韓国言論改革運動と「新聞法」
はじめに
「韓国のメディアから何を思い浮べられますか?」と問われれば、多分、日本とは比べものにならないほどインターネット・メディアが社会的影響力をもつことと、もうひとつは盧武鉉(ノムヒョン)大統領と有力新聞との対立ではないだろうか。前者は盧武鉉政権誕生(二〇〇二年)に大きな影響を与えたことでも、「韓国のネット・メディア恐るべし」と世界に知らしめた。後者は日本の政治状況からは考えられないから、逆に強烈な印象を受ける。日本の首相が朝・毎・読の各紙を真っ正面から批判し、裁判までおこそうとするなど想像すらできない。
こうした韓国のメディア環境の突出性、つまり世界でも有数のインターネット・メデイアの発達と、大統領の言論批判のもとをたどっていくと、軍事独裁政権時代のメデイアの「負の遺産」が克服されているのかーという韓国がかかえる民主主義の課題にたどり着く。その答えは、なぜ日本にはない言論法「新聞法」(正式名「新聞などの自由と機能保障に関する法律」)が二〇〇五年七月に施行されるようになったのか、さらにさかのぼって一九八七年の「六月民主抗争」以降誕生した言論改革運動がなぜ展開されてきたかーの二つの問いを解明する作業が求められる。以下、提起したこの二つに答えたい。なお「新聞法」ならびに同時に施行された「言論仲裁法」(本稿ではふれず)が違憲の疑いがあるとして「朝鮮日報」「東亜日報」二大紙が憲法裁判所に訴え、今年六月二九日、一部違憲ながら大半を合憲の判決を下している。
一 言論改革の課題を追う
その1 門閥支配
改めて問うが、民主主義の課題は何だろうか。現代的な福利概念である何人も基本的人権を有し、幸福を追求し相互に尊重し合う社会の実現を目指すことにある。これは韓国、日本とも同様である。しかし背負っている歴史的条件が違うから、当然課題は違う。その一つとしてメディアの問題が韓国では大きいのである。それは韓国語を直訳すると、言論社、つまり新聞社の問題が一つある。メディア政治といわれる現代だからなおさらのことだ。
では言論改革でどうしたことが課題になってきたのか。大きく四つに分けて以下説明する。一つは有力新聞で門閥(オ-ナー)が強大で、編集権を左右してきたことだ。今回「新聞法」が国会で審議される中で「新聞社の所有持ち分分散」案が市民運動体・言論改革市民連帯などから出されたのは、門閥支配を是正しないと報道の公共性を貫けないとする危機感が強かったからだ。言論改革市民連帯案では株式などの三〇パーセント所有制限を打ち出した。
ちなみに門閥一族の株式保有率は詳しくわからないが、「朝鮮日報」「東亜日報」とも門閥の力は絶大である。以下のようなエピソードはその姿を鮮明化する。九二年の大統領選挙のことだ。金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)、鄭周泳(チョン・ジュヨン)の三候補者が立った。この時に最も熱心に金泳三候補を応援したのは「朝鮮日報」で、鄭周泳(チョン・ジュヨン)候補は、「朝鮮日報」の取材を一切拒否、不買運動を始めたほどだ。金泳三候補が当選するが、当選後初めて会った人物が「朝鮮日報」の方一栄(パン・イリョン)会長であった。方会長は金泳三夫妻を私邸に招き晩餐をともにした。最高権力者を私邸に招請することは何よりも新聞権力の誇示でもある。部下は大統領まで自宅に呼ぶ方会長にどうして逆らえるだろうか。当然人事にも影響を及ぼす。
その2 -「世論の寡独占」
さらなる課題は論調が類似する保守系新聞三紙の全国紙占有率の高さである。「朝鮮日報」東亜日報」「中央日報」三紙が総計で全国紙の約七〇パーセントほど占める。これを「世論の寡独占」と呼ぶ。もっと多様な言論を保障しないと、民主主義確立のためにはよくないーというのが言論改革運動の主張の根幹にある。韓国民衆が保守系新聞を支持して購読しているのだから何の問題はないということにもなるが、この「世論の寡独占」がなぜ問題なのか、新聞の軍事政権下からの歩みをみないと、言論改革運動の主張を見誤る。その歴史はのちほど述べる。
「世論の寡独占」についてもう少し述べる。韓国広告主協会が二〇〇一年三月に発表した調査では、「朝鮮日報」東亜日報」「中央日報」三紙の市場占有率はそれぞれ二八・〇、二〇・六、二七・〇の各パーセントで、七五・六パーセントになる(キム・スンス『国民のための言論改革』〈二〇〇二年、世界社〉二四一ページ)。八八年に民主化運動で誕生した「ハンギョレ」(創刊当時は「ハンギョレ新聞」)は三・二、「京畿新聞」は四・〇パーセントだから、世論に対する影響力は比べものにならないことになる。また純利益もそれぞれ「朝鮮」「東亜」「中央」は、四二八億ウオン、一〇五億ウオン、六六億ウオンと巨大で、八八年に「ハンギョレ」の七億ウオンとは比較にならない(キム・スンス前掲書一四六ページ)。なお、韓国の新聞三紙の全国紙占有率は日本の四六パーセント、イギリス四四パーセント、ドイツ二四パーセントと比べても群を抜いている(「ハンギョレ」二〇〇一年七月一〇日)。これが大統領選挙などで特定保守候補を支持するのであるから、影響力は計り知れないのだ。
その3 新聞社間の熾烈な販売競争対策
もう一つの課題は新聞社間の熾烈な販売競争の是正と財閥経営の新聞の批判である。九六年、「中央日報」売店主が競争相手の「朝鮮日報」社員を殺害する事件がおき、批判の矢面に立った「中央日報」は厳しく指弾する「東亜日報」「朝鮮日報」の門閥支配の不正を暴くと予告、泥沼化の様相を呈した。「新聞戦争」と呼ばれたこの事態は、最終的には「朝鮮日報」の方一栄顧問、三星グループの李健熙(イ・ゴンヒ)会長が会談し批判合戦に終止符が打たれた。「中央日報」は三星グループ経営で、「東亜日報」「朝鮮日報」を「門閥新聞」と言われたのに対して、「財閥新聞」(九九年に三星から独立する)と呼ばれたが、醜い「新聞戦争」を引き起こした「門閥新聞」、「財閥新聞」の横暴さを批判する言論改革運動が一気に高まったのである。この「新聞戦争」を契機にして盧泰愚(ノ・テウ)政権時代の八七年一一月施行の言論法「定刊法」((「定期刊行物の登録などに関する法律」)改定運動がおきる。
その4 新聞産業の振興策
最後の課題は新聞産業の危機と関連している。新聞離れは日韓とも同じであり、とりわけインターネットの普及はその現象を加速した。新聞の衰退は「言論の自由」の衰退でもある。総合的に物事を見て判断する材料を日々提供するメディアは新聞をおいてない。二〇〇三年からメディア環境の変化を視野に入れ、これまでの「定刊法」改正運動の枠をこえて新聞振興法体制に性格を変え始める。言論改革運動を引っ張ってきた全国言論労組と市民言論運動体の連帯組織・言論改革市民連帯が新聞振興法制定などを盛り込んだ「二〇〇四年第一七代総選挙公約化のための言論改革一〇大課題」を発表し「言論革のための総選挙闘争」を宣言した。
二 韓国言論の現状を見る
その1 軍事独裁時代
では、これら課題がなぜ生まれてきたのか。新聞産業の危機という点ではネット・メディアの急成長という背景をすでにあげたので、残る三つの課題について論及する。門閥支配と「世論の寡独占」は、厳密に言うと、日本の植民地支配下での門閥の足跡まで検証する必要があるが、とりあえず解放(四五年八月一五日)後に焦点を絞る。何よりも軍事独裁政権の時期に三新聞社が成長を遂げたことを抜きにしては考えられない。朴正熙(パク・チョンフィ)、全斗煥(チョン・ドファン)軍事独裁権は新聞に対する事前検閲・統制、新聞発行・廃刊、翼賛報道の強要など言論弾圧を課したが、この翼賛報道の代償ということなのか、様々な特権を受けたのが実は新聞社であった。低金利融資、低金利借款などだ。とりわけ全斗煥時代の新聞社収益増は顕著で、八〇年から八八年の売り上げ率は「朝鮮日報」は実に五七〇パーセント、「中央日報」四八〇パーセント、「東亜日報」三三〇パーセントの伸び率を記録している(玄武岩(ヒョン・ムアン)『韓国のデジタルデモクラシー』〈集英社新書、二〇〇五年〉から)。さらに先に見た金泳三政権下での「権言癒着」(権力と言論の癒着)は忠臣する言論人を指して「金泳三奨学生」と揶揄されたように文民政権に入っても継続した。「言論の自由」を脅かすこの「権言癒着」をどう克服するかは、言論改革運動の課題であり続けた。
その2 「6月民主抗争」と既存言論
八七年六月民主抗争は民主陣営が軍事政権全斗煥政権の継続を阻止した民主主義革命と言っていい。だから既成メディアも少なからず影響を受けたはずだ。しかし軍部勢力の退場にもかかわらず同じく後退はしなかった。その理由は三つある。「言論の自由」を実現する言論の本来的機能が高められたから、軍部後退はむしろ歓迎すべきことであったことだ。このことが民主主義革命の変化を受容する、あるいは積極的に担う役目を負った。二つ目は軍部という重石がとれたことで、「第四の権力」であるマスコミが全面に出ることができた。三点目は代替メディアがまだ成長していなかったことだ。その代替メディアが政権を動かすまでにはインターネット・メディア(「オーマイニュース」など)が一夜のうちに盧武鉉当選に導いた二〇〇二年まで待たねばならない。
その3 「選出されない権力」とは
「軍事独裁時代には軍部と結託した言論に対して叫ばれたのは言論の自由であった。しかし八七年『六月闘争』後、新聞社が制御できない権力機関として登場したことで、〈言論の自由〉よりその〈改革〉が叫ばれるようになった」
こう書いたのは言論メディアの専門紙「メディアの今日」の代表(当時)南(ナム)ヨンジンだ(『朝鮮半島の平和と人権』二〇〇二年所収論文から)。皮肉にも「六月民主抗争」後に、以前とは比較にならない「新聞権力」が登場するのである。新聞の現状を嘆いた言論人チョン・ギヨンはこう書いている。「政治権力は五年の任期があり、財閥は社会的変化期で反省、謝罪の声明書を出さねばならなかったが、第三の権力である言論は過った過去を反省し清算することもなく任期もない」(コラム集『直言』二〇〇〇年)。「選出されない長期執権」と呼ばれたりした。
既存メディアは「六月民主抗争」後、言論労組の相次ぐ結成を好ましいとはみなかった。〈偏向報道は政治権力が元凶〉とした言論労働者がここで評価の変更を迫られることになる。また八七年の大統領選挙では盧泰愚、金大中、金泳三、金鐘泌(キム・ジョンピル)の四人が立候補したが、「一盧三金」といわれる報道で民主陣営候補を埋没させ焦点化を避けたことも、言論改革運動が必要性を痛感させた。全斗煥大統領が後継とした盧泰愚候補を「民主人士」と持ち上げたのは既存メディアであり、大統領選挙すら左右する力をもつようになる。これまでの「権言癒着」の権力主導―言論追従型ではなく、言論主導-権力追従型の変化がおきていた。その実例はすでに九二年大統領選挙後のエピーソードで紹介した。こうした「六月民主抗争」以降の動きは門閥支配、「世論の寡独占」を解消する方向に進んだとは言えない。
その4 「冷戦言論」の動向
もう一つ、「世論の寡独占」に関連して重要なテーマ・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との関係を論じる必要がある。北朝鮮の対立を煽ることで「冷戦言論」とか、「安保商業主義」とか言われているが、国政を左右する大統領選挙、総選挙ではかま首をもたげた。▼九二年大統領選挙=金大中候補が在野勢力と政治連合で合意したことに民自党と国家安全企画部(当時)が「金日成(キム・イルソン)が当選できるよう支持」とする「金日成指令説」を流し、言論が追従、金泳三大統領誕生に追い風ともなったといわれる。金日成指令はでっち上げであった▼九六年総選挙=「北韓軍が非武装地帯で四〇日間武装示威を強行」のニュースを大々的に報道、戦争の可能性を憂慮する見方も報じて党側が選挙で有利となったーなどで、既存メディアの紙面が踊った。
しかし、「冷戦言論」は民族間の対立をあおる意味で〈反民族的〉であり、また危機意識をかりたて世論形成して主権者の判断を差配する意味で〈反民主的〉である。これらの言論が言論改革運動のテーマになってきたことは当然だろう。九七年と二〇〇二年の大統領選挙でなぜ韓国で発行部数一位から三位まで占める「朝鮮日報」「東亜日報」「中央日報」がこぞって金大中、盧武鉉候補(当時)の対立候補を推す報道を展開したかは、北朝鮮に融和的な両候補に「ノー」を突きつけたからに他ならない。「冷戦言論」と「融和統一言論」対立は北朝鮮の核実験強行後も韓国言論の根本的対立として継続している。
四 「定刊法」から「新聞法」へ
その1 言論改革運動の法律制定運動
言論改革運動は八七年以降の労組結成の中で始まり、九六年の「新聞戦争」を契機に「定刊法」改定の立法運動へと進む。単なる改訂ではなく「言論独占禁止法」(言論が独占する世論形成の禁止を求める性格を有する法律)の必要性が提起されるようになる。九六年一一月、民弁(民主社会のための弁護士の会)は国会に「定刊法」改定立法請願を行った(結果は審議未了で廃案)。請願案は財閥新聞社の全面禁止と、社主などの所有持ち分三〇パーセント制限、主要株主持ち分の現況と経営資料の公開などで、「新聞法」制定の流れを作ったものだ。「民弁」請願書は「八七年民主化でわが言論が見せたのは過去に対する痛烈な反省ではなかった。(略)自己主義と扇情的な産業主義で急に駆け上がり、私的利害を追求する言論の支配により公共性、客観性を追求するより言論のもつ利害だけを求める私的機関に転落している」(イ・チェグ「京畿新聞」政治部次長「立法から憲法裁判まで」〈『新聞と放送』二〇〇六年五月号〉から)と告発している。
その2 韓国憲法第二一条三項
現行憲法は盧泰愚(ノテウ)政権誕生を生んだものだ。第六共和国憲法とも言われる。この中の「言論の自由」の保障規定の下位法が「新聞法」である。日本国憲法での「言論の自由」規定は第二一条一項で集会、結社、言論、出版などの表現の自由の保障をうたい、二項で検閲の禁止と通信の秘密を犯してはならないとしている。なぜ二項があるかは、検閲や通信の秘密を犯すことが「言論の自由」を根本から破壊するからだ。韓国憲法では第二一条で日本国憲法と同様に言論、出版の自由をうたい、二項で検閲などの禁止をあげる。さらに言論施策に関するものがある。三項「通信及び放送の施設基準並びに新聞の機能を保障するために必要な事項は、法律で定める」とする部分だ。この点こそ「新聞法」施行の法的根拠である。日本国憲法に見られない特徴である。
朴政権時代の憲法第一八二項は「新聞・通信の発行施設基準は法律で定める」とあり、これと比較すればその性格が鮮明化する。「維新憲法」(七二年)前の朴政権では、この二項により権力の差配で新聞・雑誌などの改廃を決めた。言論弾圧に直結した。このことと比較すれば、三項は前項の「言論の自由」規定を受けての新聞の機能保障を意味しているととらえられる。
その3 所有規制は盛り込まれず
では、なぜ「定刊法」から「新聞法」に移行せねばならなかったのか。「定刊法」は、実は朴政権時代の言論法の一部条項が残るものなのだ。定期刊行物発効後の献本義務、休・廃止の申告、さらに発行停止命令が政府長官に与えられている点などがそれである。さらには第二条一一項では「編集人は発行人が選任するもの」と規定されている。なお国家管理の特徴をもつと同時に、編集人選任で発行人(オーナー)差配を認めていることになる。これでは編集権独立は保障されない。法改定をめぐり過去三回国会に請願されたが実ることはなかった。しかし盧武鉉政権の二〇〇四年総選挙で言論改革運動が推す与党ヨリンウリ党が勝利し、「定刊法」に代わる「新聞法」制定が政治課題として現実化したのだ。
国会での議論はヨリンウリ党、ハンナラ党、民主労働党、言論改革市民連盟がそれぞれ法案を提出し、五回の討論会に及んだ。最終案はヨリンウリ党、ハナンラ党両党が歩み寄り二〇〇五年一月深夜、「新聞法」は国家を通過した。しかし法案の中身は編集権の独立を獲得するための「新聞社所有持ち分分散」規定(所有規制)は、与野党合意の中で削られる。理由はハンナラ党と、「朝鮮」「東亜」「中央」三紙との摩擦を避けるためだった。また編集委員会の編集規約や読者権益委員会設置は「義務」条項ではなく「勧告」条項に格下げされた。
所有規制の問題は財閥系新聞の場合、所有した新聞の売却、分離することで形式的には解決する。「定刊法」で大企業の所有規制があることから「京畿新聞」「文化日報」「中央日報」は所有した財閥から分離された。問題は「定刊法」に規定されない門閥経営なのだ。「新聞法」に盛り込まれなかった点について「長年にわたり軍部独裁と結託して社勢拡大をはかってきた新聞に対して、編集権掌握を改革する課題に新聞法はまったく手をつけることができなかった」(孫錫春「盧武鉉政権と言論改革」二〇〇六年、邦訳刊行予定)という批判を生む。
その4 憲法裁判所判決はどうか
二〇〇五年七月の「新聞法」施行を前にして「朝鮮日報」「東亜日報」から憲法裁判所に違憲の訴えが出されたのが二〇〇五年下半期である。「言論仲裁法」との二つの法律計七七条項に対して実に三四条項の違憲審査を求められた。今年六月二九日の憲法裁判所判断が下ったが、注目されたのは第一七条。一新聞社のマーケットーシェアが 三〇パーセント、三社の占有率が六〇パーセントをこえると「市場支配的事業者」とされ、該当者には新聞発展基金の対象からはずすとした条項(第三四条二項二号)は違憲判断を示した。発行部数だけで市場占有率を決めていることなどから違憲としたものだが、市場規制を不当とみる文は見あたらない。この点をや判決をどう考えればいいおかについては近刊の『ジャーナリズムはいま』(
みずのわ出版)詳しく論じているので参照していただきたい。判決では「新聞は本質的に自由でなければならないが、その自由に相応した公的責任を担う」とうたい、新聞の社会的責任の覚醒を促してもいる。その他「編集の自由と独立」「新聞の社会的責任」「新聞の公正性・公益性」「経営データーの申告・公開」「新聞発展基金設置・助成・管理・運営」「新聞流通院の設立」などは合憲とされた。
この間、「新聞法」制定をめぐり賛否両論がたたわされたが、「言論の自由」をめぐる社会的責任の問題、言葉を変えればメディアの公共性をめぐる論議であった。メディア市場の自由が言論の自由と必ずしも同一ではないことはいうまでもないが、今後のあり様として発行部数の減少など苦境に立つ新聞産業の現状からしても「消耗的な論争より新聞の自由と韓国新聞市場の活性化につながる改正法案作りに新聞界すべてが知恵を絞るべき」(金京煥(キム・キョンハン)―『新聞研究』662号)時にきていることはたしかだろう。