京都の会合を終えて、帰宅方向がいっしょだったので、ある大学人とごいっしょした。
車内で世間話をしていて、なぜかわたしの収入に話に及び、
「よう生活できますな」
と言い放たれた。
どうしてそういう話になった忘れたが、かなり気分侵害である。
相手は心配して(善意)でいっておられることは間違いないが、「ほっといてくれ」というのが正直な感想である。
なぜ気分がわるかったのか。
生活する、しないは、どうもその人間の裁量権の問題であり、他人様がとやかくいう筋合いのものではないということーがまず基本にないとそのメカニズムは解けないだろう。
わたしもこの種のことばを過去幾度となくいってきたようだが、いわれてみるとこんなに気分を害するものだと思わなかった。善意はしばしばその人間が安全圏にいて発せられるから、行為(発言)を受ける側は横暴にうつるのだろう。
こんなことはとっくに宣言を生んだ同人により喝破されていたが、発する側が「善意」だけに、なかなかやまない。「なんで気分を害するのか」となる。
たとえば極端な例だが物乞い(乞食)の生活をしているとしよう。物を乞う生活を選んだのだから、立派に物乞いをすればいいのであり、それに対して「かわいそうに」は余計なお世話である。そっと物を恵めばよい。講釈はいらない。
野宿者についてもそうだ。その生活を選んだのだから、嫌がる彼ら、彼女らを公園から追い立てることはない。立派に野宿者をすることにあり、邪魔をすることではない。
ところが問題はそう割り切れるほど簡単ではない。仕事に全く就けずに物乞いになった、リストラで野宿者になったーなど、他律的に追い込まれた場合はだろう。「立派に物乞い」をなど言い放つことができなくなる。それこそ傲慢だろう。立派に野宿者をーというのは逸脱した表現だ。
なぜ傲慢なのか、逸脱なのかは、物乞い、野宿者という社会的存在を生んだ一端がことばを発する側にもあるからだ。
すると「立派に物乞いをする」という個人の自立性を第一にあげるのは虚構になるのではないか、ということになる。個人の存在は社会的存在だからだ。
個人の存在は社会的文脈に吸収されること、になることで、問題が社会化され解決策が進む。例えばリストラ救済法が施行され、問題解決が進展するというように。
ただ、個人の自立性が薄められることは大いに考えるられる。イデオロギーや集団的責任に乗っかかり、個人力が弱体化してしまう傾向をたどる。
わたしが「ほっといてくれ」というある大学人への反応は個人の自立性から出たことばだが、社会的文脈に吸収されて弱められてはならないだろう。しかし社会的問題が横たわっているなら解決をはかるスクラムを組むというのが今のところ考えられる解答の最善策である。
野宿者であることを誇り、「乞食」であることを誇るー。かつて土方であることを誇るということが解放運動で主張されたことがあるが、この「ほっといてくれ」というのは意外と奥が深いし、戦前のアナーボル論争をも視野に入れて考える必要がある。
車内で世間話をしていて、なぜかわたしの収入に話に及び、
「よう生活できますな」
と言い放たれた。
どうしてそういう話になった忘れたが、かなり気分侵害である。
相手は心配して(善意)でいっておられることは間違いないが、「ほっといてくれ」というのが正直な感想である。
なぜ気分がわるかったのか。
生活する、しないは、どうもその人間の裁量権の問題であり、他人様がとやかくいう筋合いのものではないということーがまず基本にないとそのメカニズムは解けないだろう。
わたしもこの種のことばを過去幾度となくいってきたようだが、いわれてみるとこんなに気分を害するものだと思わなかった。善意はしばしばその人間が安全圏にいて発せられるから、行為(発言)を受ける側は横暴にうつるのだろう。
こんなことはとっくに宣言を生んだ同人により喝破されていたが、発する側が「善意」だけに、なかなかやまない。「なんで気分を害するのか」となる。
たとえば極端な例だが物乞い(乞食)の生活をしているとしよう。物を乞う生活を選んだのだから、立派に物乞いをすればいいのであり、それに対して「かわいそうに」は余計なお世話である。そっと物を恵めばよい。講釈はいらない。
野宿者についてもそうだ。その生活を選んだのだから、嫌がる彼ら、彼女らを公園から追い立てることはない。立派に野宿者をすることにあり、邪魔をすることではない。
ところが問題はそう割り切れるほど簡単ではない。仕事に全く就けずに物乞いになった、リストラで野宿者になったーなど、他律的に追い込まれた場合はだろう。「立派に物乞い」をなど言い放つことができなくなる。それこそ傲慢だろう。立派に野宿者をーというのは逸脱した表現だ。
なぜ傲慢なのか、逸脱なのかは、物乞い、野宿者という社会的存在を生んだ一端がことばを発する側にもあるからだ。
すると「立派に物乞いをする」という個人の自立性を第一にあげるのは虚構になるのではないか、ということになる。個人の存在は社会的存在だからだ。
個人の存在は社会的文脈に吸収されること、になることで、問題が社会化され解決策が進む。例えばリストラ救済法が施行され、問題解決が進展するというように。
ただ、個人の自立性が薄められることは大いに考えるられる。イデオロギーや集団的責任に乗っかかり、個人力が弱体化してしまう傾向をたどる。
わたしが「ほっといてくれ」というある大学人への反応は個人の自立性から出たことばだが、社会的文脈に吸収されて弱められてはならないだろう。しかし社会的問題が横たわっているなら解決をはかるスクラムを組むというのが今のところ考えられる解答の最善策である。
野宿者であることを誇り、「乞食」であることを誇るー。かつて土方であることを誇るということが解放運動で主張されたことがあるが、この「ほっといてくれ」というのは意外と奥が深いし、戦前のアナーボル論争をも視野に入れて考える必要がある。