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ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

人間としての誇り

2006年03月31日 21時09分48秒 | Weblog
 京都の会合を終えて、帰宅方向がいっしょだったので、ある大学人とごいっしょした。

 車内で世間話をしていて、なぜかわたしの収入に話に及び、

「よう生活できますな」

と言い放たれた。
 
 どうしてそういう話になった忘れたが、かなり気分侵害である。

 相手は心配して(善意)でいっておられることは間違いないが、「ほっといてくれ」というのが正直な感想である。

 なぜ気分がわるかったのか。

 生活する、しないは、どうもその人間の裁量権の問題であり、他人様がとやかくいう筋合いのものではないということーがまず基本にないとそのメカニズムは解けないだろう。

 わたしもこの種のことばを過去幾度となくいってきたようだが、いわれてみるとこんなに気分を害するものだと思わなかった。善意はしばしばその人間が安全圏にいて発せられるから、行為(発言)を受ける側は横暴にうつるのだろう。

 こんなことはとっくに宣言を生んだ同人により喝破されていたが、発する側が「善意」だけに、なかなかやまない。「なんで気分を害するのか」となる。

 たとえば極端な例だが物乞い(乞食)の生活をしているとしよう。物を乞う生活を選んだのだから、立派に物乞いをすればいいのであり、それに対して「かわいそうに」は余計なお世話である。そっと物を恵めばよい。講釈はいらない。

 野宿者についてもそうだ。その生活を選んだのだから、嫌がる彼ら、彼女らを公園から追い立てることはない。立派に野宿者をすることにあり、邪魔をすることではない。

 ところが問題はそう割り切れるほど簡単ではない。仕事に全く就けずに物乞いになった、リストラで野宿者になったーなど、他律的に追い込まれた場合はだろう。「立派に物乞い」をなど言い放つことができなくなる。それこそ傲慢だろう。立派に野宿者をーというのは逸脱した表現だ。

 なぜ傲慢なのか、逸脱なのかは、物乞い、野宿者という社会的存在を生んだ一端がことばを発する側にもあるからだ。

 すると「立派に物乞いをする」という個人の自立性を第一にあげるのは虚構になるのではないか、ということになる。個人の存在は社会的存在だからだ。

 個人の存在は社会的文脈に吸収されること、になることで、問題が社会化され解決策が進む。例えばリストラ救済法が施行され、問題解決が進展するというように。

 ただ、個人の自立性が薄められることは大いに考えるられる。イデオロギーや集団的責任に乗っかかり、個人力が弱体化してしまう傾向をたどる。

 わたしが「ほっといてくれ」というある大学人への反応は個人の自立性から出たことばだが、社会的文脈に吸収されて弱められてはならないだろう。しかし社会的問題が横たわっているなら解決をはかるスクラムを組むというのが今のところ考えられる解答の最善策である。

 野宿者であることを誇り、「乞食」であることを誇るー。かつて土方であることを誇るということが解放運動で主張されたことがあるが、この「ほっといてくれ」というのは意外と奥が深いし、戦前のアナーボル論争をも視野に入れて考える必要がある。
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憎悪心が沸く瞬間

2006年03月30日 21時05分14秒 | Weblog
 いじめや人への憎しみが生まれる「原基」は何だろうか。

 個人的な利害関係か生じる憎悪感、嫌悪感は別として、知らず知らずのうちに身につけてしまっている集団意識をぬきにしては考えられない。

 たとえば新聞の連載の仕事と仮定しよう。

10人のスタッフで連載を企画した。1人の執筆枚数が10枚としよう。ところがある記者がその枚数を守らないとする。すると連載をコーディネイトする人(デスク)はなんとも言えない憎悪心がわいてくる。「こいつは何を考えているのか。最低限度の決まりごとも守れないのか」

 それまで彼(彼女)に対して憎悪などの感情など湧くことなかったのに、何か許し難い思いが生じる。

共通のコンセンサスを破ったことへの「集団的防衛反応」のだろうか。不義は「集団的な取り決めを何とも思わない」彼(彼女)にあるとみる。こうして彼(彼女)への悪感情が生まれる。

 大方は相手方が軌道修正することで事なきを得るのだが、エスカレートすると相手への攻撃ーまず口頭で、態度でーにまで進む。

 私も集団の中では大分ズレいるらしく、あまり集団的な取り決めを気にしないし、逸脱している場合があるようだ。それは相手の反応から、あとになり「ああーそうだったのか」と気付くから情けない。しばしば経験してきたことだ。

「なぜだか、居心地がわるいのはどうしてか」という感触の「原基」がわかってくる始末だ。

もやもやした思いが払拭されなかったのは、どうも集団の中の私と関係するようだ。

 勉強のできる子がいじめにあうのは、集団の中で特異(勉強が出来ること)であるからだ。会社でいじめがあるのはその集団の中で「逸脱したとみる」部分がターゲットにされるからだ。
 
 いま私のことを書いたが、私が被害ではなく加害の感情に襲われることがあるからやっかいだ。どうして克服するか。集団的決まりを厳守するようにするか、きまりを少し緩やかにするか。だいたい後者で落ち着く。

領土問題などは集団的意識の最たるものだ。穏やかにしないと解決できない。多文化共生というのもそうだろう。「近隣の国は仲が悪いものだ」とこの国の外務大臣が妄言したが、そうした憎悪の芽をつむのが政治ではないのか。
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ネズミでもあるまいし

2006年03月30日 00時09分34秒 | Weblog
 京都で夜会合があるので近鉄京都線に乗っていると、携帯電話がブルブル震えた。だいたい電車内では電話に出ないことにしてるが、一度コールではなく、2回もあるから周囲の人たちに気兼ねしながら出た。

 何事かと思ったら、

「シーチキン食うた?」

家族からだった。

「なにをしょーうもない。食てへんがな」

 この簡単な会話で電話は切れる。電車内で「食うた」、「食わん」だなど「論争」している場合ではない。品がない。

 しかし家で食べ物が減ると、わたしが食べたということになっている。ネズミでもあるまいしーと鼻をくくるが、大方はあたっている。

 しかし、今回は冤罪。シーチキンを「現認」したこともない。

 第一、わたしはあまりシーチキンが好物ではない。それが食卓から姿を消すと、わたしの胃のなかにあると類推させるところがなさけない。

 何か料理をつくろうとしてシーチキンが必要になったというのが真相のようだが、肝心のシーチキンがどこにあったか、なかったかは知らない。

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 男と女ー家長支配にたどり着く

2006年03月29日 09時10分36秒 | Weblog
「よめはんが文句言われんよになったら終わりや
でか」「先輩の言葉として承ります」

 電車の隣りの席から聞こえてきたサラリーマン風の先輩ー後輩の会話。40代か。

「よめはんというのは、うるさいもんや」

「しかし、うるさすぎまっせ」

「あほな、あんたに愛情があるから、いろいろ言うんや」

「そうでっしゃろか」

「そうや。だいたいあんたが関心のないものは愛情がないもんやろ」

「そうでっか」

「そやないか。あんたあまり関心のないものをここで具体的にあげなはれ。それに
ついてはうるさないでっしゃろ」

 そこで相手は絶句! 次の言葉がでなかった。先輩の言葉に屈服か。
 
 しかし「うるさくないよめはんは愛情がないのか」という疑問が湧く。支配ー被支配という臭いがこの言葉にあるからか。

 隣りの席の会話はそれ以上の進展はなく静かになったが、理想的な対等な男と女の関係とは程遠いが、よくある夫婦関係。「うるさくない」のは、すっかり愛情がさめているか、いま言った夫の支配でなにも言えないか、いずれか。

 男と女は違うが、ただ「うるさい」というのはおそらく男性の家長支配の不十分さを奥底から突き上げる言葉であるのではないか。つまりなお成育しているという意味で。もし対等なら出る言葉ではない。

 いずれにしろ若いカップルには無縁でありたい言葉だ。だいたい若い人は「よめはん」とは言わん。
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中・朝・韓経済トライアングルが始動

2006年03月28日 15時19分12秒 | Weblog
 中国が東北3省の開発に力を入れていることは広く知られていない。中国とは首脳会談すらできない状態だから、経済情報も広く伝わらない。東北部の開発や鉄道建設、中朝国境地帯、とりわけ新線と京義線の要に丹東がなり、対岸の新義州の経済特区は活況化する可能性は大きい。

 鉄道は大連―牡丹江までの1300キロ。2008年完工予定というから2年先のことだ。この鉄道のもつ意味はソウルからでて新義州に至る京義線とドッキングすること。つまり、中、朝、韓の経済トライアングルが築かれることなのだ。

小泉さんの靖国参拝ですっかり冷え切った中、韓関係は経済面でも実は後塵を拝することになるのではないのかーという観測も当然でてくるわけだ。

日本は東アジアの動向と縁が薄いということはないだろうが、対米一辺倒とナショナリズム発揚で構造改革がおくれているのではないのかという感想を抱いてしまう。
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ニュース戦争

2006年03月27日 23時36分57秒 | Weblog
 「ニュース戦争」が関西のテレビで4月から始まる。朝日放送が毎日放送の人気番組「ちちんぷいぷい」に視聴率で迫り、追い抜くこともある現象に、関西、読売テレビが同じ夕方時間に勝負するというらしい。

「しかしこの時間テレビ見るんかいなあ」と思うのだが、見る人は案外いるらしい。ただ東京からなぜコメンテーターを呼んでくるのかーということと、右派論客が多いこと。この2大特徴にはへきへきする。

彼らのコメントの特徴は昨日書いた、個々人が賢明な判断を下す多様性をうながすこともなければ、独立性、分散性もない。戦後民主主義否定ばかりではないかーと、もう見る気もしない。正直なところ(その時間は家にほとんどいないが)。

テレビ局の人はどう考えているのかとも思う。各局がやるなら、人選をバラエティーにとんだかたちにしてほしいが、さてどうなるか。

「現代の英雄」の影響は大きい。
 
 話題は変わるが、関西の大学が小学校を新設している。ドンドン格差が出る社会だ。富裕層は私立へ、そして指導者へーという社会構造が21世紀前半の日本の枠組みは見えてきている。一方で野宿者が公園から追い出される。資本主義の矛盾が沸騰点に向けて傾斜している感じだ。
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月とスッポン

2006年03月27日 20時38分15秒 | Weblog
近鉄の「けいはんな線」が開通した。大阪の本町から直通で帰れる。これで夜遅くなっても駅から歩いて帰れる。「夜遅くまでのめる」と余計なことを考えてしまう。駅から歩いて15分で帰れるから、以前の小一時間とは月とスッポン。

今日から走り出したが、私は朝から神戸で会議。これば午後5時半までだから、恐れ入る。

途中韓国から大正時代の原資料の読み下しを教えてほしいと電話。これを韓国語になおすのだそうだが、ハイレベルの翻訳の仕事をしておられる。通貨の単位がいまと違う。これも月とスッポン。金額の読み方もこれでいいのかとしばし戸惑う。

帰る途中切符を落とし、阪急電車に二重払い。だいたい行き先まで切符を買わない方がいい。こういう場合は。長時間の会議で疲れたのか。いや粗忽(そこつ)者以外にない。

まだひんやりとする。朝夕は寒い。
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反時代的状況の脱却を

2006年03月26日 19時02分17秒 | Weblog
ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』(角川書店)という本では「大衆は衆愚」であるという偏見を論破しているようだ。しかし日本の政治状況をみると、なぜ自民党の独走を許すのかという問いに、有権者の未成熟の政治意識をあげるケースがある。「衆愚」の観点のデフォルメである。

ジェームズの本では、ある牛の見本市で雄牛の値をあてるコンテストがあり、素人800人が投票した平均値の方が専門家よりも正解に近かったという具体例をあげている。しかし問題はこの本に指摘されている賢明な判断を下す個々が多様性、独立性、分散性をもつことが集団で可能なのかということだ。

往々にして何らかの働きにより集団意識に流れて誘導されていくケースが多い。群衆心理は付和雷同的な現象を生むこともある。マスコミによる誘導は大変な影響をもつが、多様性、独立性、分散性とはまったく縁のない存在になる。単一性、従属性、内的収斂性は逆の世界だ。いまの日本ではないかと思ってしまう。

単一性とは小泉首相の演説の妙であり、簡潔な表現に心を動かされた。従属性はいうまでもないアメリカの従属である。対米従属である。内的収斂はアジアの声を無視して突っ走る靖国神社参拝である。

そう考えるといまに日本は非常に厳しい状況にあることがわかる。ジェームズがあげた、「多様性、独立性、分散性」は大きな指標になるのだが、大切な点がある。それらをリードする人である。リーダーがいないと形にならないのである。これからはリーダー論がクローズアップされるだろう。そうでないと、「多様性、独立性、分散性」と逆の社会を継続しなければならないからだ。そういう時代にいまきている。
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 厠の話 現代便所考

2006年03月25日 00時47分26秒 | Weblog
店内を見渡すと、「トイレ」の案内があった。男子便所と女子便所個別に隣接しているのだが、男子便所では「よう」をたせないのだ。ではどうするか。

 女性のマークが入った便所を借りないといけない。我慢するか、それとも決行するかー。

 とても我慢できる状態ではない。

 レジの女性に申し出た。

 「不躾だが、便所かりまっせ。といっても、大の方なので、男子便所ではあかんので、女子便所入りまっせ」

 するとレジの女性は「何を言っているの?」という表情で、こう言い放った。

 「どうぞ」

 なんとあっさりしたもんだ。たぶんこうしたことは常態化しているようだ。それなら男子、女子のマークをつけるべきではないと思うのだが・・・。

 「許可」が取れたので、便所に入ったが、何か悪いことをしている気持ちが抜け切れなかったのは、どうしてか。

 しかしギンギラした厠だ。

 考えてみたら、便所の様相も変わったものだ。小・中学校時代は、便所は共用で、いまのように緊張してようをたさないといけないことなどなかった。

 社会制度が変わると、心根までも変わるものだ。

 男女が共用されなくなった便所はたしかに「進化」だ。とりわけ女性にとっては「安心空間」が確保されてきたといえる。

 その「安心空間」の確立は、一方ではかっての形態に出くわすとドギマギしてしまう心根を生む。性は分離されているからか。

 近代の「進歩」はいろいろストレスを生む。たとえば病気である。医学上の進歩がウイルスを叩くことで、以前には治らなかった病が治るようになった。さらに医学の進歩で克服されないと思っていたものが、あきらめなくなったからこれまでにないリスクが増える。

 昔は高速で京都ー東京に行くなんて考えられなくなったが、新幹線、名神で飛ばしていける。しかし、高速道路の運転は普通自動車道路より多くの負担、ストレスがかかる。文明の進歩はこれまで考えられなかった新たなストレスを生む。

 どうも便所もいっしょのようだ。

 「安心空間」をつくる「進化」をたしかに生んだ。男女が共有するというのは「前時代性便所」。その弊害を克服するときには想像すらできなかったストレスが生まれる。なぜ緊張しなくてはならないのか。信じられない。

 ここで「前のようなのでよかったのに」という復古主義が台頭する。必ず抑圧するもの、攻撃するものが出てくる。ジェンダーフリーに対する攻撃は具体例だろう。

 文明の「進化」は復古主義と人権への批判が噴出する。それとストレスが新たに起きてくる。ストレス問題で精神を病むことの増加まで考えないといけない。

 男女共有時代とは心根もやはり違う。ストレス、復古主義、反時代性の跋扈。しかし、なを「安心空間」を作っていくことは間違いではない。
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 報道の妙

2006年03月24日 08時46分23秒 | Weblog
今回の報道は非常に興味ある事例だ。というのは修正案への傾斜を翌朝(24日)の新聞では否定しながら、しかしなお修正に応じる可能性の根拠をいくつかあげているからだ。

 その分析はネット新聞で改めて行うが、事実の肉薄という点で面白い。山崎拓沖縄振興委員長が沖縄県北部首長らに200メートル案を明示していたなどのことだが、島袋市長は多分23日琉球新報夕刊の報道が出たことから、その対応を改めて記者に明示、「微修正拒否変えず」とコメントした。琉球は夕刊報道を否定したことになるが、しかし同紙は傍証をあげるのだ。

 とにかく200メートル移動して基地問題が解決するわけではない。そんな問題ではない。住民の願いは。地元紙も報道を注目したい。
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沖縄・名護市長発言で正反対の地元紙報道

2006年03月23日 20時36分34秒 | Weblog
今回の名護市長の記者団への発言は沖縄の琉球新報、沖縄タイムス23日夕刊で報じられたが、受け止め方がまったく異なる。琉球は「微修正容認の可能性」、沖縄は「沿岸案反対を堅持」とまるっきり違う。

「沿岸案への理解を求めている政府と市が互いに折れ合う可能性について島袋市長は『これから協議する』と答え、市側が譲る可能性を否定なかった」としたのは琉球。

 一方、「『これから政府と協議していく。3月いっぱいぎりぎり努力をしていこうということだ』と指摘」は沖縄。変化なしの感触は市議会答弁による。「この考え方を堅持していく」という定例市議会発言を「政府が求める微修正には応じないとの考えを強調した」として、これを報道の柱にしたのだ。だから「『これから背政府……』」はまったく重きをおかれていない。

 さてどちらがジャーナリズムですぐれているか。

 まず、なぜこの2紙の記者が同じ現場にいて違う受け取り方をするのか、だ。言葉に対する研ぎ澄まされた感覚ということなのか。あるいはニュアンスが異なるということで「ひっかけた」のか。あるいは微修正に応じると報じることで世論をリードしようとしたのか。最後はきわめて政治的報道になる。

 ゆくゆくは明らかになることだが、琉球は今後の動向に一定の確信をもつ情報をもっていたか、あるい注意深く市長の言動をウオッチングしていたか。いずれにしろ、島袋発言を夕刊トップにしたのは、新聞としては「書く特」ならぬ、見解の独自性を打ち出したということか。政治的報道はまずないだろう。それなら琉球の読者への信頼をいっぺんに失うことだし、そうした選択をする新聞ではないだろう。

 私の友人の見方は琉球報道に影響されたのかそうか。それにしてもだ夕刊が出る前だから、運動家の情報収集力はすごい。
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名護市長、移設修正案に「拒否」からニュアンスかえる

2006年03月23日 15時00分59秒 | Weblog
米軍普天間飛行場のキャンプ・シュアブ沿岸部への移設案について島袋名護市長は23日、市議会での前日の額賀防衛庁長官らとの協議について報告。このあと記者団に囲まれて、「政府が打ち出している若干の修正案に応じるのか」の発言について感想を聞かれたが、これに対して拒否という発言をしなかったという。

つまり政府の修正案を受け入れる用意があるとの解釈も成り立つわけで、移設問題はこれまでとは様相をことにしてきた面をもつ。

稲嶺沖縄県知事は「絶対容認できない」とする立場を貫いており、今後どのような展開になるのか。
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人出を呼ぶ春

2006年03月22日 11時59分38秒 | Weblog
 沖縄の仕事で関空にいるが、人が多いのには驚いた。大学生は春休みなのか。春になると人出が多い。

 面白いもので、冬の観光地もそうだが、春になると土、日曜日の混みはすごい。人出が多いと、何かからだに活力が出てくるようなのが不思議だ。一人ですっこんでいると、あまりよくない。

 春はそういう意味で活力を生む季節なのだろう。関空に来る途中、バスの窓外からみた梅林は美しく花弁を道路に向けていたような気がした。もう桜の季節か。
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役回り

2006年03月22日 11時49分00秒 | Weblog
出版記念会があるといつも司会をする役が回ってくるのはどうしてか。21日もそうだったし、4月の会もそうだ。

 即興詩を読む在日朝鮮人詩人も必ず回ってくる。役回りというのは面白いもので、全員? が認知しているようだから、何回も繰り返される。

 女性の参加が多いケースとそうでないケースはくっきりと分かれるのも面白い。これも役回りがあり、女性が必ず受付、会計というのもいかがなものか。

 昨日の会は朝鮮のパンソリ、踊りがあり、あるとないとは大違い。芸能の力は古代から現在、今にいあるまで変わらない。役回りの意味は意外と奥が深い。

 
 
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ネット社会と差別語

2006年03月21日 00時37分56秒 | Weblog
本の内容が生命力をもつか否かは、新たな切り口、新たな資料発見とか、要は時代の呼吸をどれだけ先取するか、解釈できるかにある。だから本が売れない現象に対してまずはその基本を検証する必要がある。

しかし本が読者の目に付かないことが多い。これでは売れない。

ただ本の流通の前に考えないといけないのは、編集者の仕事は著者にどれだけアドバイスできるかにかかっているということなのだ。古い意識では編集者を低く見る傾向があり、何かその人の秘書役のように思う人もいる。ただ、思われるのはその編集者が力量が足らないから、という面もある。

朝鮮問題なら朝鮮問題の新たな表現、問題なら問題の新たな切り口を普段からアンテナを張り巡らし関連本を読んでおかないとダメだろう。その作業を怠れば、とても編集者としては生きていけない。

テーマの1つに掲げた差別語の問題だが、普遍的類型化した人類を創造するのが近代西洋の到達した1つの人権理論というところからまず出発しなければならない。この志向性と差別語の問題は表裏一体なのだ。

だから身分差別も民族、人種差別も、障害者差別も、病に関わる差別も市民権をもたない。

ところがである。常識化しようとしても、差別意識、蔑視意識が人間にはむくむくとおきてくるから、抵抗を受ける。その抵抗とは沈黙して黙して語らないことでの抵抗である。

ブログが広まることで、これまでなかなか他人には言わなかったことをブログに着込むようになった。自分のことをそんなに話さないのがこれまでの人類の常識であったのだが。

ところがこの5年で大きく変化した。他人様に言わなかったことを書くようになった。

ここのところが沈黙していたものが気軽に表現されるもの(電子社会)を生んだ。随伴する社会になった。自分も普遍的類型化された一員なのに、そんなことおかまいなく、自分の主張、表現の1つとして差別性を出す。差別意識を語り始める。

ところが現実の社会ではまた違う。ネット社会ほどひどくはない。ギャップが生じているのである。

ここのところが表現の質として面白い。現代の表現を考える場合、アンテナを張らねばならないのは、このインターネット世界と付き合う編集者の必須事項だろう。ギャップを安心しておいていいのかなどの実践的課題はおいておいて、どう展開していくのかは興味が尽きないテーマだ。

残るのは生身の人間ということ。ここが最大の関心があるところだ。生身の人間への関心が減ると、現実からの遊離という現象がおきてくるだろう。社会の倫理も約束事も徐々に崩壊していく危険性さえあるのだ。
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