ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

日曜新聞読書欄簡単レビュー

2009年05月25日 00時33分40秒 | Weblog
  ヌーブロマンのフィリップ・ソレルス『スチュディオ』(水声社、2625円)-朝日―が書評で取り上げられた。60年代の目で見渡した「今」が書かれていると紹介されている。それは無機的な透明感を読者に与えるというわけだ。評者尾関章は「突如として、社会的なつながりがほどけてしまった」という疎外感という一節を引用している。いかにもソレルスらしい仕立てだ。しかしソレルスの小説構成は21世紀の今、実感を覚えるのだから恐ろしい。現代を描くとすれば、無機的な世界をどう描くのか。それと欲張ればその脱出を示唆できるのかにあるようだ。

 鈴木英生『新左翼とロスジェネ』(集英社新書、735円)-毎日は田中優子が評者。著者は『蟹工船』ブームきっかけを作った新聞記者。どこが新左翼がロストジェネレーションに結びつくのか。社会改革の有効な方策構築に失敗したというのが著者の新左翼感らしい。だからこそロスジェネということか。しかしそれではだめであし、また思い出としての新左翼であってはならないわけで、田中が言うように、日本社会が乗り越えるべき課題が新左翼運動で挫折したものに見出している。その挫折したものの分析は本書に真骨頂だが、著者独自の視点でもある。

 京都大学で昨年末、「竹内好の残したもの」というテーマでシンポジウムが開かれたが、定員をはるかに超える申し込みがあり、情報をつかんだ時点で私は定員オーバーで参加できず地団駄を踏んだ。あれから半年でシンポの内容を知ることができる本が出るとは実にありがたい。鶴見俊輔編『アジアが生みだす世界像 竹内好が残したもの』-京都―のこの書は、鶴見の「人民の記憶」の継承を希求することで実現したといえるシンポなのだ。安保闘争で規定したのが鶴見の「人民の記憶」継承という言葉なのだが、竹内が悪戦苦闘して求めた自前の思想をどう記憶として継承するかにある。竹内に関する基調講演を中島岳志が、井波律子、大澤真幸い、山田慶児、山田稔などが論じるのだ。編集グループSURE制作で、定価は1785円。書店では購入できない。郵便振替用紙で京都市左京区吉田泉殿町47、編集グループSURE 00910-1-93863 に申し込むこと。

 大学改革で最も求められているのがグランドデザインのなさ。大学人は独立法人化、少子化対策で学問研究よりも企業なり高校への交渉担当者という部分をもつのだから、おちおちと研究に没頭することなど出来なくなる。ビジネス最前線のような大学人。これでは当然反省が出てくるわけで、猪木武徳『大学の反省』(NTT出版、2300円)-日経―では大学教育の反省を述べたもので、「古典を中心としたカリキュラム」を上げている。教養教育の充実を指摘する。それは単なる学力である学知ではなく、公共知(判断力)、私徳(個人の心の行儀)から公徳(社会倫理)を養成をあげる。教養教育とともに老人の経験知をあげる点が、この書の独自の視点だ。竹内洋が評者。

茂木健一郎が評者としてスティーブン・ビンガー『思考する言語』上・中・下(NHK出版、上・中1160円、下1070円)―日経―を紹介している。英語の例をあげながら言語の奥行きの深さをあげている。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マスク不足はこうして解消

2009年05月23日 10時05分23秒 | Weblog

 正しい情報というのはなかなか計りがたいものだ。21日の新聞には今回のインフルエンザは1957年以前に生まれたものには免疫があるとの医学研究が報じられていたが、しかし海外では高齢者の患者も出ているからどうもあてにならない。

 またいま罹患すると免疫ができるから、秋以降に懸念される再流行では罹ることはないと医者が言ったとか、言わなかったとか。しかしウイルスは突然変異してどんどん進化するのだから、この説もどうもあてにならない。

 科学は実証的だから、その研究結果として出される成果は普遍性をもつ。条件を同じにすれば、地球上どこでも同じになる。しかし問題は解釈なのだ。人間の解釈なのだ。顕微鏡に映し出されるウイルスは誰が見ても同じだが、解釈、分析となると千差万別である。

マスクについても効能を疑う人もおれば、効果を絶対視する人もいる。カナダ政府などはまったく効果を認めていない。本ネットで朴明子さんがエッセーマスクを洗って再使用すると書いていたが、いまはもっぱら使い捨てばかり。なぜ洗濯しての再使用がだめかは不鮮明。ウイルスが手などにつくからという。しかしすぐ洗濯すればいいではないか。それでもだめなのかはわからない。

使い捨て時代はやめようーとエコの観点から主張されてきているが、社会が危機になると時代の本音が出てくる。かわっていない。再使用するためのガーゼ生産を多量にはかり再使用マスクを増やせばよい。いまのマスク不足は解消する。何度も使えるからだ。なぜこうした観点が表にでないのか。「マスクがどこの薬局に売っていない」という騒ぎは「節約の発想」で解消されるはずだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同志社大学新町校舎

2009年05月20日 15時31分38秒 | Weblog
 知人に会うため京都の同志社大学新町校舎に行った。

 同志社といえば憧れの大学で私にはなんとも縁がない大学だが、今年初めて新町校舎構内に入った。いつここに建てられたかは知らないが、大学機能の大半が新田辺校舎に移ったと思っていたら、京都にまたリターンしているのか。よくわからない。

 用事を済ませて校門を出ると夜間中学の先生にであった。大学で勉強されているということだった。志が違うと感心した。

 町はマスクだらけ。インフルエンザも猛威なのか。しかし、この調子で年間自殺者3万人の異様さも連日伝えてくれないものかとも思う。真剣に考えることがあるものはほとんど無視され、あることがらは焦点化される。

 阪急で大阪に出たが、やはりマスクは目立った。「マスク買っえきて」と家人に頼まれたが、売っている店などない。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ただただボーとする

2009年05月19日 22時39分24秒 | Weblog
 丹波マンガン記念館の本がやっと今日で終わった。さて原稿しめきりが1週間後に控えている。

 それではつぎに原稿執筆へとは行かない。ボーとして何もできない。機械じゃないのだから。1つのことが終わったからといって、アクセルを切り替えるわけにはいかない。ただただボーとしているだけだ。

 だいたいこの本に5カ月かかった。編集することと、自分が書くことは別で、脳が働かない。そういうものだ。

 韓国からシンポの招待メールが来ていたが、開催まで3週間もない。遅すぎる。残念なことだ。資料だけはほしいと担当の方に頼んでおいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小沢代表辞任をどうみる

2009年05月13日 09時27分09秒 | Weblog
 今日の朝日新聞を読むと、「鳩山」「岡田」の順に次期代表選での立候補候補が見出しで並んでいた。「あれ?」と訝(いぶか)った。

 つまり鳩山さんが一番手ということだ。これは執行部が選挙を両院議員の投票で決めることで押し切ったからだ。

 本澤二郎さんのコラムでは「小沢辞任は、無党派を中心に再び民主党支持の流れを作ることになる。政治環境を一変させたのだ」と書かれたが、そうはいかなくなった。

 鳩山代表誕生は「小沢の院政」「小沢型政治と踏襲」とかの批判を招くことは必定。どうしてすんなり岡田選択がないのか。朝日は権力闘争と書いていたが、政治家に権力闘争は当然あるがものの、大きな権力闘争は民意がどこに向いて吹いているか、その結果、どの人を次期代表にすえるかという判断があってこそ本当だと思うが、そうはいかないのかもしれない。これがなさけない。

 しかしまだわからない。派閥政治はどの党でも同じだが、どう各グループが動くかうかがい知れない。私は単純に考えて鳩山さんは幹事長として小沢辞任に責任があり、しばらく身を引くと考えていたのだが。民主党も、自民党も、公明党も、社民党も、共産党も、政治家を期待する党に属するからといって、「この党の人は違う」と特別に見るのはいけないのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜日恒例の新聞読書欄簡単レビュー

2009年05月10日 19時42分51秒 | Weblog
 日曜日恒例の新聞読書欄簡単レビューです。まず生命を見つめる哲学者と作家の作品から。

 立岩真也『唯の生』(筑摩書房、3360円)と辺見庸『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』(大月書店、1365円)がそれ。いずれも中日新聞の読書欄から。
 立岩の本は螺旋型思考というか、なかなかなれない。生命にういて、障がい者問題の論及で『現代思想』などに連載しているのに、何度かチャレンジして読んできた。立岩は螺旋型思考をなぜ辿るかhは、多分絶対的な概念とかイデアとは無縁なところで思考するからだ。神とか真理とはいうイデアをたてれば実に直線的に回答にたどりつきやすい。無論、これは亜流宗教観であることは言うまでもないのだが、立岩は行きつ戻りつ生命について考えるからまわりくどい文章になり、簡単に答えを求めるせっかちな私がいらいらすることになる。実はいらいらしてはならないのだが。中日の評者は向井承子で、「生死めぐる難問に挑む」との見出しの結論を「生きることを否定する価値を信じる必要はないこと」という言葉を引用している。立岩の思考がどういう経路、もしくは軌跡をたどりここにたどり着いたのかを知るには、長大なこの本を開くことが求められる。『希望について』『良い死』にチャレンジした私は多分この書を読むだろう。

 もう一つの辺見の作品はカミュの小説『ペスト』をめぐる思考をめぐらしたものだ。辺見はすぐさま本質に迫る作品群を生み出してきた。そこにはタブーなどないし、厳しいメディア批判がある。真摯に自己と向き合う人々を讃えてもきた。カミュといえば不条理だが、その不条理を告発する本質を辺見はこの書で書いているのだろうか。辺見の聡明な文章を読みたくさせる。何がしのびよる破局なのか。

 毎日新聞の「この人・この3冊」は中村元の『東洋人の思惟方法』Ⅰ~Ⅳ(春秋社)、『ブッタのことば スっパニパータ』(ワイド版岩波文庫)『佛教語大辞典』(東京書籍)を選んでいる。サンスクリット語に挑んだ経験をもつ私は、佛教は語学だと痛感してきた。それは言葉により真理が伝わるからで、無論不立文字をとなえた禅の世界もあるが、不立文字と対概念を立てなければならないほど、言葉は大きな意味をもついのだ。中村はパーリー語、チベット語も完璧に会得した。だからこそこの3冊をものにした。というか佛教の精神を言葉に託してわれわれに届けることが出来た稀有の学者なのだ。評者若林隆壽は中村と坂本太郎(国文学者)が談笑するおtころに同席した経験を披露している。何のてらしもなく互いに質問する姿に「真理の探求を第1義とする」中村の姿勢を見る思いがしたーと書いている。

 中日新聞が紹介した大山顕『高架下建築』(洋泉社、1785円)は面白い写真集だ。東京、大阪の高架下建築を写す。庶民感覚が生きている写真集ではないか。つい開けたくなる。そういう思いにさせる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国映画チェイサー(追撃者)から考える映画の楽しみ方

2009年05月04日 09時35分18秒 | Weblog
韓国映画チェイサー(追撃者)が1日から公開されている。映画評論家西脇英夫さんが『キネマ旬報』最新号で映画評を載せている。これが私が書いた映画評http://blog.goo.ne.jp/kawase1947/e/9716aa54d94963a2246bf698639f38f7とは対照的な視点ともいえる。映画は本当に鑑賞者によりそれぞれ異なる点が面白い。

 私の映画評では、どうも形而上的視点から見た点が目立つ。それと韓国で見て、下敷きとなった実際の殺人事件について調べて書いた点が特徴。『月刊朝鮮』の記事ではいくらネットといえども公開できない犯人の個人的問題まで書かれていたことも知り、さらに韓国で出された単行本をさぐることまでして書いたものだ。ちなみにこの本は絶版で手に入らず国会図書館まで足を運び調べて書いた。

 さらに韓国社会が本当に死刑が廃止されているのかも視野に入れた。結論的に述べると、法制度上は死刑が廃止されてはいない。死刑を行政府が執行を認めないのだ。2007年大統領選挙では李明博候補は廃止に反対の立場であることも知った。

 そして、映画を韓国で再度観て、キーワードが神と救いであると確信して映画評を書いた。それが文頭で紹介した私の映画評だった。殺害される女性の子どもが映画後半出てくるが、その子がカギではないか。救いを希求する2人(主人公と女の子)のように感じてラストシーンを観た。その映画評が間違いであるかどうかは、個々人で感想があろう。

 西脇さんの映画評(「強靭な監督の演出にただただ感心する。韓国犯罪サスペンス映画の大傑作」)は多くの映画を観てこられた方だから書けるものといえよう。私の韓国語の実力のレベルの低さ知った。西脇さんの解説で主人公が最後まで犯人と思わず「デリヘル嬢専門の転売業者」と思い込んでいたとの解説で出会ったからだ。西脇さんの解説でやっとわかったというおそまつさだ。

西脇さんの評でわが意を得たりと思ったのは、金銭欲にかられて懸命に女を探す映画の基調が、逆に形而上的世界を描くことになったのだと感じたことだ。地獄を徹底して説くことで仏教の救いを説いたこと、イエスの罪の贖いは罪びとの自身の自覚を促すことで救いを説くキリスト教。これらの宗教的構図は現世の物質的世界の醜さを徹底して暴くことにある。物質的世界の執着を追い込むことは、逆に当人に自覚させることにある。映画の主人公の物欲はその導入として救いを描こうとしているのではないか。西脇さんの映画評で私の映画評の方向はそう間違いではなかったと思った。

映画の面白さは、個々人の世界観でいかようにも解釈できることだ。1つの解釈しかできない映画ほど面白くないものはない。人権啓発映画が面白くない理由はそこにある。多様な解釈が出来る人権啓発映画が出てくることを期待したいのだが。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜新聞読書欄簡単レビュー

2009年05月03日 07時35分10秒 | Weblog
 朝日の書評欄で取り上げられる書がなぜか軽い部類の本が多いように思えてならないのは私だけか。担当者が変わるとこうも変化するのかと邪推してしまう。新書紹介に呉善花、吉本隆明、竹田青嗣の作品を並べるところに変なバランス感覚を感じてしまう。

 さて本題に入るとしよう。本を評価しているようで痛烈に批判しているのが斉藤環が評する福岡伸一『動的平衡』(木楽舎、1600円)。「変わるが変わらない」という理系の概念をやさしく説いた本という。評者は医学生時代から聞いていた概念というが、門外漢の私にはよくわからない。語り口の見事さでわかりにくい概念を解説していく。売れっ子の分子生物学者の腕鮮やかというところか。評者は「白衣をまとった詩人」と福岡を持ち上げたと思いきや、福岡が近著でオカルトと親和性が高いライアル・ワトソンを盛んに言及することにクギをさす。科学と詩の断絶を埋めることに性急さはつつしむべきだというわけだ。マルクス主義のアルチュセールの箴言「科学者は最悪の哲学を選択する」を最後に引用するから、実に皮肉な評者であることがわかる。斉藤は精神科医。

 旧日本軍の退廃を生活部分から説いたのが一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書、798円)。だいたい組織に退廃がないところなどない。それに歯止めをかけるのが形而上的イデオロギーだ。旧日本軍が皇軍と呼ばれたのもその一つ。組織の退廃は皇軍イデオロギーが内部からほころびをみせていたことを示す。著者は食事、応召手当などを文献でその不公平さを明らかにしていく。評者はアフリカ取材が長い松本仁一.

李栄薫『大韓民国の物語』(文芸春秋、1857円)ー読売ーが評者小倉紀蔵により紹介された。韓国では昨年から日本で言うところの「歴史修正主義」もいえる自主編成書が刊行されたりしているが、李栄薫の本がこんなに早く日本の紹介されるとはおそれいった。その歴史見直しの中心人物が著者なのだが、韓国で歴史学者から聞いたのは「彼は経済社会史ではないか。歴史学で論を展開しても無理がある」ということで、知人の歴史学者は猛烈に批判していた。その批判論文も読んだが、李栄薫の本にこれほど賛同を寄せる書評があらわれるとは……。民族を価値観の座標軸に据えて書かれた歴史研究は大いなる誤解と曲解があるーとするのだ。それは歴史の主体が個人であるからで、近代史の基本であり、近代が目指す独立した人間の基礎になる視点から論じた歴史書というわけだ。韓国は植民地時代に近代化の発展を遂げたとする論は韓国歴史の方を180度変えるものだ。日本の植民地支配を容認する側面があることを承知の上での論及に違和感を感じる。著者は猛烈な批判にたじりがないという。小倉は「実証の信頼があるから全く動じない」と評する。韓国で友人から聞いた話と違う。実証性に疑問があるということだった。さて、さて。全国紙の書評に載ることは日本社会で認知作業が始まったことを意味する。この書と友人の批判論文を合わせて読むことで考えたい。

 森山大道『森山大道、写真を語る』(青弓社、3000円)は朝日、読売に掲載された。活字にこだわるノンフィクション作家黒岩比佐子が評者。モノクロにこだわる森山にシンパシーを寄せている。「呼吸するのと同じように、撮らなければ生きていけない写真家がいる」と評する。常に一瞬の今を撮る森山は「ブレ」「ボケ」を多用下作品を1960年代末に発表し写真界に衝撃を与えた。以上読売書評から。

 ドン・デリーロ『墜ちてゆく男』(新潮社、2400円)ー読売ーは9・11テロの各人各様の姿を追う小説。タワーで働いていたキースは崩壊するビルから逃げのび別れた妻リアンの家にさまよう。しかし再生する道はこの小説には示されていない。キースは同じくタワーから逃げた女性と情事を重ねる。テロ実行犯の視点から描かれた断片もある。神の不在を問いかける小説なのか。神に殉じたテロ実行犯が一方でいる。現在の不条理を神の不在から説いた作品なのか。評者は上岡伸雄。

 アメリカの小説が出たところで日本の文学関連書をみると、光田和伸『芭蕉めざめる』(青草書房、1995円)ー奈良ーを紹介しよう。芭蕉隠密説は従来から唱えられてきた説だが、本書は隠密にならざるをえなかった視点から芭蕉の人生を見ることができる。奉(たてまつ)る芭蕉とは180度違う見方を光田は貫く。立身出世を夢見たり、焦ったりする芭蕉の等身大の姿を描いた作品。評者は倉橋みどり。

 毎日はと今年生誕100年の作家を特集しているが、今回は中島敦。日本ではまれな形而上学的小説家と評者の三浦雅士は書く。作品『北方行』を第一にあげる。植民地体験を形而上学の問題として作品を書いている。『光と風と夢』『南島たん』だ。「名人伝」「弟子」「李陵」などの作品から中国古典の世界に知悉した作家と見られていたが、三浦にいわせれば誤解だという。肝心の形而上学の問題が見過されてきたと指摘する。小島ゆかりは中島敦の短歌を紹介している。「この人・この3冊」では井波律子が「山月記」「弟子」「李陵」をあげている。「山月記」はカフカの「変身」、ガーネットの「狐になった夫人」にも通底する「不条理な変身」として位置付ける。中国の唐代伝奇小説「人虎伝」を下敷きにした小説はなぜいまも生き生きと甦るか。形而上学的視点を抜きにしては考えられない。

 毎日の「好きなもの」では菅野昭正が中島敦の「章魚木(たこのき)の下で」という随筆をあげている。中島敦の作品は全集3巻としてちくま文庫に収録されており、手軽に手にすることができる。(敬称略)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする