ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

2008年1月アクセス№2 貧乏人ほど気を遣う

2009年01月31日 16時58分57秒 | Weblog
 2008年1月アクセス№2の記事は「貧乏人ほど気を遣う」である。これは1年たったいまも「そうだ」と思う。自身の体験から言えることだから。

「貧乏人ほど気を遣う」という「貧乏人」という言葉に染みついた卑下感(これはどちらの側にもあるー貧乏、富裕どちらもということ)があるから、なるべく使いたくないのだが、ここではどうしても実情をわかりやすく示すため使う。

 われわれ経済的にそれほど豊かでないものは、何か日々世話になると、あるいは何かしていただくと、「これは大変な世話になった。早くお返しをしないといけない」と懸命に思い、実行するものだ。

「こんなに目をかけていただいてすまないことだ」とする上下関係がそこにはいつの間にか忍び込んでいる。「すまないことだ」という感覚は、太陽があたらずしぼんでいた草花が陽が照ることで新芽がでるように、「あー申し訳ない」となる。倍ほどお返しをしてしまわないと気がすまない。

 ところが「申し訳ない」としてお返しを受けた側は、とりたてて何とも思っていない。当然のことだ。「申し訳ない」など思わないし、いつもそうしたお返しを受けているから、鈍感になっている。

 その結果、立場の弱い側は「申し訳ない」とお返しすることで満足し、もらう側はもらうことで一定満足するという実にいびつな関係が築かれる。

 生活保護の打ち切り餓死者がでたり悲惨なニュースを聞くが、立場の強い側=役人は、「そんなに困っているとは思わなかった」というコメントを必ずする。金持ちがもらうことに慣れているのと同じ原則なのだ。

「お返し」する意識は、その人間関係、社会関係を維持したいからするのであり、生保打ち切りを告げられる人は、「それでは何とか仕事を探してみます」と打ち切りに同意する。役所との関係をそのまま継続したいから打ち切りに同意するのだ。その心情がわからないのが役人であり、事件がおこり例の言葉を出す。「そんなに困っているなとは思わなかった」。

 金持ちはどんどん金をため、貧しい側は「すまない」と思い、つまり「すまない」と思うから現行の関係を懸命に維持しようとするのだ。これではいけない。声をあげないと。ところがその声の上げ方に熟知していない。なんだか自分のことを思い描いて書いているようだ。


しかし、問題はこれからなのだ。貧しいながらもお返しする意識(これは賛意を送っているのではない)どころではなくなると、富裕層の側は「何だ! 恩義もへたくれもないのか」となり、不平等な関係が露骨にあらわれる。

 演繹すると、立場の強い側に異議申し立てをすると、「何ということか」といっそう敵意をあらわにする。なぜなら、最初から対等な関係ではないからだ。つまり「申し訳ない」と思い、必要以上にお返しをする、気を遣うのは、不平等、不自由の関係の堅持と思うことから始めよう。そうすると、帰結するのだ。「礼儀もわきまえない」という批判が。その発言は社会的正当性をもっているから、投げかけられた側は負のレッテルを貼られる。

 野宿者に対する住民登録を抹消しようとすることに「もっともだ」とエールを送るテレビのコメンテーターなどこうした根本的な構造を知らない。なさけない。役人も、役人。なさけない。最低の生存権がわからないのか。

 それにしても儒教倫理がわたしに染みついているようだ。
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 コラム「風」待てない現代人、待てる現代人:川瀬俊治

2009年01月31日 00時59分38秒 | Weblog
 待つことができなくなった現代人。そういうタイトルの本は刊行されていないだろうが、ずばり現代人気質を突いている。

▼エレベターでものすごくゆっくり昇り降りする機種がある。講師で行っている大学のものがそうだが、いつしかイライラしている自分の発見した。なぜか、別に急いでいるわけではないが、ゆっくりはかなわないのである。待てない。

▼携帯電話もそうだ。待ち合わせで待つことはなくなった。携帯電話で連絡が取り合うから、30分も待つなどのヤボなことはない。逆に言うと、待てなくなったのである。なぜ待てなくなったのか。

▼機械がやってくれるからである。機械が時間を縮めてくれた。すぐ目的が達成できるからだ。快感である。快感だから手放せない。

▼しかし待てなくなった現代人が待つことが運命付けられているものに関心があるから面白い。釣りはその代表格だ。釣り糸を垂れてひたすらうき当たりを待つ。待つしかしょうがない。ここでは待てる。

▼つまり、待てないものは機会文明であり、待てるものは自然なのだ。ところが、自然との付き合いで待てることがいいことずくめではない。環境破壊が進んでいることに、対自然の人間の感覚が生きていて、自然破壊に待つの姿勢を示す性向をもつ。

▼しかし待てない現代人の性向がここでは必要なのだ。これは新たに獲得する人間の21世紀型の気質として捉えた方がいい。どう育てるのかにかかる。送球に教育方法論を確立しなければならない。待たないでいいものに待てずに、待っていてはいけないものを待つ。なんとアイロニカルなことか。悠長に構えてはおれないのだが。
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2008年1月アクセス№1 うどん狂騒曲

2009年01月29日 23時16分33秒 | Weblog
 天満橋商店街を犬4匹連れて歩く人がいて、買い物客は「ウアー」とよけた。犬は獰猛ではないが、しかし人ごみでごったがえすのに、少し驚いた。犬は賢そうに買い主に従った歩き、まるで行進する犬部隊のようだった。

 駅に近づくにつれうどんが食べたくなり、駅に遠い方から物色。というのは駅から遠いほど値段が安いからだ(京橋駅で実証、体験ずみ)。しかし、いずれも200円。しかたなく駅前のうどん屋さんに。

 ここは清潔で味もよかった。ただきつねうどんを注文しているのに、天玉(天ぷらの衣を丸く固めたもの)の上にお汁をかけて出すので、「おばちゃん、きつねうどんでっせ」とクレーム。50代後半とおぼしきこのおばちゃん、パートで日が浅いらしい。「あーすいません」と、玉天からきつねに代えようとした、

 そこで一言。「おばちゃん、それでいい、いい。大丈夫」。

 おばちゃんは感謝、感謝。

 ここまではいい。食事最終局面に近い段階で天玉の衣がうどん出汁にひろがり一気に飲み干そうとした瞬間、鉢全体に広がった天玉の衣がいけなかったのか、あるいは七味をかけすぎたのか、気管支の方に入りそうになり、咳き込むこと咳き込むこと。

誤飲ならぬ、誤吸というのがあり、体力が弱る高齢者がそれで肺炎を起こすことがある。私はそういうことにはならなかったが、「あー、きつねうどんにしておけばよかった」と思うことしきり。後悔後にたたず。

汚い話だが、食べ終えた私は天満駅へ。頭上を走る外回り環状線の音に慌てて階段を駆け上がり間に合う「幸運」! これはよかったのが(年とって列車に間に合うため階段を走り抜けることは御法度だが)、車内で少し異変が。鼻腔に偲び込んでいた1筋のうどん切れ端が口腔に下りてきたのだ。さきほどのむせ返しの元凶か。なんともはや。しかたなくかみ砕いて胃の中ヘ。

 今度は咳込みはしなかったが、うどん一杯で大騒動なことに。
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日曜新聞読書欄簡単レビュー

2009年01月25日 10時42分40秒 | Weblog
恒例の日曜新聞読書欄簡単レビューです。毎日、朝日、日経の3紙から。オバマ本の紹介をしている朝日から。(敬称略)
   
 朝日ではオバマ大統領を紹介した。出色のできと評価しているのが渡辺将人『オバマのアメリカ』(幻冬舎新書、819円)。アメリカ在住の若手研究者である渡辺は「民主党のリベラル再生の物語」とみている。越智道雄『誰がオバマを大統領に選んだのか』(NTT出版、1680円)はアメリカ史をさかのぼり、アメリカの地殻変動を解明する。「絶対的アウトサイダーであるゆえにインサイダー・ゲームを熟知していた」のがオバマと説く。越智はアメリカ多元主義を研究してきた人。表紙買いしてほしい?と薦めているのが「タイム」誌特別編集『オバマ ホワイトハウスへの道』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、1050円)だ。ベテランカメラマンに納められた写真が飾る。荒このみ編訳『アメリカの黒人演説集』(岩波文庫)は上院時代のオバマの演説も収録されている。

 オバマ政権の今後の舵取りを経済面から最近の論考を日経が特集を組んでいる。松井彰彦による紹介だが、ユルゲン・ハーバマースが米国を社会的不公正から批評しているのが『世界』2月号に掲載されている。金持ちを豊かにすることで、Sのおこぼれが、貧しい人々に回る「トリクル・ダウン説」という考えG阿部異国の中心テーゼという、その韓G苗が間違っていたと断じて「醜い社会的不公正」としている。『現代思想』1月号ではプリンストン大のポール・クルーグマンはオバマ新大統領が富裕層の重税、中産階級への租税優遇措置という政策綱領を掲げた以上、いかなる反対があろうと貫けと説く。日本の改革だが、既得権益を打破する改革を説くのが斉藤誠の『世界』2月号の論文。保護主義の台頭を警戒するのが米戦略国際問題研究所日本部長アマイケル・グルーンの『フォーサイト』2月号の論文。

 日経が紹介した三田村雅子『記憶の中の源氏物語』(新潮社、3800円)は2008年源氏物語千年紀の最大の収穫ともいわれる本だ。天皇制イデオロギーを機軸として、さらに多様な資料を駆使して通時的読み解き、物語世界を俯瞰する(評者伊井春樹)。

 中谷巌『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル、1785円)―朝日―は、小渕内閣当時の「経済戦略会議」議長代理であった新自由主義の構造改革で旗振り役だった著者の転向の書だ。評者天児慧によれば3点の特長をもつ。まず経済学からグルーバル資本主義の欠陥を指摘、巨大なバブル崩壊後に市場至上主義は大量の貧困層を生み出すと断じる。しかしそんなこと経済学者に言われなくても素人の私でもわかるはなしだ。第1、構造改革の旗振り役がいまごろなぜと疑問を呈してしまう。そこのところは本を読んでいないので納得いく説明をえたいところ。日本の伝統的な哲学が未来を切り開くとも書いている。そこも梅原猛らにより以前から語られていた内容ではないのか。3つ目は貧困層の減少のための税制改革を断行するとの提言だ。「還付金付き消費税」方式の導入だ。これは是非著者の論を追いたい。構造改革を推進してきた人が読むべきだとは評者は薦めているが、もっと根本的提言の本の方がいいのではないかと思うのだが。

哲学書ではないが、哲学者の半生記が毎日に紹介されている。木田元の二書だ。『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書、788円)と『哲学は人生の役に立つのか』(PHP新書、777円)である。木田のエッセーを読んだことがあるが、なぜこれだけ厳しい人なのかと思ったことがあるが、この二書に書かれた半生を知るとなるほどとうなずいてしまう。あくなき知的好奇心に加えて粘着力というか、粘り強さは33年かかりハイデッカーの研究書を書き上げる。とにかくその知的な関心を深さとねばり強さを二書から読者は知るだろう。生半可な学問への関心ではない。哲学は英語はもとより、ドイツ語、ラテン語、フランス語は当然読まねばならない。独学で短期期間でマスターしていく。さらに雑学である。やわなインテリの世界ではない。たくましい生活者でもある。私は現象学者としての木田しか知らなかったが、半生記を知ることで粘着力の恐ろしさの源泉は何かを知りたくなった(評者井波律子)。


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特集 オバマ新政権出帆 就任演説を聞いて

2009年01月21日 12時47分32秒 | Weblog
 アメリカン・ドリームというのは「なけなし」の人であってもアメリカ社会で成功を勝ち取る開かれた社会だと一般に言われるが、もうひとつのフレーズがある。地球上にいまだ実現していない共同体をつくることも意味していると思う。新しい社会の建設である。オバマ新大統領が建国の精神回帰はだからこそ未来志向である。

 ケネディー大統領とオバマ新大統領がよく比較されるが、むしろ世界恐慌時のニューディール政策時のルーズベルト大統領の時代と比較する方がいいのかもしれない。

 新自由主義による金融経済の肥大はサブライムローンでつまずいたが、穀物相場や原油価格の異常な高騰の時にすでに病理現象があらわれていた。また新自由主義はブッシュ大統領の時代に始まったわけではなく、クリントン政権のときに始動していた。今回、ブレーンにクリントン政権時代の閣僚が起用されたから、経済政策の舵取りは大きく変わるというものではないだろう。新自由主義の路線は継続される。

 1968年のパリ革命では、これまで声を上げてこれなかった社会的マイノリティーの人たちが声をあげ自由と平等を叫んだ。この衝撃は世界に波及し反差別運動が以降大きく広がった。オバマ新大統領に演説を聞き、アメリカ建国の原点に回帰する新たな保守主義を感じたのはわたしだけか。

 ただしこれはすでに述べたように回帰すべきアメリカがあるからで、日本の場合は回帰すべき原点とは性質が違う。戦後の日本は国家目標を経済再建としてたてたものの、精神的な轍(わだち)を刻む共同体的なもの=ナショナルなものの構築にいまのところ成功していない。

とりわけ韓国に行くと国家戦略がはっきりしており、文化政策にしても明確だ。日本は戦後の精神的価値観である憲法の精神は根づいてきているが、それが世界化するナショナルなフィルターを通して外に打って出ることになお時間を要してしている。というより、逆風が吹き荒れている。

オバマ新大統領がアメリカ建国の精神に立ち返えることを呼びかけた時、振り返ってみて、日本は建国を天皇の国とすることに多くの人が違和感を感じるだろう。それは神話の領域にあるからだ。歴史が長い国だからこそ伝統的にして現代の民主主義を鼓舞する道を見つけねばならないだろう。そこで行動規範としての戦後精神は葬り去られるものではないだろう。

アメリカの人たちは建国の精神回帰に鼓舞され、また人種的融合の訴えに長かった黒人の不当な差別を乗り越えていく希望を感じたに違いない。大統領の椅子に座るのがアフリカ・ケニアにルーツをもつバラク・オバマ氏だからだ。数々の難局を乗り切っていただきたいと正直思う。


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震災時ラジオ放送の共同制作実現を関西でも

2009年01月17日 23時30分09秒 | Weblog
震災時ラジオ放送の共同番組制作実現を関西でも:川瀬俊治
阪神・淡路大震災から14年目。ラジオではラジオ局、ライフラインの各企業が横断的に手を結んだ震災時の放送体制がとられている。関東だけの話のようであり、肝心の関西での体制つくりが急務だ。

この放送は震災時にラジオ、ライフライン関連企業が手を結び1つの放送番組をつくりあげるものだ。NHK、民放、ガス会社、電話会社が一緒に同じ番組に登場して震災情報を流す。仮の話だが、震災がおきた一定の時間は、NHKラジオ、民放ラジオをつけても同じ情報が流れる。これは情報の画一化とは違う。放送により情報が異なる弊害が克服されることになるからだ。

14日も午前8時台にNHKラジオで試験番組が流れた。ただ放送は関東のみ。関西の放送、ライフライン関連企業による制作はなかった。当然関西地方、中部、九州。北海道なども体制が組まねばならないだろう。1・17の14年目で、取り組みが関西で遅れているとは信じがたいことだが、今後の震災時の放送体制実現を進めてほしいし、そういう番組があることを時々視聴者に知らせる必要がある。

ただ、情報がライフライン関連の情報に限るなどと一定の歯止めをかけないと、情報操作にならないかの第3者監視もあわせて必要だろう。その点をクリアーしての番組制作であることは言うまでもないだろう。
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人間がいらいらする瞬間とは

2009年01月11日 08時58分07秒 | Weblog
人間がいらいらする瞬間とは……。

 用事で大阪に行く途中のことだ。電車の社内は意外とすいていた。前に座る御仁がやおらビニール袋からパンを取り出し食べだした。だいたい社内で何かを食べる場合は遠慮して隠しながら食べるものだが、この御仁はそうではない。年恰好は30台後半か。

 パンを食べる姿を目にしたくないのに否応なく飛び込んでくる。「しゃーない人や」。

 そこまでは我慢できた。というのはパンを食べ終わればその光景から解放されるからだ。

 ところが強烈な第2弾があった。

 腹が整ったなら、さてというわけか、かばんから郵送用の書類を取り出しそれをたたんで薄灰色の定型封筒に入れだしたのだ。書類は3つ折りだから、折るのに時間がかかり、また封筒には折り方次第で何度も入れなおさないといけない。それが2,3通では終わらない。延々と続く。

 私のいらいらも極限に達した。

 「このおっさんどうかして」と思わず口の中で叫んでしまった。

 人間のいらいらはどう発生するのか。一応社会には一定の規範がありそれをことごとく破られると、いらいらを起こしてしまい、最後はそのいらいらの原因を排除しようとする。

 裁判で被告席に座ることになるのはその規範破りの結果ともいえるが、逆に規範がおかしいものでも「自然なもの」として偽装されると、別におかしいと思わなくなる。差別行為であたりまえのように通るのはこの法則が底流に流れている。

 今回は公共性にかかわるいらいらと排除意識だ。私の前の御仁は仕事を急いでいたのだろう。社内が仕事場に変わったのだ。偽装されたのは「電車内はかくあるべし」という規範の方なのだ。だからこそ御仁の行為こそまっとうな規範であり、私が叫んだ「どうかして」と思わず声を出すことは普通ではないのだ。

 どうもそこまで考えないと堂々と続ける御仁の行為は理解できない。電車は目的の場所まで運ばれるための仮の場所ではなく、御仁の私的空間なのだ。

 そう考えると電話内の携帯電話も女性の化粧もわかるし、高齢者に席を譲らない思考もわかる気がする。しかしいらいらする方が時代遅れとられてしまいかねない。

 これを解決するにはどうするか。新たな規範を作らないといけない。以前の規範を持ち出して「かくあるべし」と説いても何らの解決の道が図れるわけはない。これは偽装された規範を乗り越える規範を作らないといけないことを意味する。二重規範なのだ。いつも、いまという時代は。

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編集局からの手紙「言語と美、希望」

2009年01月06日 00時48分26秒 | Weblog
 詩人の吉本隆明さんの正月特集を聞いた。NHKの放送だった。吉本さんが書くことを選んだのは話が下手だからだそうだが、その彼が講演を引き受けたのである。

 この講演記録は糸井重里さん編集でDVD付き単行本になっているからご存知の方もおれるだろう。講演は今後も続編があるかもしれないから糸井さん編集の本はさらに出されるかもしれない。

 今回のテーマは言葉だ。吉本さんは沈黙が言葉の原点という逆説を語る。つまり言葉は発語するときに様々な衣装を身につけるから、言語としての本来の美を失うということになる。

 一方,言語の美とは別角度から考えると、言葉により、人は社会的地位を否応なく認識することにもなる。社会的道具としての言語だ。たとえば会社の上司の前でぞんざいな言葉は使えない。使う人間はその集団なり会社から放逐される。コミュニケーション言語は社会的認識を迫るが、言語が持つ美とは無縁の世界を築く。

 それでは発語しても美を有する場合はどういう状態なのか。必ず存在している権力関係を否定する言語世界が広がることだ。そんな言語世界があるのか。詩人が苦闘するのはその1点にある。言語が永遠をつかむことなどできないが、世俗の垢にまみれないからこそ生命を長らく保てるのだ。

 朝鮮の詩人ユン・ドンジュ、フランスの詩人ボードレール、日本の詩人石川啄木。世俗の垢には言葉が埋没しなかった。だからこそ今も読まれる。時の権力者は滅んだが詩人の言葉は残っている。金融恐慌。世俗極まれる。だからこそ、この闇を超える言葉を求める声がする。そういえば、帝政ロシア末期の希望を失った時代にドストエフスキーが登場した。精神状況と物質状況はどうも反比例するようだ。
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日曜新聞読者欄簡単レビュー

2009年01月04日 12時18分52秒 | Weblog
新聞読書欄の楽しみは、「こんな本が出ていたのか」という知的好奇心を誘うものが紹介されていることだが、正月から読書欄を組んでいる日経、朝日では、朝日では既に紹介した本が二冊占めており、新鮮味が乏しく感じた。

しかしメアリアン・ウルフ『プルーストとイカ』(インターシフト、2520円)が新鮮。脳科学で「読書」の謎に挑んだ本だという。評者は瀬名秀明。著者は発達心理学者で識字と脳の謎の解明にあたった。どのように文字が文明の発達のもと洗練されてきたのか、文字を赤ちゃんは理解していくのか。そして文字により時空を越える世界を人々はえるのか。こうして謎を文学作品を自然に紹介することで解明していく。

 津島佑子『あまりに野蛮な』上下(講談社、各2100円)ー朝日ーは、そういう意味では新鮮ということではすまされない深さが評者久田恵の文にもあらわれている。「死者を背負って生きる女性の痛み」と見出しにある。私の周辺はその女性に囲まれている。いや冥界に旅立った女性もいる。評者が語るように「この小説を理解できる男なんか…」と書くのは無理もない。大体男はのうてんきだ。私が理解しているかと問われれば、絶句する。小説は台湾植民地時代に台湾赴任中の男性に手紙送り続けてきて妻の座を得たミーチャという日本の女。霧社事件が背景にある。野蛮と切り捨てる社会背景は野蛮と切り捨てる存在=女と重ね合わしているのか。ミーチャは霧社事件の首謀者にあこがれ子どもを失ったことを契機に破綻していく。70年後にミーチャおん姪リーリーがミーチャの幻影を求め台湾を彷徨する。精霊たちが住む世界を探して…というのが評者により紹介された内容だが、評者が書く以下の文に男である私は次の言葉が出てこない。「リーリーのように、自分は子どもを殺し、親を殺し、男を殺したいという想念にとりつかれ、とめどもなく今を漂っている女は、癒やされることを拒み、悲しみにさえ行き着けないのである」。
  
日経でも作家は登場してインタビューを受けているが、朝日の書評を読むと通り一遍の記述で物足りなさを覚える。なぜか。津島佑子の追求するテーマに迫っていないからだ。同じ日に作家が紹介されたからよけいに目立つ。

 しかし新鮮味ということでは新春の最初の読書欄では日経の一人勝ちに目を見張る。ケインズ特集では若田部昌澄が四冊紹介しているが、昨年最後の書評欄で紹介されたケインズ関係の本でダブるのは、ケインズの魅力を多面的に浮かび上がらせるジル・ドスダレーン『ケインズの闘い』(藤原書店、5600円)だけ。ドスダレーンの論敵ミルトン・フィリードマン『資本主義と自由』(日経BP社)、ケインズを過去の遺物ではないと論じるのは小島寛之『容疑者ケインズ』(ダイヤモンド社)、同様のケインズ理解を示すのが小野善康『不況のメカニズム』(中公新書)を簡潔に評している。サブライムローン危機から世界同時不況に至る現状理解については小野の書が、現代理論をふまえてケインズを論じたのが小島の書、ケインズとの対話をふまえて危機の回路をさぐるのがフリードマン。ケインズの裾野を徘徊しながら紹介4書から現代の経済学の課題を探れる。

経済関連でダン・アリエリー『予想どおり不合理』(早川書房、1800円)は不合理な選択をする経済行動をさぐる本。「経済学は、人がどのように行動すべきかではなく、実際にどのように行動するかにもとづいているほうがはりかに理にかなっている」という著者のことがを紹介している(評者石鍋仁美)。

 今福龍太『群島ー世界論』(岩波書店、5200円)は島の文学、島の精霊、習慣をh熟知した文化人類学者が描き出した「未開の群島世界が茫々とここに広がる」(評者山田登美子)書。文学的根源か宗教的パトスか、いずれにも出会える本らしい。枠にはいらない、いや近代という枠から排除された祖霊の声を聞く人ー著者だから書けた本かもしれない。津島の小説と重なる。(文中敬称略)
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「目には目を、歯には歯を」 「情」の世界が拝金主義をこえる クァク・キョンテク監督最新作

2009年01月03日 23時04分26秒 | Weblog
あけましておめでとうございます。韓国映画評です。「コリアNGOセンター」定期号最新版に書いたものです。

IMG_1290.JPG
カット写真=韓国の映画館(ソウル市新村で)


 映画「チング」は日本でも多くの観客を集めたが、その監督クァク・キョンテク監督の新作「目には目を、歯には歯を」が韓国で上映していた。なんと「シュリ」のハン・ソッキュが主演ではないか。上映時間は101分。

「チング」では監督の原点が顕われた。監督が育った釜山なまりが全編貫いたこと、男の物語であること、友の「情」を描いていること、人間の暴力性が描かれていること。最後の「暴力性」は〈どの映画でも描かれている〉と指摘されそうだが、イ・ジョンヒャン監督の「おばあちゃんの家」がどこに暴力性があるのか。だからモチーフの1つに「暴力」をいれることは不思議ではない。

「目には目を、歯には歯を」は釜山なまりではなかったが、あとの3つは色濃くでていた。とりわけ関心をひいたのは「情」である。百戦百勝という伝説的な刑事ペク班長(ハン・ソッキュ)と厳戒中の警察陣をあざ笑うかのようの完全犯罪をやりぬく知能犯アン・ヒョンミン(チャ・スンウォン)。しかしアンは捕まることなく最後に海外に逃亡する。犯罪の背景にアンの父を死に追い込んだ復讐がある。逃亡先から警察を辞職したペク班長に手紙まで出す。この紐帯は何なのか。

 その前にあらすじを説明しなくてはならない。「シュリ」ばりのアクション映画だ。ソウルで現金輸送車が強奪され、済州島空港では密輸された金塊600㎏が盗まれる。犯人を追いかけるペク班長のもとに宅配が届く。「お前は俺を知っているのに、俺はなぜお前のことがわからないのか」というメッセージ。ここからがクァク監督の世界が濃厚に出る。7月24日の聯合ニュースは「大部分を撮り終えていたアン・グォンテ監督作品を補充しただけ」とクァク監督の弁を伝えていたが、アン監督の「補充」といったものではない。刑事と犯人にある種の紐帯が生まれることや、「金の価値を考えることが観覧ポイントだ」(同聯合ニュース)とのクァク監督のことばが示すように、拝金の世界観を乗り越える「情」の世界をここでも描いている。
 2006年2月に他界した韓国の著名なコラムニスト李圭泰が『韓国人の情緒構造』(新潮選書)の中で「情はメイド・イン・コリアの単語」と喝破したが、アンの宅配に託したメッセージは刑事―容疑者という平坦な関係を否定する「情」の濃淡を暗示する。また作品が単なるアクション映画でない幕開けでもある。そして明かされたのがアンの復讐だ。

 たしかに「情」の紐帯は日常生活で朝鮮人には脈動している。日本に留学した大学生、新渡日した韓国人がいう。「なんと日本人は冷たいことか」と。「情」の濃度が違うのである。

 それにしても、男の世界をクァク監督はかくも描くのか。映画「チング」でもそうだった。今回もロマンスなどない(第27回ハワイ国際映画祭’監督賞「愛」という作品もあるが)。それは暴力性を描くことに底通する。監督の男の世界は女性蔑視ではない。暴力性と男の世界は結び付いている。映画「チング」での執拗なまでのあの教師の制裁の場面を憶えておられるだろうか。復讐の場面で鉄のコンテナが父を死に追い込んだ男に迫る「暴力」。男の世界の「負」の部分ではないのか。
釜山なまりにこだわる。なぜなのか。人間の棲み家である言葉は、営々と紡ぎ上げてきたなまりにこそ「情」が充溢するからだ。そして、なまりを生み出し伝えるのはその地で生きる女性なのだ。暖かさ、溶解感、目を伏せて抱かれる至福感。母、女性以外に何があろうか。私は必ずやクァク監督が母なる存在を描く作品を世に問うと信じる。

 映画「チング」は来年(2009年)、韓国の地上波放送でドラマ化される。無論、釜山のなまりで。タイトルは「チング、伝え切れなかった話」(20回)。「目には目を、歯には歯を」の日本公開は未定。
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