ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

金曜インタビュー「ヒバクシャとボクの旅」を撮った映画監督国本隆史さんに聞く 全インタビュー掲載

2010年12月13日 23時01分36秒 | Weblog


金曜インタビュー「ヒバクシャとボクの旅」を撮った映画監督国本隆史さんに聞く は5回までお届けしたが、最終回6回分の残りもあわせて全インタビューを掲載する。12月17日(金)の18:30〜20:30まで会場・神戸市勤労会館404号室で開かれる。観賞を深める意味でこのインタビューを参照していただければ幸いです。
 インタビューのきっかけは8月にさかのぼる。大阪・釜が崎の夏祭りでの上映会で国本隆史監督の「ヒバクシャとボクの旅」というビデオ作品を見たことがきっかけだ。被爆体験をどう継承するのかという問題を見据えた秀作だと感じた。今年29歳の若手の映画監督に話を聞くことにした。



―映像とのかかわりはいつからでしょうか。
国本 東京の大学時代です。専攻は社会調査論でして、ビデオを持って、フィールドワークへよく出かけていました。指導教官が、長崎の被爆者の生活史調査を30年以上続けている方で、長崎に行って、被爆された方のお話を伺う機会もありました。卒業論文では、ビデオ作品をつけて提出しました。そのとき作ったのは、2002年のワールドカップの日韓のサポーターの比較研究で、新宿区大久保や韓国へ行き、応援に参加する日本人、在日コリアン、韓国人のサポーターにインタビューをし、30分の映像にまとめたものです。僕が通っていた大学では、映像作品での卒論は初めてでしたが、指導教授が「映像で提出してもいいのでは」といってくださりました。
大学卒業後はサラリーマンをしていました。しかし映画づくりに興味をもち続け、働きながら、映像を使って日中交流をすすめる「東京視点」というグループに参加し、映像制作の勉強をしておりました。それから、2008年9月から2009年1月までの4か月間、広島、長崎の被爆者の方々ら103人が地球一周する船に乗りながら、世界に証言を届けるプロジェクトがあると聞きました。このプロジェクトは、国際交流NGOピースボートが企画したものですが、この話を聞いたときに、「参加しなければならない」と思いました。そのときは「地球一周できる」という思いと、「長崎で被爆者の話を聞いたのに、自分は何も応答していない」という思いがあったんだと思います。そしてプロジェクトに同行しながら、「ヒバクシャとボクの旅」をつくりました。完成したのは2010年4月になります。長崎、広島、山口、兵庫、大阪、京都、横浜、東京、オーストラリアなどの各地で上映会を企画していただき、これまで15回以上実施しております。

―その「ヒバクシャとボクの旅」はどれくらいビデオを回されたのですか。
国本 250時間です。100名近くのヒバクシャの方々や、20カ国の訪問先で出会った人々、若者たちにインタビューをして、それを64分にまとめました。「被爆者の表現をどう継承するか」というテーマを追求し、ピースボートの船の中での証言、アジアから回ってヨーロッパにぬけて、中南米、南米、オセアニアなどの20か国で交流など記録しました。タヒチでのフランスの核実験のため被爆した人の証言も撮影しましたが、作品には収録されていません。いろいろな交流や証言があり、何を軸にして映像を構成するか、迷いまして、編集作業は1年近くかかりました。最終的には、被爆証言を聞いた自分たちはどうしたらいいのか、という問いを軸にまとめました。ですから、この映画はヒバクシャのストーリーではなく、被爆証言を受け取る者たちのストーリーにしたかった訳です。

―証言が率直で見ている側には証言者の本音がよく出ていたと思います。若者の証言もストレートでいい。本音を語っているから、その次の展開が映像で出ることになりますね。

国本 乗船した若者の中には、初めて被爆者と出会う若者が多かったです。ある若者は、原子爆弾が通常兵器のように他の戦争で使われていると思っていて、戦争で原子爆弾が落とされたのは「広島と長崎だけなんだ」と衝撃を受ける場面がありますし、何回も証言を聞いて「証言に慣れちゃった」という若者もいます。その若者は、「(証言を聞いて)全然面白くなかった。何キロの地点で被爆して、その時自分は何歳で、という感じの話しを聞いて、何人かまで聞いていくとまたその話かと」いう感想を述べる若者もいました。もちろん証言を聞いて、「原爆は悲惨」「核廃絶しないといけない」という感想もありますが、これは当たり前になりすぎていて、ある意味ステレオタイプで、あらかじめ定められたような感想なんですね。僕は、「証言を聞いて慣れてしまった」という感想に正直さを感じましたし、そういう感覚も含めて、被爆証言をとらえていくことが、自分たちにとってのスタート地点のような気がしました。そういった証言に対する感覚も大事にしながら、自分たちなりに、どう被爆証言に向き合っていくか考えていきたいと思いました。

―若者の証言で注目したのは1人の女性の感想です。その証言はこうです。「不思議なんですけど、悲しまなきゃいけない、泣かなきゃいけないとか、変にそこで悲しんで、だからそこで戦争はいけないといわなければいけないんだって。たぶん、そういう流れがあったと思うんですが、もっとかみくだいたら何が悲しいのか、何で悲しいのかいま1つ説明できない」
正直な感想ですし、その正直な思いが実に自分に向かっていて極めて動的なものを感じました。先ほど、正直に「証言に慣れちゃった」、「(証言を聞いて)全然面白くなかった」という感想がありましたが、その限界を超える視点をこの若者は示したと感じました。

国本 僕も彼女の証言が引っかかっています。被爆証言を聞いているときは、悲しくて仕方がないのに、ふと次の日になってみると何が悲しかったのか思い出せない。じゃあ何が悲しかったんだろう。被爆証言って何なんだろう。そういう感覚をさらに深めて、被爆問題にかかわる作品制作は僕の今後の課題になっています。「悲しまなければいけない」と感じて、悲しんでしまっては、それは思考停止に陥っていることになります。


--映画の中では、被爆者が変化していく姿も描かれています。

国本 乗船した若者だけでなく、被爆者の方々も、世界各地の戦争被害者と交流する中で、変化していく姿が印象的でした。それまで僕の中での被爆者の印象は、固くて大きい岩のような、なかなか変わらないイメージだったのですが、各地を訪れる中で、被爆者の方もどんどん変わっていくんですね。例えば枯葉剤が落とされたベトナムで、障がいを持って生まれた子どもたちに出会い、ある被爆者の方は「自分たちも、あのばからしい戦争の被害者なのに、他の戦争被害者のことを何も知らかった」と語ります。そして、「もしかしたら世界の人々も原爆のことを何にも知らないのでは」と、自分たちの証言の必要性に気がついていきます。

―そのことを映像ではきっちりと記録されていますね。彼女の証言は、枯葉剤被害者との出会いで、戦争被害の共通性、そして伝えていく覚悟、そういう気付きが収録されていて、作品の大事な場面だと思いました。そして幼少や胎内で被爆を経験したために、原爆投下時の記憶を持たない被爆者が登場してきます。

国本 今回103名の被爆者が乗船していた訳ですが、その方たちは被爆者手帳を持っていることを条件に選ばれました。その中には、おっしゃられたように、幼年期に被爆したり、胎内にいたりしたために、当時の記憶がない被爆者の方もいらっしゃいました。その方たちは、航海の最初のころは、「私たちは記憶がないから被爆証言ができない」ということで、遠慮がちなように見えました。ところが、各地で戦争被害者の状況を目の当たりにする中で、自分たちにできることはないのかと、模索を始めます。絵本の読み聞かせをしたり、紙芝居や劇をしたり、「自分には記憶はないけど、こういうことを勉強した」と若者に話したりなど、少しずつ活動を始めていきます。その「記憶がないけど、伝えたい」という気持ちが、僕にとって、これまでの被爆証言では得られなかったもので、印象的でした。

―原爆被害の状況だけではなく、もっと掘り下げて、「被爆したことが人間にとってどういうことなのか」を伝えないといけない。「悲惨な体験を乗り越えたことを語ることから、もっと本質的なことを伝える努力をするべきだ」と語られる証言は、意図せずでてきたものだけに、作品の中心に座るもう1つのテーマと思いました。

国本 映画の中で、当時の記憶のない被爆者が集まり、討論をする場面が出てきます。その中で、「自分たちは記憶がないから逃げていた」とか「あと10年たったら証言できる被爆者がいなくなる。そのときに私たちは次の被爆者として何をするべきなのか」という発言が出てきます。この「次の被爆者」という言葉が印象的でした。この発言をした被爆者の方は、2歳の時に広島で黒い雨を浴び、その後、ブラジルに移民をしました。両親が何も語れなかったこともあり、彼女は自分が被爆者であることを、長い間自覚していなかったんですね。38歳の時に、被爆者であることを知り、被爆者手帳を取得しました。そして、ブラジルで、移民した人たちの被爆証言を読んだり、映像で投下当時の映像をみたりすることによって、「自分は被爆者なのに、何も知らなかった」と衝撃を受け、ブラジルの被爆者団体に参加して、在外被爆者に対する補償要請運動に身を投じていく訳です。また彼女はブラジルの学校の語り部にもなっていきます。その中で、自分は何も知らなかったという地点から、自分の核廃絶に対する思いを展開させていきます。そして今では、継承活動を自分自身の使命として受け止め、積極的に活動し、2010年の9月には、キューバでフィデロ•カストロ前議長の前で、証言をしました。
そういった当時の記憶のない被爆者の活動を受けて、若者たちも反応していきます。ある若者は「被爆証言は、(原爆が)落ちたときのことだけではなく、被爆したその後のことも証言なんだと感じました」と述べています。そして、「(これまでの)被爆証言に共感することは恐れ多いけど、若い被爆者の方(当時の記憶のない被爆者)とは一緒に何か作っていけるという希望が感じられた」とも証言しています。これは、被爆証言に対する我々の解釈の広がりであり、一つの希望だと思うんです。

―それともう1つ、被爆証言に対する国本さんの姿勢は、映像の中でこう語られていますね。「自分の向けられた言葉なのに、被爆証言を聞くと僕はどうしたらいいのかわからなくなる。被爆証言は被爆者でないとできない。証言を聞いてもぼくでは何にもできない」
この国本さんのスタートにあるところからどう進んでいくかが作品を創る姿勢でもあると感じました。

国本 「被爆証言を聞いてもどうしたらいいのか分からない」というのが、僕のスタート地点でした。体験者の方から聞く証言は貴重な機会です。当時の状況を理解できるように、想像力を働かせながら、聞きます。残酷だな、悲惨な光景だなと思いながら、そのときの状況をイメージしていきます。しかし、聞き終わってみると、自分がどうしたらいいのか分からなくなっていました。被爆者の方は「自分や家族に悲惨な経験を負わせた非人道的な兵器なのだから、廃止すべき」と言いますが、僕には同じような言葉が言えなかったのです。もちろん核兵器はない方がいいに決まっていますが、被爆者のメッセージは被爆者のものであって、僕の言葉ではないと思っていた。だからこの映画では被爆証言を聞いた立場から描いたものであり、証言を聞いた僕らの証言にしたかったのです。
 証言を聞いた後、何もできてない自分というのは、せっかく被爆者の証言を聞いたのに、無視しているような気持ち悪さがありました。すれ違う人に「よっ」って声を書けられたのに、そのまますれ違ってしまったような。だから、ずっと心の中に引っ掛かっていたままだったのです。この映画では、証言を聞かせていただいた方への返事の思いを込めました。

―被爆者体験の継承が大きなテーマですが、幼い時に被爆した女性は「被爆者が死んでしまえば証言する人はないんです。わたしらの子どもが『うちのおかあさんがこんなこと体験してこんなことを言っていました』と言っても被爆証言にならないんですよ。いくら被爆2世であっても。だから被爆者本人が伝えないと」こう語っていますね。

国本 確かに、僕も被爆者の立場による被爆証言は被爆者にしかできないと思っています。しかし、僕らにも発信できることがあると思います。それは、被爆証言を聞いた者としての証言です。「自分たちが体験した悲惨な体験を二度と繰り返してはいけない」というのは被爆者のメッセージです。聞いた者として、できることは、勉強して証言を検証していくこと。被爆者だけでなく、いろいろな立場の証言を聞いて、被爆証言を位置づけていくこと。そして、証言に自分たちなりの解釈を加えていくことが重要だと思っています。最終的に、核兵器廃絶というゴールはひとつであったとしても(そうでなくてもいいのですが)、そこに至る道筋は無数にあります。核廃絶の根拠が「被爆者の方が言っていたから」だけであったら、弱いと思います。今、資料館や図書館へいけば、文書、映像、音声記録、あらゆる媒体で、被爆証言が残されています。それをこれからの社会で活かすためには、受け手もままで終わらず、受け手の視点を積極的に取り入れた発信をしていく必要があると思います。もちろん被爆証言は貴重なものですが、当時の経験のない僕らにもできることがあるのだと思っています。

--また軍事評論家の前田さんにも被爆者体験の継承についてインタビューしていますね。「被爆証言は被爆者のものであり、継承出来ない。継承できないメッセージと、継承できるメッセージをどう扱うのかと提起しています。」被爆者の記憶をどう受継ぐのかと提案しています。その1つの具体例としてインド人が演じる芝居とアメリカでの出会いを紹介していますね。
国本 インドでは、ジョンデバラジ氏が主催するNGOボーンアートフリースクールの「白い花」というミュージカルを観賞しました。このミュージカルは、インドのストリートチルドレンによるものです。ジョン氏の主張では、インドの子どもたちも核兵器の被害者です。インド政府は核兵器の開発に多大な予算をさき、子どもたちに予算をさかない。ま上上では2億人以上の子どもたちが生活をしているのに、ストリートチルドレンに対する政策も不十分である。核兵器が開発されているために、子どもたちが貧困を強いられている。だから、子どもたちも核兵器の被害者であるというのです。
 ジョンデバラジ氏は、被爆者ではありません。広島で被爆証言を聞いたときに衝撃を受けて、インドの子どもたちによるミュージカルを作りました。それは、日本で描かれてきたものとは、ちょっと味付けが違うもので、新鮮な衝撃がありました。
 またニューヨークの高校では、キャスリンサリバン氏が、BB弾を使って学生たちに核兵器を伝えていました。一発のBB弾は、第二次世界大戦で使われた銃器や爆弾の火薬の量と説明して、学生たちに目を閉じさせます。今現存している核兵器の火薬分のBB弾を流し始めると、いっこうに終わらないのです。音を使って効果的に、現存する核兵器のイメージを伝えていると思いました。彼女はまた"The Last Atomic bonb"というドキュメンタリー映画も共同製作もしています。彼女もまた被爆者ではありませんが、核兵器の恐ろしさを伝えています。原爆体験そのものは体験者とともにありますが、継承できるメッセーはあると思っています。

―ところでいまは関西で仕事をしておられるのですね。
国本 下船後、会社を辞めて、神戸の長田区にあるNPOに転職をしました。長田区は、人口の約一割が外国人と言われています。私たちは、多文化な背景を持つ子どもたちを集め、彼らに映像の作り方を教えています。子どもたちがビデオカメラを持って、まちの中の多文化な取り組みをレポートしながら、いろいろな人と出会う機会を作っています。いつか、子どもたちがもやもやした気持ちを、映像という道具を使って、社会に発信できたらいいなと思いながら活動しています。いまの映像を撮り始めたところなのは、神戸・長田の朝鮮学校です。どのように長田に在日コリアンの方が住むようになったのか。そして阪神教育闘争の歴史をふまえつつ、今の朝鮮学校をとらえていきたいと思っています。

 また各地で「ヒバクシャとボクの旅」の上映会が開かれれば、そこに出かけていきます。見ていただき、感想をいただくことが、一番勉強になります。これまで、上映会場での出会いから、勉強会を企画したり、映画監督や大学教授と対談をしたりと、いろいろなつながりが広がっています。
【参照】長田の子どもたちが発信する「わぃわぃTV」ホームページ http://www.tcc117.org/yytv/

―国本さんは被爆証言を聞いた人が何もしなければそこで途切れる、とナレーションで最後に述べています。そして被爆者とぼくの旅はいまも続いていると結んでいます。今後の作品を期待しています。

国本 「被爆証言の継承」はこれからも自分なりに取り組んでいきたいテーマとなっています。これからもドキュメンタリーを作っていきたいと思います。また今一緒に活動をしているベトナムの子どもたちとも、いい映像を作って、社会に発信していきたいと思っています。


※ 「ヒバクシャとボクの旅」上映会
非核の政府を求める兵庫の会 市民学集会
日時: 12月17日(金)18:30〜20:30
会場: 神戸市勤労会館404
お問い合わせは、事務局 電話 078-393-1833
e-mail shin-ok@doc-net.or.jpまで

「ヒバクシャとボクの旅」「フラッシュオブホープ」
2枚組DVD販売中
お問い合わせは、ピースボート事務局
http://ameblo.jp/hibakushaglobal/
映画の連絡先 〒169-0075 東京都新宿区高田馬場3-13-1-B1
Tel:03-3363-7561/Fax:03-3363-7562
料金¥3000(上映権付き¥30000)

「ヒバクシャとボクの旅」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=NBIZ4cTYS5o

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする