ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

図書館は知の宝庫

2010年12月25日 23時19分12秒 | Weblog
調べもので今日は図書館をはしごした。

 大阪府立は中ノ島と中央の2つに分かれているが、資料はよくそろっている。2館にまたがるのが少し不便。中央に行って、肝心の資料が中ノ島ということがあるからだ。逆の場合もある。

 ただ明治時代の資料は複写できず、手書きで書き写しするしかないのが大変だ。しかし手書きの方が記憶に鮮明だ。

 奈良はいい図書館ができたが、大阪のように希望図書のリクエストができないようだ。駐車場が1時間以内なら無料なのがいい。前は建物の前に止めて返却で走って図書館に駆け込み戻るという陸上選手のようなことをしていたが、今度はそうした気のあせりもなく図書館におれる。

 昔は郷土資料室が狭いながらもよくわかる配置だったが、新しい分類ではあまりにも広いスペースでどこにあるかわからなくなった。紀元2600年関連の資料で当時の新聞を集めたものがあったはずだが、どこにあるかわからなくなった。
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2009年12月アクセスNO1記事<strong>民族排外主義の再来は御免だ</strong>

2010年12月25日 08時38分24秒 | Weblog
民族排外主義の再来は御免だ

 極右の排外主義が顕在化している。かつて1929年の大恐慌で在日朝鮮人への排斥が吹き荒れた時代に似ているのかもしれない。社会の底流にある不満を排外主義が吸収する。その図式は変わらないのか。

 人間の行動パターンはよく似たことを繰り返す。現象学学者山崎カヲルさんが10年以上も前に書いた「異者の表象」という論文では、人間は自―他の関係は理論的に100パーセント理解可能な関係として築かれ、理解できないものは、当然、表象化できないのだが、これを描く場合、意外と簡単な操作で造詣する。

 これまでの文化コードに少し変形させた像が描かれる。ただしそれはいずれも過剰―過少、極大―極少の像を取り結ぶというのだ。典型的な例は宇宙人である。想像上の宇宙人は頭が極大であり、それに対して手足が極少なのだ。多くの宇宙人像がそれだ。それは自―他の100パーセント理解可能の範疇に入らないから、描くことができない対象をそのように描くのだ。

 社会から排除した集団、人間、集落など、人間が描く像は、暴力の過剰、金銭欲の過剰、命の重さの過少などとして像が取り結ばれることが多々ある。実際は、それはまったくの虚像なのだが、差別・排除する人たちはその像に取り付かれる。残念ながら繰り返して人類の歴史に刻まれてきた。朝鮮(北朝鮮)を恐ろしいとうぞぶく人がいるが、本当にそうなのか。やはり排除からくる過剰、それも暴力の過剰として見る意識がそこにあるように思える。

 社会の危機のときに生ずる排外主義は、内を守る意識が発火点としてあるが、しかし、内―外を峻別できる時代ではない。グローバル社会は世界に浸透しているのであり、民族排外主義で危機を克服できるものでもない。危機を克服する道筋は、人間の尊厳を取り戻す道程、行動にあることは明らかなのだ。1929年事後の再来だけは招いてはならない。
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