いわゆる強制連行の歴史が刻まれる前段でこれまでになかった動きがおきていた。
一九三八年六月八日、奈良県高市郡畝傍町(現橿原市)で「紀元二六〇〇年祭」(一九四〇年一一月一〇日、一一日)に向けた建国奉仕隊結団式で、朝鮮京畿道から青年二〇人が参加したことだ。
文献を記すと、「大阪朝日新聞」一九三八年六月八日「橿原の聖地に代表二千人集まり 建国奉仕隊あす結成」の記事で、「朝鮮青年団二十名」の見出しもあり、記事中に「朝鮮京畿道青年団員二十名」「聖域に感激の勤労」とある。
これまでの奈良の在日朝鮮人史で朝鮮人青年が神社に関する工事でわざわざ玄界灘をわたり奈良の地までやってくるなどなかったことだ。
何かが変わったのである、一九三八年といえばその四月に国家総動員法が出されていた。その時代の変わり目にあらわれた朝鮮青年団の橿原神宮派遣。なにげなく見過ごすが、この変化は当時にあっては朝鮮人への「皇国臣民」化がいよいよ具体的に動きだしたことであり、この「皇国臣民」化とセットで産業界では石炭や鉱山作業に朝鮮人青年を求める、いわゆる強制連行がはじまるのである
前回述べた朝鮮からの朝鮮農業報国団青年隊派遣は一九四〇年から四四年まで行われるが、強制連行の開始といい、三八年の建国奉仕隊結成が始動した時に、時代の変化を見ることは現在だから見れるわけであるのだけれども、有事関連法施行や被害者の匿名発表裁量をもつ警察体制など、新たな動向を今一度整理する必要があるのではないか。
問題はそこでどうするかだが、時代の変化は確実に憲法改正に向けて進んでいる、戦後体制の改変であることはたしかだ。1つ1つ検証する必要がある。時代の変わり目に座してはいられないだろう。きっちりと冷静に検証すべきなのだ。
そこで参照になるのは歴史だ。まず変わることの「動機づけ」がまずなされることを橿原神宮の拡張工事の歴史は語っている。「内鮮一体「皇国臣民化」の教育により、それを受容した朝鮮人は無理難題の戦争体制に駆り出されていくのだ。その意味で1938年6月8日の建国奉仕体の決結団式は見逃してはいけない。
一九三八年六月八日、奈良県高市郡畝傍町(現橿原市)で「紀元二六〇〇年祭」(一九四〇年一一月一〇日、一一日)に向けた建国奉仕隊結団式で、朝鮮京畿道から青年二〇人が参加したことだ。
文献を記すと、「大阪朝日新聞」一九三八年六月八日「橿原の聖地に代表二千人集まり 建国奉仕隊あす結成」の記事で、「朝鮮青年団二十名」の見出しもあり、記事中に「朝鮮京畿道青年団員二十名」「聖域に感激の勤労」とある。
これまでの奈良の在日朝鮮人史で朝鮮人青年が神社に関する工事でわざわざ玄界灘をわたり奈良の地までやってくるなどなかったことだ。
何かが変わったのである、一九三八年といえばその四月に国家総動員法が出されていた。その時代の変わり目にあらわれた朝鮮青年団の橿原神宮派遣。なにげなく見過ごすが、この変化は当時にあっては朝鮮人への「皇国臣民」化がいよいよ具体的に動きだしたことであり、この「皇国臣民」化とセットで産業界では石炭や鉱山作業に朝鮮人青年を求める、いわゆる強制連行がはじまるのである
前回述べた朝鮮からの朝鮮農業報国団青年隊派遣は一九四〇年から四四年まで行われるが、強制連行の開始といい、三八年の建国奉仕隊結成が始動した時に、時代の変化を見ることは現在だから見れるわけであるのだけれども、有事関連法施行や被害者の匿名発表裁量をもつ警察体制など、新たな動向を今一度整理する必要があるのではないか。
問題はそこでどうするかだが、時代の変化は確実に憲法改正に向けて進んでいる、戦後体制の改変であることはたしかだ。1つ1つ検証する必要がある。時代の変わり目に座してはいられないだろう。きっちりと冷静に検証すべきなのだ。
そこで参照になるのは歴史だ。まず変わることの「動機づけ」がまずなされることを橿原神宮の拡張工事の歴史は語っている。「内鮮一体「皇国臣民化」の教育により、それを受容した朝鮮人は無理難題の戦争体制に駆り出されていくのだ。その意味で1938年6月8日の建国奉仕体の決結団式は見逃してはいけない。