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ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

少し前か後ずさりか、それとも…

2006年01月19日 12時35分45秒 | Weblog
随分変わるその生き方は。ライブドアは随分前に行こうと無理をしたらしい。

会社側の発表は適法に処理していると発表しているが、はたしてどうか。上場が廃止されればこれまでの株券は何の価値もなくなるのではないか。

少し前を行くのも難しい。慎重になって後ずさりしてしまうか。私は少し前を考えて歩こう思っているが、さてどう写るか。前か後か多分に他人が判断することで、後ずさりすることもあっていい。しかし相手にされなくなると困るが。私のことを化石と写る人もいるが、それでもいいのではと開き直ったりする。

今回のライブドアーショックは少し慎重になる人を増やすかもしれないが、株価操作とかその売り買いとかわれわれにはあまりピンとこない。いま受益者負担ばかり増えて、税金は今年からあがるし、銀行取引きのない人は相手にもされなくなる。様々な引き落としが銀行に限られるからだ。まず足元ですね。そういえば財布はいつも軽い。これも足元です。
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放送が変わるか?

2006年01月19日 08時25分31秒 | Weblog
公募としてあげているのは、地域社会に貢献するNPO法人の団体や、音楽、映画に詳しい人といった対象者を絞り込んでいるが、市民が番組を作る時代がやってきたのだ。

 韓国では放送が日本のように国家の差配を受けないように独立した第3者機関が担当しているが、日本はまだそうではない。そういった条件があるが市民の番組作りの道が開けつつある。

 先だってそのFMで番組を週一回もっている人にであった。数年前体調を壊されたがすっかり快服され以前より目の輝きが違うと思えば、このFMで番組をもたれているからと合点した。定年リタイヤー組で、このFMは老人力にも期待を寄せられているようだ。長年の経験から 判断力はたしかとみての起用だろう。

 しかし準備の大変なこと。昭和を音楽、映画でふりかえりながら回顧していこうというもので、2時間の番組で話の材料を探すのが大変。この日も昭和30年代のマイクロフィルムから記事をさぐっておられた。この労力、さぞかし高いギャラが、と思いしや、すべてノーギャラ。ようやる! ただし今回の募集はどうかしらない。公募するくらいだから、同じではないだろうが。

 それでも番組作りが市民もできるというのはこれまでになかったことだ。そういえばネット新聞でもやれる
。私はチンプンカンプンだが、インターネット新聞「ジャーナリスト・ネット」でもやれるし、現に知恵袋の先輩フリージャーナリスト(写真家)が企画され、まずインタビューから始めるという。2月には録音したインタビューをネットを通じてお届けできそうだ。

あなたも参加されてはどうですか!

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両立しますか、できませんか

2006年01月18日 17時00分32秒 | Weblog


ブログのページは自分の周辺のことを書けるから、かなりリラックスしてパソコンに向かえる。ところがネット新聞は韓国の情報にしてもかなり裏をとらないといけない。韓国国家情報院のエックスファイル事件が昨年韓国に衝撃を与えたが、また捜査が始まったと聞いた。これを書くには何の容疑の捜査なのか、誰を対象としているのか調べないといけない。

ブログ日誌は自分に向かって書くところがあるからいつも反芻している内容を出せる。だから文書が練れるのは当然だ。読む側に食いつきやすい最大の要因。ネット新聞は公に向かいキーボードを叩くのだから、少し裃(かみしも)を着ることになる。それでも面白いということになるならば、内容そのものにかかる。

誰もやっていないインタビューをやる、凄い注目の書を出したがハードなのでインタビューなどやるのはしんどいが、これを実現させる。いま注目されている人をいち早くネットに登場させる等などだ。無論他のメディアが追いかける特ダネを出せれば最高!

ブログの利点をネット新聞にくわえればすごくプラスにきまっている。

新聞と出版は根本的に違う。どちらも正規職員として13年勤めたが、出版はその本の担当者がほぼ完璧に仕上げないといけない。つまり、校正や表現の問題は言うに及ばず、写真の選定から、写真説明から、装丁の色あいから、デザインから、著者略歴から何から何まで一編集者の肩にかかっている。ところが新聞は分業制である。外勤記者なら記事を送れば大半の役目は終わると思ってしまう。新聞記者が校閲からレイアウトから見出しに至るまで面倒見ることはないからだ。

だからしばしば記事を書くというのは表現の全てではなく補佐された公にされるのだが、全て担っているという錯覚に陥る。この錯覚はなかなか克服できないでいる。加齢で段々わかってくるが。

また新聞記者は取材相手に怒ることが出来る!威嚇することができる! たとえば警察の発表が遅いと、「刑事部長何してるんですか! 」なんて声を張り上げる。ところが出版でそれをやったら、もうおししまい! ひたすら忍耐、忍耐だ。そうでないと仕事は収まらない。

両業種とも中途半端に来た私が一つだけ言えるのは、両方とも手を抜いたらお話にならないということだ。作業中の兼業(たとえば論文を書いているとか、他の執筆をしているとか)はご法度だ。だから編集の仕事をしだしたら、ものを書くことができないし、新聞の仕事に真摯になればとても金儲けなど考えなくなる。利権に走る新聞記者がいるが、もうそれは新聞記者ではないことは誰の目にもわかる。
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1995年と2006年 その4 阪神・淡路大震災から11年

2006年01月17日 10時46分26秒 | Weblog
 4年間ほど阪芦屋川駅近くに住んでいたことがあり、震災後、友人宅の見舞いもあり、元住んでいたアパート周辺を歩いたことが重いだされる。アパートの被害はあまりなかったが、木造住宅は見る影もなく崩壊していた。駅周辺の被害もすさまじかった。砂埃というか、建築材の粉塵が空中を舞い、道路はなぜかぬれていた。真冬のなか、どれだけの人が野外で寒さをしのいだことか。
 芦屋の喫茶店でいまから20年以上も前、阪神のザトペック投法の村山選手を見かけたことが会った。家族連れで楽しげだった様子が思い出される。しかし震災で家が崩壊し車に非難して何日かをすごしておられたニュースを見た記憶があるが、その村山さんもいまは亡くなられた。11年の歳月は思いのほか残酷だ。

 JR、阪神、阪急が全線開通しておらず、線路を歩いて友人宅に行ったことを覚えている。それから耐震の取り組みは随分進んだ。その後、JRの上越新潟線は地震にあったが、列車脱線が最小限度にすみ、乗客が助かったのも、阪神・淡路大地震の教訓が生きていたからだ言われる。その教訓を儲けにした建築会社、設計士、総合コンサルタント。今日の国会の証人喚問でスカタンな質問を国会議員はすれば、1・17は教訓として政治家には生きていないことになる。1・17の日に政治は欲望に渦巻くくせものと達観など誰もしないだろう。
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「アマゾン」族

2006年01月16日 11時14分40秒 | Weblog
 その社長が言うには以下のように要約される。

 ① ネットで注文する人が増えた結果、書店での衝動買いが激減した。
 ② というのは「アマゾン」をリンクし本を買うと、宅配もあればコンビニにも届けてくれて便利だから。それはわかるが、結果として顧客は書店に足を運ばなくてもいい。
 ③ しかし顧客が書店に行くというのはお目当ての本探しもさることながら、他の本が目移りして、ついつい衝動買いしてしまう。これがネット注文で減った最大の悪影響だ。
 ④ そこで取次ぎはあまり売れそうにない本は引き受けてくれなくなる。小出版社はどうでなくても取次ぎからは冷遇されているから、「冷遇+委託販売量の激減」というダブルパンチの寒風にいま直面している。
 ⑤ 今後、この傾向はどうしようもないから、対策を打たないとつぶれる。

ざっとこういった主張をとうとうと2時間聞いた。

ほんとに「アマゾン」族の増加により本の流通経路が変わってきた。ネット社会の変化がこういったところにもあらわれてきている。

なぜ新書が売れるかもネット社会の書籍購買行動の影響が出ているのかもしれない。ネットで読みたい本(単行本)注文は出来る。それで済ませる。あと本屋に立ち寄ったとき店先の新書を「チョイト」買うというのである。

「軽小」がこの好まれるのはいつの時代でもそうだ。それにネット社会はヒットしている。本の購入経路もそう。50万部とかすごい売上の新書もあらわれている。

しかし私は重いのも読む。いまは新訳のマルクス『資本論』にチャレンジ! 若さあふれる10代に挫折した書が年齢を重ねて読み進められるのかーという一抹どころか、相当深刻な現状認識があるが、とりあえずチャレンジ!
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紀元2600年を調べる

2006年01月15日 21時56分09秒 | Weblog
紀元2600年祝典とは一九四〇年一一月一〇日が『日本書記』の伝承上の人物である神武天皇即位から数えて二六〇〇年にあたるとして行われた政府主催の奉祝行事のこと。宮城外苑には五二〇〇〇人が参加したほか、全国で500万人が祝ったという国家的大イベントである。

当時の新聞をくってみると「赤誠」とか「感涙」などそれはすごい言葉が紙面で踊っている。戦時体制というのはそこまで人をファナーキーにさせるものだ。いまの共和国の状況によく似ているから驚きだ。要は戦時体制はよくないということだ。
建国奉仕隊というのがあって、祝典前に橿原神宮の外苑工事とか、500日余で延べ120万の人が労働したというから驚きだ。その建国奉仕隊の事業を協賛したのが大阪朝日新聞。その翼賛報道はすごい。びっくりした。「聖地に勤労の歓喜 本社の第三陣も厳粛な奉仕」とか(本社とは大阪朝日新聞のこと)、「聖域に八千人 感激の初合唱」など紙面で踊る。

これはやはりあかんーということで「翼賛報道」を克服しようというのが戦後の言論のスタートであったこともわかる。たとえば憲法「改正」問題だが、国民投票法では少し考え方が自・民で違うようだが、国会勢力は憲法「改正」派が多数派。翼賛国会なんて言われたりするが、そういう時代だからこそ戦後言論の原点を再確認していただきたいものだ。

もう1つ大きな問題は天皇制の問題がある。紀元2600年祝典のときに「一体感」が醸成されたが、その中心は天皇制にあった。戦後、人間宣言になったが、天皇制はその「一体感」が民衆に「ありがたい」となる性向をもつものであり(若い人は全くあっけらかんとしているから「それはないでしょう」というがそういうことで思考を停止していいものではないだろう)、ここらを無視できない重要なテーマだと思う。その宗教性を無視しては論じられないし、500万参加の紀元2600年の秘密を閉じ明けることができないように思う。今後の課題だが、ここらと対座して考えることはあまりやらなかった。

いまの時代とてもはやらないと思うが天皇制はなぜ支持されるのかを解く重要なテーマだ。紀元2600年の500万参加を国家総動員法の時代だと突き放すことはできない。現代をしっかりと見据えて。
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餃子戦争の行方

2006年01月14日 23時45分35秒 | Weblog
まず店員が多いことだ。これが意外と大切なようだ。威勢がいいし、すぐ注文を聞くにくる。水がすぐ出てくる。食べ終えるとお勘定を早く済ませられる。気分は爽快というわけだ。無論味がいいからお客さんが来るのだが、店員が多いのは何よりもいい。

以前、料理人から配膳係、レジ、さらにお持ち帰り分の売り子まで全て一人でやっている店があった。「よーやる」。これでは、とても、はやらん。

お持ち帰りの餃子のタレがなくなったところへ、「餃子3人前ほしい」という中年の女性が来てからが見物(みもの)だった。

私のラーメンをつくる店長に「タレつかへんから、餃子、一個まけてや!」と女性が迫った。私は「まけるやろ」とふんで、両手を顎にあて成り行きを見守っていたが、店長は生半可な返事しかしない。中々の頑固ものである。

「どうやの」と迫る女性に、むにゃむにゃ。「あかんのかいな。ほな、帰るわ」と腹を立てて帰ってしまった。

やれやれ、頑固な店長やーと小さくため息をついていると、またあの女性がやってきて、なんと再度交渉しだした。
「餃子おまけがあかんなら、サービス券あるやろ。それ余計めにおくれや!」

たいしたもんだ。彼女はタレなしにつけこんで、交渉をいろいろする。どこで身につけたのか。

さらにたいしたもんだと思わしたのはこの店の一人店長兼売り子兼レジ係兼調理人。

はっきり断言したのだ。

「それはできません」

すると意固地になった彼女は食い下がること食い下がること。私があまりおいしいとは思えないラーメンを食べ終えても、両者はカウンター越しにお互い譲らぬ口合戦を続けていた。いつ終わり、結果がどうなったかは残念ながらわからない。
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「懐かしのオールウェイズ」

2006年01月13日 22時00分36秒 | Weblog
しかし「懐かしのオールウェイズ」はしんみりしてくる。その曲が流れた時代に自分もフィードバックするから。「太陽がいっぱい」、「エデンの東」が流れた映画館でいっしょに見た弟は28歳で逝ってしまったし‥‥。どうしているのかな。かの国で。

しかし1940年生まれのそのアートデレクターと私の思い出の曲となぜ重なるのか。10才近い(これは私の年をサバ読みすぎました!)年が違うのに。要は彼が若いということでしょう。卓球をしてからだを鍛えているというから。

鍛えるということで感覚が若くなる。その通り。三島由紀夫さんがそうだった。体を鍛える人は美の世界と深い関係があるようだ。美を構築したいという衝動にかられるからだろう。美醜を問題にしない生き方で鍛えるのは修行僧の世界だけ。私は後者しか居場所がない。

「懐かしのオールウェイズ」を聞いて幸福感に包まれ人はいるのか。実はしんみりすることで今の自分を撃つんでしょう。だからこの種の番組は長寿番組なんですね。朝日放送の日曜日午後5時からの番組は安達達彦さんの時代からだから40年くらいたつんじゃないか。いまは小林大作さんにバトンタッチしているが、安達さんが亡くなっても番組は残る。そういうケースはほかにはない。「懐かしのオールウェイズ」を受けもったDJは一生仕事になる。
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軽い方がいい?

2006年01月13日 01時18分28秒 | Weblog
努力しても評価されない代表格は恋愛。
努力しても出世できないのは一族支配の会社。
努力しても軽く扱われるのはその人間の力量の証明。

小泉さんがトルコにいるそうだ。それはそれいいが、なぜ中韓と仲良くならないのか。努力しておられるのか。努力しても仲良くならないなら、しばし冷却期間をおくことだが、冷却期間とはポスと小泉のこと。

本当にうまくいくのか。努力しないなら外交などうまくいくはずはない。国益の衝突を調整することだからだ。

やはり努力しないといけない。
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焼そば族

2006年01月12日 18時56分30秒 | Weblog
午前中会議を終えて装丁家に会うため神戸に向かった。ドンなことで、高速神戸で降りなければならないところ新開地で降りてしまい、改めて高速神戸へ。そこで空いている車内に入ると驚いた。

なんと大きな皿にもられた焼そばを食べているうら若き女性2人と目がバッチリあった。「おい、おい、ここ食堂か?」。どうなっているの?
彼女らも少し驚いた感じだった。私が焼そばの手元を見るからなのか、箸を少しとめた。やはり恥じらいがあるらしい。
私の知人の在日韓国人ジャーナリストがネット新聞で女性の車内での化粧など書いて怒り心頭にきていたが、焼そば族は始めて出会った。
携帯電話やパソコンが普及、これまで個人で利用できなかったものが可能になった。私的空間が社会全体に広がり、車内で食事するのも別に変だとは思わなくなったようだ。まさか満員電車で食事はできないから、そういうことはないが、もう一つは現代人が忙しくなりすぎたことがある。歩きながら電話するのはその象徴。食事する時間がないのかというと、これは首を傾げたくなる。
要は人間と人間の距離感が変化して、お互いが遠い存在になってきたから、周囲の目を気にしなくなった。かくいう私も人の名前を覚えなくなったのはそのためなのか。加齢のためか。
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また出た「まあええがな」

2006年01月10日 10時33分37秒 | Weblog
 「ほんまかいな…」と私は絶句。思い当たるところがない。「まあええがな」となった。私の悪いところ。40年来の友人は、「川瀬は<いのち>さえどうもなければあとはまあいい」と正月出会ったとき、いみじくも言っていたが、その象徴的言葉が思わず口にした「まあええがな」。

なおりまへんあ。

夜11時ごろ帰って団地駐車場で見ると確かにあった! すり傷のようなものが3本入っていた。「いつやったのかわからん」と想像たくましくしてもなかなかい当たらない。「あの坂道ですれ違ったおっさんか? 待てばいいのに急に右折して来た。よけるのが間一髪やった。あのおっさんかいな」「日曜日は料亭で新年会やったが、そんな慣れんところで車停めるから壁にでもすったんか」。いろいろ思うが「正解」がない。

中古車やからええいとうもんでもない。それよりも思い当たらないのが情けない。土曜日午後、韓国からの若いお客さん2人を乗せてうどんを食べに行くとき、道路のブロックにドンと当たり衝撃波が走ったが、それでもない。

要するに「注意散漫」なのだ。

結局、そのすり傷部分を専門家(自動車修理)に塗っていただくことで落ち着きそうだが、まあ大事に至らずめでたしめでたしとはならない。大事に至らないが、余計なお金が財布からまた、また消えていく。
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セルバンテスの「ドン・キホーテ」

2006年01月09日 09時12分18秒 | Weblog
毎日新聞の日曜読書欄に紹介した辻原登さんの引用文を再録する。


「やあ、やあ、これは大事!」サンチョが叫んだ。
①「旦那様、おらがあれほど申上げましたのに、ご自分のなさることに十分お気をつけ下さいましって。あんなのは只の風車でしかございませんとも? こちらの頭の中に、あれと似たものが回っていない限り、誰にだって分ることですとも?」
「黙りおれ、サンチョ。」テス
ドン・キホーテが居丈だかに答えて言った。

②「もう、嫌だなあ」従者がこぼす。
「言ったじゃありませんか、風早だと。見れば判ることなのに、頭の中でも風車が回ってるんですか、くるくるパーと」
「そう申すな、おぬしのことを友達だと思っているのに」と主人が窘めた。

①が1965年の堀口大学訳で、②が荻内勝之さんの新訳。
こんない訳が違うものか。辻原さんは刊行を記念した全篇リレー朗読会があり、圧巻だったのは後篇第12章からの鏡の騎士との対決場面で講談師田辺一凛さんが読んだときのことを紹介している。「会場は興奮のルスボと化した」という。近代小説の翻訳日本語そのものが講談たりうる稀有な瞬間を評者は味わったことを書いている。

たしかにドン・キホーテは長い。しかし長いのならトルストイの「戦争と平和」も長いし、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」も長い。しかし途中で投げ出した人はあまりきかないーと評者辻原さんの弁。「ドン・キホーテ」は面白いが日本では創作の影響は少なかったのではないかというわけだ。

たしかに私も「ドン・キホーテ」を読んでいない。それな訳者の責任より本人の問題が多いように思うのだが。

ドストエフスキーは、「最も悲しい本」と呼んだ。そして、彼のドン・キホーテ、「白痴」を書いた。フローベールは「ボヴアリー夫人」を書いた。日本では大江健三郎さんがドン・キホーテを読み込むことで『憂い顔の童子』を書いた。」と続ける。辻原さんが「慶賀至極」と結ぶのはこの荻内勝之さん訳が日本での『白雉』を、『ボヴアリー夫人』を期待するからだ。それほどほれ込んだ新訳なのだ。

ところで新訳といえば、近年多くの力作が出た。マルクスの「資本論」、ヘーゲルの「精神現象学」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、プルーストの「失われた時を求めて」など。これにセルバンテスの「ドン・キホーテ」が加わったわけだ。どれか1つでもじっくり読んでみたい。北方謙三北方譲三『水滸伝』全19巻(集英社、各1680円)も現代版「新訳」かもしれない。
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まか不思議な人物の思い出

2006年01月08日 10時32分22秒 | Weblog
警察の記者クラブつめの記者は家族や支局にいる時間よりクラブにいる時間が多く、社の違いをこえて友情が生まれることがえも不思議なことだ。今回集まったメンバーもそうだった。そこで話題に出たのが50代で急逝した人物。

その人は新聞記者ではなく。クラブにマージャンを打ちに来た男性だ。それも3日とあけずにやってくる。警察の受付もそれもわかっているのか「どなた様ですか」など煙たいことは言わない。クラブ員も「加盟紙のメンバーじゃない」などともとがめない。実に妙な関係で、親しいみを込めて愛称で呼ばれていた人物だ。

 マージャンの場が立たないと、横着な記者は「●●ちゃんを呼ぼう」となるから、仕事はどうなっているのかと考えるが、マージャンをするというのはカモフラージュ。夜はの夜回りできっちりネタを仕入れているから、余裕のマージャンなのだが、いつも大きな声で「ポーン」という彼の声がこだましていた。

 どこに住んでいるのかは知らなかったが、どうもホテル住まいで、着ている服がいつもいつしょ。背広はあいの紺で、真冬も同じ。寒くないのかと思ったが、オーバー、ジャンバー類を着ている姿を見たことはなかった。

夜記者と一杯呑むとういこともなく、ひたすらマージャン、マージャンの日々。ネタを特定の記者に教えることもなく、夜は一人街の中に消えた。

 一説にはある村長の息子だとか、有力政治家のブレーンだとか聞いたが、たしかなことはわからなかった。いまの時代なら警察の受付でいっぺんに止められてしまい、記者クラブも「あの人誰なの?」となり部外者出入り禁止となりかねない(というよりマージャンなどもうしない)。そんなことがない時代に生きたジャン人生の彼は心筋梗塞で急逝したと聞いた。もう20年以上前の話だ。

しかしこの日集まった新聞記者(元も含む)6人も心の中では寒風吹きすさぶ真冬に両手を紺色の背広ポケットに入れて風を切り歩いていく彼の姿が生きている。色あせていない。

多分情報を売ったりするなど一切しなかった「仁義」を守った生き方が彼が今もダークなイメージなど一つもなく心の中に生きている秘密なのだろう。警察もおうような時代であったのだろう。
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「強制動員真相究明ネットワーク」(

2006年01月07日 10時34分53秒 | Weblog
戦後60年の節目を向かえた2005年、15年戦争の強制連行・強制労働の真相を究明する全国ネットワーク「強制動員真相究明ネットワーク」(共同代表 飛田 雄一、上杉 聡、内海愛子)が発足,半年間の活動を重ねて2006年に入ったが今年は正念場の年になる。というのは仏教教団、解放同盟などの共闘関係、協力団体の準備が整ってきたからだ.

 活動目標としてあげた「日本における真相究明法である「恒久平和調査局設置法案」の制定運動に協力する」という活動は民主党の敗北で当分実現まで道を要するが、強制連行などで亡くなった人の名簿発掘、遺骨問題はなんとか全国レベルでできるのではないか。奈良では4人の名簿が判明している。日本が首脳会談で約束したのがこの遺骨問題である。この日本政府方針があるから全国的に調査を展開できる。ただ府県行政に管内の寺に該当するか否かの文書をだしてほしいと頼んだとしても何百もある寺に自治体ができるのか。そこが戦後責任をどう受け止めているかのリトマス試験紙氏になるような気がする。

 韓国での施策とリンクして生まれた運動だが、日本でのこの間の運動の積み上げある。韓国では、昨年2月「日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法」が制定され、これに基づき11月「日帝強占下強制動員被害真相究明委員会」(活動期間は最大4年)が誕生した。強制連行問題の研究者らがスタッフとして入ってこの2月から強制動員の被害や真相究明の申請が始まっているが、これに協力した日韓の市民連帯が今後どう実現するのか、今年は成果が出せる年だ。
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厳冬

2006年01月06日 23時44分19秒 | Weblog
今年の冬はことのほか寒い。

洗濯ものを物干し竿に干しておいたら凍てつき水分を多く含んだ腰の部分と裾がカチカチに凍っていた。こんなことここ十年来ない。

新潟では積雪4メートルのところもあるという。温暖化というがよくわからない。地球が熱帯化しているのかもしれない。寒暖の差が激しいからだ。夏の猛暑。そして厳冬。

梅田界隈を歩いていて、人々の厚着には驚iいた。人の吐く息が白い。また足早に通りすがるように心なしか感じる。

やけに地下街の証明が明るく思うのは空気が澄みきっているからか。目にギラギラと入ってくる。

厳しい寒さというのは様々な「異変」を都会でも示すのだから、豪雪地帯の苦渋は想像がつかない。

月に傘が架かっていたのは、明日天気がくずれるこということを知らせているのだろうか。そうすると雪を見るということなるのだが。
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