ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

李承雨の小説2作品

2012年08月27日 08時56分25秒 | Weblog
 6月の新聞書評に紹介され本コーナーではまだ紹介されていない李承雨の小説『植物たちの私生活』(藤原書店、2940円)について書く。


 前作の『生の裏面』(藤原書店)の刊行では、出版の記念して訪日した。東京の行事をあと、作家のインタビューの同行で京都新聞まで行った。この時の記事は京都新聞の文化欄に掲載されたが、東京での新聞記者のインタビューよりの濃密であったと翻訳者の金順姫さんは語ったほどだった。

 韓国の作家の中でヨーロッパで、とりわけフランスで最も知られた人だという。その人気はどこにあるのか。キリスト教神学を学んだ作家は、宗教的という神という中心軸から物事を考えているから、3次元的事実、空間配置に縛られない。人間関係が作家独自の視点で描く。今回の『植物たちの私生活』でも男女の出会いが通俗性をもっているから、最初は通俗小説かと思いきや、以降の展開が見事だ。時間のずれは、作品の大きな仕掛けである。静謐さが作品のモチーフか。根源的な神話的世界に読者を誘う。
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竹島問題について

2012年08月27日 08時53分48秒 | Weblog

 李大統領への叱責が言論では続く。韓国の論調をいくつか読んだが、基本は日本の過去史清算の未解決のところに行き着く。

 これを掘り下げれば天皇の戦争責任に突き当たる。そこから韓国メデイアは発信しているから根源的かもしれない。日本は根本のところは国家無答責で応じず、賠償問題は日本の非を法的に盛り込んだ内容のものは制定しない。制定すると根本のところのに逢着するからだ。オランダ女性被害者への「補償」が出されたと聞いたが、アジア女性基金方式だった。野田さんは韓国からいくら言われても日本軍「慰安婦」問題解決で動かないし、メデイアも「人道上」と主張して深めた議論はしない。

 「竹島」について対立していても日韓は協力して生きねばならない。ロシア艦隊の南下阻止から1905年1月28日に編入した竹島はやはり日本の侵略と関係が深い。結びつく。ただ幕藩政府が領土問題の紛争をよしとしないことから1696年に「無用の小島」としたことは、秀吉の戦争被害に心留めて「善隣友好」を朝鮮王朝と結ぼうとしたからだろう。1952年のイ・スンマンラインで「竹島」問題が生じたが、日本政府はこれまで敢えて力強く抗議しなかったのも幕藩政治と類似している。

 一昨日山本参議院議員が「なぜいままで不法とは明言しなかったのか」「ウオンの急落を阻止できる韓国経済援助作をしたか」と野田さんを批判していたが、どういうつもりかと思った。山本議員のようにしていてどうして日韓が協力して進めようか。紛争をあおっているしか見えない。

 過去史を清算しない日本の現状を粘り強い取り組みで変えていくしかない。金大中さんは「未来志向の韓日関係」と言ったが、そういう過去史清算の弱さも知って未来の歩みで解決して行こうというメッセージなのだ。政権交代で進むかと思ったがとんでもない見込み外れだったものの、根本の問い掛けに対してじっくり取り組むしかない。
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韓米原子力協定改訂交渉が両国で進んでいる

2012年08月17日 21時03分58秒 | Weblog
いま韓米原子力協定改訂交渉が両国で進んでいる。

最近聞いた情報ではアメリカは韓国の核燃料再処理権について全面否定ではない流れがでてきたという。韓国の政党では民主党が再処理権利取得には反対している。脱原発路線からして容認できないという主張だ。


1970年に韓国の核兵器開発疑惑から1974年に韓国がアメリカ同意なしに使用後の核燃料を再処理するとか第3国に移転することができない規定が生まれた。つまり再処理を許容すれば韓国が核武装できるという恐れがあるとみての「不許可」規定だ。

韓米原子力協定は 2014年が改訂時期だ。昨年から改訂交渉が続けられている。2009年に協定改訂での再処理の必要性を申し立てた時にはアメリカの立場は否定的で、1992年発効した「朝鮮半島非核化宣言」が大きな再処理不許可の根拠ともなった。

2010年10月から始まった交渉では、韓米両国での再処理開発が進んでいるとの情報にもふれた。日本は高速増殖炉「もんじゅ」での再処理が実現していないが、韓米との共同開発で再処理を進めるなかで今回の改訂期を迎えたことになる。韓国側は「平和的核主権であり北への抑止力になる」との主張で交渉している。

核廃絶の流れに筆者は賛同する。しかし核拡散がどんどん進んでいる。日本は再処理したプルトニウムを英仏から輸入している。核兵器を保持しない国で唯一だが、これは日米原子力協定での不許可規定がないからだ。韓国側はこの実情を「不平等条約」と主張する。この韓国側に「核不拡散の精神からして容認できない」とわれわれは言えるだろうか。言えない。ただ北も南にもいえるのは核兵器を保持してはならないという態度を示すことだ。
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メデイア・ウオッチング  李明博大統領の8・15発言と8・15の3紙社説

2012年08月15日 22時50分33秒 | Weblog

 李明博大統領の「天皇謝罪発言」に野田民主党政権はこの問題がタブーであることを示した。玄葉外相が「報道は承知しているが私は(李明博発言についての報告を)一切聞いていない」とコメントしたからだ。

 つまり外務大臣はコメントを即座にできないのだ。過去史清算に取り組んできた政治家ならこうした発言もありうる。

「日本軍『慰安婦』問題での未解決は、昨年8月の韓国の憲法裁判所決定で行政の不作為という指弾を大統領に出した。これにまじめに向き合わない日本政府は1965年の2国間条約で解決済みで李大統領の要求をかわしてきたが、しかし、考えてみれば『強制連行の文献資料がない』としてつっぱねてきたのはあやまりだった。被害者は甘言、虚言で慰安所に送られ、そこでは逃亡の自由すらなかった実体そのものが強制された性動員であった。今後この残された問題解決に向き合い努力したい」

これでいいのだ。回答は。

過激な李大統領発言は15日夜、大統領府から訂正が出た。「(天皇陛下が)韓国を訪問したいならば」と仮定の話と述べたものということだが、日本軍「慰安婦」問題解決にいっこうに動かない野田政権へのいらだちが天皇の訪韓という仮定のまでボルテージが上がったものだと思う。

 8・15の今日は大阪日日、毎日、読売の3紙の社説を読んだが、読売が「従軍慰安婦の本当の歴史を世界に向けて説明せよ」(概要)との主張だ。領土問題も述べられ同じトーンだ。

 ところが大阪日日は領土問題も日本軍「慰安婦」問題も戦後積み残してきた問題が一気に噴出している。アメリカに守られた戦後のスタートともで書いている。ようは過去史、戦後補償問題がいまだ未解決で、それに取り組めとの主張だ。

 毎日は両紙の中間というとこか。歴史の継承という主張はわかるが、戦後保障問題では主張が鮮明でない。

 それにしても大阪日日の社説はわたしからすれば8・15の本質と課題を突いたものだった。全国紙はなぜこうしたスパッとした主張を回避にするのか。
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オリンピック3話

2012年08月13日 11時22分01秒 | Weblog
オリンピック3話
8月1日
天理大に用事で行ったら、柔道部のメンバーが「オリンピックはブラジル勢が強い」とのこと。私は、小、高と柔道していたからとりわけ柔道の行方が気になる。2日夜には穴井隆将選手応援のため校内施設で応援するという。男性では体重の軽いクラスが金メダルが予想されたというが、うまくいかない。穴井選手にはさぞかしプレッシャがと推察する。
話が変わるが、女性サッカー予選でのテレビ放送は違和感を感じた。日本と対戦した南アの選手がゴール近くで倒れて手当てを受けているのに、放送するアナウンサー、解説者はほとんど心配したような言辞はなし。これが偏狭なナショナリズムか?日本人ならどうなのか。そうした放送をしたらブーイングの嵐だ。

8月2日
天理大の体育学部の事務局の前には穴井選手の写真が。全学でこの光景が見られる。学校一丸となって応援していた。それがなんともいえない敗戦に。篠原監督がコメントしていたが、「プレッシャーに負けた」と。日本柔道の代表とまで。本当にすごい重圧だ。元来やさしすぎる選手ではないか。しかし残念。敗北も現実だ。そこから立ち上がるのが勝負師だ。時々天理大の柔道場に練習に来る野村選手をみかけたが、3連覇してもあくなき勝負へのこだわり。獲物を狙う野生の動物のような鋭い目つき。穴井選手もやがてそうなるだろう。

8月3日

メデイアウオッチング「産経の穴井選手たたきには驚いた」
 柔道100キロ級の穴井選手は残念な結果に終わったが、各紙どう報じているのかと読み比べてみた。産経のスポーツ面トップの記事は記者の心が透けえ見える冷たく突き放した記事で驚いた。

 穴井選手は強さともろさが同居しているという記述はいいとしても、「日本柔道を代表する」との形容詞についての解説では実力ともなわないし、穴井ならぬ「弱い」と陰口でさ言われたと、こき下ろす。これほど冷淡な酷評があるだろうか。負けて打ちひしがれている選手を崖っぷちに追い込むようなに表現をするものだろうか(ここでは記事の表現を正確には再現していないが)。

 記事は1人の記者だけで書き上げた個人作品ではない。デスクがおり校閲記者がおり編集幹部がいる。それぞれ目を通して世に出る。だからこの記事は記者個人ではない。社の看板を背負った記事だ。

 産経は庶民の声が紙面に反映した大阪の泥臭い、そして人間臭い記事を載せた。寒々として記事はふさわしくない。ましてや敗者を叩く記事は産経の「お家芸」ではなく、真逆だったはずだ。人間の心の襞を映さない寒々とした記事が多くなったのか。世の中がそうなったのか、産経の体制が変質したのか。



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