ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

聞き取りの手本と歴史研究論文

2006年05月01日 11時30分42秒 | Weblog
鶴見俊輔さんの体験を、加藤典洋、黒川創『両氏が行き出す『日米交換船』は聞き取りがいかに準備周到でないといけないかを示す本だ。

2人が用意したのは内務省資料、外交資料館資料、関係派回顧録、外交交渉記録、乗客調査票などで、そこから記憶の宝庫であり、戦後はじめて封印をとく鶴見さんに迫るというものだ。

鶴見さんは先の戦時に史上初めて船出した日米交換船の乗客であった。この船の登場は日米英開戦で異国で「敵国人」となる人たちが双方で生まれ、外交交渉で双方が送り返すのである。米英と日で抑留者交換が実現する歴史が刻まれていた。鶴見さんは投獄される体験をされたようだが、船に乗る決意をされる。

もの知りということではこの人の右に出る人はいあにという方からこの本の件で連絡したら、「いま読んでいる本もそうだ」と連絡いただいた。「(逮捕された鶴見さんは)留置所では便器の蓋を台に論文を書き続け、ハーバード大学は試験官を差し向ける。卒業式の日に捕虜交換船はニューヨークを離れる。強制送還ではなかった。捕虜収容所に残ってもよかった。が、日本に帰ることを選んだのは、「日本が負ける時に日本にいたい」また人を殺したくないと、あえて志願して軍嘱託になり前線に出る・・・」という情報を寄せていただいた。これが書かれているのは「斉藤清明著『京大人文研』p100」だそうだ。鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創『日米交換船』の本と同時に読みたい論文だ。

斉藤さんのは論文、加藤さんらの本は聞き書き。このジャンルの違うものが同時に読めるとはなんと幸せなことか。

船は2度でた。第1次の留学生グループに鶴見さんと姉の和子さんがいた。一般乗客には経済学者の都留重人夫婦がいた。都留さんは日記に残したが、鶴見さんは60余年封印してきた。

都留さんとE・H・ノーマンの出会いは、戦後の赤刈り時代、ノーマンを死に追いやる要因になる。都留さんのジレンマを思ううち、鶴見は白髪になったという。そこまで思うかとー驚きでもある。

聞き取りの方法と歴史学の文献探索を学ぶ。
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