、影響力は計り知れないのだ。


その3 新聞社間の熾烈な販売競争対策

もう一つの課題は新聞社間の熾烈な販売競争の是正と財閥経営の新聞の批判である。九六年、「中央日報」売店主が競争相手の「朝鮮日報」社員を殺害する事件がおき、批判の矢面に立った「中央日報」は厳しく指弾する「東亜日報」「朝鮮日報」の門閥支配の不正を暴くと予告、泥沼化の様相を呈した。「新聞戦争」と呼ばれたこの事態は、最終的には「朝鮮日報」の方一栄顧問、三星グループの李健熙(イ・ゴンヒ)会長が会談し批判合戦に終止符が打たれた。「中央日報」は三星グループ経営で、「東亜日報」「朝鮮日報」を「門閥新聞」と言われたのに対して、「財閥新聞」(九九年に三星から独立する)と呼ばれたが、醜い「新聞戦争」を引き起こした「門閥新聞」、「財閥新聞」の横暴さを批判する言論改革運動が一気に高まったのである。この「新聞戦争」を契機にして盧泰愚(ノ・テウ)政権時代の八七年一一月施行の言論法「定刊法」((「定期刊行物の登録などに関する法律」)改定運動がおきる。

その4 新聞産業の振興策

最後の課題は新聞産業の危機と関連している。新聞離れは日韓とも同じであり、とりわけインターネットの普及はその現象を加速した。新聞の衰退は「言論の自由」の衰退でもある。総合的に物事を見て判断する材料を日々提供するメディアは新聞をおいてない。二〇〇三年からメディア環境の変化を視野に入れ、これまでの「定刊法」改正運動の枠をこえて新聞振興法体制に性格を変え始める。言論改革運動を引っ張ってきた全国言論労組と市民言論運動体の連帯組織・言論改革市民連帯が新聞振興法制定などを盛り込んだ「二〇〇四年第一七代総選挙公約化のための言論改革一〇大課題」を発表し「言論革のための総選挙闘争」を宣言した。

二 韓国言論の現状を見る

その1 軍事独裁時代

では、これら課題がなぜ生まれてきたのか。新聞産業の危機という点ではネット・メディアの急成長という背景をすでにあげたので、残る三つの課題について論及する。門閥支配と「世論の寡独占」は、厳密に言うと、日本の植民地支配下での門閥の足跡まで検証する必要があるが、とりあえず解放(四五年八月一五日)後に焦点を絞る。何よりも軍事独裁政権の時期に三新聞社が成長を遂げたことを抜きにしては考えられない。朴正熙(パク・チョンフィ)、全斗煥(チョン・ドファン)軍事独裁権は新聞に対する事前検閲・統制、新聞発行・廃刊、翼賛報道の強要など言論弾圧を課したが、この翼賛報道の代償ということなのか、様々な特権を受けたのが実は新聞社であった。低金利融資、低金利借款などだ。とりわけ全斗煥時代の新聞社収益増は顕著で、八〇年から八八年の売り上げ率は「朝鮮日報」は実に五七〇パーセント、「中央日報」四八〇パーセント、「東亜日報」三三〇パーセントの伸び率を記録している(玄武岩(ヒョン・ムアン)『韓国のデジタルデモクラシー』〈集英社新書、二〇〇五年〉から)。さらに先に見た金泳三政権下での「権言癒着」(権力と言論の癒着)は忠臣する言論人を指して「金泳三奨学生」と揶揄されたように文民政権に入っても継続した。「言論の自由」を脅かすこの「権言癒着」をどう克服するかは、言論改革運動の課題であり続けた。

その2 「6月民主抗争」と既存言論

八七年六月民主抗争は民主陣営が軍事政権全斗煥政権の継続を阻止した民主主義革命と言っていい。だから既成メディアも少なからず影響を受けたはずだ。しかし軍部勢力の退場にもかかわらず同じく後退はしなかった。その理由は三つある。「言論の自由」を実現する言論の本来的機能が高められたから、軍部後退はむしろ歓迎すべきことであったことだ。このことが民主主義革命の変化を受容する、あるいは積極的に担う役目を負った。二つ目は軍部という重石がとれたことで、「第四の権力」であるマスコミが全面に出ることができた。三点目は代替メディアがまだ成長していなかったことだ。その代替メディアが政権を動かすまでにはインターネット・メディア(「オーマイニュース」など)が一夜のうちに盧武鉉当選に導いた二〇〇二年まで待たねばならない。

その3 「選出されない権力」とは

「軍事独裁時代には軍部と結託した言論に対して叫ばれたのは言論の自由であった。しかし八七年『六月闘争』後、新聞社が制御できない権力機関として登場したことで、〈言論の自由〉よりその〈改革〉が叫ばれるようになった」
 
 こう書いたのは言論メディアの専門紙「メディアの今日」の代表(当時)南(ナム)ヨンジンだ(『朝鮮半島の平和と人権』二〇〇二年所収論文から)。皮肉にも「六月民主抗争」後に、以前とは比較にならない「新聞権力」が登場するのである。新聞の現状を嘆いた言論人チョン・ギヨンはこう書いている。「政治権力は五年の任期があり、財閥は社会的変化期で反省、謝罪の声明書を出さねばならなかったが、第三の権力である言論は過った過去を反省し清算することもなく任期もない」(コラム集『直言』二〇〇〇年)。「選出されない長期執権」と呼ばれたりした。
既存メディアは「六月民主抗争」後、言論労組の相次ぐ結成を好ましいとはみなかった。〈偏向報道は政治権力が元凶〉とした言論労働者がここで評価の変更を迫られることになる。また八七年の大統領選挙では盧泰愚、金大中、金泳三、金鐘泌(キム・ジョンピル)の四人が立候補したが、「一盧三金」といわれる報道で民主陣営候補を埋没させ焦点化を避けたことも、言論改革運動が必要性を痛感させた。全斗煥大統領が後継とした盧泰愚候補を「民主人士」と持ち上げたのは既存メディアであり、大統領選挙すら左右する力をもつようになる。これまでの「権言癒着」の権力主導―言論追従型ではなく、言論主導-権力追従型の変化がおきていた。その実例はすでに九二年大統領選挙後のエピーソードで紹介した。こうした「六月民主抗争」以降の動きは門閥支配、「世論の寡独占」を解消する方向に進んだとは言えない。

その4 「冷戦言論」の動向

もう一つ、「世論の寡独占」に関連して重要なテーマ・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との関係を論じる必要がある。北朝鮮の対立を煽ることで「冷戦言論」とか、「安保商業主義」とか言われているが、国政を左右する大統領選挙、総選挙ではかま首をもたげた。▼九二年大統領選挙=金大中候補が在野勢力と政治連合で合意したことに民自党と国家安全企画部(当時)が「金日成(キム・イルソン)が当選できるよう支持」とする「金日成指令説」を流し、言論が追従、金泳三大統領誕生に追い風ともなったといわれる。金日成指令はでっち上げであった▼九六年総選挙=「北韓軍が非武装地帯で四〇日間武装示威を強行」のニュースを大々的に報道、戦争の可能性を憂慮する見方も報じて党側が選挙で有利となったーなどで、既存メディアの紙面が踊った。
しかし、「冷戦言論」は民族間の対立をあおる意味で〈反民族的〉であり、また危機意識をかりたて世論形成して主権者の判断を差配する意味で〈反民主的〉である。これらの言論が言論改革運動のテーマになってきたことは当然だろう。九七年と二〇〇二年の大統領選挙でなぜ韓国で発行部数一位から三位まで占める「朝鮮日報」「東亜日報」「中央日報」がこぞって金大中、盧武鉉候補(当時)の対立候補を推す報道を展開したかは、北朝鮮に融和的な両候補に「ノー」を突きつけたからに他ならない。「冷戦言論」と「融和統一言論」対立は北朝鮮の核実験強行後も韓国言論の根本的対立として継続している。

四 「定刊法」から「新聞法」へ

その1 言論改革運動の法律制定運動

言論改革運動は八七年以降の労組結成の中で始まり、九六年の「新聞戦争」を契機に「定刊法」改定の立法運動へと進む。単なる改訂ではなく「言論独占禁止法」(言論が独占する世論形成の禁止を求める性格を有する法律)の必要性が提起されるようになる。九六年一一月、民弁(民主社会のための弁護士の会)は国会に「定刊法」改定立法請願を行った(結果は審議未了で廃案)。請願案は財閥新聞社の全面禁止と、社主などの所有持ち分三〇パーセント制限、主要株主持ち分の現況と経営資料の公開などで、「新聞法」制定の流れを作ったものだ。「民弁」請願書は「八七年民主化でわが言論が見せたのは過去に対する痛烈な反省ではなかった。(略)自己主義と扇情的な産業主義で急に駆け上がり、私的利害を追求する言論の支配により公共性、客観性を追求するより言論のもつ利害だけを求める私的機関に転落している」(イ・チェグ「京畿新聞」政治部次長「立法から憲法裁判まで」〈『新聞と放送』二〇〇六年五月号〉から)と告発している。

その2  韓国憲法第二一条三項

現行憲法は盧泰愚(ノテウ)政権誕生を生んだものだ。第六共和国憲法とも言われる。この中の「言論の自由」の保障規定の下位法が「新聞法」である。日本国憲法での「言論の自由」規定は第二一条一項で集会、結社、言論、出版などの表現の自由の保障をうたい、二項で検閲の禁止と通信の秘密を犯してはならないとしている。なぜ二項があるかは、検閲や通信の秘密を犯すことが「言論の自由」を根本から破壊するからだ。韓国憲法では第二一条で日本国憲法と同様に言論、出版の自由をうたい、二項で検閲などの禁止をあげる。さらに言論施策に関するものがある。三項「通信及び放送の施設基準並びに新聞の機能を保障するために必要な事項は、法律で定める」とする部分だ。この点こそ「新聞法」施行の法的根拠である。日本国憲法に見られない特徴である。
朴政権時代の憲法第一八二項は「新聞・通信の発行施設基準は法律で定める」とあり、これと比較すればその性格が鮮明化する。「維新憲法」(七二年)前の朴政権では、この二項により権力の差配で新聞・雑誌などの改廃を決めた。言論弾圧に直結した。このことと比較すれば、三項は前項の「言論の自由」規定を受けての新聞の機能保障を意味しているととらえられる。

その3 所有規制は盛り込まれず

では、なぜ「定刊法」から「新聞法」に移行せねばならなかったのか。「定刊法」は、実は朴政権時代の言論法の一部条項が残るものなのだ。定期刊行物発効後の献本義務、休・廃止の申告、さらに発行停止命令が政府長官に与えられている点などがそれである。さらには第二条一一項では「編集人は発行人が選任するもの」と規定されている。なお国家管理の特徴をもつと同時に、編集人選任で発行人(オーナー)差配を認めていることになる。これでは編集権独立は保障されない。法改定をめぐり過去三回国会に請願されたが実ることはなかった。しかし盧武鉉政権の二〇〇四年総選挙で言論改革運動が推す与党ヨリンウリ党が勝利し、「定刊法」に代わる「新聞法」制定が政治課題として現実化したのだ。
国会での議論はヨリンウリ党、ハンナラ党、民主労働党、言論改革市民連盟がそれぞれ法案を提出し、五回の討論会に及んだ。最終案はヨリンウリ党、ハナンラ党両党が歩み寄り二〇〇五年一月深夜、「新聞法」は国家を通過した。しかし法案の中身は編集権の独立を獲得するための「新聞社所有持ち分分散」規定(所有規制)は、与野党合意の中で削られる。理由はハンナラ党と、「朝鮮」「東亜」「中央」三紙との摩擦を避けるためだった。また編集委員会の編集規約や読者権益委員会設置は「義務」条項ではなく「勧告」条項に格下げされた。
所有規制の問題は財閥系新聞の場合、所有した新聞の売却、分離することで形式的には解決する。「定刊法」で大企業の所有規制があることから「京畿新聞」「文化日報」「中央日報」は所有した財閥から分離された。問題は「定刊法」に規定されない門閥経営なのだ。「新聞法」に盛り込まれなかった点について「長年にわたり軍部独裁と結託して社勢拡大をはかってきた新聞に対して、編集権掌握を改革する課題に新聞法はまったく手をつけることができなかった」(孫錫春「盧武鉉政権と言論改革」二〇〇六年、邦訳刊行予定)という批判を生む。

その4 憲法裁判所判決はどうか


二〇〇五年七月の「新聞法」施行を前にして「朝鮮日報」「東亜日報」から憲法裁判所に違憲の訴えが出されたのが二〇〇五年下半期である。「言論仲裁法」との二つの法律計七七条項に対して実に三四条項の違憲審査を求められた。今年六月二九日の憲法裁判所判断が下ったが、注目されたのは第一七条。一新聞社のマーケットーシェアが 三〇パーセント、三社の占有率が六〇パーセントをこえると「市場支配的事業者」とされ、該当者には新聞発展基金の対象からはずすとした条項(第三四条二項二号)は違憲判断を示した。発行部数だけで市場占有率を決めていることなどから違憲としたものだが、市場規制を不当とみる文は見あたらない。この点をや判決をどう考えればいいおかについては近刊の『ジャーナリズムはいま』(みずのわ出版)詳しく論じているので参照していただきたい。判決では「新聞は本質的に自由でなければならないが、その自由に相応した公的責任を担う」とうたい、新聞の社会的責任の覚醒を促してもいる。その他「編集の自由と独立」「新聞の社会的責任」「新聞の公正性・公益性」「経営データーの申告・公開」「新聞発展基金設置・助成・管理・運営」「新聞流通院の設立」などは合憲とされた。
この間、「新聞法」制定をめぐり賛否両論がたたわされたが、「言論の自由」をめぐる社会的責任の問題、言葉を変えればメディアの公共性をめぐる論議であった。メディア市場の自由が言論の自由と必ずしも同一ではないことはいうまでもないが、今後のあり様として発行部数の減少など苦境に立つ新聞産業の現状からしても「消耗的な論争より新聞の自由と韓国新聞市場の活性化につながる改正法案作りに新聞界すべてが知恵を絞るべき」(金京煥(キム・キョンハン)―『新聞研究』662号)時にきていることはたしかだろう。
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文学的立場と「ハングルの守護者」

2006年12月15日 15時55分31秒 | Weblog
古野喜政さんの出版記念会が14日夜大阪で開かれたたが、200人を越える参加者で大盛況であった。開始は午後6時半からで、それまで大忙しだったのが、私のドタバタであった。

金里博さんが「ハングルの守護者」を韓国のハングル学会から受けられるので、韓国のメディアになんとか紹介してもらいたいと思い、各紙文化部記者のメールを探すのが大変で、なんとか8紙ほどリストアップしたが、写し間違いがあり、また奈良県立図書館と国会図書館関西分館へ。

文字はきれいに書くことーこれが教訓だ。さてどれだけ取材されるかは全く未定。日本のメディアも連絡したが、これもどうなることか。しかし私の「広報」活動でこの受賞ほど、政治的色合いがない話題はない。産経新聞であろうと、朝日であろうと、民団新聞であろうと関係ない。

このメディア横断的なテーマはそれだけ人間としての「透明感」をそなえたテーマといえるだろう。「透明感」とは、現実から一歩頭を出したテーマということなのか。するとイデア主義に陥ることになるが、そうではなく共通の人間の願いがこの守護者認定にあるからだろう。下からの営みで言葉の錬成をなすというイデア主義ではない点に特徴を見いだせる。言葉によるより高みを目指したという面では背後にドロドロした葛藤を克服する強烈な指向性をもちながら、一方では政治的、イデオロギー的世界から無縁であるという面で一つの文学的営みなのだ。

そういう意味では俗に言う左右を問わずメディアにアタックできるというのは1つの文学的立場がすでに現れているのであろう。

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「ブログかわやん」は今日で一年目

2006年12月14日 13時51分32秒 | Weblog
「ブログかわやん」を始めて今日でまる1年になる。320本の記事を書いたから、1か月は休んだ勘定で、あとはほぼ毎日という感じであるから、かなり勤勉な方だ。

原則としていることは、自身も他人もプライバシーに関わることは書かない。実名で他人様のことは載せてはいない。ただかなりデープな私の自己切開は10か月まえの文でも読まれる方がいるのは、ブログに期待されているのが、個人的な深い考察であることがわかる。

ブロクでは異質なのは、堅い記事だが、これは初めから期待されていないということなのか。ところが問題について書くと1日300件近いアクセスがあったことがあるから、深めねばならない社会問題は何かがわかるような気がする。

もう一つは実名とか場所が特定されるようには書かないことだ。それが礼儀だろう。特定されても問題が無いときにはそういう加減はしないから、かき分けているということか。

内容の件だが、難しい論を展開して「おもしろい」と反応があったことはない。もっと突き抜けるほど進めば興味を示す人もいるだろうが。いまは中途半端ということか。

「おもしろい」という反応があるのは、肩のこらないものに集中する。興味深いことだ。最近の犬の話や、妖艶な女性の話も、すべて事実である。これがフィクションで書ければ、私はとっくに小説家になっているだろう。

外国でも書ける方法を教えてもらって書いたこともあるが、ネットカフェに立ち寄る暇がない。またなかなか日本語で打てないのはひたすらコンピューターの私の技量不足による。

 1つの私的空間がブログなのだが、それも限界がある。ただ観察力は1年前より増した。何か書こう常日頃考えているからだ。今日も面白いことないかなあー。新聞記者を始めた頃が甦るのがなんとも楽しい。
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「ミスタードーナツどこ行ったんや」

2006年12月13日 22時52分51秒 | Weblog
貴重な講演会で熱心に講師の話を聞いていたら、携帯がブルブルとふるえ、ほぅっておいたら留守電にメッセージが入っていた。

「ちょっと電話ちょうだい」

かなりドスの入った伝言の声である。

講演が終わると、「これはまずいことでも…」と思い、会場ロビーで携帯を鳴らすとー

「買ってきたミスタードーナス5個のうち3個がない。さっきから探している。知らん」

困ったもんだ。

「私が食べました」

「それならいい。どこへ行ったっかと探し回っていたんよ」

食べるものが見つからないと、人間は一番いらだつらしい。かくいう私も同輩だが、しかしドーナツくらいで探し回るとは。「…くらいで」というのは、実は差別発言ではなく、軽視発言。ものを軽んじるということは、いずれにしても良くないということか。
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3年がかりの企画は実現するか

2006年12月13日 12時09分40秒 | Weblog
来年春から相当ふんどしを引き締めないといけない経済状態になるが、意外とあせらないのは生来ののんき症からか。自身を厳しい状況におくほうがいいだろう。また出版界も悠長な状況ではない。

 韓国で著名なジャーナリスト孫錫春さんの小説作品の刊行は2004年から企画して3年目に突入するが、翻訳者の熱意から2007年中は実現できるようにしたい。しかし、小説はなかなか出せないものだ。出版社はどうも敬遠しがちだ。

 とりわけ韓国の小説で刊行して売れたのは「冬のソナタ」、そして今度文庫本にもなる「ホジュン」くらいか。「猟奇的な彼女」もそうか。

 なんとか刊行したいのだが、さてどうなるか。

 うまく行くのはよく知られている人の関係の本で、無名であることは壁がある。どう突破できるかは、そういう心意気のある出版社との出会いしかないようだ。そういう意味では「賭け」的要素が強い。
 
 
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ささやかな贅沢

2006年12月11日 14時45分20秒 | Weblog
 週に一度だけの贅沢。それもささやかなもの。

 というのは月曜日は大学の授業の日で、午後1時から始まるまで、午前9時からの授業を終えて2時間ほどあり、車で移動の間、大和郡山のショッピングモール内で寿司を食べる。それがささやかな私にとっての贅沢なのだ。

 回転寿司の店だが、「活たこ」300円、「生カツオ」480円、「赤貝」260円ーと少し高いが、これが旨い。だいたい1200円以内でおさめるが、これが週一回の私の贅沢と定番化してきた。

 少しお金をだせば旨いものにありつけるとは、世の常識だが、ところが、あとは素食で間に合わすのもこれも定番である。

 思うように稼げないものだから、このささやかな贅沢も先細りの感が否めない。さてどうなっていくか。
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